スポット191(後) 日本版ニューオーリンズと化した倉敷市真備町の全町水没
20180710
太宰府地名研究会 古川 清久
同じような記事ですが、何故かNNNの記事は削除なのか開けません。削除依頼か自主規制なのか情報操作とも考えました、多分勘繰り過ぎでしょう。
彼らは、庁舎の発注をどの業者にするのか、キック・バックが幾らになるか、と言った事しか関心が無いのかも知れません。もはや使命感も長期的視点もないのです。
災害が起こっても、その責任は豪雨をもたらした自然のせいにし、想定を超えた水量…などと繰り返しているのですから、知識も技術もない上に誇りも使命感もないと言う事から日本も終わりなのです。
市町村も県もやたら責任逃れのために警報を乱発するだけで(オオカミ少年)、気象庁も線状降水帯などと言った新造語を持ち出し、何やらとんでもない大雨が降ったかのように説明しているのです。
では、今回の豪雨も本当にありえないような水量だったのでしょうか。
最近の傾向ですが、豪雨災害の責任回避のためには24時間では足らなかったと見えて48時間どころかとうとう72時間降雨量が軒並み600㎜を超え、前後を併せると1,000㎜にもなるなどと大騒ぎをしていますが、単純に比較はできませんが、この程度の大雨はそれほど珍しいものではなく、事実、昭和32年の諫早大水害では南高来郡瑞穂村西郷(現・雲仙市)の24時間降水量が1,109mmという遥かに凌駕する降水量を記録しているのです。
たかだか60年程度の前にもこの程度の雨は降っているのであって、想定外などとは到底言えるはずなどないのです(調べれば直ぐに分かるはずです)。
こんなことは、顔だけで多用されるお天気お姉さんなどのお母さんさえも産まれていない記憶を持たない時代の事であって、経験した事もない大雨…と大騒ぎする事になっているのです(意図的でも)。
所謂、陰謀論扱いされる気象兵器HAARP(ハープ)云々…といった話も巷では潜行どころか公然と飛び交っていますが、それは置くとしても、局所的であった昨年の九州北部号災害の五倍どころか、西日本全体で考えれば十倍を超える規模の大災害の常態化している事になっているのです(朝倉、伊勢、鬼怒川…)。
東では福島県と言う日本で三番目の大県を人工東日本大震災と原子力災害?によって潰し(潰され?)、「熊本人工地震?」から今回の西日本豪雨災害によって、どうやらこの国も災害に対する国家の弾力性が奪われ、容易には立ち直れない所にまで追い込まれているかのように見えてきます。
今回も熊本、朝倉、日田と同様に、頼りはボランティアと自衛隊だけ…行政は災害復旧工事の発注だけといったところでしょう。
もはや、議員は元より、行政の首長の大半が土建屋と産廃業者といった連中なのですから最早救いようがないのです(彼らだけは災害復旧費と言う打ち出の小槌を手にして内心は将来まで大喜びなのです)。
かなり話が逸れましたので軌道修正しますが(どうなろうが自由のはずですから修整はしませんので…)、
そもそも、この小田川流域とは、本来、人が住み着くべきところではなかったはずなのです。
現地を見れば一目瞭然ですが、低平地が広がっている所とは、そもそも、湖など水中で水平堆積が起こるような湖か沼のようなところだったのであって、こういう場所には、元々住めないどころか住んではならないのが当たり前で、まともなと言うのは失礼でしょうが、古くから住み着いておられる家系の方々は、自らと一族の安全だけを考えて水が得られる程度の緩傾斜地に住み着いてきたはずなのです。
その理由は、前述したように風化花崗岩真砂土は堆積しやすい事から天井川になり易いうえに、元々、古代の湾奥か低湿地の沼地や湖のような排水がされ難い土地を農地や水源地として利用するならいざ知らず、間違っても住宅地や工業団地などとして利用する事は愚かな行為だったのです。
そもそも、小田川の小田とは九州の人間には直ぐ分かるのですが、小田(オダ)は元々「ウダ」「ウーダ」と呼ばれていたはずなのです。これは九州から人が入っているとの地名や神社の考察からは十分わかるのです。まず、通説派は決して認めようとはしませんが、九州方言とは古代の標準語だったのです。
九州では、つい最近まで「大事(オーゴト)をしでかした」を「ウーゴトヲバシデカシタ」と発音していました。
従って、小田とは小さな田んぼの意味ではなく、非常に大きな田んぼが広がる土地という意味なのです。
つまり、水害さえなければ、大きな田んぼが広がる夢のような穀倉の意味であって(あくまでも歳年の条件が良ければですが)、旧小田郡とは巨大穀倉地の意味だったはずなのです。
