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180 大相撲の桟敷席とは何か?

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180 大相撲の桟敷席とは何か?


「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150305

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




これも九州王朝論者でなければ決して解らないどころか気付きもしない普通に見過ごしてしまいそうなことであり、なおかつ、九州でもフィールド・ワークを広範囲にやっている人しか解らない事かも知れません。何故ならなら、野見宿禰と当麻蹶速が相撲を取った場所が奈良以外などと考える人はいないからです。これについては、十年ほど前に奈良県桜井市穴師にある「相撲神社」を訪問した時から、九州王朝論の立場から言えばこれも後代のもののはずで、その起源は九州のどこかになければならないはず…との思いを深めていました。

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それに先行して、大相撲の横綱昇進を巡って熊本市の吉田司家に挨拶に行くという慣行がある(あった)こと自体が非常に気になっていました(単に細川の要請で京都から引っ越したとは思えなかったのです)。

ただ、その話に入る前に、相撲の起源に絡む吉田司家について、まずはウィキペディアからお読みください。なお、現在、吉田司家と相撲協会とは関係が清算されています。


起源

志賀清林 を祖とする志賀氏 の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田家次(吉田豊後守 ぶんごのかみ)から始まり、相撲の宗家として代々「追風」の を名乗る。元来、京都二条家 に奉公し節会相撲 の行事官として務めていた。その後、二条家の許しを受け、細川綱利 に招聘され熊本藩 に仕え、武家奉公をした。以来、熊本県 熊本市 に住む。相撲に関する全権は、後鳥羽天皇 より委ねられたという。

横綱免許の権威として

1877 明治 10年)、西南戦争 において23世吉田善門は西郷隆盛 率いる反乱軍に従軍し戦いに敗れた後、熊本に帰り暫く謹慎していたが1882 (明治15年)7月、東京相撲会所と交わした約款証書に基づいて梅ヶ谷藤太郎 (初代) に横綱免許状を授与した。その反面、京都の五条家による横綱免許も続いていたが、これも明治末期を境にしてなくなり、以降戦後 に至るまで歴代の横綱は吉田司家のみによって授与されていくこととなる。

明治維新 の中で相撲廃止論が起こったとき、23世吉田善門は身を挺して国技 相撲を救った。そして1908 (明治41年)5月、九段靖国神社 の拝殿に相撲協会年寄 幕内 十両 以上の力士 、並びに足袋免許以上の総参集を求め奮起の一喝を与え、1909 (明治42年)6月の両国国技館 の新設に向かったのである。そして1925 大正 14年)8月相撲協会取締出羽海梶之助 から財団法人 化申請で相談を受けていた吉田善門は要職の一部を相撲協会の外部から招くよう助言し、同年12文部大臣 岡田良平 から財団法人の認証を受けた。会長には陸軍大将 福田雅太郎 、理事長には元陸軍 主計 中将 が就任した。

吉田司家に伝わる団扇や伝書等

志賀氏から受け継いだ相撲の故実 伝書 後鳥羽天皇 より勅賜の「獅子王の団扇」・「木剣 」・正親町天皇 勅賜の「マカロウの団扇」・関白二条家晴良公下賜の「一味清風」の団扇・豊臣秀吉 公下賜の「日月団扇」・徳川家康 公下賜の「葡萄団扇」・仏法即相撲・相撲行司大意之巻・相撲故実書・故実例式之巻・相撲十ヶ條・式字説・秘伝書・四十八手伝立・武家相撲開口・勧進相撲云立・方屋敷云立・そりの云立・四十八手解説・相撲来歴・相撲方諸国・相撲大意之巻・相撲故実三ヶ條・相撲行司大意之巻・相撲秘伝・横綱之故実・力士心得掟書・横綱之図・歴代横綱紀起請文・横綱免許願・その他、相撲関係古文書・資料等多数。


まず、冒頭の志賀清林 なる人物ですが、


伝承上の相撲行司の祖。相撲行司の宗家吉田司(つかさ)家の祖先書きに「聖武(しょうむ)天皇が神亀(じんき)のころ近江(おうみ)志賀清林 という者をめして行司にさだめた」とある。


デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

と書かれています。

近江の国と言えば安曇川が注ぐ旧安曇川町(現高島市)があります。

志賀島の安曇族が入っているから安曇川があるわけですが、そもそも滋賀県の滋賀という国名からして志賀島を起源にするものであることは明らかです。

さらに言えば、安土城の安土でさえも、アヅミ、アドゥミから派生している可能性さえあるのです。


してみると、この吉田司家とは安曇族に縁のある人物であったと考えるのが普通であり、相撲そのものの起源に倭人(海士族)が関わっていた(行事とは軍配執る主宰者であり仲裁者であり指揮者である)事が見えて来るのです。

 さて、相撲の起源と言えば野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹶速(タイマノケハヤ)の話に立ち至ります。



弩美宿禰:ぬみのすくね


天穂日命 十四世の孫、土師の祖、菅原道真 の遠祖。『日本書紀』垂仁天皇 七年秋七月、 当麻蹴速が天下一の力持ちだという噂を聞いた垂仁天皇は 挑戦者として出雲から野見宿禰を呼びよせて戦わせたところ 見事に野見宿禰が勝利し、当麻蹴速の土地を与えられて都にとどまった。また、垂仁天皇の皇后・日葉酢姫命が薨じた時、当時は殉死する者が多かったが天皇はこれを大そう哀しみ、 野見宿禰が埴土を採って物象を造り殉死に代えることを進言し、 出雲から土部百人を呼んで土の人形や馬を作らせ、これを埴輪と呼んだ。その功績により、土部の職に任じられ、土部臣の姓を賜った。光仁天皇の天応元年(七八一)、後裔の土師宿禰古人は、 住む土地の名によって土師を改め菅原姓を賜わった。古人の子が清公、清公の子が是善、是善の子が菅原道真。『播磨国風土記』揖保郡立野の名のいわれとして、 土師の弩美宿禰が出雲の国から行き来していて、 日下部野に泊まり病のために死んだ。その時、出雲の国から大勢の人々がやって来て、川の小石を高地へ運んで墓の山を作ったとある。 

* 敬愛するHP「玄松子」より




多少とも吉田司家が九州と関係がある一族であることが見えてきましたので、いよいよ本題に入りましょう。
十年ほど前に全国に天子宮なる奇妙な神社があることを知り、天子宮調査を行っていました。
長期間掛けて130本ほどの現地調査レポートを書いたのですが、その半分ほどが古田史学の会の会報にも掲載され、順次ホーム・ページでも読めるようになっています。
ただ、半分ほど掲載した時点で掲載を依頼されなくなったこともあり、掲載を止めいずれ終了した時点で画像付きで全てをネット上に残すことにしています。
この作業は一応の終了を見たのですが、その後も新たな情報が入ることや、東日本の調査を行っていない事から、何れはどうにかしなければならないと考えているところです。
その天子宮が集中するのがこの葦北郡であり、その調査で芦北町佐敷町のフィールド・ワークを行っていたころ同町の佐敷神社の境内に奇妙な観客席があることに気付きました。
コンクリート・ブロックが多くなってはいるのですが、昔は板石で組あげられたとしか考えられない四角い升席が境内全域に数多く設らえられていたのでした。
現在は冬場のためか手入れはされていないのですが、春からは草が払われ立派な桟敷席が一杯見えることになるはずです。
大相撲の桟敷席とはこの熊本県芦北町佐敷町の佐敷に端を発していたのではないかと考えたのです。
地元の方に話を聴くと、“この芦北一帯は昔から相撲が盛んだった。特に佐敷の諏訪神社で行われる全国相撲大会は有名で、往時には全国津々浦々から多くの力士が参加して大相撲大会が行われていた”というのです。
芦北町と言えば佐敷の岩永醤油がつとに有名ですが、全国航路の廻船の寄稿地の天草の牛深は目と鼻の先でもあり、佐敷港から運ばれた醤油と共に相撲の案内も届けられたのかも知れません。
ともあれ、大相撲の桟敷席がなぜ「桟敷席」と呼ばれるかについて定説がない中では、全国規模の相撲大会が古来行われて来た芦北町佐敷諏訪神社の「桟敷席」の存在は非常に興味深いものでした。




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「日本書紀」に、第11垂仁天皇の時に出雲の野見宿禰(ノミノスクネ)と大和の当麻村の当麻蹶速(タイマノケハヤ)とが相撲を取り、ノミノスクネがタイマノケハヤを蹴り肋骨を折りなどして踏みくだき殺すという非常に乱暴な話が残されています。

その褒美として野見宿禰は天皇から当麻蹶速の領地を与えられたと書かれており、これが相撲の始まりとされているのです。

さて、あまり知られてはいませんが、この芦北地方は隼人塚として知られる地下式横穴墓の北限に近いところであり、この佐敷諏訪神社の直ぐ近くの神社の境内地にもその一部が保存されています。

また、俗に景行天皇の熊襲征伐と言われる「九州巡行」の地とされ、さらには、「万葉集」に長田王の歌とされる二首の「野坂浦」の歌の候補地の一つとされている土地でもあるのです。

してみると、一般的に出雲系とか言われ大国主命の子とされる建御名方(ここでは話が複雑になるので致しませんが、百嶋神社考古学では建御名方を大国主命の子とも大国主そのものも出雲系ともしません…急がれる方は、blog「ひぼろぎ逍遥」跡宮などから関係個所をお読みください)が、出雲から野見宿禰を呼びよせて戦わせたところ見事に野見宿禰が勝利しとあるように、野見宿禰が当麻蹶速と闘って蹴殺した地であり、相撲発祥の地がこの佐敷諏訪神社一帯だったとしてもおかしくはないどころか非常にぴったりした話になるのです。何故ならば、九州王朝論者としては、片田舎の奈良が相撲発祥の舞台(恐らく複数の異民族の衝突融合)のはずはないからです。




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もしかしたら、野見宿禰が闘った当麻蹶速とは地下式横穴墓を残した熊襲系の人だったのかもしれません。
そして、その相撲大会を企画したのも、海士族、安曇族の頭目、博多の櫛田神社の神様である大幡主だったと考えています。実は大国主はトルコ系(匈奴)である大山祇の子であり、民族も異なる大幡主(白族)の傘下に入ることが許されたことから「主」という尊称を許されていたのです。これについては長くなるため別稿とさせて頂きます。トルコ系民族は相撲(レスリング)を得意にしていることから、佐敷諏訪神社が大国主の流れなら話は早いのですが、そう簡単ではないのです。
ともあれ、野見宿禰が勝ったことを記念してか、以後、千数百年来、相撲大会が行われ、それを主宰してきたのが志賀島の海士族だったのではないかとのまでは想像が及ぶのでが、ここでは、大相撲の「桟敷席」の語源について一つの作業仮説として提出して留めておきたいと思います。
なお、この桟敷席=芦北桟敷諏訪神社起源説については、2014年9月30日出版の「熊襲は列島を席巻していた」ミネルヴァ書房刊 内倉武久(元朝日新聞記者)にも一部掲載されています。
先月、えびの市で発見された未盗掘の地下式横穴墓を見るため内倉先生とご一緒した際にも、もう一人の同行者に現地を見せるために三人で再訪したのですが、当の内倉先生は “桟敷席の起源がこの地である可能性”をアドバイスしていたのが私であった事を既にお忘れになっていました(数年前の同行時にはメモも取られていたのですが)。
いつの間にか自分が気付いたものと思い込んでおられた訳です。勿論それは共同研究であり、先行して公表するものから順次記録を残して行けば良いだけの事ですが(アルツハイマーの初期かも知れないと心配しています)、今回、神社研究の立場から多少考えが纏まってきた思いがしています。
単に明治以後成立しただけかも知れない「桟敷席」の語源をこの地に求めたとしただけでは深みのない話になりかねないですから。




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181 南阿蘇村八坂神社の炎のピラミッド ①

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181 南阿蘇村八坂神社の炎のピラミッド ①

20150310

久留米地名研究会 古川 清久



阿蘇には阿蘇系神社しかないと思われている方が多いと思いますが、あまり知られていないものの、南阿蘇村に 素戔鳴尊櫛稲田媛命 大国主命 を祭神とする八坂神社があります。



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この阿蘇では見掛けない神社に気付いたのは昨年の事でしたが、この神社の参拝殿の壁面に、奇妙な金属プレートが残されている事に気付いてしばらく身動きできなくなりました。


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そこには、小国町の名社小国両神社、阿蘇市の阿蘇国造神社、阿蘇神社、高森町の草部吉見神社、南阿蘇村の八坂神社、甲佐町の甲佐神社、宇城市の郡浦神社、熊本市の健軍神社…が正確に配置されている事が書かれていたからです。

特に注目したのは、国造神社のラインが22.7度を示している事で、天文学や科学に多少とも関心をお持ちの方ならば分かるはずですが、ミランコビッチ・サイクルといわれる地球の歳差運動の数値と一致しているのです(まだ把握できていなので、これは単なる偶然なのかも知れません)。

三十分も見ていると宮司が気付かれた様で、さっそくお話をお聴きし少し値が張りましたが、『「炎のピラミッド」の発見』を分けて頂きました(\4500残部あり)。

この本を読みはじめるや驚愕の事実が分かってきました。一度にはお話できませんが、関心をお持ちの方は、直接訪問されてはいかがでしょうか?


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折りもおり、2010年公開の映画ピラミッドを見ていただけに、天文学、メートル法、π、Φ、フィボナッチ数列、黄金分割…がフラッシュバックし、宮司も言われていましたが、あの映画「ピラミッド」と同じ法則で神社が立体的に配置されている事を知るに至ったのでした。

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これはほんの一部をご紹介しただけのものであり、想像を絶する詳細な内容があるのですが、田尻宮司は、既に1997年地理情報システム学会(東京大学)に於いて講演されています。

ただ、非常に残念なことに、古代史学会や神社関係者の間では全く関心を持たれていません。

熊本県や地元教育委員会においても本気で取上げた形跡がなく、得体の知れないものといった評価を受けているのが現状ではないかと思われます。

それこそ、奈良、京都なら大騒ぎになり、朝日、読売などの常軌を逸した報道合戦から大々的に報道されているはずなのですが、古い時代の九州の片田舎にこのような高度な測量技術が存在したとも、メートル法が存在したとも認めたくない方々がおられることが手を取るように見えてくるのです。


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いつも取り上げる草部吉見神社の境内、神殿の計算値


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阿蘇神社群の境内地面積計算式ほか


152修正版 ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」修正版

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152 ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」 修正版

201412019

久留米地名研究会 古川 清久



福岡市の西区、糸島半島北端の東に唐泊、西に西浦という漁港があります。

これからの季節には、波静かな東側を中心に近海で雑魚を取りイリコ(北崎イリコ)や鯛の干物が作られるのでしょうが、玄界灘の懐奥深く波静かな入江に白砂が延びる風景は喧騒渦巻く博多や福岡とは全く異なった穏やかな面持ちを見せています。

この半島の玄界灘側に面した西浦に鎮座するのが白木神社です。

この神社の祭ではヒョウカリイライ」という意味不明の掛け声が流れます。

なにやら八代の妙見宮の「オレーオレーティエライター」を彷彿とさせますが、ここではこのヒョウカリイライ」についてお話しすることにします。

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昔の名前は妙見さんだったようだ。 妙見社が鎮座していた所へ、金武地域が北2kmの飯盛神社の神領になったとのこと、五十猛尊がかぶさって祀られたものと推測できる。

