560(前) 百嶋神社考古学が描く列島の古代 ③ 全国の九州王朝論者の皆さんに! “列島は多民族国家”
20171103
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
ここ十年あまり、今では全くのタブーとされている「日ユ同祖論」を含め、まだ、昔の方が余程自由な研究が(少なくとも自由な発想が許容されていた)許されていたのではないか…?という思いを深めていました。鳥居龍造を含め松岡正剛氏の「千夜千冊」に書かれていた一文が私の気持ちをそのまま表現していた事から冒頭から引用させて頂きます。
その点、日本の古代史学会ほど閉鎖的で硬直化したものはないようで、このままでは、いずれ世間から相手にされなくなるのではないかとさえ思うものです。
日本が単一民族の国だというふうになったのは、古いことではない。古いどころか、日中戦争や太平洋戦争以前は日本は多民族国家として位置づけられていた。大日本帝国の時代はむしろ日本は多民族国家・混合民族論を標榜したがった。日本が日本を単一民族国家と見るようになったのは、戦後のことだったのだ。
このような、ある意味では意外に思われそうな“結論”を指摘するために、著者が本書でしてみせたことはまことに重厚で詳細をきわめた作業であった。まだ40歳をこえたばかりの慶応大学の相関社会学の教授(東大農学部出身)。「日本人の自画像の系譜」が副題だ。
この大著のあと、著者はさらに、台湾・朝鮮などの植民地における日本人意識を検証した『日本人の境界』、戦後ナショナリズム議論を追った『民主と愛国』(いずれも新曜社)を問うた。次々に大著になっている。やはり目を洗われた。
ただし、本書の議論を短いスペースに要約するのはなかなか難儀である。近代日本の民族論そのものがあまりに紆余曲折していたからだ。それゆえここでは、ごくごく大雑把な紆余と曲折を示すにとどめる。このような大雑把な概括は著者の意図を正確に伝えないことになりかねないが、以下の記述に関心があるのなら、できれば本書そのものに当たってほしい。
思えば、故)百嶋由一郎氏の研究も「日ユ同祖論」の要素が強く反映されており、多くのヘブライ系民族が大陸から半島へそして列島へと大量に雪崩れ込んでおり、その事を意識する事無く古代史を云々する事には、正統性もなければ科学性もなく、非常に視野の狭い独り善がりの暴論の誹りを免れないのです。
現在、ヘブライ系民族の大量の流入という事実をせせら笑い、権威を振り翳す学会通説派や神○庁のような利権集団はどうでも良いとしても(ネット社会からAI=Artificial Intelligence; AI社会の深化からそのうち信用されなくなり相手にされなくなるだけですから)、それに対抗しようとするあまり自らも自己規制しているのが九州王朝論者の人々で、彼らの口からもそういった話が全く聞こえてこないのです。
何やら、そういう話をすると、さも、学問的ではないと考え自ら控えておられるからではないかと思うのですが、元々、敵視され無視され続けた九州王朝論者が今さら自己規制しても仕方がないはずなのですが不思議です。
列島には多くの古代民族が入っているのですが、全てのお話をするのは手間が掛かりますので、多くの話の中から、まずは、象徴的な一例である、支那人が列島人(日本人)になっているという話をしておこうと思います。これは、大陸から中国人が一部やって来ているという意味はなく、列島人の最も有力、優勢な大勢力を形成した人々とは日本人などでは無く支那人だったという衝撃的な話なのです。
これも故)百嶋由一郎氏から貰った資料ですが、石原某太郎が明らかに中国を敵視し、差別語とかの「支那人」を使用していた事はご存じの通りですが、これは戦時中に一部で使用された「支那人」の概念を浅薄にも真に受けているだけのことで、列島人が「支那」と表現するとき、深層には親しみを込めた懐かしさ、郷愁のような響きを感じるのは私だけでしょうか?