この事だけからも、本来、覚悟を持った人以外は田んぼには住んではいけなかったのでした。
従って、古くからこの地に住み着いている人々は南に面した北側の丘陵地に住み着いているのであって、
自分たちは安全な土地に住みながら、“他所からやって来た地元の事を知らない人はああいう土地に家を建てるもんな…昔は一雨降れば水が引かない「海」(沼の意味ですが)だった”などと嘯いておられるはずなのです。
その実、このように自分はそこには住まないと言う人も、往々にして先代、先々代がその湿田を売って土地成金になっているからこそ高みの見物をしているのですが、ここまでくると、土地は値段を見て買うのではなく、きちんと標高や付近の河川それに地形を見て購入すべきであることが分かるのです。
後は、知識や経験が得られないならば、地元の古老などに聴きこむ事が必要(どうせ不動産屋も行政もグルですから“堤防は近年改修されていますから大丈夫でしょう”などとその場凌ぎの事しか言うはずはないのです)になるのです。
結局、戦後復興期に瀬戸内海の水島コンビナート(倉敷市)などがだるま船などで大量に採取された瀬戸内海の砂で海立てられどんどん造成されるようになり人口が急増してくると、少しでも工場に近く交通の便が良い安い土地を求めて殺到した事から、本質的に危険で、藩政時代などは鶴の一声で“この地には住み着いてはならぬ!”で実質的な遊水池にされた土地だったところなのですが、戦後の農地解放から愚かな民主主義の時代になると、金儲けのために農地を金に換えようとする輩が続出するようになるのです。
こんな時代に“ここは低い土地で水没しやすいから止めておいた方が良いですよ”などと少しでも本当の事でも言おうものなら、地域振興だけに狂奔する行政も巻き込んで、金が欲しい地権者などから寄って集って袋叩きにされたはずなのです。その時代にハザード・マップなど作ればそれこそこぞって叩かれた事でしょう。結局、人々が大量に住み着いたからこそ作られることになっただけの事なのです。
こうして、何時の時代でも貧乏人は犠牲の上に犠牲を強いられ、世代を重ねていくことになるのです。
今になって考えれば、少子化によって造成地もバリバリのマンションも中古住宅もダブついているので、このような今後も水没を続ける様な土地にしがみつく必要などないのですが、ローンで縛られた低所得層は市役所支所と運命を共にせざるを得ないのです。何やら羽柴秀吉による備中高松城の水攻めを思い出してしまいますが、役所がアホやけ野球がでけへんが次の連想でした。建物が真新しいので支所の選定は地域を知らない倉敷市主導だったのかも知れませんが、またもや鬼怒川大水害と同様の結果となったようです。
仮に利便性だけを考えてこの地に住み着いた金持ちが水没したとしても、岡山などの高級マンションを購入し直ぐに快適な暮らしを始めるはずで、復旧が終わった頃、元々の家を移転する事になるのです。
くだらないのはハザード・マップで、始めから分かっているならば、建築確認申請を降ろさないとか、そもそも都市計画法に基づく規制措置などを被せるべきなのですが、そんなこともできやせずに、結局、国交省、県の河川局などの技術系の役人どもが退職する時に、天下り先になっているコンサルタント会社などに持参金同様の手土産として発注されることになるだけなのです。
表向きはどうであれ、要は、水没すると言う事は始めから分かっていましたし、こんなところに住む事は自己責任です。…とばかりに、自らの自己保身のために作られているだけであって、予算の切出しの中で、定期的に国交省系のファミリー企業に仕事をさせるだけのお仕事でしかないのです。
結局、ハザード・マップなど何の役にも立たないのであって、もっとこれを周知させるべきだなどと騒ぐ半端な方々がおられますが、実情を知らないとしか言いようがないのです。
さて、岡山県の一級河川は、東から吉井川、旭川、高梁川の三河川とされています。
どうせ高梁川に西から直角にと言うより鋭角に合流する小田川の上流にもダムが造られていると思っていたのですが、小田川は、珍しくも高梁川に合流するまでダムの無い自然な川でした。
そうでなくても、岡山県と言えば、史上最悪の公共事業といわれた苫田ダムの事が頭に浮かんで来ます。
NHKが全国ラインで特集を組んだ事から高校生の私もしっかりと記憶していますが、当時の岡山県知事長野某がどんなにひどい反対運動潰しをやったかだけは鮮明に記憶しています。
この当時から行政とは汚い事をやる連中だと刷り込まれたのでした。