尤も、妙見さんと五十猛は九州でつながっているように見える。妙見信仰は北斗七星を祀る信仰で仏教と結び妙見菩薩として祀られたが、これは新羅系渡来人がその信仰を持ち込んだとされる。そう言う意味では素盞嗚尊・五十猛尊も新羅に縁の深い神である。福岡市西区大字西浦妙見の白木神社はやはり五十猛尊を祭神としている。新羅神社が白木神社となったのだろう。熊本県八代市妙見町の八代神社(妙見宮)は白木山に鎮座している。

HP「神奈備」より

毎年9月の第1土曜日に『ヒョウカリイライ』という漁祭りが執り行われます。
以前は11日まつりといって 毎年11日でしたが、このお祭りには子どもたちが活躍するので学校のお休みに合わせて第1土曜日になったそうです。
で、ヒョウカリイライっていう言葉はなぁに?と思いますよねー。
いろいろと尋ねてみたのですが、諸説あるようなので今回は北崎百年史で調べてみました。百年史には話言葉で書かれていて昔話みたいなので そのまま紹介しますね
……………………………………………………………………
「いわれは、江戸時代のことでっしょうな。
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西浦の鯛というたあ、そりゃあ有名じゃったらしいもんな。
ところが、鯛があんまりとれすぎて、今でいうたら豊漁貧乏ですたいなあ。
鯛の値がさがってしもうたげなもん。
そこで困っとるとば聞かしゃった殿様が鯛の値段を決めてやらっしゃったげな。
そこで殿様にお礼ばするとと、鯛がこれからもとれますごとお願いしたということじゃろうといわれとります。」
「ヒョウカリイライはどげな漢字ば書くとかようわかりませんばってん、『評価利鯛』ってかくとじゃなかろうかっていわれとります。」

 北崎よかとこ隊
 北崎校区自治協議会」 より




馮河黎来(ヒョウカリイライ、ヒョウガリイライ、ピンフォーリーライ)




元菊池(川流域)地名研究会メンバーの牛島稔大氏による「牛島稔太のHP」のサブ・サイト 神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界--- もう一つの神々の系譜 --- にこれに関連する事が書かれています。一部ですがご紹介いたしますので、まずは、お読みになって下さい。



薦神社の神紋は、宇佐と違って三つ巴紋ではない。それは薦神社に置き土産をした人物がいる、この人は自称神武天皇(はつくにしらすすめらみこと)、後で贈祟神天皇となって記録された人物が薦神社に置き土産をしている。この人の紋章が『時計回り一つ巴』である。この祟神天皇の子供の一人、久留米の豊城入彦(元、田主丸の豊木におられた)、大分から移ってきた時にそこにいた。祟神が自分の息子のうちの一人を四道将軍として関東に派遣した茨城県の神住町、鹿島神宮(海幸 彦)の武の神様があるところである。ところがこの系統は子孫が威張るという悪い癖がある。福岡地区でその威張るという例をみることができる、福岡市の海岸沿いの西の果て、西浦に白木神社があり、ご祭神は山幸 彦であるが、山幸彦の奥様(伊勢の外宮様)の元の旦那である海幸彦が手離さないので、山幸彦は頭にきている。京都の伏見大社の構成は、本当は山幸彦のグループで本当の実力者は奥さんの伊勢の外宮様である。それを元のダンナが手離さない。ヒョウガリーライ、ピンホーリーライ(黎族のくそ野郎、来るなら来てみろ)、西浦の白木神社が一年に一回いまでもそのことを祭りでやっている。


海幸 彦は中国大陸にいた頃は黎族といっていた5000年前、黎族の一部が通称、漢民族に追われて、3000年かかって追いこめられた場所が雲南省で、そこにシナ城(シナ族)を作った。そこも追われて、二つのグループにわかれ、一つは櫛田神社のグループの大半は紅河がながれベトナムのハノイに到着する。シナ城のグループはメコン河を利用して南ベトナムの方に流れ込んだ、そして、二つのグループとも海南島で態勢を整えて、日本に移住しようということを打ち合わせた。
http://goo.gl/maps/2hr7p

日本にきて天草・苓北に上陸した。 http://goo.gl/maps/Yxsyr  

そこにしばらくとどまった。日本にきてからは黎族とはいわず耳族(彦山の天忍穂耳)とも称した、そして、阿蘇に移動した。そのころ日本には既に高木 の大神系のたくは(た=古川による修正)ちじひめ、ヘブライ人が勢力をもっていた。高木の大神の一族は、日本の皇室と縁組をしていた。日本の怡土に住んで居られて中国の漢民族が派遣していた日本統治のための事務所が糸島にあった、そういう尊い方と縁組をしていたので高木の大神は威張るだけの力があった。その威張ったあとの面影がどこに残っているかというと、熊本荒尾の虚空蔵山、草部(かやべ:朝鮮半島の伽耶、糸島にもある伽耶)吉見神社、今は雲仙市になっているが、もとの地名は雲仙市ではなかった諫早にたいへんちかい有明海側のほう、ここに高木の一族の古い古い遺産が残っている。ここに高木の紋章と鍋島の紋章が合体した独特の紋章(つたの紋章)をみることができる。



いかがでしょう。驚かれたと思いますが、「馮河黎来」(ヒョウカリイライ)の意味が多少はお分かりになったでしょうか?

正直申上げてあまり良い言葉ではない罵声に近いもので、中には気を悪くされる方もおられるかも知れません。

ここには、雲南省から入ってきた阿蘇の一族(草部吉見)=鹿島=春日=海幸彦系と、半島から入ってきた海幸山幸神話の一方の雄、山幸彦系(新羅)=白木神社勢力の確執が反映されているのです。

その対立の理由は込み入った話になるため、その海幸側の神社がどこであるかを含め、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院の方で、いずれ、詳しく説明したいと思います。

ただ、概略だけを言うと、田川郡の香春神社の主神「辛国息長大姫大目命カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト(支那ツ姫)」=伊勢神宮外宮の豊受大神の神霊=御霊を前夫である海幸彦側が返さないことをなじっているのです。

ここでは、「馮河黎来」の意味は、「黎族」(レイ、リー)を意味し、黎族の連中やってこい!と掛け声をかけているという事を御紹介しておくに留めておきます。

さて、「黎族」は雲南省、貴州省から海南省(海南島)の南、東に住んでいます(海南省には保亭黎苗族自治県外多くの黎族の自治県があり「加茂」地名まで存在します)。


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中国海南省の観光地図(クリックで拡大表示)



 ついでに申上げておきますが、鹿児島県の「喜入」「嘉例川」、天草の「苓北」…といった地名や鹿児島市、枕崎市に集中する「今給黎」(イマキュウレイ)姓、鹿児島市から大隅半島に集中する「喜入」(キイレ)姓などはその痕跡と考えています。

きっと、この方々の二千年前の御先祖様は海南島、雲南省にいたのでしょう。

黎族は雲南省を起点に海路、鹿児島県の吹上浜、薩摩川内から不知火海、有明海沿岸に入っているようですね。

詳しくはふれませんが、肥後人は元々雲南省麗江にいた多氏の一族=ビルマ・タイ系の中国人で、博多の櫛田神社の主祭神である大幡主を奉祭する一族(民族的には白族)は雲南省昆明にいた原中国人(実はヘブライ系)と考えています。実は、両派とも追われた中国人なのですが、この西浦の人々が如何なる人々だったかは、まだ、見当が付きません。白木神社(山幸彦)を奉祭する一族としても、そもそも海人族なのでしょうし、山幸彦の素性が正確には分からないからです。

百嶋神社考古学では山幸彦(猿田彦)は彦火々出見であり、通称「魏志倭人伝」に登場する伊都の長官爾支(ニキ)=ニギハヤヒなのですが(荒江櫛田神社も実は伊都の長官爾支(ニキ)を祀っているのであり、荒江のアラも朝鮮半島の安羅なのです)、中国の江南から入ってきた海人族を征服し従えた支配者とすれば、西浦の人々とは民族的に異なる可能性が高いからです。

福岡市西区には今宿、今山、今津と「今」の付く地名が並んでいますが、この「今」の意味についても「山幸彦が魔物を射る=射魔」と聞かされています。

してみると、鹿児島の今給黎姓は古代の山幸彦海幸彦連合(中が良かった時代の)を反映したものなのでしょうか?

この一帯は山幸彦(猿田彦)の領域であった事が分かってきます。そう言えば海釣り公園の近くにも猿田彦大神神社がありましたね。



参考

速く走る、頼みにする、乗る、登る、怒る、不満、という意味がある。と通じて、恃む、乗ずる、依る、盛んな、と通じて、徒歩で を渡る、という意味がある。 

ネット上の「ニコニコ大百科」による



最後に西浦からさらに西に廻った糸島市野北漁港の冬の写真を糸島市在住の古代史研究者で写真家の松尾紘一郎氏の写真からご覧いただきましょう。ここにも白木宮や須賀神社があります。そしてその奥には桜井神社が…。

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182 タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市から”

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182 タノカンサーの正体とは何か?

“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市から”

20150310

久留米地名研究会 古川 清久


鹿児島県と宮崎県の一部に広く分布する田の神様(タノカンサー)は、ひところ前まで民俗学に関心を持つ人ぐらいしか知らないものでしたが、最近は全国ブランドになったようにさえ思えます。

 ただ、それが何者なのかについては、南九州ではおなじみのヤゴロードンと同様に謎に包まれています。

 部分的には能登半島でも飛地の様にタノカンサーを見掛けた事があるのですが、まずは、分布が少ない方の宮崎県えびの市のものですが、真新しい全くアリガタミのないものから見て頂きましょう。

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別にお国自慢で申上げているつもりはさらさらないのですが、この田の神様が何であるかについても百嶋先生はお分かりだったようです。

 結論を先に申上げますが、この神様の正体は、現在、博多の櫛田神社の主祭神になっている大幡主(オオハタヌシ)と大山祇命の混合神(当方が急造した言葉ですが)であるとされていたようです。


そうすると神武のご巡幸をまとめた博多くしだ神社の神様のご一統はたいしたもんだったと私は思います。そのとき櫛田神社の神様に協力なさった方が大幡主と大山祇、トルコ系とアーリア系ですけれども、縁組によって、全くの兄弟である。鹿児島では、現在、お二人を一つにして田の神様(タノカンサー)という擬神体となっている。タノカンサーの兄が大幡主、弟が大山祗である。


神社伝承から見る古代史(百嶋由一郎先生の世界)--- もう一つの神々の系譜 ---」牛島稔太のHPより


なお、テープ起こしですから牛島氏はそのまま書かれていますが、大幡主はアーリア系、大山祇命はトルコ系の渡来神と認識されています(勿論、学会通説に尾を振る学芸員の方などは一笑に付すでしょうが)。   

では、その根拠を示せ!と声高に叫ぶ方がおられるはずですから一例をお示しいたします。

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この北部九州の一角にも田の神様が祀られているのです。

 福岡県の旧甘木市に甘木公園がありますが、その最頂部に金毘羅神社(朝倉市菩提寺琴平町79)が鎮座しています。

 金毘羅神社奉讃会によりますと、現在、この金毘羅神社は大物主と大巳貴(オオナムチ)大国主を主祭神とされています。

 この丘陵の最頂部に鎮座する本殿に向かって緩やかな参道が設えられているのですが、その途中に幾つかの摂社があります。

そして、その中に問題の「田神社」があるのです。


故百嶋由一郎先生は、当然、他の例もご存じだったでしょうが、この甘木朝倉の祭神の配置や同金毘羅神社の摂社の配置から見て同摂社がタノカンサーであることは直ぐにお分かりになったのだと思います。

 ただ、ヤタガラスの父親である大幡主はあまり表に出られないようで、もっぱら、娘婿として受け容れた大山祇命の子である大国主命(旧甘木市の一角と言うべきところ旧夜須町隈江に大巳貴神社があることは神社に関心をお持ちの方ならどなたもご存じでしょう)に任せていたと言われていました。

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百嶋先生が言われていた事を総合的に解読すると、まず、俗に志賀島の海人族といわれるものの、その背後に居たのは、白(ペー)族の白川伯王の一族であり(宗像大社のルーツでもあるのですが)、その子で博多の櫛田神社の主祭神であり、言わば海軍軍令部総長が大幡主(その子がヤタガラスこと豊玉彦)なのです(この金毘羅神社としては大物主とも表現しているようです)。

一方、大国主の父親である大山祇命(月読命)は、大幡主の実の妹である埴安姫(別名草野姫とも言い前には瀛氏の金山彦の妃でもあった)を妃とした上に、実の子である大国主には大幡主の実の娘であるアカル姫の子のスセリ姫こと市杵島姫(瀛ツ島姫)を迎え入れており、文字通りの強い姻戚関係によって義兄弟となっているのです。

その結果、大巳貴(大国主)は「主」という白族の大幡主一族が使う尊称を使う事が許されたのです。

この大山祇命(月読命)は民族的にはトルコ系の匈奴の流れを汲むもので、陸軍参謀本部総長に相当したのです。

では、その上に君臨していたのは誰でしょうか?それこそが、久留米の高良大社の高良玉垂命を筆頭とする九州王朝の歴代大王だったのです。

事実、この金毘羅神社の最頂部の本殿(石造りの神殿)には高良大社の神紋(左三つ巴)が大きく打たれているのです。ただ、決してこれは大国主や大幡主のものではないのです。

この金毘羅神社の主祭神は、今でこそ大国主命と大物主命とされてはいますし、それを正確に表現すれば、大山祇命の子である大国主命であり、大幡主命の子である豊玉彦と言うべきかも知れません。

大山祇命とされてはいますが、古くは高良玉垂命であったことが読み取れるのです。

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それらの事を瞬時に見抜かれ、田神様が白族の大幡主命と越智族の大山祇命による擬神体(耳新しい言葉ですが)であると理解されていたのです。実は、この擬神体という表現が、大山祇命の本拠地である伊予の大三島大山祇神社(縁起)にも出てきます。


大山祇神社


今治市大三島町宮浦3327(平成20年3月24日)東経133度0分22.57秒、北緯34度14分43.56秒に鎮座。…中略…しまなみ街道・大三島のほぼ中央に鎮座しております。周りには道の駅あり、土産物屋あり、といった観光地風ではありますが、一歩境内へ足を踏み入れると、大木に囲まれた、如何にも神域といった雰囲気で流石伊予国一の宮です。


日本総鎮守大山祇神社

大山祇神社は、瀬戸内海のなかでも特に景勝の地である芸予海峡の中央にいちして、大小の島々に囲まれた国立公園大三島に、日本最古の原始林社叢の楠群に覆われた境内に鎮座している。御祭神は大山積大神一座で天照大神の兄神に当らせられる。
 天孫瓊々杵尊降臨の際、大山積大神、またの名吾田国主事勝国勝長狭命(大山積神の擬神体)は女木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に和多志大神と称せられ地神・海神兼備の霊神であるので日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。
大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮祭したことに始まる。
 本社は社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称せられ歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く奈良時代までに全国津々浦々に御分社が奉斎せられた。延喜式には名神大社に列し、伊予国一の宮に定められ、官制に依り国幣大社に列せられた四国唯一の大社である。現在官制は廃せられたが、地神・海神兼備の大霊神として千古に変わらぬ崇敬を寄せられ、全国に奉斎される大山祇神社・三島神社の総本社として、又数万点に及ぶ宝物類を蔵する国宝の島として四季を通して多数の参拝がある。

境内由緒書

 現在の住所は今治市となってしまったが、嘗ては越智郡大三島。創建の頃は由緒書に登場する小千命の子孫、越智氏が支配していたのでしょうか。


ここから少しややこしい話をさせて頂きます。

そもそも大国主命を出雲国の人と考えておられる方が多いと思いますが、それは「古事記」神話が造ったトリックでしかありません。

元々、トルコ系匈奴の一派である大国主の一族は九州の南部に入っており、その痕跡が宮崎県と言うより日向国一宮都農神社の祭神が表向き大国主命とされている事に象徴されており、薩摩の吾田、吹上浜は吹上温泉付近に堂々たる大巳貴神社がある事でも、また、その父親である大山祇(月読命)を祀る神社が鹿児島からフェエリーで桜島に渡った正面に鎮座している事でも幾らか納得してもらえるかも知れません。

さらに言えば、鹿児島から宮崎県内に数多くの南方神社(祭神:建御名方 これも誤りですが、大国主の命の子とされていますね)もあるのです。

百嶋先生は、狗奴国の乱の後、列島大率家(周王朝、呉太伯の裔)である九州王朝からの協力要請を受け、大幡主命、大山祇の一族が九州北部に移動していると言うのです。


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北部九州に多い、隈地名もその際にそっくりそのまま移動してきたもので、日田の三隈川、隈、日隈、月隈、星隈地名から、朝倉、甘木一帯、佐賀市一帯、福岡市周辺…、当の隈本(熊本の加藤清正以前の表記)は千葉城町といったくだらない地名に変更されているのです。

その後、大山祇の一族は本拠地を愛媛(伊予二名)に移し越智氏となり(岡山の津山、吉井へも)、大幡主の一族は、阿波(阿波と言えば金毘羅さんですね)から紀州の熊野へと本拠地を移しているのです(岡山の高梁、湯原へも)。 

そして、俗に大国主の国譲りと言われるものも、多くの地域にあった出雲(飯塚市桂川町の出雲もその一例)を明渡し、移動して行った一つが現在の出雲であって国譲りの舞台の大半は九州だったのです。

言わば、引越し先に大きな社を造ってもらった所が現在の出雲大社であって、言わば「記」が捏造した神話のテーマパークでしかなかったのです。

それよりも、出雲大社の摂社出雲井神社にでも関心を向けて欲しいものです。

出雲の謎はそこから解明しないと表面しか分からない事になってしまうのです。

これは、いつも出している、最後の百嶋神代系譜ですが、甘木公園の金毘羅神社の田神社に安曇磯羅らしき神様がおられる事が少しはお分かりになったでしょうか?

