576 古川という家系について ④ “「橘町の歴史」から”
20180207
太宰府地名研究会 古川 清久
ひぼろぎ逍遥 556~557において、古川という家系について ①~② の二本を書きました。
これ自体は自らの家系が橘一族に繋がるのではないかと言う事に気付いた事から、その個人的な家系を探そうしたおり、栄えある橘一族の本流の一流であり橘公業の兄の公忠の流れを汲む宮原 秀範から資料を頂きました。
宮原 秀範氏はヤタガラス後裔である橘一族についてを書かれていますが、古代史~九州王朝探究のみならず、橘一族の末裔ではないかと思われる方(橘、立花、渋江、牛島、中村、宮原…)は是非ともお読み頂きたいと思うものです。
同氏から頂いたコメントは当方の不注意による部分的な誤り(公忠と公業との関係)を指摘頂いたものでしたが、それに加えて新しい資料も紹介して頂きましたので、古川という家系について ①~②、③ への追加補足として留めることにしました。
先に、ひぼろぎ逍遥 557 古川という家系について ② において、服部英雄教授の「景観に探る中世」に基づき 古川家のルーツを探りましたが、今回は地元郷土史の「橘町の歴史」から拾う事にしました。
この231pに橘 公業の一族が実際に住んでいた場所が分かる地図が添付されていますのでご覧下さい。
災害復旧、河川改修、ほ場整備事業、増改築…などによって昔の地形がそのまま辿れる訳ではありませんが浄土真宗本願寺派の崇専寺(佐賀県武雄市橘町大字片白10536)℡0954-22-3024を目安に渋江、牛島、中村の三屋敷跡は辿れる事になります(勿論、ほ場整備によって現状は全く異なっています)。
私達は戦後馬鹿にされ見向きもされなくなった神社研究を続けている事から、この橘氏の一族こそが、列島本土においては熊本県の八代から宇土半島に掛けて展開した天御中主の妙見信仰=北辰信仰を持ち込んできた渡来系(雲南省昆明~海南島~列島)氏族=白族であり、同じく阿蘇氏(雲南省麗~海南島~苓北~阿蘇)と共に列島の主要民族、最重要氏族となっていった事が見えるのです。
このように言えば何を「とぼけたことを…」との御高説を垂れる方がおられるはずですが、では通説派の皆さんにお尋ねしますが、源平藤橘といわれた大族の一つの橘一族は単に県犬養三千代(橘三千代)、葛城王(橘諸兄)から派生しただけで、それ以前までは何の基盤もなかったなどと本気で考えておられるのでしょうか。それこそ不思議な話であって、山奥の片田舎でしかない奈良県の山の中から突然湧いて出てきたなどと本気で思われているのでしょうか?
高給を貰い偉そうな話をされておられるならば、もう少し真面目に調べられたらいかがかと思うばかりです。まずは、ひぼろぎ逍遥から 以下の三本のブログでもお読み頂きたいと思います。
545~7火の君とは歴代の橘一族だった ①~③ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ!“九州王朝の白族”
○が渋江、中村、牛島の三分家の屋敷が在った辺りになります(以下省略)。
これが全ての渋江さん以下のルーツとまでは言いませんが、鎌倉期に橘一族の本流中の本流の一流が政権中枢への復帰の思いを持って機会を探っていた可能性は相当に高いものと思われます。