583 別役神社の祭礼に参加してきました
20180303
太宰府地名研究会 古川 清久
ひぼろぎ逍遥 に 548 別役さんからのコメントを頂いて を書きました。
2017年 12月30日 に当方の橘一族と考える二人の宮原さんと併せ3人で別役さんとお会いしたのですが、高知県の別役一族の事を知り、なおかつ、来年3月3日に祭礼があるとのことから、単騎長躯、豊予海峡を横断し高知県の山奥に分け入りました。
別役さんからメールを頂いた直後から推定ヤタガラス後継=橘一族である事には気付いていましたが、祭礼に参加してその事をはっきりと認識するに至りました。
高知県在住の別役氏とアンパンマン・ミュージアムなどという行政の無駄遣い(=土建産廃議員への税金の横流しと役人の天下り)施設といった只の客寄せ施設で待ち合わせ、直ぐに別役神社を目指しました。
場所は、高知県高知市の東、物部川流域からさらに東の山中に入った香美市の山の中(香美市西川)です。
概して物部川流域の神社は大手を除いて祭神を含め、縁起、由緒の類が殆ど明らかにされていません。
神殿も鞘殿の形式を取っており、物部氏のそれを感じさせます。
さて、 3月3日のひな祭りの節句の日ですが、祭礼に集まって来られた多くの別役さん西川さん(共に同族なのだそうです)が川沿いの空地に少しずつ駐車され、川を挟んだ神社正面の小丘の集会所に急坂の坂を登って行かれていたのです。
別役神社は別役城の直下ですが、川を挟んだ対岸の小丘に累代の別役一族の墓所がありその傍で大祭が行われ続けているのです。
その途中には燦然と別役神社の幟が燦然とはためいていました。紛う事無き橘一族の旗指物でした。
少し登ると、別役家の法輪搭数基の正面に先祖発祥地なる石碑が建てられていました。
ついつい微笑んでしまったのはこのお利口さんのワンコでした。
橘一族の祭礼ですので、頭に過ったのは言うまでもなく橘一族の祖の県犬養橘三千代の事でした。
あまりにもお利口さんでしたので、再度、アップでご覧頂こうと思います。
メス犬だったようですので、勝手ながら三千代様と名付けさせていただきました。
ワンコ、ニャンコの専門サイトではありませんので本題に戻りますが、別役さんからメールを頂いた瞬間から橘一族=白族ではないか?と考えた事は、この旗指物から紛う事無き橘一族と確認できました。
何故、橘一族と考えたかは、ひぼろぎ逍遥 548 別役さんからのコメントを頂いて に書いた通り、別役姓の分布状態やその祭礼が3月3日と聴いた事もありますが、別役氏の「役」が「疫」(エン)を修正した文字であり、エンノオヅノのエン「疫」に通じ、阿波の忌部の「忌」、陰陽師の「陰」…といずれも藤原によって貶められた文字であり概念であるからでした。
橘の三千代さんです 来年の祭礼にもきっと登って来てくれることでしょう
県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ、天智天皇4年(665年)? - 天平5年1月11日(733年2月4日))は、奈良時代前期の女官。橘三千代ともいう。
三千代の出仕時期は不明であるが、天武8年(679年)には氏女の制により豪族女性の出仕年齢が15歳前後に定められ、三千代も同年に命婦として宮中に仕えたと考えられている。配属先についても不明であるが、和銅元年(708年)11月には即位直後の元明天皇から橘宿禰姓を賜っており、また養老5年(721年)5月には元明太上天皇の病平癒を祈念して仏門に入っていることから、天智天皇の娘で草壁皇子の妻となった阿閉皇女(元明天皇)に出仕した可能性が考えられている(義江 2009)。
はじめ敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生む。
天武天皇13年(684年)に第一子葛城王を出生しているが、軽皇子(後の文武天皇)は天武天皇12年に出生しており、元明天皇と三千代の主従関係から、三千代は軽皇子の乳母を務めていたと考えられている。時期は不詳であるが美努王とは離別し、藤原不比等の後妻となり、光明子・多比能を生んだ(多比能の母に関しては異説あり)。不比等は持統天皇3年(689年)段階で直広肆・判事の職にあった少壮官僚で、持統天皇10年(696年)には高市皇子の死去に伴い不比等は政権中枢に参画した。文武天皇元年(697年)8月には不比等の娘宮子が即位直後の文武天皇夫人となり、藤原朝臣姓が不比等とその子孫に限定され藤原氏=不比等家が成立する。こうした文武天皇即位に伴う不比等の栄達の背景には、阿閉皇女の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられている(義江 2009)。
ウィキペディア(20180303 20:11)による
また、この隠れ橘一族(中傷ではありませんので悪しからず)別役氏が何故3月3日に祭礼を行っているかも多少は見当が着きます。
それは、藤原以前(つまり九州に皇室の本拠地があった時代)、橘氏とは天皇家へ娘を嫁がせ、命婦制の元その皇子を次の天皇とすることを持って天皇家との関係を保ち続けた一族であったからでした。
ただ、743年(天平15年)の奈良麻呂の変など藤原氏との政争に敗残し、源平藤橘の栄えある一族でありながら後には中級以下の貴族として零落して行ったのですが、それでも武士政権の中に活路を見出し復活の機運を探り続けた人々だったのです。