朝倉市内にも、湯隈に烏集院(ヤタガラスの集合場所ですね、これだけでも、この一帯が大幡主の領域であることが分かります)という地区があり、湯隈神社を始めとして興味深い神社がゴロゴロしています。


スポット017 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 ① “福岡県うきは市 賀茂神社から”

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スポット017 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 ① “福岡県うきは市 賀茂神社から”

20150623

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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多少、遅れ馳せの感がありますが、本物の豊玉彦(ヤタガラス)を主神とする神社をご覧に入れます。

久留米市を流れる筑後川を遡ると、左岸にうきは市があり、日田市に至ります。

このうきは市から日田市にかけては物部氏、大幡主(賀茂族)、ウガヤフキアエズの匂いがするエリアです。ついでに言えば、日田市に玉川地区があるのも関係なしとしないのです。

この大幡主、その子豊玉彦(ヤタガラス)のエリアには「隈」地名があることは何回か書いていますが、ここも同様で、東隈、西隈があり、隈上川が流れ、上流には笹の隈があり、隈地名が直ぐに拾えます。

「隈」地名は、熊本から大幡主の一族が地名を持って筑後川流域、博多周辺に展開した痕跡なのです。

カーナビ検索 うきは市浮羽町山北1


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まず、この神社は“美しい”の一言に尽きます。

殷の鳥居の変形ではないかとも思える荘厳な門と立派な参拝殿、水路を巡らした庭園風の庭、神社の性格とか祭神云々の話に入る前に、その荘厳、神秘性に圧倒されてしまいます。

また、羅針盤状の暦盤が天井に置かれているのも印象的です。

この一族が、星(天文)を観測し航海を行い、暦を創り司る人々であった事が分かります。

博多の櫛田神社(大幡主の本拠地=熊野の出戻り本山)にも暦盤が置かれていますね。


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これが京都の下賀茂神社のルーツではないかとお考えになる方がおられると思いますが、その方向で考えられて構いません。間違いないと思います。

まず、友好blogの「ひもろぎ逍遥」(もっとも、先方はこちらを「迷惑biog」とされていますが)の綾杉女史のコメントから見ましょう。なお、文中のくじらさんは久留米地名研究会の事務局次長のO氏です。

「山北」は福岡県浮羽市にあります。まずは、くじらさんのコメントの概要。これは神武天皇 伝承の宮々(1)でいただいたコメントです。ところで、すでにご承知かもしれませんが、加茂大神がこの国に最初に光臨したといわれる神社が浮羽市にあります。山北の加茂神社といいます。(http://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂神社_(うきは市))境内摂社の三次神社は浮羽でも最も古い神社とのこと。アジスキタカヒコネの伝承とあわせて考えるとおもしろいですね。境内には非常に古い古墳があり、かつてはこの付近が筑後川の河口だった時代があったと思われます。物部郷も近くにあり、大陸からの渡来系氏族の重要な拠点のひとつと考えられます。

くじらさん、こんばんは。「山北」ですね。それなら知ってるかも (^-^)物部氏はかなり古いですね。想像以上。あれほど福岡の広いエリアに分布するには、100年200年じゃないような。何々、アジスキタカヒコネですか。この神は、大国主命と宗像三女神のタギリ姫の間に生まれた神ですよ。高良山の麓にも祀られていて、気になる神です。うきは市の賀茂神社は加茂大神が最初に降臨?興味津津。早速ウィキペディアを引用してみましょう。

縁起 当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。境内では縄文土器、石器、群集石棺群などが出土している事から鑑みこの旧記が有る真実を伝えているものと考えられる。賀茂神社社家の初代は、武内宿禰(たけうちのすくね)(孝元天皇の曾孫)19世 波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔、波多次郎救家の嫡男 久家和州 としている。(熊懐氏参照)

祭神 神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)(神武天皇)賀茂下上大神(賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと))う~む。宇佐から山北へ。そして八咫烏となった。これは奥深い伝承ですね。いつかチャレンジしたい…。

そもそも、このうきは市一帯には、千束、千足(チツカ、センゾク…)、姫治(ヒメハル:紀氏が治めるの意味かも)、内ケ原(ウチノシコオ?)、白土(もちろん白川伯王=の系統の方々が住む土地の意味ですね)という物部氏、白族系統の地名が拾えます。

さらに言えば、日田市にも隈地名(星隈など3隈地名が…)があり、豊玉彦を意味する玉川地名まで存在しており、この古代筑後湾の湾奥好地が、大幡主と豊玉彦の支配下にあった事が分かるのです。

注目して頂きたいのは、この二つ葵の神紋です。重要なので次回以降に廻すことにして、まずは、この秀麗かつ気品に溢れた本物中の本物のヤタガラスの神社の画像をお見せします。

ただし、前述1651年の旧記による「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」とあるのはそのままでは受け容れられません。

 日向から東征したのは、藤原が第10代とする贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)の事であり、もしも、ここが降臨した地であるのならば、賀茂大神ことヤタガラスは肥後からうきはに入り、後に博多に入ったのかも知れません。

 ただ、神武とヤタガラスとは同時期に活躍していますが、宇佐を基盤にした崇神が本物の神武やヤタガラスに出あうはずはないのです。

少なくとも、本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)とヤタガラスに関係のある重要な神社であるとまでは言えると思います。 


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183 神武天皇の正妃アイラツヒメ(蒲池姫)を祀る神社 “郡浦神社(熊本県宇城市三角町)”

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183 神武天皇の正妃アイラツヒメ(蒲池姫)を祀る神社 “郡浦神社(熊本県宇城市三角町)”


「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150305

久留米地名研究会 古川 清久


懸案である阿蘇南郷谷の八坂神社田尻盛永宮司の「炎のピラミッド」講演用のパワー・ポイント作成のために、十年ぶりに宇城市三角町の郡浦神社を訪れました。

十年前は近くの金桁鉱泉(現在閉鎖中)に入りに行く道すがらの事でしたから、ここにも神社が在るなあ…どうせ阿蘇系だろう程度の理解しかなかったのですから実質的には初見の神社になります。


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一目、手入れの行き届いた良い神社であり、以前と変わらず氏子の方々のご協力が目に浮かぶような神社です。

 今回はパワー・ポイント用の写真を撮る事が目的であり、決して長居をするつもりはなかったのですが、それでも十五分も境内にとどまれば、目に付くのは必定で、宮司が出ておいでになりました。

 菊池(川流域)地名研究会メンバーの○○宮司から、「あそこは女性の宮司さんです…」とお聴きしていましたから、おいでになった時も直ぐに分かり、「宮司さんですね…」とご挨拶が始まった訳です。

関係のある連神社である事から、八坂神社の田尻宮司からも著書の「炎のピラミッド…」が寄贈されており、良くご存じで、話しはスムーズに進み、神社に付いてお話をお聴きし付近の摂社をご案内頂くなどご協力頂きました。

写真撮影はこれで良かったのですが、もう一方の目的である祭神については大問題であり、正直言って手こずっています。 

まず、同社の縁起には蒲池姫、健磐龍、速瓶玉、神武天皇とあります(同社縁起を参照)。


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最大の問題は郡浦神社の主祭神と考えられる「蒲池姫とは誰なのか…?」です。

阿蘇神社を中心とする阿蘇宮司家は、この蒲池姫を阿蘇国造社の主祭神である速瓶玉命(大山咋神=佐田大神…)の妃(前妻)の雨宮姫と同一神とするのですが(同年の鴨玉依姫も同じく妃であり恐らく後妻)、   

百嶋神社考古学では、初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の正妃=アイラツヒメとするのです。

 当の郡浦神社の神社縁起も阿蘇神社の見解を受け容れ、蒲池姫を雨宮姫としているようです(後段の神社縁起参照のこと)。

 この問題には初代神武天皇が、後に藤原により贈)綏靖天皇とされ神沼河耳命の妃であったアイラツ姫(蒲池姫)を神沼河耳命の(恐らく死後)正妃としたこと、さらには初代神武天皇の子であり本物の天皇である第4懿徳天皇の正妃であった阿蘇ツ姫(天豊ツ姫=杉山大神=雨宮姫の母)を健磐龍命が妃とした(百嶋先生はカッパラッタとします)事、さらには、藤原が金凝彦神=神沼河耳命を第2贈)綏靖天皇に、草部吉見=彦八重耳命を第5代 贈)孝照天皇に(神武の臣下でしかないものを)格上げしていることなど全てが関係していると思うのですが、紀元2600年(昭和15年)当時の阿蘇神社資料の確認が遅れているため、その理由が何故なのかには踏み込めません。

このため、ここでは保留し、百嶋神社考古学の立場から見た蒲池姫の実像に迫るだけで留めたいと思います。



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 蒲池姫は初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の正妃であり、五瀬命の妹。父は金鎖大神(金山彦)、母は天御中主=白山姫=天常立とウマシアシカビヒコチの間に生まれた燕脂姫(エンジヒメ)=大市姫=月読命、大山祗命(トルコ系匈奴)の姉

 雨宮姫は阿蘇北宮、国造神社の主祭神 速瓶玉命(実は大山咋神=佐田大神=松尾大神、日吉神社、日枝神社、山王神社の祭神…)の妃であり、父は言うまでもなく健磐龍命=手研耳(一般的にタギシミミと読まれますが、タケシミミと読むべきで、そうすると健磐龍であることが分かります)、で母が問題の懿徳天皇の正妃であった阿蘇ツ姫(さらわれた皇后陛下)なのです。

その阿蘇ツ姫ですが、父は草部吉見、母が高木大神の娘である拷幡千々姫(タクハタチジヒメ)であり、海を挟んだ宇土半島の正面の島原半島に高木大神(許氏 高皇産霊神)の拠点(南北高来郡~高千穂三田井)があったことと符合するのです(同社縁起もそう書いてありますね…)。

勿論、速瓶玉命(実は大山咋神)は、恐らく後にでしょうが、金山彦の娘櫛稲田姫(イカコヤヒメ)と豊玉彦(ヤタガラス)の間に生まれた神直日=鴨玉依姫を正妃として、藤原が第10代と格上げした贈)崇神天皇を産むのです。これらの藤原氏の偽装作戦(神武天皇の臣下でしかなかった阿蘇系を自らの先祖であることから持ちあげた)の結果、多くの混乱が生じているものと考えられるのです。

 問題は蒲池姫が神沼河耳と婚姻関係を結び、夫の死後、神武天皇の正妃となった結果、前夫との間に生まれた健磐龍命にとって、蒲池姫は実の母であり、神武天皇との間に正当皇統の懿徳天皇が産まれている以上、健磐龍にとって懿徳天皇は種違いの兄弟となり、なぜ、蒲池姫を雨宮姫と言いたいのかが全く不明なのです。

 弟の皇后を奪った(?)事も実情は不明であり、百嶋先生からはその舞台は甲佐神社だったと聴いているのですが因果関係が不明なのです。

単に雨宮姫は健磐龍命の娘である事から、国造神社北宮に対して阿蘇神社が上位であるとしたかったから(もしくは、大山咋系=崇神天皇系に対して対抗したかっただけ)であれば話は単純なのですが、まだ良く分からないのです。

 当方は真実を知りたいだけでしかありません。そして、それなくしては初期から中期の九州王朝の実像が掴めないため「記」「紀」の偽装を解明しているだけであり、各神社が時代の動きに合わせて祭神を入れ替え必死で生き延びて来た事をとやかく言うつもりなど毛頭ないのです。

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なお、継続して調べたいと思いますので、ご協力をお願いします。

また、同社縁起冒頭にある四面神社は、海を挟んだ対岸の長崎県島原市(旧有明町)などに分布し、四目紋を神紋とします。

 この四面神こそ、幾つか異なる類型のある古代九州の白日別命、豐日別命、建日向日豐久士比泥別、建日別命 を意味する神社であり、武田信玄の四菱にも通じるのですが、混乱しますので別稿としましょう。







スポット018 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 ② “福岡県うきは市 賀茂神社から” (再考)

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スポット018 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 ② “福岡県うきは市 賀茂神社から” (再考)

20150630

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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前ブログ ひぼろぎ逍遥 132 葵の紋章のルーツ立ち葵の神社 “福岡県うきは市 賀茂神社から”

おいて、久留米市と日田市の中間にヤタガラスの神社が存在することをお知らせしましたが、実は、まだ十分に納得できないままでいます。

 一応はヤタガラス(豊玉彦)の神社としたのですが、本来はそうだったが、今は、藤原が第10代と大幅に格上げされた贈)崇神系の神社に半分近く変えられている(乗り取られている?)という意味なのです。

 良く考えるとそのことがようやく分かってきたもので、今回は、これに関する補足作業になります。

 神社が誰を祀っているかを考える時、注意しなければならないのは、何を主たる指標にするかです。

まず、郷土史家、史談会、教育委員会…といった通説派の方々は、概して「記紀」「風土記」「神社誌」「神社庁見解」「市町村誌」「縁起書、由緒書」「社伝」…の順に説明される事でしょう。

 ところが、九州王朝論者でも、そのまた少数派である神社考古学(百嶋神社考古学)の者は、本当の神代の舞台であった九州の現場と「記紀」、社伝と「風土記」「神社庁見解」とに多くの齟齬、食い違いがあることを知っているのです(つまり「記紀」による古代史の偽装)。

