スポット185(後) 赤村の超巨大古墳 ⑦ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺(中)
0180525
太宰府地名研究会 古川 清久
この場所で高速道路が不必要に曲げられているという印象は山田パーキング・エリアを利用している人(進入路がかなり無理な勾配になっている)は誰も持っていると思うのですが、現地の話では、何故か古墳を所管する文化庁ではなく、宮内庁からの横やりでコースが変更されたと言うのです。
恐らく、これが本物の、若しくは、引っ越した後(前)の継体天皇陵であることを知っているのではないかと思うのですが、たまたま、春に井上悦文氏の案内で同行した内倉、古川ともども考えているところです。
もしも、この古墳が継体天皇を葬ったものとしたら、福井県(若狭)出身の応神天皇五世の孫が天皇になり、筑紫国造たる磐井を征伐したと言うトンチンカンな話(通説派は馬鹿か!)も一気に真実味を帯びて来るのです。
正しく、継体もこの周辺にいたのであり、まさに、九州王朝内部での覇権争い、若しくは下剋上であった可能性が出て来たのです。
福井については、糸島半島の西の旧二丈町に福井、福井白山神社があり、以前から福井と言う地名も海士族が移動した際に持ち出した地名ではないかと考えていましたが、お膝元の福井は知ってはいたものの山中のため見過ごしていました。
筑後川を挟んだ反対側に磐井の領域があったことになりますし、その福井も杷木町の裏、現東峰村(旧法珠山村)の中心部に福井があるという事まで揃っているのです(日田市の入口にも石井集落あり)。
磐井の乱も、実際には九州王朝内部の内ゲバに近いものであったようなのです。
なお、現地には謎解きの手助けになりそうなある墓がありますので、皆さんに是非見て頂きたいと思います。
また、蛇足ながら、井上悦文氏の説では、山田は邪馬台国の中心地になります(「草書体で解く 邪馬台国の謎 書道家が読む魏志倭人伝」梓書院刊)
彦山の南麓、旧宝珠山村の中心地が福井地区 福井 三島 藍と三つ揃う所はそうはない
これで長年不思議に思っていた九州年号の冒頭が「継体」(「二中歴」系)とされている事ですが、漢風諡号が8世紀の淡海三船による一括の撰進だったとしても、内部争い後の継体という漢風諡号の採用はそれなりの意味があった様に見えて来るのです。 もしかしたら、この時代から倭の五王とされる九州王朝内の政権転換が行われた可能性も考えられそうです。
最後になりますが、山田パーキングのとなりが杷木インター・チェンジです。この直ぐそばに杷木神社があるのです。
杷木町杷木神社 カーナビ検索
杷木郵便局(朝倉市 杷木池田542-1)
この神社縁起をお読みください、最低でも、継体側の急襲=不意打ち(「筑後国風土記」には「官軍が急に攻めてきた」…)は、筑後川右岸(勿論河道は異なるはずですが)を拠点として、渡河作戦の上に行われた様に見えるのです。
この杷木神社が磐井側ではなく、継体天皇側に立っていた事が神社縁起から読み取れますが、千五百年もの長きに亘り継承されて来た事(この事自体が驚くべきことですが…)は、余程、誇るべき名誉な事と理解していた事が想像できます。
まず、大己貴命が、何故祀られているのかに疑問を持たれる方は多いと思いますので、まず、筑前町に堂々たる大己貴神社があることを思い出して下さい。
筑前国続風土記に依れば、大神大明神は弥永村にあり、<延喜式神名帳>に「夜須郡於保奈牟智神社小一座とあるはこれなり。祭るところの神は大己貴命なり。今は大神大明神と称す。御社は南に向かえり。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合わせて祭る。宮所神さびて境地ことに勝れたり」<日本書紀>に「仲哀天皇9年庚午己卯、神功皇后諸国に令して船舶を集めて、兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し。皇后曰く必ず神の心ならんとて、大三輪社を立て、刀矛を奉りたまいしかば、軍衆自ら聚る」とあり、9月23日(旧暦ゆえ現在の10月)祭礼ありてこの日神輿御幸あり。御旅所は村の西10町ばかりの処にさやのもとというところあり、これなり。その他、年中の祭礼たびたび有りしとか。いまはかかる儀式も絶えはてぬ。然れども夜須郡の惣社なれば、その敷地広く、産子(氏子のこと)殊に多くして、人の尊敬浅からず」との記載がみられる。
三輪町教育委員会
他にも、林田の美奈宜神社には大己貴命(大黒神)が祀られており、この地は大己貴命と言うより博多の櫛田神社の大幡主のエリアだった事が見えてきます。
まず、大己貴命を出雲の人であるという「古事記」が造り上げた固定観念を棄てる事から考え直す必要があるでしょう。
美奈宜神社朝倉市林田210 素戔嗚尊(祇園神)大己貴命(大黒神)事代主命(恵比須神)の出雲三神
美奈宜神社朝倉市荷原2421 天照皇大神配祀 住吉大神春日大神 相殿 神功皇后武内宿禰
もう一つ、杷木町で重要な点は、菊池氏の家紋である日足紋が打たれている事です。
冒頭の長田大塚古墳=継体の陵説を提出した内倉武久氏が、この神社を一目見た瞬間、熊襲じゃないか!と叫んだのが印象的でした。
この神額の文様が渦巻き紋だからです。地名の面からも、佐賀県東部から小郡、甘木、朝倉、日田に掛けては「隈」地名が広く分布している事は良く知られています。
これも旧朝倉町のエリアですが、桂川=葛城(飯塚の桂川町には出雲交差点がありますね)が流れ、湯隈神社(さらに上には宮地嶽神社もあります)があり、烏集院(ウスイン)があるのです。
百嶋神代系譜では、ヤタガラスの父が博多の大幡主(隈地名の土地の支配者)であり、大国主(オオナムチ神社のある地名も隈江ですね…)もその臣下なのです。
この一帯の人々は皆、列島大率家からの要請で熊本から北上して来たのです。
だから、朝倉は益城町の朝来山の、甘木は益城の置き換えであり、この一帯には○○木地名が多いのです。
また、話が跳んでしまいました。まだまだ、検討する余地は幾らもありますが、畿内からのこのこ出て来た近畿大和朝廷の大王が筑紫の磐井を亡ぼしたなどと言うのはとんでもない大嘘であることだけは間違いないようです(しつこいですが、再度、通説派は馬鹿か!)。
くれぐれも大嘘ばかり書いている「古事記」は元より、「日本書紀」という藤原の仕組んだトラップに落ちないようにして下さい。
本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。
この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。
人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。
なお、「肥後翁のblog 」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。
ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量1100~1200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。