747 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再々考)“全国の川上神社の祭神を調べよう”
20190327
太宰府地名研究会 古川 清久
粗いながらも、まずは、祭神究明のための作業をしてみましょう。この作業は今後も続きます。
辺境の川上神社から
青森県青森市久栗坂 川上神社 祭神 以下
縁起によりますと、慶長元年(1596)に当村の開発の際に田地から発見された観世音像を、津軽家中野宮一郎兵衛と村民が堂を建てて崇敬。その場所には1本のケヤキの古木があって御神木といわれていました(ケヤキの古木の下に小祠があったといいます。)。明治初年の神仏分離で高おかみ神を勧請して川上神社と改称。旧村社。
案内板由緒より…『御事暦…髙オカミ神ハ伊弉諾尊ノ御子々座マシ雨ヲ掌ラセ給フ御神ニシテ山上ノ龍神ト申シ奉ル即旱天ニハ雨ヲ降ラシ霖雨ニハ之ヲ晴ラシ千五百秋ノ瑞穂ノ國土ヲ永遠ニ潤シテ五穀豐饒ヲ守ラセ給フ廣大ノ御神徳アリサレバ朝廷ニ於テ炎旱霖雨ノ際ハ髙オカミ神ヲ祀レル社ニ奉幣祈祷ヲ給フヲ例。由緒…慶長元年勸請明治六年三月村社ニ列セラル』
青森県青森市富田2丁目3-32 丹生川上神社 祭神 素戔嗚尊 奇稲田姫尊
但し、境内の案内板によりますと…『寛文12年村中にて五穀成就のため建立。明治9年村社に列せらる』とあります。御祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫尊。『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)』では「西滝の川上神社はスサノオノ命と奇稲田姫を祀る農業と水の神であるという。」と紹介されています。
「くぐる鳥居は鬼ばかり」による
青森県五所川原市喜良市金木町千苅26-3 丹上川上神社 祭神不詳
山形県酒田市穂積字尻地56-113 川上神社 祭神:彌都波賣神(みずはのめのかみ)
山形県酒田市北青沢大俣-41 川上神社 祭神不詳
新潟県上越市吉川区川谷 川上神社 祭神不詳
山梨県北都留郡丹波山村押垣外476 押垣外川上神社 祭神不詳
創建由緒は不詳であるが、明和三年(一七六六)八月二十一日再建との棟札があるので、それ以前より鎮座されてゐることは明らかである。甲斐国志には「川上明神押垣外にあり鎮守、神躯掛鏡中に大日像を鋳る、別当法興寺」とあるのは、神仏習合の社であつたことを示す。又猿田彦命(佐田比古は別名)を祀る庚申信仰を示すものでもある。明治六年村社となる。
山梨県神社庁
福井県吉田郡永平寺町中島10-27 川上神社
河濯神社(吉田郡永平寺町松岡椚57-12 明神社境内)の紹介です。
石川県の瀬織津姫社の祭神は「川濯御神」とも尊称されていました。「川濯」というのは川で濯ぐ(川で禊ぎする)といった意で、瀬織津姫神は禊ぎを司る霊神でもありました。
明神社(写真1)の境内に鎮座する河濯神社(写真2、向かって右の社殿)の由緒を知るには、その分社である川上神社(福井市志比口町1-3-9、写真3)が参考になります。同社の由緒案内を読んでみます(写真4)。
川上神社の由来
御祭神 美都波能売命 瀬織都[ママ]姫命 大己貴命 伊弉册命
慶長年間(一六一〇年頃)結城秀康公越前の国へ御入部になり、芝原用水を定められた時、昔、白山の麓に奉斎されていた、美都波能売命と、大野郡女神川上流に鎮座ましました、瀬織都姫命の二柱の神を芝原用水守護神として、この用水の上流松岡の地に遷座し、その後慶應元年(一八六五年)此の水神の信徒壱萬より芝原用水郷の中央の志比口「現在の地」に御移転を願い、大己貴命と伊弉册命とを合祀して川上神社と称へ、芝原用水郷、福井城地の町家の浄水とし、水神の徳沢を崇敬しました。
諸々のなり出るもとは水の神 もらさてめくむ御祖なりける
昭和二十年七月の戦災、三十二年漸く再建、四十五年四月不慮の火災で焼失し、翌年四月神殿、拝殿、玉垣、再び建立しました。
清川の川辺に立ちてつみとがを 其の日其の日にかきながさばや
川上神社の主祭神は「美都波能売命」と「瀬織都姫命」で、「美都波能売命」は「白山の麓に奉斎されていた」、また「瀬織都姫命」は「大野郡女神川上流に鎮座ましました」もので、慶長年間(一六一〇年頃)、この「二柱の神を芝原用水守護神として、この用水の上流松岡の地に遷座」したとあります。九頭竜川から芝原用水として取水するところが「松岡の地」で、ここにまつられていたのが「河濯神社」でした。この河濯神が、慶應元年(一八六五)に福井城下に「御移転」され、そこで大己貴命と伊弉册命を合祀して現在の川上神社となります。
瀬織津姫神がもともと鎮座していた「女神[おながみ]川」の上流には「弁ヶ滝」があります。越前側の白山禅定道は、この女神川沿いを遡上する道筋となっていますので、ここに禊ぎを司る霊神(河濯神)として瀬織津姫神が鎮座していたということなのでしょう。
また、白山禅頂道途中にある「小原峠」を越えた石川県側には、その名も「川上御前社」が鎮座しています(石川県白山市白峰)。「白山妙理大権現縁起」の禅定道七宿の項には、泰澄の夢の中に白山神が「天女」の姿となって現れ託宣する場面があります (上村俊邦『白山の三馬場禅定道』岩田書院、所収)。