 この点、「記紀」に併せてテーマ・パークとして整合性があるように創られた畿内、出雲…などとは全く異なる話になるのです。

 何度も言っている事ですが、まず、祭神は時代の動きに合わせ変えられます。

本来の祭神は、残されるとしても摂社に移されることがありますし、隠され、新たに入れ替えられ、加えられ、社伝(縁起、由緒)も改竄されます。

ここで、前述した何を主軸に探るかですが、①祭神の組合せ ②祭神の表記 ③夫婦神の場合の妃の名 ④親子神の場合の子神の名 ⑤神紋 ⑥縁起 ⑦宮司などの伝承 …といったものになります。

そろそろ本題に入りますが、うきは市の賀茂神社に限定して言えば、百嶋由一郎先生が講演中にうきは市の隣、久留米市に田主丸町に「豊城というところがありますが、贈)崇神天皇の子である豊城入彦が宇佐から入って来ています…」と言われていました。

ここで重要になるのがこの賀茂神社の神紋の二つ葵です。そして贈)崇神天皇もこの神紋を使っているのです(葵神紋参照)。

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元々、この筑後川左岸の田主丸、旧うきは町に掛けては、大幡主とその子ヤタガラスの領域だったようですが、後に(開化天皇=高良玉垂命と神功皇后)の時代に贈)崇神天皇の子である豊城入彦が宇佐から入って来ているようなのです。

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豊城入彦命(とよきいりひこのみこと[1])は、記紀に伝わる古代日本の皇族。

第10代崇神天皇皇子である。『日本書紀』では「豊城入彦命」「豊城命」、『古事記』では「豊木入日子命」と表記される。

東国の治定にあたったとされ、上毛野君や下毛野君の始祖とされる。

ウィキペディア20150630より


しばらく前から、宇佐市安心院の妻垣神社=足一騰宮=一柱騰宮に入った神武天皇とは、贈)崇神天皇のことであることが分かってきていました。

してみると、前ブログで引用した“宇佐から入ったとする賀茂御神”という 行直大宮司の慶安4年(1651年)の旧記(後段)の話は、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と、随行した本物の豊玉彦(ヤタガラス)の話が基礎にあり(両者が同社に同時に居た可能性も含めて)、それが神武僭称贈)崇神とその子豊城入彦の話と重なり、本来の祭神の本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と本物の豊玉彦=賀茂建角身命に神武僭称崇神とその母親である鴨玉依姫=神直日が挿入され本物の神武であるように描こうと



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しているように見えるのです。

現在、同社の祭神はこのように書かれていますが、

神日本磐余彦尊  カムヤマトイワレヒコ(神武天皇  はOK。

賀茂建角身命  カモタケツノミコト(賀茂下上大神) は京都の意味で書かれているようですが、下賀茂神社のみOK。上賀茂神社は、神武僭称崇神天皇と考えており誤りだと考えます。 従って半分OK。

玉依姫命  タマヨリヒメノミコト は神武の育ての母とする通説に沿った意味で書かれているようです。

これは、本物の神武天皇の母である神玉依姫の事か賀茂別雷命=神武僭称贈)崇神天皇の母である鴨玉依姫の事か判読できません。 従って保留します。

賀茂別雷命  カモワケイカヅチノミコト は、当然、神武僭称贈)崇神天皇=豊城入彦の父 でしょう。

 ただ、これも上の玉依姫が神武の母であれば、この賀茂別雷命 だけが追加挿入されたものであり、鴨玉依姫であるならば、本来の祭神は神日
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本磐余彦尊 賀茂建角身命 の二神であった事になります。結論としては、各々、京都の下賀茂神社、上賀茂神社の元宮の可能性があります。

 ただ、そのルーツは熊本市、それ以前は天草市苓北、海南島の加茂(現存地名)、雲南省昆明…になるはずです。


当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。

ウィキペディア20150630による

今回はかなり難しい解析になりました。まだ良く分からない部分がありますが、うきは市の賀茂神社の


葵の紋章sp18-6 は百嶋由一郎 神代系譜(葵の神紋)のように、立ち葵でも右割れ、左割れと多岐に分かれ、ウィキペディア氏が示されたものは滋賀県の日吉大社の神紋を出されています。

当然にも大山咋=大直日=佐田大神の神紋なのです。

 崇神は、その母親が豊玉彦(ヤタガラス)の実の娘である事から、自らをヤタガラスの正統直系とでも考えたのでしょうか。sp18-8


いずれにせよ、ヤタガラスは旧浮羽町から日田市に掛けて多くの痕跡を残しています。

 一方、神武僭称贈)崇神の父親である大山咋=大直日=佐田大神は鴨玉依姫とこの一帯で出会い、旧甘木市佐田(現朝倉市)佐田町(と言っても山の中ですが)に住み、現在の佐田川流域(筑後川右岸)で活動した事だけは間違いがないのです。

そして、その痕跡の一つがうきは市の賀茂神社になるのです。



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と、ここまで書いてきましたが、ヤタガラス(豊玉彦)は大幡主の子であり、博多で産まれたはずです(博多の櫛田神社は熊野からの出戻り本山であり、紀州の熊野は後の本拠地です)。

 では、父親の大幡主が博多に移動して来る前はどこに居たのでしょうか?

 それについても、故百嶋由一郎氏は、“隈地名のルーツは熊本であり、現在、熊本城が置かれている熊本市の千葉城町こそ隈本(加藤清正により熊本と変えられた)であり、そこが肥後における本拠地だったと”されていたようです。

 この点、大幡主の父は白川伯王であり、当然の事として、熊本市を貫流する白川(中国風には白水)が白川伯王から付されたものである事とも符合するのです。

 しかし、その前にも辿るべき故地があります。

天草下島の苓北町、中国海南省の海南島の加茂、雲南省省都昆明まで辿る事ができる事はこれまで草部吉見神社との関係で繰り返し述べて来たところです。


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184 栲(タク)“ミツマタの花咲く頃に栲幡千千姫命(タクハタチチヒメ)を考える” 

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184 栲(タク)“ミツマタの花咲く頃に栲幡千千姫命(タクハタチチヒメ)を考える” 

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150319

久留米地名研究会 古川 清久

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菊池(川流域)地名研究会の主力講演者であり(元穴掘り考古学の学芸員)、神職でもある吉田氏と福岡県田川郡の某所に調査に行った帰路、ミツマタの花が咲いているのを見て、思わず車を戻して写真を撮りました。

吉田宮司は「彦山周辺に非常に多いし、かつての栽培のなごりかも知れない…」(肥後弁でですが)、「紙幣の原料でもある事から偽札を製造されているかも知れない…」(これは私でしたか?)などと話ながら、しばし、この上品なジンチョウゲ科の落葉低木の美しさに見とれていました。

植物には関心が薄い事からコウゾとミツマタの区別もつかず、紙の原料と言っても高級和紙から落とし紙まである訳で、実際にはどの時代のどの種類の紙なのかとか言った事まで考えれば、全く知識が無いに等しい事に気付かされます。

たく【栲 コウゾの古名。「常にの皮を取りて木綿(ゆふ)を造る」〈豊後国風土記〉Goo辞書」より

たえ たへ 【栲▼】

カジノキ ・藤 ・麻などからとった繊維 。また,それで織った布。 「臣の子 は-の袴を七重 をし/日本書紀 雄略 」




布類の総称 。 「御服 (みぞ)は明る -・照る-・にぎ-・荒-に/祝詞 祈年祭 」


たく 【栲▼】
コウゾ またはカジノキ の古名 。 「此の 郷の中に -の樹 多(さわ)に生ひたり/豊後 風土記 」 「栲」に似た言葉                              「三省堂大辞林 」より


ミツマタ(三椏、学名:Edgeworthia chrysantha)は、ジンチョウゲ科 ミツマタ属 の落葉低木。中国 中南部、ヒマラヤ 地方原産。皮は和紙 の原料 として用いられる。


目次


ミツマタは、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分岐する特徴があるため、この名があり、三枝、三又とも書く。中国語では「結香」(ジエシアン)と称している。


春の訪れを、待ちかねたように咲く花の一つがミツマタである。春を告げるように一足先に、淡い黄色 の花を一斉に開くので、サキサクと万葉 歌人はよんだ(またはサキクサ:三枝[さいぐさ、さえぐさ]という姓の語源とされる)。


園芸種では、オレンジ色 から朱色 の花を付けるものもあり、赤花三椏(あかばなみつまた)と称する。


利用



和紙 の原料として重要である。ミツマタが和紙の原料として登場するのは、16世紀 (戦国時代 )になってからであるとするのが一般的である。しかし、『万葉集 』にも度々登場する良く知られたミツマタが、和紙の原料として使われなかったはずがないという説がある。


平安時代 の貴族たちに詠草料紙として愛用された斐紙(美紙ともいう)の原料であるガンピ も、ミツマタと同じジンチョウゲ科に属する。古い時代には、植物の明確な識別が曖昧 で混同 することも多かったために、ガンピ もミツマタを原料としたものも、斐紙と総称されて、近世まで文献に紙の原料としてのミツマタという名がなかった。後に植物の知識も増え、製紙技術の高度化により、ガンピとミツマタを識別するようになったとも考えられる。                        ウィキペディアによる


私達にとっては、このような専門的知識がない上に、何が本物のミツマタかなどと突き詰めている訳ではないため、単にネット上から最低限の知識を拾っただけですが、古代の事を考える者にとって、このコウゾとかミツマタとか言ったものがどの地域でどの種類のものを言っていたかも判別は難しく、仮に漢字表記が一致していたからと言って、時代や地域が違えばそのまま信じられない…事になるため、今のところ、ある程度推定ができる程度の話をしているものです。

 このため、前置きだけが非常に長くなりましたが、ことさらこのコウゾ、ミツマタやガンピョウの類いに目を向けたのは、「栲幡千千姫」が何か念頭にあったからでした。

 既に「ひぼろぎ逍遥」049「何故か感涙を禁じえぬあまりに立派な高木神社」“大任町の高木神社”として、大任町の高木神社に付いて書いていますが、吉田宮司にもその神社を見てもらった帰路でしたから、思いもひとしおだったのです。

そうです、栲幡千千姫(タクハタチチヒメ)の「栲」とはこの類いの木であった可能性が高いのです。



184-3

大任町高木神社参拝殿正面と同社社記

栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)は、日本神話 に登場する女神 である。『古事記 』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀 』本文では栲幡千千姫命、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)と表記される。

ウィキペディアによる


栲幡千千姫命とは、コウゾ、ミツマタ、ガンピョウ…の類いをもって作られた多くの御幣で飾られた姫か、多くの幟を立てて称えられた姫か、多くの繊維を作った(持った)姫か…とにかくこの「栲」に因んだ名を持つ神であったと考えるのです。

ここでも百嶋神代系譜を見て頂きますが、この栲幡千千姫は高木大神(高皇産霊神)の次女であり、第4懿徳天皇のお妃となった豊天ツ姫の母(父は草部吉見)なのです。

 これまた隠された話ですが、この皇后陛下は阿蘇の健磐龍命(阿蘇神社主祭神)のお妃となっているのです(百嶋先生からのお話)。略奪なのか、離縁によるものなのか不明で確信が持てないため、現在、紀元2600年当時の阿蘇神社関係の資料を探しているのですが、それはそれとして、百嶋系譜では、栲幡千千姫命は次女で、長女の萬幡豊秋ツ姫とは別人とされているのですが、ウィキペディア氏においても古事記 』の萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)と書いている様に、『古事記』では同神を同一視し混乱(意図的改竄?)しているように見えます。

面白いのは、萬幡豊秋津師比売と、その名に「豊」が付されているように、高木大神の拠点が恐らく後には豊の国にあったことを思わせることです。


184-4

百嶋極秘系譜による



185 「たちぎれ線香」…桂 米朝師匠が亡くなった

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185 「たちぎれ線香」…桂 米朝師匠が亡くなった

20150320

久留米地名研究会 古川 清久

上方落語界の大御所であり重鎮の桂米朝師匠が亡くなられました。

まさに巨星 墜つ!との思いですが、いずれは来る事であり致し方ない事です。  
185-1桂 米朝の生の噺を聴いたのはかれこれ十六年ほど前(1999年春)の佐賀県西有田町の公民館で行われた米朝一門による講演会においてでしたが、予定されていた桂 枝雀師匠が急に休場しその一週間ほど後に亡くなったと伝えられた事から特に強い印象に残っています。

当日は、既に買い揃え頻繁に聴いていた桂米朝全集(CD40枚組)の一枚目と四十枚目を持参しサインを頂いたのですが、米朝一門の紋章とも言える三つ柏紋の入った和手拭いを今も大切に持っています(三つ柏は土佐の山内家の家紋ですが何故ですかね…)。

三遊亭円生全集、古今亭志ん生全集、桂 枝雀全集…と持っていますが、やはり上方落語が好きで、米朝全集を聴きながら、長駆、遠方の神社を見に走った事が今更の様に思い出されます。

米朝師匠は、

制姫路中学(現、兵庫県立姫路西高校)卒業後、現在の大東文化大入学。その後、1944年に軍隊に入ったが、病気のまま終戦。終戦後は会社員となり、落語愛好家として楽しんでいたが、47年に四代目桂米団治に入門、三代目桂米朝を名乗った。演じられなくなっていた上方落語の古典演目を発掘し、現代向けに構成。故六代目笑福亭松鶴さんらとともに「四天王」と呼ばれ、衰退していた上方落語を再興させた。
 端正で明快な語り口で、「たちぎれ線香」「百年目」などを得意とした。門下に、故・枝雀さん、ざこば、南光ら約70人(故人を含む)。五代目米團治は長男。96年に人間国宝。2009年には落語家初の文化勲章を受けた。                    
2015320日付NAVERまとめ より

 

と、あるように、最後の実軍歴者(兵隊経験者)の世代であり、確か満洲の大連辺りで生まれたとTV番組何かでも話しておられたのを記憶しています。

 我々にとっては人間国宝などどうでも良いのですが、功績は「演じられなくなっていた上方落語の古典演目を発掘し、現代向けに構成。」引用文にもあるように、古く話されなくなって久しい噺を復刻し、記録に留めた事だと思います。大半は、全集、選集の中にも収められていますが、発売も公開されてない多くの噺が、まだまだ、数多く収録されている事と思います。

 一つの噺を十回聴くぐらいはザラで、何十回も聴き込むと見えない情景や背景が頭に浮かんで来て実に素晴らしいものといつもながら思い知らされます。

 今や、外人とハーフとオカマと芸人だけで誰も見向きもしない安手の番組が乱造される時代になってしまいましたが、落語だけは何とか残って欲しいと思うばかりです。

 落語は聴き手が残らなければ映像、音声だけでは決して残らない代物であり(漫才はそもそも芸ではないと考えていますので)、いずれ消滅は仕方がないと考えていますが、その意味で、最低限、上方落語の真髄だけは記録されたのですが、桂三枝師匠は勿論ですが、息子の小米朝を筆頭に誰かが上方落語を継承してくれるものと自分を納得させています。

 「総理が死のうがちょうちん行列」と普段から言い習わしているのですが、改めて追悼の意を表させて頂きます。


185-2

まさに、「たちぎれ線香」…もう堪忍しとくなはれ……お後が宜しいようで…「地獄八景亡者戯」

もう好きな噺家はんは江戸落語の柳家小三治師匠しかいてはりしまへんがな…どないしまっか?

186 刺国若比売 “大国主の母”は大幡主の妹の埴安姫=草野姫か?