その一流が肥前、肥後に展開した橘 公業の後裔であり、当グループの両宮原氏は元より、かく言う私もどうやらその一族のようなのです(ひぼろぎ逍遥 556 古川という家系について ①~⑤) ”。
してみると、橘氏というのは女系橘であり、娘の末子が跡を取る(跡目として一族の財産を引き継ぐ)のであり、優秀で美しく子宝に恵まれるお姫様を大切にするからこそひな祭りの日が祭礼の日とされたのでしょう。
下世話に言えば古代に於いてはDNA鑑定などできない訳で、男にとってはその子が本当に自らの血をひいた子であるかは最後まで分かりません。
しかし、母親にとってはその子がどの男との子であるかは元より、最低でも自分の子である事は確実なのです。
さらに言えば、子は育ってしまえば、父親ではなく母親の言う事しか聴きません。
また、老いた両親を最後まで看取るのも、また子の面倒を見るのも実質的には母親なのです。
してみると、女系橘と言われる意味とは事ほど重要であり、財産の保全にも効率的この上なく両親や一族にとっても安全なのです。
神職は別役神社の方ではなく高知市の某大社の方の兼務なのですがお名前は別役様だそうです
もう一つ、奉納者リストを見ていて気付いた事がありました。
あくまでも偶然でなければですが、奈良麻呂の変に参画した橘氏(一応は武闘派のとしますが)の流れは橘 公○といった名を継承します。
肥前、肥後の橘氏は明らかです(橘 公業、橘 公員…)。この作法を継承されている方がおられたので、橘一族でもかなり上のクラスだったのではないかと考えているところです。
もう一つの問題は、何故、西川さんが同族とされているかです。
山口県の佐藤と岸は兄弟であるにも拘わらず名を違えていますね、幕藩体制化に於いては、一家から二流の武家を出す事は出来ませんでした。
従って、兄が武士として跡を継げば、弟は百姓分として別の扱いを受けるのです。
百姓は姓がなかったような理解がされていますが、実は名乗らなかっただけで姓は持っているのです。
それが侍分と百姓分として反映されているのではないかと考えていますが、無論、二階から目薬のため定かではありません。
ただ、この西川が何かです。確かに別役神社がある一帯は西川です。しかし、何かの西でなければならないはずです。古代に於いて遠賀川河口はイヅノメ(豊玉姫=母神は高木大神系豊秋ツ姫)の拠点でした豊玉彦の後裔には幾つもの流れがありますがもしかしたらこの別役の流れは豊玉姫系なのかも知れません。
橘一族の拠点の一つが九州の筑豊地方の遠賀川河口でした。
その西側を流れる川が西川と呼ばれ、その上流にいたのが演歌歌手の西川峰子でもあったのです。
それは余談としても、鎌倉期の橘氏の本拠地の一つですが、佐賀県武雄市の肥前橘の明治の橘村の杵島山の西の裾野を流れる川も東川なのです。
いつか解明できないかなと考えています。
別記「鎮守の森は今」竹内荘市 にもこの別役神社は記載されていません。恐らく神社庁管理の神社ではなく、一族と言うよりも同族集団の秘密の祭祀ではなかったかと考えられます。
その意味でも、重要な…と言うのは橘氏にとっても重要な一社だった事が分かるのです。
しかし、神社探求者としては、問題は全く片付いていません。 それは、別役神社の祭神が分からないのです。ただ、これについては資料を入手していますのでいずれお伝えできると思っています。
その前に、あまりお気付きではないようですが、神社参道の右手に道が延びており、小さな祠が置かれていました。
これが単なる鬼門封じの社ならそれで良いのですが、気になります。
別役神社の神様とはどなたでしょうか?
佐賀県武雄市の潮見神社の祭礼などからある程度の見当は付くのですが、まずは、天御中主命、ヤタガラス=豊玉彦、橘 諸兄、イザナミ…当面、憶測は保留しておきましょう。
土佐に展開した別役一族が、実際には、橘氏のどこからの別れなのかが今のところ把握できていません。
また、何故、土佐に入ったのかも重要です。
古来、薩摩に落ちると同様と言うよりもそれ以上に海路、陸路を問わず困難を極めたのが土佐でした。
中央で敗残した人々は最も攻略し難い所に逃げ込み、勢力を温存し拡大させ、次の展開に備えたのでした。多分、兵庫県但馬も橘氏が展開したエリアですが、ここも平安遷都が起こるまでは同様です。
中央から逃れた場合、薩摩の様にあまりにも遠方に逃げると中央を奪還し難くなります。
ところが、土佐は海陸とも僻遠の地ではあるのですが、いざとなれば海路一気に中央を攻略できるポジションにはあるのです。これこそが別役一族に魅力を感じさせるのです。
元九州大学名誉教授 服部英雄氏の著書『景観にさぐる中世』に記載された武雄市の橘一族の系図
ご覧の通り橘 公○という名乗り方をしている事がお分かり頂けるでしょう(これは鎌倉以降のもの)。
肥前の橘氏は、渋江、牛島、中村の三家に別れますが、その後も公+○という名の付け方の作法を継承されている方はおられると思います。
最後に、この別役氏発祥の地の石塔が建てられた場所です。川を挟んだ別役神社の山上の別役城が望める=見守れる場所に墓所が置かれていた事を意味しています。毎年ひな祭りの日に集まり祖先の霊前で橘氏再興の決意を確認する血盟団的な色彩を帯びた秘密結社的な決起集会の意味合いを持った祭礼であったと思うのでした。まだ、調べ始めたばかりで頼りないので、その範囲でお読み下さい。
今回は別役様、西川様を始め、お尋ねをお受けします。09062983254古川