そうでもなければ、1940(昭和15)年に上映された映画「支那の夜」の主題歌「支那の夜」(渡辺浜子)は流行していないでしょうし、東宝の看板スターと言われた長谷川一夫と満洲で名を馳せた李香蘭による「支那の夜」も脚光を浴びてはいなかったはずなのです。
そして、頼 山陽も「見ゆるは山か呉か越か?」とは謳わなかったはずなのです。
この底流には、明らかに何らかの郷愁なり憧れなりがあり、決して差別意識としての「支那」「支那人」ではなかった事が分かるのですが、石原とかネトウヨなど本物の民族派とは異なる異質な朝鮮起源の似非右翼(どうせ親米右翼)が「支那」を蔑称として多用しているのです。
結論を急ぎますが、後に藤原氏へと成長し、現在も権力の中枢部に蔓延っている阿蘇氏=多氏=宇治氏=耳族とは、大陸(雲南省麗江)から追われ海南島南西部(黎族自治県など)を経由して天草(苓州)の苓北町から阿蘇に進出した=黎族であり、後の列島の主要氏族に成長しているのです。
支 那 “雲南省麗江に支那城がある”
ミートキーナ(ミッチーナ)と聞いて何のことか分かる人は、まず、消えたと思います。
もちろん、中印国境に近いビルマの都市の名なのですが、大東亜戦争でも最も悲しく惨めな戦いとなったインパール作戦でも激戦中の激戦の一つ「ミートキーナ攻防戦」の舞台となった土地です。
ビルマ戦線にはいわゆる満州からの南方転用組を含め、久留米を拠点にした福岡、佐賀、熊本の多くの兵が投入されていますので、皆さんの中にも近しい方が犠牲になった話を聞かれた方もおられるかも知れません。
中国、インド、ビルマの国境が集中する、この文字通りの辺境の地名を取り上げることが、後に驚くべき結論に繋がってゆくことになるのですが、まずは、インパール作戦を簡単に説明しておきましょう。
太平洋戦争の西部方面における陸軍の敗北分岐点となったのがインパール作戦でした。
日本軍によるラングーン占領以来、ビルマを追われたイギリス軍は緬印国境の西側まで後退していましたが、インド・マニプール州の州都であったインパールから雲南省を通じて中国蒋介石軍などに軍事物資を送り込んでいました。援蒋ルートです。
これを阻止する目的で昭和十九年三月に開始されたのが同作戦でした。
アラカン山系の大山塊を超えビルマ方面軍の主力三個師団五万の兵力が三方面から進行しますが、満足な補給もないまま損耗率74パーセントと言われる大敗北を喫して撤退することになったのです。
テーマからは外れますが、この無謀な作戦では第15軍司令官牟田口廉也(佐賀出身)と補給を巡って対立し、あえて命令に背いて独断撤退を行った第31師団長佐藤幸徳中将は「大本営、総軍(南方軍)、方面軍(ビルマ方面軍)、第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を将来したのである」と批判しましたが、現在の福島原発の焦土を見る時、今日の大本営が何であり、南方軍が何であるかを改めて考えざるをえません。
累々たる白骨と化した多くの兵士たちと同様に、この事実上の国営企業であった東電の原発事故によって振り回された人々の人生も永遠に戻ってはこないのです。
本題に戻りますが、実はこの作戦の激戦地の一つミートキーナが中国(雲南省)発行の地図では「密支那」と表記されているのです。
只の珍しい地名として片付けられそうですが、実は、雲南省の景勝地麗江の周辺にも「支那」という地名が現在も二つ存在し、観光地で水の都と讃えられる麗江には支那城までもがあるのです。
中でも「密支那」とはそれだけで緊急時に備えて準備されていた「支那」の本拠地、最大拠点(科、品・・・)といった語感を持っています。
支那人
さて、全くの誤解と言うよりも、むしろ陰謀とさえ言うべきですが、“「支那」は「中国」の蔑称”であり、使うことが出来ないかのような話が一般化しています(伝統的な中国共産党による反日キャンペーンに迎合するものが大半ですが)。一方、それに対していたずらに逆らう石原のごとき反中キャンペーンが存在します。歴史の深層を冷静に探索すればそれらから独立した思考を得ることが出来るかもしれません。まずは、一般的伝統的な理解を掴むために、「大辞林」(三省堂)を見ますが、以下のように書いています(勿論、反中、反韓それ自体は誤りではないのですが)。他も似たり寄ったりです。