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186 刺国若比売 “大国主の母”は大幡主の妹の埴安姫=草野姫か?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150320

久留米地名研究会 古川 清久


「大国主命のお母さんは誰か?」と問われれば、「古事記」に「刺国若比売(サシクニワカヒメ)という奇妙な名前の女性が登場します」と答えられる方がおられるでしょう。

これが本当の産みの母かどうかは通説派の大家の先生方だろうが誰にも分かりませんが、この人物がどのような人かについては多少の見当が付きます。

以下は、2015321日(1110)に検索したウィッキペディアの記事です。まず、ここから始めましょう。ただ、この赤猪岩神社付近は過去何度か傍を通過していますが、まだ、実見には至っていません。


無題.png

赤猪岩神社(あかいいわじんじゃ)は、鳥取県 西伯郡 南部町 に所在する神社 で、『古事記 』上巻、『先代旧事本紀 』第4巻 地祇本紀での因幡の白兎 の神話の続きの説話 の舞台となった場所にある。大正 6年(1917 )現在地に創建された久清神社と、南部町内にある要害山 山頂にあった赤猪神社が、大正9年(1920 )に合祀され現在の赤猪岩神社となった。

その説話のあらすじは、大穴牟遅神(オオナムヂ、後の大国主)のたくさんの兄神たち(八十神 )は、白兎の予言通り八上比売 (ヤガミヒメ)と結婚した大穴牟遅神を憎み、殺してしまおうと企んで大穴牟遅神を伯耆 の 手間山本(手前の山麓)へ連れて行った。そして「珍しい赤い猪を山の上から追い立てるので下で捕まえろ。そうしなければ殺す」と言いつけておいて、山の麓 で待たせている大穴牟遅神へ目掛けて、兄神たちは火で真っ赤に焼いた岩を山の上から落とした。転がり落ちてくる真っ赤な岩を猪として受け止めようとしたた め大穴牟遅神の身体がたちまちその赤く焼けた岩膚にこびりついて、焼き潰されて絶命してしまう。

これを知った大穴牟遅神の母・刺国若比売(サシクニワカヒメ)は嘆き悲しみ、高天原 に上り神産巣日之命(カミムスビ )に救いを求めたところ、赤貝の神・貝比売(キサガヒヒメ)と蛤の神・蛤貝比売(ウムギヒメ) 2柱の女神が地上に遣わされた。貝比売が貝殻で大穴牟遅神の体を岩からはがし、蛤貝比売が母乳と清水井の水で練った薬を大穴牟遅神の体に塗りつけた。すると大穴牟遅神は大火傷が忽ち治り元の麗しい姿となって息を吹き返した。

この神社の前身である赤猪神社の創立年代は不明であるが、この神社の地が話の舞台であるとされており、大穴牟遅神を焼き潰し殺したとされる岩が境内に祀られている。また蛤貝比売が薬を練るために水を汲んだ清水井と言い伝えられている泉が、赤猪岩神社から徒歩30分の所に存在する。


火傷の時に貝を焼いた粉を練って塗ると言う風習は今でも聞きますので、恐らく二人の女神の名はこの二種類の(赤貝、蛤)貝に象徴されているのでしょう。

この母とする母神と二人の女神については、百嶋由一郎氏の「神代系譜」だけからも推定が付きます。

問題は「刺国」です。欠史八代を架空とする学者のお歴々ならいざしらず、多少とも「大国主」の実体に迫ろうとしてきた人々も、「刺国」が何かについて推定する手立てがなかったと思われ、古来、人々の頭を悩ませてきたもののようです。以下、幾つか見て見ましょう。


…もっとも有名なものとしては、本居宣長の『古事記伝』がある。宣長は「刺田」を「刺国」の誤りだとして大国主命の父にあたる刺国彦命を祀る神社と捉えている。(『紀 伊国名所図会』や『紀伊続風土記』はこの説に従っている。)この解釈は、紀伊国に大国主命を祀る神社が多いことによる。しかしながら、神名を間違えて表記 するというのは少し不自然なように思われる。また『延喜式』神名帳のどの伝本をみても異同がなく、『紀伊国神名帳』(成立年は不明)にも「刺田比古神」と あり、他の文書にも別表記がないのも奇妙に思われる。『紀伊国名所図会』でもその点を指摘している。『和歌山県史』(大正3年)引用の刺田比古神社史によ ると、「刺田比古」は「サデヒコ」と読むべきだとしている。祭神の佐弖比古命の表記違いの神名が、次第に本来の読みを失ったことによるのではないかと推測 している。(『明治神社誌料』なども、この説を踏襲したものと考えられる。) 確かに佐弖比古命はさまざまな表記がなされ、「デ」の音が「ダ」の音に変化 するのは自然である。しかし、「刺」の字を用いた表記は見られない。しかも『延喜式』神名帳の訓は、「サスタ」あるいは「サシタ」の異同のみで、「サデ」 とするものは見られない。従って「刺田比古」は刺国彦命や佐氏比古命とは別の神名と考えるべきである。

HP「刺田比古神社」より

一方本居宣長 による説では、刺田比古神を『古事記』の出雲神話における「刺国大神」と推定している。刺国大神は『古事記』によると、大国主神を産んだ刺国若比売の父神で、大国主の外祖父にあたる神である。そして『紀伊続風土記』では、刺国若比売を「若浦(和歌浦 )」の地名によるとし、大国主神が八十神による迫害で紀伊に至ったこととの関連を指摘している。そのほか「さすたひこ」の音から、刺田比古神を猿田彦神 や狭手彦神と見る説もある。

延喜式内社 Hp刺田比古神社


本居宣長 を始祖とする通説派の先生方は、どうしても大和の近くや刺田比古に刺国を求められたかったようですが、あまりお分かりにならなかったようです。

百嶋先生はこれについても明確にご存じのようでした。九州王朝論に立たれていましたから、「古事記」の95パーセント嘘神話に惑わされる事なく、元々、草ケ江神代史研究会に伝わってきた神社関係者による極秘の現地情報と自らの頭と耳を信じて調べておられた様です。

まず、この件に関して、最初に思い出す百嶋語録のフレーズとしては、①「皆さん大国主を出雲の人と勘違いしておられる…(勿論違うのです)」、②「大国主の 命は大山祇の子であり、大幡主の傘下で活躍した方…」③「出雲は元々大幡主の国(領域)であり、多くの出雲の国があった中の一つだった…」、④「刺国」とは大政(サシクニ)大臣の意味で博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の父である白川伯王が承っていた。…が浮かんできます。

そして、大国主の命は大山祇=月読命(トルコ系匈奴)と大幡主(ヤタガラスこと豊国主の父で白族)の妹である埴安姫(草野姫)との間に生まれた人、大幡主にとっては甥にあたる人物であり瀛氏への入婿だったのです。

当時の大幡主の中心地(瀛氏の本拠地でもある)は肥後から移動した博多であり、そこへの入婿として入り、宗像の市杵島姫(瀛ツ島姫)=スセリ姫、豊玉姫=タゴリ姫の両者を妃としたのです。

当時の在地豪族(瀛氏、白族)のお姫様を射止めた大国主命が八上姫までも射止めたから八十神の兄達から命を狙われたのでしょう。

その狙われた場所が、仮に出雲国、因幡国だったとしても、その一帯(玄界灘から日本海岸)も元々大幡主(恐らく大きな帆を持つ船団の主の意味)の領域だったのです。

このため、一般的に言われている“出雲系の神々”といった表現が非常に怪しく疑わしい物である事が分かって来ます。

“出雲系の神々”という表現を、事実、自分でもしばらく前まで使っていたのですが、父系、母系に異なる民族が絡む事になり、単純に理解する事はできないのです。


天神(あまつかみ)と国神(くにつかみ)

神話の神々は、大きく天神と国神に分けることができます。本居宣長は、「古事記伝」の中で、天神とは「天に坐(い)ます神、または天より降坐(くだりいませ)る神」、国神は「此国に生坐(うまれいませ)る神」と書いています。
イ ザナキ、イザナミ、アマテラスオオミカミなどは天神で、スサノオノミコトやオオクニヌシノミコトなどは国神となります。つまり、伊勢系の神は天神、出雲系 の神は国神となります。この違いは、神社の造りでわかります。社殿の入口が妻側にあるものが「国神」、棟側にあるものが「天神」です。このように、神社の 構造からも、いろいろなことがわかります。また、出雲大社などの「大社造り」という構造は、日本最古の神社建築様式として有名です。

「パワースポットを巡る旅」から

スサノオは新羅系昔氏のイザナギと瀛氏のイザナミの間に生まれた神話の世界のスーパースター、オオクニヌシは越智族(トルコ系匈奴)と瀛氏で白族の埴安姫と の間に生まれたスーパースター、スサノウの妃となった櫛稲田姫(クシナダヒメ)は瀛氏の金山彦と白族の埴安姫との間に生まれたスーパースター、建御名方 (タケミナカタ)はスサノウ、クシナダヒメの間に生まれたナガスネヒコ(岐神)の姉オキツヨソタラシヒメと阿蘇の草部吉見の間に生まれた強硬派で諏訪大社 の神であり大国主の子ではない。

従って、スサノウは八坂神社、祇園神社、スサノウ神社…。大国主は一応、出雲大社、大国主神社。

クシナダヒメは佐賀県神崎市の櫛田神社、建御名方は諏訪神社、南方神社、ナガスネヒコ(岐神)は出雲井神社、そして、あまり表に出てこられない大幡主は博多 櫛田神社、豊国主(ヤタガラス)熊野の熊野速玉大社始め一族が紀州の熊野系神社に、天御中主命の夫であった伽耶のウマシアシカビヒコヂの神は出雲大社の客 人間(マロウドの間)に鎮座しているのです。

無題.png


さて、ここまで見てくると、白川伯王=刺国(大政大臣)の子が大幡主(オオハタヌシ)であり刺国若彦であることが分かるのです。

この大幡主は姉として神(カム)玉依姫がいますが、この女神こそ本物の初代神武天皇(第10代崇神天皇は贈る天皇でしかなく本物の天皇ではない)の母親であるため埴安姫以外はありえません。

無題.png埴安姫は瀛氏の金山彦と通婚していることから恐らくその後でしょうが、越智族(トルコ系匈奴)の大山祇の妃となり、大国主=大己貴を産んだのです。

では、埴安姫が神皇産霊に頼んで介護のために送り込んだ蛤貝比売(ウムガヒヒメ) 貝比売(キサガヒヒメ) とは誰だったのでしょうか?

百嶋神代系譜では、大幡主の子である白族の豊玉彦(ヤタガラス)と高木大神の娘である許氏の萬幡豊秋ツ姫の間に生まれた田心姫(多紀理毘売)=豊玉姫が蛤貝比売として、同じく大幡主の子である白族の豊玉彦の姉のアカルヒメとスサノウとの(妃であったが半島から日本へ移動したのは良く知られる)娘である瀛氏の市杵島姫が貝比売として各々大国主のお妃となっているのです。

従って天才画家 青木繁が描いた「大穴牟知命」の女神の正体が分かるのです。



無題.png


これで、雲を掴むような、「古事記」の「刺国若比売(サシクニワカヒメ)」の見当があらかた付いたのではないでしょうか。

仮に現場が出雲、因幡であったとしても、相談した刺国こと白川伯王も、その子で神産巣日之命(カミムスビ )とされる大幡主(博多の櫛田神社の主神)刺国若彦も、その妃である「大穴牟知命」の母の刺国若比売も、看護のために派遣されたウムガイヒメもキサガイヒメも全て北部九州に実在する神(人)だったのです。

宗像大社の三女神の二人、市杵島姫、田心姫は良く知られていますが、宗像大社の本当の神様が大国主命であることがより鮮明になってきたと思います。

これが、出雲神話の舞台が実は九州から日本海側に広がる一帯で起こった事であるとお分かりになってきたかと思います。

高給の大家の先生方は、奈良、大和に無理やり結び付けようと和歌山県に話を持って行かれたいでしょうがそれは誤りの様なのです。

ただし、大幡主の一族は後に阿波(徳島県)を経由し、紀国(和歌山県)に移動しておられます。

それが、「熊野」であり、熊野大社、熊野本宮大社、熊野速玉大社…なのです。

このこともあり、奈良、大和に話を持って行かれたかったのかも知れませんが、舞台が日本海岸であるため何でも畿内大和できなかったのが「出雲神話」なのです。

最後に、刺国こと「白川伯王」について秘密の話をしておきます。

実は今もこの直系の御子孫と考えられる方が福岡県飯塚市内の某所、某神社におられます。

名は「○○」から「●●」と変えられていますが、千数百年来「伯王」を名乗られてきたのです。

ただ、明治期に神社庁の前身からか、圧力が掛けられ栄えある「伯王」の名を消されているのです。

復活できるような自由な社会になれば良いのでしょうが、またもやデタラメナ方向に向かっています。

是非とも生きている間にこの国を無茶苦茶にした連中と共に日本と言う国が共倒れし滅び去るのを見てから死にたいものです。クタバレ「日本」!! 賢い人、善人は揃って「日本」を棄て逃散しようではありませんか!!越の宰相范蠡(ハンレイ)がそうしたように!古来、日本は大陸、半島を逃れた善者の国!!

187 臼杵の石仏群を見守る神社をご存じですか?

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187 臼杵の石仏群を見守る神社をご存じですか?

20150325

久留米地名研究会 古川 清久

「臼杵と言えば?」と問われれば、私の様な人間は直ぐにフンドーダイ、フンドーキンの醤油が頭に浮かんでくるのですが、一般には「臼杵と言えば石仏」と相場が決まっているようです。

今や観光客目当ての物販だけに主眼が置かれ、駐車場から遠い導線整備が行われ、凡そ高齢の信仰心を持った訪問者など考えに入れられていないかのようです。

国宝にまで高められてはいますが、信仰とは無縁の風情については、この仏像の祈念者も、造った仏師も、もしかしたら仏様そのものも、望まれてはいないように思えるのですが、どうやら信仰心を持った参拝者など全く存在しないのかも知れません。

そのような俗世を疎ましく思い、救われない人々のためにとこその思いを込めて造られたはずなのです。

その証左と言うほどのものではないのですが、この整備された仏像群の中央を制する高台の一角に、全く整備からも除外されたとしか思えない神社があるのをご存じでしょうか?

