582 エントラーダ デ プロイビーダ entrada de prohibida 「立入禁止」
20180302
太宰府地名研究会 古川 清久
確かアルゼンチン・タンゴにentrada de prohibida ありましたが、ブログのタイトルが思い浮かばず、ついつい好い加減なものを選んでしまいました。さて、一年ほど前ですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 378 伊佐市で「柴刺」(シバサシ)に遭遇した において「柴刺」という宗教儀礼について書きました。
その後も意識しているとこの柴刺の名残と思えるものを鹿児島、宮崎でも良く見る様になったのですか、愛媛県、高知県にも存在している事に気付いた事から今回書き留めることにしました。以下、再掲載…。
この際、今回のテーマは祭神ではないためどうでも良いとして、この神社の一角に「柴刺」神
事の名残と思えるものに遭遇しました。
馬場紀美史(宇佐神宮福岡出張所長)が書かれた「柴刺」の販促用襷には、以下のように書かれていました。 …中略…
これについては、百嶋神代史研究会(仮称)グループの一員でもある スピリチュアルヒーラー宮古の縁側日記 の宮古女史によっても「柴刺(しばさし)古代の祭儀」として小論を公開されています。
そうした中、鹿児島県伊佐市の外延部で柴刺神事の痕跡と思えるものを見
掛けましたので、記憶に留めておきたいと書き留める事にしました。
この際、今回のテーマは祭神ではないためどうでも良いとして、この神社の一角に「柴刺」神事の名残と思えるものに遭遇しました。
馬場紀美史(宇佐神宮福岡出張所長)が書かれた「柴刺」の販促用襷には、以下のように書かれていました。
…「柴刺」「柱立」は律令国家の誕生後、大きく変化していく。「柴刺」に限って言えば、祭場を修祓するための、或いは禁足境界を標示するための、つまり柳田國男が指摘する「忌刺」(斎刺)として変化していったのである。従ってこのような基本的誤謬が現在、「柴刺」イコール「注連張」の通念を生み出すに至ったものと考えられる。
しかし何度も言うように「柴刺」は霊を虚空へ送りあげるための祭儀であり、決して注連を張るのと同義ではなかったものである。神―すなわち祖霊の還天と来臨が柴刺そのものであった事を理解する必要があるであろう。…(本文より)
一応、入門者の当方としては、「注連縄」による結界以前の聖域の表現と理解しておきます。
この柴刺との遭遇については、熊本県芦北町を始めとして、これまでにも過去何回かありました。
やはり、その多くが古い集落といった場所で、後しばらくの間はこの古い儀礼に遭遇する機会はあるものと考えています。以下はスポット68 「柴刺」(シバサシ)の一部です。
では、「柴刺」とは何でしょうか?実は中国の少数民族の一つ彝(イ)族の儀礼でもあるのです。
勿論、祭礼、葬礼などに於いて、色々な枝を刺すという儀礼、神礼の事なのです。
今でも茨城県では一部に残っているとも聴きますし、これに似たものを熊本県の葦北郡でも見たことがあり、列島にはどのような人々が入ってきたかを考える上で、重要な示唆を与えてくれるものとなっています。…
…最後になりますが、“倭人とは何か“を考える時、「ワ」人と読むのではなく、「ウィ」もしくは「イ」=「ヰ」であるとすれば、この民族も列島に入って来ていたのではないかと思うのです。
それが「常陸国風土記」に出てくる武甕槌=鹿島大神による“同族だまし討ち”征服を思わせるのです。
その意味で同書の458pも我田引水的ですがご紹介しておきます。
雲南省麗江からの新興亡命者であった阿蘇氏に征服された先住者も広義の九黎族の一つだったはずなのです。だからこそ常陸の国の先住者は、歌や音色に魅かれて油断した所をだまし討ちされたのです。
彝(イ)族の儀礼が残っているから伊佐という地名になっているのではとまでは思いませんが、彝(イ)族と混住していた黎族が鹿児島に入っている事には疑いを持ってはいません。
指宿に「今給黎」姓が集中し「喜入町」があり「嘉例川」といった地名があることは大陸から黎族(分かり易く言えば阿蘇氏のこと)が入って来ている痕跡と考えている事はこれまでにも何度か触れています。
これは馬場先生が「柴刺」の409pに挿入されていた雲南省の地図で、 が彝(イ)族の居住領域です。
これを見ると、雲南省麗江を主要な居住地としていた黎族(阿蘇氏)とも白族(豊玉彦=ヤタガラス、大幡主の御先祖)の領域であった昆明とも重なる事から、大口辺りに彝(イ)族が入っていても一向におかしくはないと思うのです。
写真は神社の正面の風景ですが、古代には雲南省のような山上楽園だったように思えるのです。
今般、五度目になるのでしょうか。香美市など高知県は高知市の東の物部川流域の神社調査をしていると、何故か水場と思える場所に「柴刺」の儀礼を頻繁に見かけました。
まだ、寒い、寒い正月と小正月を過ぎ、二月の末に入ったからだったのでしょうか、多くの水場や滝などの脇に「汚すな」「清浄を保て」「禁足地」「清浄地」…とばかりに社名の付された
「柴、刺」らしきものが数多く立てられていたのでした。
意識して運転していると、川、滝、水路と道路が交差する場所に刺されている様で、辺境の集落程その傾向が強いように感じたのでした。
勿論、御幣による結界もあるのですが、要は神社の鳥居型のマークと同様で、この鳥居型以前の様式である柴刺が普通に意味を持っている社会にタイム・スリップした様に思えたのでした。
小便するな…などと卑近な例を出すつもりはありませんが、昔は車が生活領域の上を通過するような天空道路が造られるなどと言う事はほとんど無かったものです。しかし、トンネル、橋梁を駆使して道路が造られるようになってくると勢い上水が汚されるケースも現実化したのかも知れません。
上水として利用する人々にとって命の水を汚される事は許し難い行為ではあっても、本来この一帯は尊い“水神様のおられる領域だから決して汚さないで下さい”とのメッセジが込められている事は当然でしょう。しかし、柴刺が行われる場所とは神が降臨し、また、天上界へと上がって行かれる場所であるからとの了解が広く行き渡っていたからこそこの柴刺の風習が成立していたのです。
これが、近年、希薄になって来ているのですが、恐らくこの風習は最低でも二千年間は続いているはずで(紙ができる前は?)、列島民族の姿を見出すのは私達だけでしょうか?