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575 古川という家系について ③ “「小鹿島橘氏」の治承・寿永内乱―から”

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575 古川という家系について ③ “「小鹿島橘氏」の治承・寿永内乱―から”

20180207

太宰府地名研究会 古川 清久


ひぼろぎ逍遥 556557において、古川という家系について ①~② の二本を書きました。

これ自体は自らの家系が橘一族に繋がるのではないかと言う事に気付いた事から、その個人的な家系を探そうとしたところ、栄えある橘一族の本流の一流であり橘公業の流れを汲む橘公忠の後裔である 宮原 秀範から資料を頂きました。

 宮原 秀範氏はヤタガラス後裔である橘一族について575-1を書かれていますが、古代史~九州王朝探究のみならず、橘一族の末裔ではないかと思われる方(橘、立花、渋江、牛島、中村、宮原…)は是非ともお読み頂きたいと思うものです。

 氏から頂いたコメントは当方の不注意による部分的な誤り(公忠と公業との関係)を指摘頂いたものでしたが、それに加えて新しい資料も紹介して頂きましたので、古川という家系について ①~② への追加補足として留めることにしました。


575-2

2010年の京都女子大の紀要なのだと思いますが、岩田慎平氏による「小鹿島橘氏」の治承・寿永内乱―鎌倉幕府成立史に寄せて―です。この中には橘一族(公忠、公業)など鎌倉政権成立段階で頼朝に協力し橘一族の存立に腐心したいわば中興の祖を見るのです。部分的に切出してコメントを加えるべきですが、岩田氏の論考を傷つける事になりかねませんので、部分的ながら全文を掲載させて頂きます。


575-3

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575-5

575-6

以下、宮原氏からのアドバイス


宮原メモ(20180206

1.橘公忠の消息は、はっきりしませんが吾妻鏡に記載が少なく、合戦で亡くなったか?不明です、公業は政治的素質が有り、朝廷に仕えたようです。

一部の系図には、名前は有るが内容が有りません、ほとんどの書物は公業から始まっています。尚、参考に岩田慎平氏の論文の一部を添付します。

2.橘町の歴史の中に、古川の記載が有りましたので、添付します。以上簡単ですが連絡致します。


黄色のマーカーは宮原氏によるものですが、氏は橘 諸兄以来の栄えある血筋の探索のために努力されており、九州王朝探究にも極めて重要な示唆を与えて頂いています。

青枠 は当方によるものですが、この岩田慎平氏による「小鹿島橘氏」の治承・寿永内乱―鎌倉幕府成立史に寄せて― は、奈良麻呂の変で勢力を著しく落した橘氏が中世を如何にして生延び、武家政権の過中でなんとか後世に地歩を残そうとした事が見て取れます。

 奈良麻呂の変後は平氏に従いつつ、期を見て鎌倉政権に協力し青森まで転戦し、愛媛に拠点を得て、本来の本願地と考えられる、熊本県の氷川流域、佐賀県の杵島山周辺(武雄市他)に展開するのですが、氷川流域に展開した公忠(公業の兄とは別)の系統は、八代、宇土、人吉に分散し宮原姓を名乗り、杵島一帯に入った公業の一族は後に渋江、牛島、中村の三家(正確には外にもあるのですが)を名乗ります。

しかし、武雄の後藤氏に追い落とされ、熊本県の菊池、金峰山周辺、佐世保市(波佐見)などに散開することになります。

 勿論、橘氏には奈良麻呂の変に参加しなかった中央の日和見派の橘氏もありますし、地方に下向していた反乱に無関係の橘氏もいたはずですので、ご紹介した二系統だけが橘氏であるとも言えないでしょう。

 しかし、抵抗派の橘氏本流の中興の祖とも言うべき公忠、公業の一族が展開した熊本県の八代から宇土に掛けての一帯(八代の妙見宮ほか)と佐賀県の杵島山周辺は、本来、中国大陸の辺境の雲南省昆明から海南島を経由し入って来た最初の橋頭保だったと考えられる場所であり、橘一族に繋がる白族の本願地だったように思えるのです。


575-7

古代には島だったと考えられる杵島山(佐賀県、白石町、武雄市、嬉野市)を鳥瞰する


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