187-1

恐らく、これこそが集中して石仏群が造られていく姿を見守り、この地域の信仰を古くから受け止めていたはずの神であり、この地域の住む人がどのような氏族(民族)であったかを、ひいては仏像を熱心に石に刻んで言った人々を知る手だてとなる神社のはずなのです。

千数百年前まで遡れば、恐らく現地は臼杵湾の湾奥深く入り込んだ岬状の高台であり、堆積が進むに従い湿地帯から水田に変わり、現在の公園整備を見たのです。

 この臼杵の一帯は、熊野神社と日吉神社と天満宮が卓越している事は承知していましたので、そのどれかであると考えていましたが、日吉神社でした。

言うまでもなく日吉神社の祭神とは、大山咋(オオヤマクイ)命、松尾神社、山王社、日枝山王権現、佐田大神…(全て同一神)であり、この神の父は阿蘇の草部吉見神社の祭神、彦八井耳命(後の春日大神)であり、母は宗像大社三女神の一人市杵島姫なのです。

この臼杵の海運、醸造、造船(南日本造船、東日本造船、若林造船所…)…という工業都市の基礎に、これらの神々、特に宗像海人族が関与していた事が見えてくるのです。

神社参拝殿に置かれた縁起には、付近にも大山祇神社や天満宮あるように、大山祇=月読命、菅原神社に主神として大山咋がさらには、水分神(美具久留御魂大神を持ち出すまでもないでしょうが、罔象女神須勢理比売命 =市杵島姫(何れかは不明ですが配神からは須勢理比売命 の可能性が高い)が祀られています。

そもそも、美具久留(ミククル)の意味は「水潜る」の意味で、大国主のお妃市杵島姫も実際に海に潜る事ができたことを示しているのです。

大阪府富田林市の美具久留御魂神社は、祭神が大国主命とされ、夫婦で入れ替わった形になっているようです。その水分神は本来、須勢理比売命 のはずで、ここでもそれに従いたいのですが、無論、推定以外の根拠があるものではありません。大国主命が宗像大社の本来の祭神ということも隠されているのですから(それについては、ひぼろぎ逍遥115「宗像大社の本来の祭神とは何か?」他を参照のこと)。


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日吉神社縁起

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臼杵の石仏公園入口右手に残された日吉神社の鳥居


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額束に「王」の文字は山王日吉神の大山咋神の神仏混淆された表現山王」の「王」の痕跡

日吉神社の遠景をもう一度ご覧ください。神社の階段参道に水銀灯が整備されていますが、それは石仏群を巡る回廊となっているからであって、神社には訪れる人もなく荒れています。

神社に参拝するにも駐車料金を払わなければならないようにすれば、どうなるかは言わずもがなであり、石仏を見物して買い物をする人以外を受け入れないような姿勢の上にあの程度の石塔ぐらいではいずれ人の足は絶えるとしか思えないのです(信仰心の欠片も無い買い物客だけを相手にしているのが分かります)。

寺女はともかくとして、今、神社を廻っている一群の人々や神社ガールが、臼杵の石仏を見降ろす日吉神社にオイソレと目を向けるとは思いませんが、神社とか寺院といった文化遺産を守り、後の世代に引き継ぐと言う事は、単に駐車場を整備し決められたテキストでステロタイプの決まり切ったありきたりの説明をするガイドを養成する事ではなく、神社に付随する神宮寺を考え、地域に分布する神社群から推定し、この地域にどのような勢力の人々が住み着き、如何なる勢力と争い、支配し、支配され、その背後にいかなる社会の動きが在ったのかが理解できる深みのある文化の発掘を思わせる配慮が無ければ、いずれは忘れられてしまい、石仏せんべいを売るだけのそれこそ薄っぺらな石の見世物小屋を造るだけの事になってしまうのです。

 最低でも深田という湿田の真中に設えられた参道を復元し、残された鳥居の延長に見据えた日吉神社と石仏を共に考えられる心の余裕なくしては、石仏もただの石ころやテトラポッドと変わり映えの無いものになりかねないのです。

 最後に、臼杵には熊野神社が非常に目に付きます。熊野三社についての説明は省きますが、この神社群も、実は、博多の櫛田神社の主神の大幡主(大きな幡を上げた船団の神)の一族のものなのです。

188 佐伯市釜江楠本浦の王子神社とは何か?

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188 佐伯市釜江楠本浦の王子神社とは何か?

20150325

久留米地名研究会 古川 清久


 久留米地名研究会の日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所に居続けブログを書く毎日が続くと、さすがに内陸部から離れ海を見たくなります。

 そのためN氏と連れ立って大分県の南部、臼杵市から宮崎県延岡市の北、北浦町に掛けての海岸部の神社調査に向かいました。

 過去、魚釣りを兼ねたフィールド・ワークで何度も入ったエリアですが、気になっていたもののパス・スルーしてきた神社を実見することができました。佐伯市釜江楠浦湾奥にある王子神社です。

 良く見掛ける若宮神社、若宮社とは別に、王子神社、八王子社、一王子神社…と呼ばれる一群の神社があります。

 久留米を中心に筑後地方散見される皇子神社(皇子神社、九体神社、九体社、五大王子)は、高良玉垂命(第9代開化天皇)と神功皇后との間に生まれた五人と連子の四人の皇子を祀る神社ですが、この神社がそれではない事は直感で分かりました。

 他に、山岳修験(熊野修験)に関わる王子社…もありますが、この豊後の日向国境いの地にあるものからその系統のものであろうことはある程度見当が付きます。

188-1


このエリアは、良く知られた釜江の北に位置し、四~五つの大きな入江が深く入った静かな内湾でも最奥の場所ですが、そこに、伊弉冉・速玉男命・事解男命という熊野では当たり前ですが、通常の神話からすれば少しおかしな組合せの三神が祀られているのです。

 まず、イザナギ・イザナミは共に祀られるべき夫婦神のはずですが、イザナギが見当たりません。

 しかし、夫婦神なのです。

188-2

イザナミは表記が多いのですが、伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥…と書かれ、日本神話のスターとも言うべき女神で、伊弉諾神、伊邪那岐命、伊耶那岐…と書くイザナギの妹とも妻ともされます。

 このイザナギが見当たらない組合せこそ、イザナギと別れたイザナミが再婚した大幡主(オオハタヌシ)と、その間に生まれた「事解男命」が、実は豊玉彦=ヤタガラスであり、社名ともなっている王子なのです。これについては百嶋神社考古学極秘神代系譜をご覧ください。

 速玉男命は博多の櫛田神社の主祭神である大幡主(オオハタヌシ)であり熊野速玉大社の主祭神に、イザナミ=熊野牟須美大神(クマノフスミノミコト)が熊野那智大社の主祭神に、ヤタガラスこと豊玉彦が熊野本宮大社の主祭神の事解男命に対応するのです。「何をとんでもない事を言っているんだ!」「イザナミとイザナギは御夫婦でいらっしゃるはずではないか?」と言った通説に尾を振りたい方はご自由になさって下さい。批難は致しません。極めて普通の理解なのであり何も知らずに死ぬのも良いでしょう。

 ところが、百嶋先生は旧夜須町のある神社を見ていて、「イザナミは博多の櫛田神社の大幡主の妃になっているのではないかと気付いた…」と話しておられました。まさに、「死んだはずだよ、お富さん…」です。  

百嶋神代系譜によれば、確かに新羅系昔氏のイザナミと瀛氏の金山彦の妹イザナギは通婚し神俣姫と弟のスサノヲが生まれていることになっているのです。

 通説ではないでしょうが、島根県の宇美神社の社伝では朝鮮半島の布都御魂が父という事になっていますが、これが多分イザナギの事だと思います。

ともかく、イザナギと別れた後のイザナミは大幡主の妃となり、兄の豊玉彦=ヤタガラス=天穂日=思兼…と有名なアカルヒメ(スサノヲから逃れて日本に戻ってきた姫島の女神)を産んでいるのです。

 ここでは、豊後の瀬戸内海岸に博多の大幡主(大船団)の影響が広く及んでいた事を確認できるとしておきます。

なお、事解男命をヤタガラスと見て、王子神社の意味を解読したつもりです。多分良いと思うのですが、敬愛する「玄松子」氏も悩んでおられるようです。以下。


「事解男命ことさかのをのみこと別名 泉津事解之男:よもつことさかのを 豫母都事解之男命:よもつことさかのを……死んで黄泉国にいかれた伊邪那美神を、伊邪那岐神が追っていったところ、 すでに伊邪那美神の遺体は腐ってうじがたかり、遺体の各部に八雷神が生まれていた。
『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男。掃きはらったことや、事解の神名から事態を収拾させる神、絶縁の神と思うが、よくわからない。
一言主神の別名を言離神(ことさかのかみ)ともいい、事解男神と似た神なのだろうか。」

当方も、速玉男命を大幡主、事解之男を豊玉彦としておきたいと思います。


188-4

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189 阿蘇の大蛇伝説と祖母山 “大分県竹田市の穴森神社”

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189 阿蘇の大蛇伝説と祖母山 “大分県竹田市の穴森神社”

20150325


久留米地名研究会 古川 清久

 久留米地名研究会の日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所に居続けブログを書く毎日が続くと、さすがに内陸部から離れ海を見たくなります。と、ここまでは前ブログ188 佐伯市釜江楠本浦の王子神社とは何か?

と同じですが、その前に、高峰「祖母山」の裾野のパワー・スポット中のパワー・スポット、竹田市の穴森神社に向かいました。 

今回は当方の写真撮影と同行者のN氏に見せるのが主たる目的でしたが、既に過去三度ほど訪れています。

この神社が重要なのは、祖母山という山の名前に関わる事、阿蘇の大神一族の出自の根拠とされる阿蘇大蛇伝説の舞台だからです。



189-1

竹田市神原穴森神社

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上記の「平家物語」云々は(260)「しずの緒環(おだまき)」の事ですので関心をお持ちの方はお読みください。当方はCDで一度聴いただけです。



ル-ツ大蛇伝説   テーマ日本人である事 2012-08-09 09:42:58

九州で英雄視され12世紀末頃の源平争乱期の武将である。中世豊後国大野荘緒方郷を拠点として活躍した。源頼朝に追われた源義経を迎える為に岡城を城築する。難攻不落の城でもある。(豊薩合戦)で志賀親次が島津義弘の大軍を撃退した。滝廉太郎は子供の頃に岡城で良く遊び荒城の月を作った。緒方三郎惟栄とは大神氏(おおみわ)の流れを引き豊後国の37氏の姓祖である。源平盛衰気・平家物語・・両方の大太(惟基の幼名)より五代の孫とされる。

大蛇伝説で大神惟基が嫗嶽伝説の神孫として生まれる。緒方惟栄は、その孫です。では大蛇伝説とは、いかなるものか紹介いたしましょう。大神豪族の姫片山里に、たいそう綺麗な娘がおり親からは身分の高い位のつりあう男でないと結婚させないと言われ虫がつかぬように監視されておった。ところがいつの頃からか何処誰とも知れぬ素性の知れぬ不思議な男が夜な夜な娘の元に通い詰めるようになり、やがて娘は心と身体をゆるして・・・しもうたそうな。のちのことは~誰にでもわかるように身ごもってしもうた。母に分る事になり母は娘に説い尋ねると名前も何も知らずしまい。すべて闇であり夢の中朝になると気ずかないうちに姿は何処にも見えない。と語った。母は娘に言い放つ男が帰るときに針で緒環(おだまき)を通し男の襟に刺しなさい。と教えた。娘は言われた通り・・その夜・・母の教えに従い針を刺した・男は何も知らずに帰った。跡をたどると日向国嫗岳の大きな岩屋の中に糸が続いていた岩屋の奥から異様な唸る声が辺りに響き渡っていた。娘は姿を見せてくれと言うが・・中より、わしは人にわ合わぬ、見ない方がよい。お願いです一目でいいのでと娘が叫び男は知らぬぞ声を響かせる。
 声の主が姿を見せた嫗岳の主と思われる巨大な大蛇で喉に針が刺さりいまにも息絶えようとして入る状態で言い放った腹の子は男の子じゃ刀を持てば、九州九国二島の大将とになるぞその子に並ぶものはいない。
 子孫は末代まで守ってあげよう。(息絶えた)お告げのとおり・・男の子が生まれ大太と名付け高千穂大明神となった。その大太五大の孫が惟栄であり、恐ろしいとされる末裔である緒方三郎惟栄は人望ありこの時代の中心的勢力で源平合戦等の功労者であります。
阿蘇千里のブログ 「阿蘇千里のブログ」から




189-2

奥行き二百メートルはある巨大洞穴入口の入口(抜けた人を数人知っています)



大神(おおが)一族について話してくれないかという依頼を受けましたので、ちょっと話してみます。一番古い大神、大枝(おおえ)、大家(おおえ)この二つはいずれも大江(おおえ)に当て字が変わります。  

瀬高の大江に古い管公のお宮がある。そして瀬高の大江はどこにあるかというと太神(おおが)の内の大江にあります。だから、太神(おおが)のほうがスケールが大きくなっている。大神(おおが)はこれも太神(おおが)ですよ。のちのち、阿蘇の暴れん坊たちが、大蛇の一族たちが、暴れたときの総称が大神(おおが)一族として暴れたのです。

従って、現在では大神(おおが)が有名になっています。そして、これを大神(おおみわ)なんて読んだら価値ががたんと下がりますよ。オオミワと勝手に呼んだのはエビスさんです。自分たちの格式ががたんと低いもんだから、エビスさんの最初の格式は曹長、軍曹、伍長、要するに尉官、佐官、将官ではないんです。それぐらい低かったんです。後で出世なさいましたけれども最初は低かった。そういうことで、とにかく大神(おおがと)読んだら、阿蘇の暴れん坊を連想なさったら○、オオミワと読んだら、これは後の話、エビスを中心とした後の話、だから、オオミワなんていわないで大神(おおが)とお読みになったらいい。これがいわゆる阿蘇を中心とした暴れん坊集団の総称です。そして、その中心人物はだれか、さっき書きました三つ鱗、イツクシマ姫です。

決して、イツクシマ姫は自分から望んで中心人物になりたかったわけではありません。

あくまでも勝手に下っ端の連中がイツクシマ姫を担ぎ出して、大神一族と名乗ったんです。大神一族は九州を制覇しましたので、恵良、賀来とか、各地の地名をとって大神一族が分布してます。

1000年昔を頭に描いてください。満州から蒙古にかけて相当の広域を支配した遼という国がありました。現在もたくさん残っていますね、遼の国が中国には、遼東半島、遼寧省、それから蒙古にもたくさんございます。赤峰(せきほう)、あかいみね、いっぱい遼の支配地があちこちになります。この遼の皇族、貴族の名前が大賀(おおが)です。だから、大賀(おおが)は遼・蒙古系です。そして大神(おおが)は阿蘇の暴れん坊系です。『が』を一字間違いますと、阿蘇の暴れん坊系と遼の国とまったく離れたところにすっ飛んでしまいます。

それで、福岡に、臨済宗の栄西(ようさい)が源の頼朝の応援で建てられた聖福寺(しょうふくじ)の裏に、大賀宗九・大賀宗伯という親子の宗伯が玄住庵を建立した。この大賀(おおが)は賀正の賀で、まがいもなく蒙古()系統です。大賀の本家に仲人をやりまして、嫁は小野の東風の子孫です。小野の東風の小野の場合は本当はヘブライ人なんですが、東風のほうには天皇の血が入っています。

牛島稔太のHPより


189-4 パワー・スポット巡りなどという金の掛からないある種健康的な小規模探検が流行っているようですが、ほほえましく思いながら見ています。

 このような中から多少とも本気で歴史や古代史を考える人が出てくれば良い訳ですから目くじら立てる必要もないでしょう。

 勿論、昔の感覚で言えば、「何の金にもならない無駄な事」「ちゃんと働け」と言う感覚も我々の世代には理解できるのですが、その分耐えがたい糞面白くも無い労働で精神をすり減らしているのですからそれくらいは息抜きとして許すべきではないでしょうか。

 ただ、どう考えても大したものとは言えない所もかなりあることから、少しは納得できる所をお知らせしたつもりです。

 それはともかくとして、このパワー・スポットは「平家物語」にも名を馳せた緒方三郎惟栄(コレヨシ)の話の元となった場所で、それなりの凄みのあるところです(皮靴やサンダルでは絶対無理)。


189-5 一時期、大神(オオガ)氏は宇佐神宮の創起(高良大社から実権を奪うのは八世紀)に関わった
大神比義に始まる一族で、彼らには古くから大蛇伝説が存在していたのでしょう。

 彼らは宗像大社の一族を担ぎ大きな力を持ち、一時、義経を担いで頼朝と戦う事も考え、平家方についていた宇佐神宮大宮司家の宇佐氏と対立し宇佐神宮焼き討ちなどを行ってもいるのです。

 その力の源泉の一つにあるのがこの大蛇伝説であり、彼らは大蛇の鱗を意味する三つ鱗をシンボルとしていました(戦国期は疎いので解りませんが、北条氏も同族なのでしょうか?)。

 さて、百嶋先生は、結局、大神一族はモンゴル系とされているのでしょうか?大賀は遼の一族で蒙古系だが、大神は違うと考えておられたのでしょうか?

 聴きそこなっていて判然としませんが、はっきりとトルコ系匈奴と言われた大山祗の一族(愛媛大三島)の一派である河野氏も「三つ鱗」を使いますし、多分北条氏もその流れを汲むのではないでしょうか?