写真は 雲南省麗江古城
しな【支那】 外国人が中国を呼んだ称。「秦 しん」の転という。中国で仏典を漢訳する際、インドでの呼称を音訳したもの。日本では江戸中期以後、第二次世界大戦末まで称した。
これ自体も正しいかどうかという問題はありますが、それはひとまずおくとして、オリンピックを持ち出すまでもなくCHINA(チャイナ、チィーナ)という国号が「支那」という音の置き換えあり、なお、国際的に通用していることは言うまでもありません。
雲南省の支那
中国大陸の西南部の奥地、「雲南省に玉龍雪山からの水に恵まれた麗江という秀美な都市があり、そこには日本と日本人(阿蘇の民)の源流がある…」との話をしてくれたのは、六十年の永きにわたり神社を中心に研究してこられた孤高の神社考古学者故)百嶋由一郎氏でした。
写真は雲南省麗江から望む玉龍雪山
この老研究者との縁は阿蘇草壁吉見神社夏の大祭において、一人の女性と知り合い、その女性が氏とのパイプ役になってくれたことから始まりました。
当時もメンバーを増やすために会の宣伝用チラシを持ち歩いていましたが、後日、その女性に熊本県西原村の「鳥子」という地名に関する小論を送ったところ、それを読まれた百嶋先生から、小論「鳥子」の“鳥子の方様”とは「ヤタガラスの末裔の事で彼らが住む土地が鳥子ですよ」との手紙と資料を送って頂いたのでした。
この手紙の中で最も心を動かされたのは、阿蘇の草壁吉見神社に祀られている祭神(ヒコヤイミミ、カミヤイミミ)は、実は日本神話に登場する「海幸彦」であり、彼らの先祖は雲南省の少数民族地帯からやってきたとの話でした。
以前から、倭人はある時代の中国江南の海岸部(福建省、浙江省…)を支那と呼んでいたのではないか(少なくともその地方にいた人々が実際に自らの国土を支那と呼んでいたのではないかと古田武彦氏を含め古田史学の会系の論者が考えている)との説があることを知っていました。
ところが、「支那」という問題の地名が、現実の中国本土に二つあるうえに、近接する中緬国境を越えたビルマ領内にも「密支那」があることを教えられ、さらに、その「密支那」が実はあのインパール作戦の激戦地ミッチィーナ(ミートキーナ)であることにまで気付くに至り、一挙に百嶋神社考古学の凄まじさに恐れ慄いてしまったのでした。
氏も一応は九州王朝論者と自称されてはいましたが、お話を詳しくお聴きすると、最早、その範疇は既存の九州王朝論を遙かに越えていました。
さて、佐賀県の西域に生まれたこともあり、あのビルマ奥地での(断作戦=援蒋ルートの遮断)の中でもとりわけ悲惨だった雲南派遣軍による騰越(トウエツ)、拉孟(ラモウ)、龍陵(リュウリョウ)、平戞(ヘイカツ)などでの戦いや、ミートキーナ攻防戦などについての戦記戦史はかなり読み込んでいた事から、直ぐに「密支那」がかのミートキーナであることに気付き一気にその思い入れはチンドウィン川、サルウィン川、瀾滄江の大渓谷の底に引き擦り込まれていったのです。
今になって思えば、すでに百嶋神社考古学への地均しができており、最早後戻りができないところまできていたのでしょう。
写真は 麗江市街
では、その「支那」に入ることにしましょう。
地図には三つの支那地名が確認できます(縮尺の都合により「支那」は一つ表示しています)。
もちろん、普通の地図では無理で、通常は雲南省が発行している現地の地図でしか確認することはできません。
ネット上の「雲南省地図」という中国の日本向けサイトより、少しご紹介しましょう。
雲南省麗江の「支那」、ビルマ(ミャンマー)のミートキーナ、ミッチーナ(Myityina)他にも雲南省にもう一つの支那地名がある。
この一帯への基礎知識を得るために、幾つかのサイトを拾ってみます。
中国西南部の果て、南はラオス、東はミャンマーと国境を接する雲南省は、亜熱帯気候の恵まれた気候風土と、そこに住む少数民族の人々の明るく素直な人柄とによって、世の旅する人の心を刺激するだけでなく、日本人にとっては、人種的ルーツの発生地ではないかという学問的見地からも大きな興味が持たれている。事実、雲南の各地を旅行していると生活・風習・人相から言葉に至るまで、あまりに日本人と似ていることがあるのに少なからず驚かされる。(…中略…)