師(泰澄)この所に於いて一宿したまう。夢中に天女現じて曰く「吾ここにありて国中の水を守護す。中居の林中天然の横災起きるときは此処に移坐し、鎮まるときは彼こ[ママ]にまた還りて遊居す」と語りおえてうせたまう。
大師驚き覚めて心静かに法施まいらす。幽谷の草木も奇異の色を顕わせり。是れを以て名となすと。後に大師一社を創建して河上大権現と崇め奉るなり。
河上大権現(川上御前)、つまり白山の「天女」(白山比咩神)は、泰澄に「吾ここにありて国中の水を守護す」と夢告したといいます。「国中の水を守護す」とは、なんとも頼もしい託宣です。川上神社由緒にみられる奉納歌「諸々のなり出るもとは水の神もらさてめくむ御祖なりける」に詠われた「御祖」「水の神」は、白山比咩神のことと読んでもさしつかえないでしょう。
一方、由緒には「清川の川辺に立ちてつみとがを其の日其の日にかきながさばや」と詠われてもいました。これは河濯神(禊ぎの霊神)としての瀬織津姫神を詠んだものとおもわれますが、この神と「美都波能売命」(白山比咩神)とが異神であったというわけではありません。白山比咩神もまた禊ぎの霊神であったことはすでに指摘されていることでした(菊池展明『円空と瀬織津姫』下巻)。
さて、川上御前は、越前市大滝町では「越前和紙」の祖神(「紙祖神」)として、大滝神社本殿に岡太神の名でまつられています(写真5・6)。ここは大滝神の先行古祭祀がありましたが、境内案内によれば、大滝神社は「養老三年(七一九)、越の大徳と称せられた泰澄大師がこの地に来り、大徳山を開き、水分神[みくまりのかみ]であり、紙祖神である川上御前を守護神として祀り、国常立尊と伊奘諾尊の二柱を主祭神とし」た、さらに泰澄は別当寺の大滝寺を創建、本地仏を十一面観音に定めたとされます。明治期まで、大滝神は「大滝兒大権現」とも「小白山大明神」とも称されていました。「小白山大明神」の小白山は、白山(別山)のことですが、ここも白山信仰のもとに祭祀が営まれていました。
富山県・速川神社では、明治期、瀬織津姫は国常立尊と祭神変更され、石川県・瀬織津姫社では、伊奘諾尊の禊ぎによって生誕したとされる大禍津日神を瀬織津姫の「別称」としていたことも想起されるところですが、大滝神を「国常立尊と伊奘諾尊の二柱」というのはやはり無理があります。大滝神と紙祖神(岡太神)・川上御前が異神かのごとく表示されているのは、福井市・川上神社における「瀬織都姫命」と「美都波能売命」(水の御祖神、白山比咩神)の二神表示とよく似ています。
泰澄は、大滝神の本地仏を「十一面観音」に定めたというのも示唆すること大きいです。なぜなら、白山比咩神の本地仏もまた十一面観音でしたから。
養老元年(七一七)に白山を「開山」した泰澄でしたが、彼は、加賀の白山本宮(白山比咩神社)においては、「河濯命大権現像」を彫ってもいました。白山比咩神社の社域駐車場横には、伝・泰澄作の本尊を有する「河濯尊大権現堂」が、町の人々によって大切にまつられています(写真7・8)。お堂横の由緒案内を読んでみます。
河濯尊大権現堂之由来
当御本尊はむかしよりカハスソサマと称へられて難病を御済いくださると信ぜられ殊に下半身の諸病には御霊験あらたかにして祈願参拝の人又御礼詣りの人、日に日に盛んなり。伝説には泰澄大師御自作と謂と雖も往古より度々水火の難により大破損の為に信者之を大修繕を為す。〔中略〕元は神社地内白山参道脇の小祠に鎮座ましましたが明治の頃二回の火難の為に此の処に遷したてまつり現在に至る。遠近の敬信いよいよあつし。然れば病魔の苦しみある人は一たび御参拝なされて病魔退散の御利益をいただきなされ。ゆめゆめ疑う勿かれ。
河濯尊大権現は、白山比咩神社(白山本宮)の社地内白山参道脇にまつられていたものの、「明治の頃二回の火難」にあい、そのために現在地へと遷座してきたとされます。また、「難病を御済いくださる」、「殊に下半身の諸病には御霊験あらたか」といった神徳も述べられています。河濯尊の「濯」つまり「そそ(すそ)」は「おそそ」にも通じるため、ついには「下[しも]」の病の神とみなされたものですが、この神徳は、各地の河濯尊(川濯神)の多くに共通して伝承されているようです。
泰澄は、白山比咩神の本地仏(主尊)を十一面観音とする一方で、河濯尊(川濯神)をまつる(像を作る)ことをしてもいました。泰澄における、河濯尊(川濯神)、つまり瀬織津姫神に対する崇敬の気持ちが並々ならぬものであったことはほかにも事例があります(泰澄における白山の本源神に対する深いこだわりについての詳細は『円空と瀬織津姫』下巻に譲ります)。
伝・泰澄作とされる河濯尊大権現像は、泰澄時代(奈良時代初期)のものではありませんが、しかし、人々が河濯尊(川濯神)をどうイメージしてきたかは、いくらかはその面影をしのぶことができそうです(写真9)。ここには禍々しい神(大禍津日神・八十禍津日神)といったイメージはなく、むしろ対極というべきイメージで、これは造像されているようです。一見女性地蔵尊ともみえる、このチャーミングな神像(本尊)は、やはり泰澄の抱くイメージでもあっただろうとおもいたいところです。
千時千一夜による