 事実、愛媛には河野水軍の根拠地が在り、北条市まであったのですから(現在は松山市に編入)。

 ついでに、ウインブルドン化(本国の選手は一向に勝てない)したと言われる大相撲の横綱白鳳も三つ鱗紋にご執心という話を聴いた事があります。調べて見るといとも簡単にそれらしき答えが得られました。


189-6 横綱・白鵬の紋所が三つ鱗なのをご存知だろうか。3 2 2008 2 Comments

実はこの紋は、13世紀にモンゴル来襲を撃退した北条時宗を輩出した北条家の家紋として知られている。ところが、その紋所をモンゴル出身の横綱が身に付けているということ、これは如何に。俺なりに二つほど邪推してみた。一つは横綱になったことで、日本を制圧したことの印として元寇の復讐を果し、念願の相手の大将の家紋を奪い取ったという説。(実際に戦国時代には、竜造寺氏が戦に勝った、大友氏の杏葉紋を奪ったという事例がある)もう一つは、白鵬がこの三つ鱗を身に付けることによって、日本側に着き、もう一人の横綱・朝青龍を迎え撃つ覚悟の印としたという説だ。」 

 竜造寺の家紋の話はその通りですが、やはり、モンゴル本国の実家(そう言うかは不明)の家紋が三ツ鱗なのでしょう。また、弁財天は三ツ鱗紋を使います。これも大神比義の時代に担いだ宗像の市杵島姫が弁財天とされるからです。大相撲の白鳳が三ツ鱗とは面白い話です。先生は蒙古高原にも何度も足を運ばれていました。やはり、百嶋先生のフィールド・ワークと知識には頭が下がる思いがします。















190 地名研究会の講演内容をCDでお聴きになりませんか?

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190 地名研究会の講演内容をCDでお聴きになりませんか?


20150326

久留米地名研究会 古川 清久

久留米地名研究会とそのサテライト研究会では多くの研究発表や講演が行われています。

久留米大学での公開講座は元より、実質的には毎月4~5か所で学会通説とは異なった研究内容が公開されています。

極力、久留米地名研究会のホーム・ページに組込んだユーチューブで公開していますが、経費も掛るため全てを公開するには至っていません。

また、会報を発行する事は十分可能ですが、編集、印刷、発送、回収、集金、会計報告といった事務、実務に追われては、肝心の研究が遅れることもあり、現在はユーチューブで数人の研究者のシンポジウムや対談をそのままの形でネット上に公開し、それを会報として行く事を検討しているところです。

つまり、ネット上の放送局もしくはネット・ラジオ、ネット・テレビといったものです。

 音声のみの収録データをプレスして有償(実費程度)でCDとして配付する事も可能ですが、文字データまで含めて必要となると作業も増えスピードも落ちる事になります。

 しかし、ぜひ、全国の皆さんにも聴いて欲しいという研究も多数あり、将来的にはアクセス数が延びている「ひぼろぎ逍遥」のトップ画面上に研究発表、講演の音声とレジュメの発送体制が整ったものを随時掲示し希望されるものから発送して行きたいと考えています。

 急がれる方は、直接09062983254までご連絡下さい(いかなる時間帯でも対応致します)。

MP3方式のためパソコン専用ですが、ここ七、八年に購入された車の場合はカーステレオのCDプレイヤーでも聴く事が可能です。


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久留米大学の公開講座でも常連の永井正範氏による「古川と古賀」は、ほぼ、九州限定の「古賀」地名は、九州王朝時代に成立した行政用語の「古河」が好字令以降に表記が「古賀」に変わったもので、「古川」と「古賀」は同一の地名ではないかという提案です。まずは、九州王朝論者必聴の重要論考でしょう。

電話で送付先をご連絡頂ければ、郵便でお送りしますので、受領後封書で切手をお送り頂ければそれで構いません。現在、準備中です。

「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)のアクセスが延びています

話は替わりますが、ご愛読頂いている「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)のアクセスが延びています。

現在、「ひぼろぎ逍遥」がスタートして15ヶ月(18)、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)も69)ヶ月を迎えようとしています。

先行した「ひぼろぎ逍遥」は皆さまのご支援のおかげで、日量平均200件程度で推移していたものが3月に入り、突如、日量1050件というアクセスが出現したり、650件、350件といったレベルのアクセスがかなり目立つようになってきました(掲載時点では日量アクセス平均450件)。

日量300件でも年間100,000件になり、日量400件が安定すれば、約十五万件、この勢いでは来年の今頃は日量500件、二十万件もあながち無理な数字では無いかも知れません。

少なくとも「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)と併せれば、年間十万件ペースは既に達成しているのかも知れません。実は、私も役所(九州のある地方自治体)に在職中(2003年)に「有明海異変」(不知火書房)1800を表向き共著(在職中のため際どい部分は編集者の共著者が書いたとして逃げるためでしたが)で出しているのですが、十数年前でも地方出版社で3000冊を売るのがやっとという状態でした。

このため安定して読んで頂ければ、出版以上の効果は十分にあるのではないかと思うに至りました。

この日量500件という数字は非常に大きく、現在、全国出版を行っても5,00010,000冊売るのは非常に難しく、既に、ペーパーで読む時代は終わっているのかも知れません。

このため、私ももう一冊本を出そうかとも考えていますが、もう少し読者を増やし、宣伝できる体制を整えなければ苦労を背負い込むだけになってしまいそうです。

その思いがあるため、「ひぼろぎ逍遥」には環境問題、民俗学の要素を残しているのですが、既に有明海異変の百万倍も酷い事を引き起こし、日本で三番目に大きな福島県を焦土と化し、多くの住民を棄民とし、その生活と人生を滅茶苦茶にしまった歴代自民党(特に中曽根)や同政権に原子力を煽った読売新聞、TBSCIAや官僚共の悪業に比べれば、有明海で引き起こされた悲劇も、彼らにとっては虫刺され程度にしか考えていない事でしょう。

それでも読みたい方がおられれば、直接、出版社の不知火書房に電話を掛けられれば、ある程度の在庫はあるはずですから送料(社負担)で直ぐに送ってくれることでしょう。

810-0024 福岡市中央区桜坂3-12-78 ℡092-781-6962 FAX092-791-7161



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extra001 宇佐神宮とは何か? ① “呉橋から北へと延びる勅使道”

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extra001 宇佐神宮とは何か? ① “呉橋から北へと延びる勅使道

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150403

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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宇佐神宮には寄藻川が流れていますが、そこに「マジソン郡の橋」のような優雅な屋根付きの橋「呉橋」があることはご存じだと思います。


創建年代は不詳であるが、鎌倉時代 より前に存在していたといわれる。中国の の人が架けたと伝えられ、これが橋の名の由来となっている。1301年(正安3年)には勅使として宇佐神宮を訪れた和気篤成が「影見れば 月も南に 寄藻川 くるるに橋を 渡る宮人」という歌を詠んでいることから、この頃にはすでに呉橋があったことを確認できる。

ウィキペディア20150405 1030による


呉橋は、宇佐神宮の隣の薦神社(中津市)にもあるのですが、では、何故、宇佐神宮や籠神社に呉橋が置かれているのでしょうか? 現地には呉の工人が架けたとの説明書きが置かれています。

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呉との関係が濃厚などとは全く言えない応神天皇や神功皇后を祀る宇佐神宮に、「呉の工人が架けたから呉橋…?」との奇妙な説明がなされていること…について の解読は後段に譲るとして、ここから真っすぐ西に古道が延び、贈)応神天皇ことホンダワケ)がいたとされる摂社鷹居社(天理教宇佐大教会付近)から駅館川を渡って中津市の薦神社へ(実は第10代贈)崇神天皇を祀る…?)、さらに北へと延びる勅使道が存在していたのです。

 そのなごりとして、呉橋から数百メートルのところには今も化粧井戸が残されています。


<勅使道>


古代より、宇佐宮には天皇即位や国家異変などに際し、天皇の意志を伝える勅使が派遣されました。宮道を進んだ勅使は、駅館川沿いの宇佐駅から宇佐宮へと参向したため、この道は勅使道と呼ばれました。江戸時代、宇佐宮の神官は松隈で勅使を出迎えました。

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この古代の勅使道は、中津市の薦神社を通りさらに北西方向へと向かい、あまり知られていませんが、豊前市の大富神社へと延びているのです。

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しかし、何故この勅使道は宇佐から西へと延びているのでしょうか?

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問題はこの勅使道です。勿論、国土交通省系の「北九州の五街道を往く」を始めとして通説派の御高説が多数あることは承知していますが(以下、ほんの一例)、


「さて、益軒の通った上往還は、勅使道とも呼ばれました。京都から宇佐神宮に下向する奉幣使(勅使)が通ったからです。この宇佐で上往還と下往還は合流します。上往還を往く益軒は高瀬川を越えて、下往還を行く菱屋平七は中津川を越えて中津の領内を行き宇佐を目指します。」


一目苦しい説明といった観が否定できません。それは何故かと言えば、宇佐から奈良、大和、京都へ向かうとして、西へと向かう必要はないはずなのです。

平 然と書かれてはいるのですが、古代においてはなおさらの事、豊後高田から国東半島の先端たる、伊美辺りから船で出て、姫島を迂回し吉備路ならば柳井から下 津井、伊予路ならば松山から今治へと向かうはずではないですか(神代においてさえ、アカルヒメは海路をとっているのですから)。

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気になるのは、大富神社の社伝ですが、これは往路とも復路とも読めない事もないのですが、復路、九州でも、豊前、筑豊の勢力と連絡を取るために西に向かった様にも思えるのです。

何れにせよ、八世紀前後まで、この勅使道は遡る事が可能な上に、この西へと延びるルートから考えて、元々、香春岳三山の香春神社、筑前大分の大分宮平安時代の延長元年に八幡神が大分宮から博多の筥崎へ本家移転遷座)を経由し太宰府から久留米へと延びていたのではないか(起点は久留米大善寺町)と考えているのです。なお、探索は続きます。

太傅府

 太宰府の北東約14kmに大分(だいぶ)の地名があって、ここに大分八幡宮がある。宇佐八幡宮の社伝「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、「大分宮は我本宮なり」と記されている。

  また、宇佐八幡・岩清水八幡とともに日本三大八幡宮の一つである箱崎八幡宮は、923年(759年説あり)に、大分宮が箱崎の地に遷座したものである。す なわち大分八幡宮は、宇佐八幡宮の本宮であり、箱崎八幡宮の元宮でもある。これほどの格式をもつ神社がこの地にあるが、地元の人以外には案外と知られてい ない。神殿裏山は皇室古墳埋蔵推定地になっていて、境内には応神天皇産湯の井戸がある。宇美八幡宮で生まれた応神天皇が、ここで産湯を使ったとする伝承の 地である。

「電称倭国伝」より

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extra002 宇佐神宮とは何か? ② “和気清麻呂は勅使道ではなく舟で上陸した”

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extra002 宇佐神宮とは何か? ② “和気清麻呂は勅使道ではなく舟で上陸した

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150403

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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称徳天皇、僧道鏡による日本の危機を救った和気清麻呂の話は知らぬ人のないものですが、勅使道を考える時、この和気宿禰の宇佐への移動ルートが面白いのです。

宇佐神宮から国道10号線を別府、大分方面に数キロ南下(東方)すると、宇佐市和気(ワケではなくワキ)地区があり舵鼻神社が鎮座しています。

同社は宇佐神宮に非常に近いのですが、なぜか八幡神が祀られていません。

初代神武(カムヤマトイワレヒコ)天皇、ウガヤフキアエズ、彦五瀬命と何やら神武東征ではない神武巡行を思わせる配神になっていますが(話が逸れるためここでは止めておきます)、ここには和気清麻呂の上陸伝承があるのです。

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この第三者とも言うべき、「同社由緒」と091 宇佐神宮とは何か? ① “呉橋から北へと延びる勅使道で触れた大富神社の勅使井戸解説文と併せ、皆さんはどうお考えになるでしょうか?

この豊後高田や国東半島に近い和気地区に上陸地点があったとする伝承は、国東半島の伊美が畿内への出船の地であったことを考える時、舵鼻岬と宇佐神宮正面を流れる寄藻川に近接する舵鼻神社は畿内からの上陸地点としては、最適、直近の場所なのです。

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では、空から見てみましょう。

舵鼻神社の東側は古代には浅い海が広がっており、潮が引いても干潟に澪筋が残る寄藻川河口の渚だったことがお分かりになったでしょう。

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私は、和気清麻呂は磐梨別公が後に和気清麻呂と名を変えているとすると、舵鼻神社の鎮座地である宇佐市和気(ワケ)と岡山県和気(ワキ)町のどちらに起源を持っているのかが分からないでいます。


「和気清麻呂」

奈良時代末期から平安時代初期の貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。氏姓は当初、磐梨別公(いわなしわけのきみ)、のち藤野(輔治能)真人、和気宿禰、和気朝臣に改めた。官位従三位民部卿正三位正一位。                 …中略…

備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。神護景雲3年(7697月頃、宇佐神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、道鏡皇位に就かせれば天下太平になる、と称徳天皇へ奏上する。道鏡はこれを信じて、あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。[2]

称徳天皇は側近の尼僧和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられぬため、弟の清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。清麻呂は天皇の使者(勅使)として八幡宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」[3]朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した(宇佐八幡宮神託事件)。

清麻呂の報告を聞いた天皇は怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷の上、さらに別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪とした。

「ウィッキペディア」(20150404)による

岡山県和気郡和気町

和気(わけ)は、岡山県和気郡和気町にある大字である。かつての和気郡和気村にあたる。古くは、分や別の表記もみられた。

古くから別の渡(わけのわたし)と呼ばれ、吉井川渡し船の地であり、地名もこれに由来する。加えて、高瀬舟の発着地としても栄え、物資・旅客の集散地となり河港として繁栄、近世には岡山藩船番も設けられている。

「ウィッキペディア」(20150404)による


 いずれにせよ、上陸地は滞在地でもあったはずで、舵鼻神社への清麻呂上陸には信憑性を感じるのです。

extra003 宇佐神宮とは何か? ③ “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺”

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extra003 宇佐神宮とは何か? ③ “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150403

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


これは、恐らく久留米周辺に住んでいる人間でなければ気付かない事かも知れませんが、宇佐神宮を考える上でも重要な要素と考えますのでお知らせしたいと思います。

 まずは、次の地図と写真を見て頂きたいと思います。

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無題.png

大善寺玉垂宮と言えば、久留米に於いて高良大社と並び称せられる知らぬ者のない大社ですが、この久留米市大善寺町の大善寺玉垂宮と宇佐市大字南宇佐字大善寺が対応しているのではないかと気付いたのです。

写真は大善寺玉垂宮大鳥居前に掛かる傘(からかさ)橋です。土地の古老から「この橋は、昔は偉い人しか渡れなかった…」と今も聴きます。

無題.png無題.png同社が高格式の神社であることを考える時、宇佐八幡の呉橋同様、天皇もしくは天皇の勅使しか渡ることができなかった「呉橋」のなごりを残す痕跡地名ではないかと考えたのでした。

どちらも九州王朝(呉の太白の裔=姫氏)の天子が参拝する重要な神社(実は九州王朝の神宮)だったからこそ呉橋があったと考えるのです。

驚くことに宇佐八幡の呉橋の上流200メートル、下宮にも近い所に大善寺という字名が残り、大善寺という禅寺があるのです(久留米の大善寺町にも天台宗の古刹大善寺が現存します)。

これに関して201372728日太宰府地名研究会主催で宇佐神宮トレッキングを行いました。

この時のレポートを友好ブログの「ひもろぎ逍遥」で彩杉るな女史が書かれていますのでご紹介しましょう。



無題.png

今回のポイントは「呉橋は勅使道に架かっていて、創建は倭の時代」ということです。(のちに倭国と日本国の並立時代がやってくる)呉橋(くれはし)には屋根がついていますね。勅使は右の鳥居から橋を渡るのでしょう。私が建っている所は一般人の通れる橋で、神橋といいます。川は寄藻川といいます。で?何なの だ?これが何を意味する?るなの頭はこの辺りで思考停止するのですが、この呉橋の特殊性に気づいてツアーを組んだ古川清久氏はメンバーにどうしても見せた いものがありました。それは呉橋のすぐ近くの大善寺です。大善寺?久留米市の人は「え?」て思うでしょ。大善寺玉垂宮と同じ字のお寺が宇佐神宮の隣にあったのです。私たちは迂回して川の上流に出ました。



無題.png

ここは「大善寺橋」の上です。川の向こうに長い屋根の建造物が見えますが、それが先程の「呉橋」です。この橋は白龍山大善寺の前に架かっています。

勿論、大善寺の傘橋については、「川の氾濫で簡単に橋が流失するため、川に橋脚石を立て、これに両岸から橋桁を差し、川が氾濫するとすぐに橋桁を外すこととし、『抜河曳橋』とも呼ばれたが、 この姿が“からかさ”を開いた姿に似ていたので「傘橋」と名付けられた」と言われている事は承知しているのですが、私はかつて「呉橋」が存在した痕跡地名 と考えています。(古川)

それは、この両方に大善寺と言う地名と大善寺と言う寺が存在していた可能性があり、九州王朝が滅亡し(701年)、九州の総廟が高良大社から宇佐神宮に移行する(749年)までの間の725年に現在の宇佐神宮の境内の一角、呉橋正面に弥勒寺が置かれているのです。

恐らく、その前に存在していた神宮寺が大善寺だったのではないでしょうか?

