595(前) 伊吹山(滋賀県)調査事前準備資料
20180328
太宰府地名研究会 古川 清久
前回の丹波丹後調査に引き続き、滋賀県の東に聳える伊吹山周辺の調査を行う事にしました。
竹野神社 斎宮神社 (京丹後市)は、福岡県久留米市の一部(田主丸町各町)うきは市の一部(吉井町長栖、吉井町鷹取) 明治初年時点では全域が筑後久留米藩領であった旧竹野郡からの移動であり、伊吹山の一帯に入った人々も佐賀~うきは市一帯の製鉄集団だったのではないかという点にあります。
これについては、ひぼろぎ逍遥スポット版 171~173 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々 姉川と妹川という地名を持ち込んだ人々 亀屋佐京 を書いています。
その底流には神功皇后の両親とされる息長宿禰と葛城高額姫を単独で祀る下ノ宮が佐賀県佐賀市の三瀬村にあり、付近には神功皇后が産まれ育ったとする野波の里があり、それが元々琵琶湖一帯に居たとされる息長氏に先行するものではないかとの可能性が生じたからでした。
これを探る手掛かりはスポット版を読んで頂くとして、本稿は調査用の重要ポイントを拾い出したものであり、取材用の準備シートいったものになります(太宰府地名研究会によるトレッキング資料も添付)。
① 姉川、妹川河川邂逅部(高時川=妹川)カーナビ検索 長浜市難波町
② 姉川、草野川河川邂逅部(草野は福岡県久留米市草野の地名移動)カーナビ検索 長浜市国友町
国友の鉄砲鍛冶は著名ですね
③ 妹川上流 余呉町上丹生、下丹生の神社調査 「神奈備」によれば上丹生に丹生神社あり
カーナビ検索長浜市余呉町上丹生378
④ 息長広姫御陵カーナビ検索米原市村居田 付近には勝山地区あり
第30代敏達天皇の皇后「息長広姫(オキナガヒロヒメ)」の御陵で、今から1400年以上も前のもの息長広姫は近江国坂田郡の豪族息長真手王(オキナガマテオウ)の娘であったとされている
⑤ 姉川 道の駅伊吹の里、カーナビ検索滋賀県米原市伊吹1732-1 伊吹地名=佐賀市脊振伊福地名
⑥ 草野川流域 長浜市鍛冶屋町、草野町 上許曽神社カーナビ検索滋賀県長浜市高山町2
⑦ 温泉:かんぽの宿彦根 カーナビ検索彦根市松原町3759 ℡0749-22-8090 「温泉博士」可
⑧ 温泉:バーデあざい カーナビ検索長浜市野瀬町828 ℡0749-76-1126 「温泉博士」可
少し南に展開し数社見ましょう。当然ながら他の神社も可能な限り調査します。
甲良神社 カーナビ検索 滋賀県犬上郡甲良町尼子1 ℡0749-38-2462
甲良神社 カーナビ検索 滋賀県甲良町法養寺
阿自岐神社 カーナビ検索
滋賀県犬上郡豊郷町安食西663 ℡0749-35-2743
安曇川流域調査(時間が許す限り)小浜に抜ける… 丹波丹後調査に移行
九州山口にしか痕跡も伝承のない神功皇后ですが、何故か出身地は畿内だろうなどとされています。この間懸案とされてきた神功皇后ですが、今般久々にスポットを当て、 神功皇后の生育地を探る!トレッキング(佐賀県佐賀市三瀬村)を行います。そこで、神功皇后の両親である父 息長宿禰王(オキナガノスクネ)と母 葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)が住んでいたと考えられる(神功皇后もそこで産まれた?)佐賀県の北山ダム周辺の神社とそこに注ぐ初瀬川一帯を訪ねます。なお百嶋神社考古学では開化天皇の妃は神功皇后です。
まずは通説を考えて見ましょう。
神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。
三韓征伐を指揮した逸話で知られる。
夫:第十四代天皇 仲哀天皇。皇子:誉田天皇、第十五代天皇 応神天皇。
皇子:誉屋別皇子(日本書紀では弟媛の子)。
『日本書紀』などによれば、神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇が香椎宮にて急死(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐した。それから住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇
という聖王あり。」と言い白旗を上げ、[3]戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。
神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。
武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が神功皇后を崇拝していた。有名なのが八幡太郎こと源義家である。
また八幡神と同じく、その言い伝えは九州はもとより関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、四国と、日本中に数多く存在する。
今でも全国各地で神功皇后の三韓征伐を祝うための山車が存在しており、その業績をたたえる祭りが多い。
『新唐書』列伝第145 東夷 倭日本[4]に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史』列伝第250 外国7 日本国[5]に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とあるが、『新唐書』が編纂されたのは10世紀であり、唐時代に日本からの留学生・留学僧が伝えた内容が掲載されたと考えられる。
明治時代以前は、神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、第15代の帝とした史書が多数あった。 1926年(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された[要出典]。
明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられており、大日本帝国による朝鮮半島支配の象徴・根拠として[要出典]も関連付けられ、有名人であり偉人であった。 現在では実在説と非実在説が並存している。
『日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、晋書の倭の女王についての記述が引用されている。このため、江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかし、この年は西暦266年であり、卑弥呼は既に死去しており、この倭の女王は台与の可能性が高いとされている(ヤマト王権の項など参照)。
また、これとは別に、直木孝次郎は、斉明天皇と持統天皇が神功皇后のモデルではないか、との説を唱えている。