ここでは、おだやかに書かれているもので一応ご説明申し上げますが(当方が書いた文章をお出ししても良いのですが…実は「ひぼろぎ逍遥」で苫田ダムとダブル検索されれば出てくるはずです)、それほど長野某は本当に汚い手を使い酷い仕打ちをし続けたのでした。
あの時代にこれほど酷い事をやった岡山県ですから何だってやったのだろうと思ってしまいます。
苫田ダムは計画段階で激しい反対運動が行われていた事で知られています。
ダムの建設により、水中に沈んでしまった地域は旧奥津町(現・鏡野町)ですが、そもそも奥津町は、ダムに反対の三村(苫田、奥津、羽出)が合併して誕生した町です。
反対運動は38年もの長期に及びました。
その間、対話を進めて住民の理解を得た上での着工とされていますが、反対を譲らない町に対して、県は補助金や起債の手続きを故意に遅らせる等、いわゆる【圧迫行政】を行ったと言われています。
1990年にダムの受け入れを表明しますが、その直前となる1986年~1989年の間で、3名の町長が任期途中で交代しています。
ダムに賛成する町長が出ない限り、奥津町は圧迫され続けたのです。
一方では住民に対し、移住までの資金として多額の現金を支払う事でダムに賛成するように根回しをし、やがて奥津町は追い込まれた末に、計画を受入れざるを得なくなったのです。
当時の県知事は、地方自治の神様とまで評された長野士郎さんでした。
よくも悪くも、やり方を良く心得ていたのです。
当方の辛辣な文章がお好みの方はひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下を検索してください。
386 | 2016年真夏の津山の神社探訪 ④ “悪名高い苫田ダム建設で 犠牲となった久田神社”(下) |
385 | 2016年真夏の津山の神社探訪 ③ “悪名高い苫田ダム建設で 犠牲となった久田神社”(上) |
このことからもダムがないというだけで小田川には愛着を持ってしまいます。しかしダムを造りたくてしかたがない河川局のダム屋共は、この間ダムが絞られている事からも河川工事を疎かにし、少々の洪水を人為的に起こしてでも“だからダムを造るべき”として早期のダム建設に持っていこうとしているのでしょう。一方、高梁川という北の中国山地から流れ降る大河川の水圧に阻まれ、古くから沼沢地だったはずなのです。
もともと小田川流域は中国山地の備中高梁方面から一気に流れ降る一級河川の高梁川の勢いに押し返され排水し難い川だった事は間違いないでしょう。
水系指定によって国交省河川局の直轄工事で高梁川の河川改修工事が行われると、流速が上がり当然水位も上がって、小田川からの水がさらに一層水が吐けない構造が造られたのです。
西日本豪雨で大きな被害を受けた岡山県倉敷市真備町、被害の発生前と後の様子を撮影した人工衛星の画像データからは、川の氾濫や浸水は少なくとも東西およそ7キロにわたっている様子がわかりました。専門
家は「浸水が市のハザードマップに近い形で広がっている。こうした想定をしっかり周知する必要性を感じる」と話しています。
国土交通省のHPにはこの高梁川と小田川の合流部については、計画が立てられています。
これが完成するまで、また完成したとしても小田川流域には何度となく水没災害が襲でしょう。
平成9年の河川法改正を受け、平成19年8月には、今までの河川整備の基本となる計画であった工事実施基本計画に代わり、治水・利水・環境の総合的な河川の整備を目指し、河川整備基本方針を策定しました。河川整備基本方針における小田川の治水対策は、柳井原貯水池(旧西高梁川)を河道化し、小田川と高梁川の合流点を下流に移動させることにより、小田川水位の低下と高梁川酒津周辺への負担軽減を図るものとなっています。
平成22年10月には、今後概ね30年間に行う河川の具体的な整備目標や実施内容を示した「高梁川水系河川整備計画【国管理区間】」を策定し、河川整備が進められています。
その後、進捗点検をを踏まえ、、①高潮堤の整備延長延伸、②施設能力を上回る洪水への対応 (危機管理型ハード対策)、③広域防災対策等を追加し、平成29年6月に高梁川水系河川整備整備計画【国管理区間】を変更しました。右は高梁川水系河川整備計画
愛媛の野村ダムにしても大陸の中国並みにデタラメですし、国土交通省は酷土復元省とでも変え今までやって来たデタラメを元に戻させるために解体再編させるべき時代になってきたのではないでしょうか?
いずれにせよ水没され人生を失った方々には言葉もありません。