宇佐の大善寺は現在でこそ曹洞禅宗ですが、国東六郷満山の天台に近いだけに元は天台宗だったと思われます。その証拠と言うほどのもではありませんが、ここにはその弥勒寺から移されたという菩薩像が今も残されています。

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これが白龍山大善寺の正面です。古川氏は久留米市の「大善寺玉垂宮」の前に架かる橋「傘橋」も、「傘」という字から、貴人しか通れない橋を意味していると言 います。宇佐と久留米の相似はいったい何を暗示している?薦神社の呉橋と勅使道。宇佐神宮の呉橋と勅使道と大善寺。大善寺玉垂宮と傘橋。この三つの橋は貴 人しか通れない特別な橋。U~NN.うまく書けない。人の発見を、何で るなが苦労して解説しているんだい。 (-_-;)勅使道というのは天皇の使いが通る道。奈良・平安時代なら天皇の所在地は近畿なので出発点は近畿だけど、呉の国の人が生無題.pngきていた時代は倭の時代だから、勅使の出発点は近畿ではない。そうすると、出発点は同じキーワードを持つ大善寺玉垂宮だということでしょうか?あるいは大善寺玉垂宮は通過点?つまり、天皇あるいは王は筑紫の方にいた。そんな理解でよろしいのでしょうか。
これについてしばらく考えていたのですが、まさか。るなの仮説とつながってる?

「ひもろぎ逍遥」宇佐神宮6“呉橋と大善寺 暗号をどう解けというんじゃい”より


宇佐神宮から西へと延びる勅使道を思う時、この古代官道とは近畿大和朝廷のための物ではなく、九州の総廟であった高良大社と大善寺玉垂宮と九州王朝の神宮で あった宇佐神宮とを繋ぐものだったのであり、だからこそ、呉の太伯の裔としての高良玉垂命とその勅使(贈応神天皇など渡ることなどできなかった)だけが渡 るものとして呉橋が置かれていたと考えるのです。

この宇佐の大善寺の正門上に三五桐(高良玉垂命のお妃神功皇后の神紋)を見て“やはり”と思っています。九州王朝論者でさえも宇佐神宮は近畿大和朝廷の神宮 としか考えていませんが、百嶋神社考古学では、宇佐神宮は九州王朝の神宮だったと考えています。大善寺はその傍証と言えるかも知れません。

extra004 宇佐神宮とは何か? ④ “宇佐神宮宝物館の神輿は誰のものだったのか?”

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extra004 宇佐神宮とは何か? ④ “宇佐神宮宝物館の神輿は誰のものだったのか?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150406

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宇佐神宮上宮の祭神問題に踏み込む前に、周辺の気になる小さな問題をついて書いていますが、次は神紋について考えて見ましょう。


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全国の八幡神の総本山となった宇佐神宮の神紋とは言うまでもなく左三つ巴ですが、宝物館に置かれた宇佐八幡宮の三つ御輿の屋根には高良大社の神紋と同じ木瓜紋が大きく記され、中央の御輿の頂上にだけに天皇や大王のシンボルである鳳凰の飾りが付されているのです。


宇佐神宮は神輿(みこし)発祥の地と云われています。これは西暦749年に東大寺の大仏殿ができたとき多大な援助をした八幡神が東大寺に招かれ、その時に神輿(みこし)を仕立てて八幡様を東大寺にお連れしたのが、神輿の起源と云われているからです。

第4回「八幡文化を訪ねる旅」 宇佐神宮ご神幸祭 より


御輿の発祥の地ともされる宇佐神宮の事ですから、本来、その神輿とは宝物館の三つ神輿の事でしょう。

この「続日本紀」にも記載されている貴重極まりない神輿を見ると、何故か左三つ巴ではなく木瓜紋が打たれているのです。

この宝物館では写真撮影が禁止されているため、正式なルートで撮影させて頂いた写真もありますが、公開を憚り、ここでは、かなり前のある書籍に搭載されていたの写真から撮ったものを出させて頂きます。
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問題は、何故この三つの神輿の中の中央の神輿だけに鳳凰が載せられ、全ての神輿の屋根には木瓜紋が打たれているのでしょうか?

それは、この神輿、若しくはこの神輿のスタイルが、自ら(贈 応神天皇)のものではなく、引き継いだ(もしくは情勢の変化により獲得した)ものだったからだろうと考えるのです。

 ここで、上宮の神殿の配置を考えて見ましょう。

 言うまでもなく宇佐神宮の上宮は壁で囲まれていて、通常、一般の観光客が見る事はできません。

神殿の様子は神社関係者やハイクラスの氏子しか入る事ができないことから確認はできないのですが、神社の縁起からは、向かって左から、一の御殿、二の御殿、三の御殿の一社三殿三神の配神を執っています。

勿 論、始めからそのような体制が執られていた訳ではないのですが、この問題は後に廻すとして、一の御殿は八幡大神(応神天皇)、二の御殿は比売大神、三の御 殿は神功皇后としているにも関わらず、神輿の解説では、中央の二の御殿は比売大神としながら、真中に置かれた神輿が応神天皇のものとしているのです。

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その筑紫君に庇護されていたとする(宇佐市安心院の三女神社の縁起「ひぼろぎ逍遥」059宇佐市安心院の三女神社は筑紫の君の支配下にあった を参照して下さい)安曇族の一派、宗像三女神を奉祭する宗像族が呉橋を渡るとは考えられない上に、そもそも三女神が二の御殿の御輿とするなら(なぜか一の御殿の神の御輿としている)、三女神が一つの御輿には乗れないからか、それとも、無理やり贈)応神天皇としたいからなのでしょうか。

 それとも、八幡神とは応神天皇なのであり、その主神以外の神輿に違いないとの思い込みからでしょうか?

 どこの神社でも御輿はその神社の主たる神が乗るための物であり、宗像三女神が木瓜紋を使うという話も聴いたことがない上に、天武天皇の妃(宗像の君徳膳の娘)が宗像から出たことはあるが、天皇などではありえないのにです。

 ただ、ここでは直ぐに結論を出さずに、疑問を提出するだけにしておきましょう。

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extra005 宇佐神宮とは何か? ⑤ “宇佐神宮の境内摂社「大尾神社」をご存じですか?”

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extra005 宇佐神宮とは何か? ⑤ “宇佐神宮の境内摂社「大尾神社」をご存じですか?


「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載


20150406

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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宇佐神宮を訪れる方は多いと思いますが、境内(境外?)の一角に大尾神社と言う奇妙な摂社、神域があるのをご存じの方は少ないでしょう。私もこの事に気付いたのは五年程まえでした。

国道10号線側の駐車場から上宮を目指すと、黒尾神社が右手にある辺りから本来の参道と同等の幅を持った巨大な参道が何故か東方へと直角に延びているのです。

また、宇佐神宮でも最も大きな謎と言える御許山(山陰、益田、浜田に多い大元神社?)への参道(林道)に置かれているだけに、疑問は深まるばかりです。

まず、額束の無い鳥居というものは見知らぬ人間と同様にそれだけで威圧感のあるものですが、参道から鳥居まで大きい上に、参道としての階段までも長いとなると、得体が知れないことから、まずは、謎の境内摂社との思いを深めた記憶があります。

一度、車を入れて行けるところまで入って見た事があったのですが、完全には舗装されておらず、真新しい砂利にタイヤを取られてカーブで全くハンドルが効かなくなり、必死で撤収した苦い思い出があります。

こ れは、かなり多くの神社を見て来た事から言うのですが、一般的に日本の神社で見られる傾向として、時の流れ、時代の移ろいや情勢の変化と共に、本来の祭神 があるいは除され、あるいは入れ替えられ、あるいは隠されるものの、決して粗末に捨て去られる事は、まず、ありえない(なかった)と思います。

このため、始めのうちは、もしかしたら、ここには九州王朝から近畿大和朝廷への政変によって除かれた本来の神が丁重に(もしくは祟りを恐れて)祀られているのではないか?と考えたのですが、そこにあったものは、正直申上げて抜けがらでした。

見 たものは、奈良の大仏開眼前後に祀られていた八幡大神(応神)が大和から戻ってきた故地を残したものだったと思います。ただ、重要なのは、そうすると、 贈)応神以前の宇佐神宮があった祭礼地であった可能性もあるのかも知れません。現在の亀山の地に移動する前の宇佐神宮についての説があることは承知してい ますが、この地も頭に入れておくべきものなのでしょう。

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191 久留米地名研究会日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所の最初の訪問者 “ヒヨとメジロの夫婦者”

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191 久留米地名研究会日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所の最初の訪問者 “ヒヨとメジロの夫婦者”

20150310

久留米地名研究会 古川 清久

研修所オープン以来3ヶ月が経過しましたが、既に延8人が泊まられています。年間八十人も泊まれば、共益費が賄え、固定資産税までを考えると目標は述べ百人ですが、月間延べ10泊ぐらいは可能ではないかと考えています。

ともあれ、最初の訪問者はヒヨやメジロでした。

既に引っ越しの日から板を加工して鳥の餌台を置いていました。

ミカンを切って並べておけば、何がしかの野鳥は来るだろうと考えていましたが、最初の訪問者はメジロでした。

コガラ、ヤマガラ、ジョウビタキ、キビタキ、ツグミ、コガラ、ホウジロ、ムクドリ…などを期待していたのですが、今のところ、メジロとヒヨのつがいにとどまっています。

市街地ならば残ったご飯粒を置いておけば、雀は頻繁にやって来ると思うのですが、標高450メートル級の高原地帯ですから、どうなるかはやってみなければ分かりません。

餌を大きなものにすると乱暴者のハシブトのカラスがやってくるので、パン屑を置くにしても包丁で細かくする必要があります。



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メジロにつては、ウグイスは鶯色ではなく、鶯色なのはメジロでウグイスとメジロが間違って理解されたという有名な話があります。今回も、学者が無視するウィキペディアから引用させて頂きます。

ウグイスとメジロ

日本では、鶯色というとメジロの体色のような色を連想する人も多い。これは、ウグイスメジロが混同されて捉えられているからである。

ウグイスとメジロはともにスズメ目に属するが、前者はウグイス科、後者はメジロ科に属し、ウグイスのほうが 23cm ほど大柄である。ともに日本ではよく見られる野鳥雑食、春先になるとウグイスは繁殖行動のためにさえずりはじめ、メジロは人家の庭木の蜜を目当てに低地に姿を見せる。

そもそもこの二種が混同されるのは二種の外見と性質が問題であった。 メジロは日本人好みの柔らかな色調の黄緑の羽をしており、性格も活発で比較的慣れやすく、かつては愛玩用に飼育されることも多かった(現在は野鳥の飼育は原則禁止されている)。花樹の蜜を好むため、春先には庭に来て「チー、チー」とさえずりながら椿の蜜を吸い、たまに花を散らしたりするのでよく目に付く。 一方、ウグイスは地味な灰がかった緑褐色の羽で非常に臆病な性質。人里の奥や藪の中で生息しており、なかなか姿を確認できない。オスは「ホーホケキョ」「谷渡り」と形容される朗々とした声で鳴く。

誤解の原因はどうやら片方が美声、他方が目立つ外見を持つことに由来するようだ。 庭の片隅の藪からウグイスの声が聞こえた時、すぐ目に付く満開の梅の花をメジロが荒らして逃げていったとしたら、朗々たる美声の主を美しい黄緑色の小鳥だと勘違いしても不思議はない。

日本でよく似合っている物同士を指して引き合いに出される「梅にウグイス」も、日本画では茶褐色のウグイスが描かれるが、広く用いられる花札の同趣向のカードではウグイスのはずの小鳥は黄緑色に塗られている。和菓子で「ウグイス~」とつくものもほとんどが食欲をそそるような黄緑色をしており、よく梅を象った菓子と並べてある。蜜を好むメジロと違ってウグイスは昆虫を主に食べているため、積極的に梅の木にとまることはない。

ともあれ、野鳥の訪問は見た目だけでも美しく、非常に楽しいものです。

日本には、朱鷺(トキ)色とか鶯(ウグイス)色、瑠璃(ルリ)色、鳥に限らず、藤色などといった素晴らしい色とそれを理解する感性とがありました。

と、言っても、私自身は赤緑色弱の中程度であるため、一般の方とは多少感性が異なるのでしょうからあまり色彩についての話はできません。

しかし、ルリビタキの瑠璃色には心をときめかされますし、カワセミの美しさや、海魚釣りの時に防波堤や磯場でも頻繁に見掛けるイソヒヨドリの美しい青には今も惹かれます。



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ヒヨドリは里山ではポピュラーな鳥になりますが、縄張りとして守ろうとする意識があるようで、我が物顔でメジロがいると追いたてます。

残念な事に、ミカンのシーズンが終わると、何を並べれば良いのかが悩みです。

古くなったミカンが安定して調達できれば良いのですが、リンゴを摩り下ろしたジュースを置こうかとも考えていますが、四月以降は少し考えて見たいと思います。


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191-4191-5一番好きな、キビタキやヤマガラが訪問してくれるようにはどうすれば良いのでしょうか?さて、私達に関係があるのはヤタガラスですが、これはカラスではない「鵜」だと言う説を提出したのは、ユーチューブでご存じの鶴田先生(地名研究会HPからユーチューブでご覧ください)でしたが、実際、ヤタガラスを祀る神社の紋章などを見ると、羽根を広げて天日乾しているシーンが多いのです。

カラスが頻繁に羽根を広げてラドンのような格好をするのはおかしいなあと考えていましたが、鵜であった可能性をあながち否定はできないのです。

何か、カラスと鵜を勘違いするような事があったのかも知れません。実際、「烏」は「ウ」と読みますし、鵜飼いで有名な朝倉市の原鶴温泉の付近には、「烏集院」(ウスノイン)という小字まであるのです。

 今後とも、この点にもアンテナをあげておこうと思います。

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