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192 「ひぼろぎ逍遥」+スポット 掲載一覧表

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192 「ひぼろぎ逍遥」+スポット 掲載一覧表

20150330

久留米地名研究会 古川 清久

もうすぐ200本に到達しますが、思い返せば色々書いてきたものです。

アメブロでは検索に時間が掛りますので、これで、お読みいただいていないものを探して下さい。




192-1

192-2

192-3

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ストックを多く持っていると、季節感がなくなり、緊急性に掛けますので、今後とも、スポットは多用したいと考えています。


192-5


193 天ケ瀬温泉五馬高原研修所周辺の遺跡

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193 天ケ瀬温泉五馬高原研修所周辺の遺跡

20150330

久留米地名研究会 古川 清久


193-1

地名研究会の研修所の準備を含め多大なご協力、ご寄附を頂いた福岡県田川郡在住メンバーのN氏は、簡単に言えば、所謂、古墳マニアですが、現在、郡内にある未確認の巨大古墳を何とか確認したいとの思いで計画を進めておられます。

そのN氏が来られたため、しばらくはブログを書いていたのですが、五馬高原の古墳を確認しようと思い立ち、午後二時から外に出ることにしました。

彼が確認したかったのは、五馬高原でも南側の出口地区にある小丘でした。以前、車で熊本県の菊池方面に移動中に、彼が「あれは古墳じゃないか…」と叫んだものでした。

自分としては、一応、旧「天ケ瀬町誌」で粗方の遺跡については目を通していた事から、“ここにはそんなものはないはずだ…”との先入観があり、その時はいい加減な対応をしていたのですが、今回は実際に足を運んでの実見となったものです。

現地は、「今時…?」との思いのする農林省所管の中山間ほ場整備事業が始められており、「消滅して行く集落のお百姓さんに借金だけを残す事にしかならないものを…」と考えを深めましたが、そんなことはともかくとして、その工事でむき出しになった石の並びを見て、彼は古墳の葺き石ではないかと考えたのでした。

私には只の法面の保護用の積石にしか見えなかったのですが、彼の眼にはそう映らなかったのでしょう。

現地は、文化財に指定された茅葺の印象的な社殿を持つ老松神社の正面にある小丘であり、その頂上には小さな祠が置かれ、付近には数基の墓も並んでいるところです。

 N氏が言うところの古墳の条件、神社、墓、祠、集落の要地、玄室用の石材の痕跡、築成の跡…と条件は揃っているのでした。

 やはり現地は踏むべきです、登ってみればなんでもなかったのです。



193-2

旧「天ケ瀬町誌」には記載されてはいなかったものの(その時は気付いていないので)、史跡「幡磨塚古墳」との表示があったのです。また、この標柱には、「付近一帯、土器、石器の散在地にして中国遺跡と称す」(中国遺跡とは現地の云いか?)と書かれ、出土物や状況から察して古墳だったのでした。

まさに、たくさんの古墳を日常的に見ているという感性、観察眼の鋭さには正直感心したところです。

私は、現在の考古学会のいい加減さや利権構造に対する嫌悪感が先に立ち、穴堀考古学に対しては全く信頼を置いてない以上に、侮蔑の方が先行しているのですが、彼はグーグル・アースを駆使して、古墳を空から発見し、現地を踏むという作業を繰り返して来たのでした。

まさに、そのような観察経験によって鍛えられた眼こそが、現場では一番役に立つ事を知らされたのでした。

会には、吉田宮司、伊藤女史、荒川事務局長、内倉顧問…と穴掘り考古学に詳しい人が多いのですが、また、別の側面から穴掘り考古学にアプローチするメンバーが新たに加わった思いがしています。


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現地には多くの石が残されており、玄室を構成していた石材だった事を思わせますし、一部は石棺の蓋だったようなものも認められ、崩壊した古墳もしくは破壊された古墳であっただろうことは確実だったのです。


193-4

直ぐそばにある古社老松神社

 この遺跡が古墳だったとして、直ぐそばにある古社老松神社を考えれば、この神社を奉際していた氏族こそが、この「幡磨塚古墳」の被葬者の一族であったと考えられます。

 と、ここまで書いて、再度、旧「天ケ瀬町誌」を読みなおすと、ほんの僅かですが記載されていました。

 どうやら読み飛ばしていたようでした。

 二 古墳時代の天瀬地区 として、「一方、播磨塚は、径一五㍍余。マウンド上に石棺の残欠とみられる石があり、立地上からも古墳の可能性が考えられるものであるが、断定するには少し精査を要するものである。」とだけ記載されていました(102p)。

 なお、この未確認の古墳の所在地の小字は大字出口字播磨園とされています。

播磨は直ぐに兵庫県と思いがちですが、筑紫野市の針摺(ハリスリ)との関連も念頭に置くべきでしょう。

 摺るとは磨く事と同義であり、古代の針摺の人々が播磨に移動したと考えていますので、どうしてもそのような観念が抜けず、この地はもしかしたら中継地だったのではないかと考えてしまうのです。

 老松神社を奉祭する氏族は、普通は菅公の一族とするものですが、百嶋神社考古学では、菅公はナガスネヒコ系と大幡主→豊国主(ヤタガラス)系との政略結婚の氏族である事から、そのどちらの氏族が老松神社の主力であったのかがまだ不明です。

 老松神社の本殿には三体の男神が祀られており、一応、菅公が祀られているとすると残りの二体は誰なのでしょうか?

 境内に残された摂社と思われるものには奇妙な神紋が残されています。


193-5

藤原一族の危機に際して道真の祟りを恐れ全国に天満宮を祀った際に排除された菅公の祖先神と見たいのですが、この話はもう少し調べてまた別の機会にしたいと思います。

 「金」は金山彦でしょうか?それとも阿蘇の金凝彦でしょうか(付近には金凝事神社があります)?

神紋は奇妙です。

右半分は一見菊紋のようですが、ひまわり(ユダヤか?)かも知れません。左半分は三五の桐で神功皇后の神紋の様です。

この神紋の意味は全く不明です。お分かりの方はぜひご教授ください09062983254まで)

今後とも付近の散策も続けます。

extra006 宇佐神宮とは何か? ⑥ “御許山の大元神社とは何か?”

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extra006 宇佐神宮とは何か? ⑥ “御許山の大元神社とは何か?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150406

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宇佐神宮に、「大元神社遥拝所」があることはご存じでしょう。

大元神社は上宮東の御許山にあり、奥宮とも言われますが、祭神は比売大神三柱であり比売大神が降臨された神山とされています。


無題.png

また、御許山山頂には磐座があり、禁足地となっています。

私も一度試みて撤退していますが、神社考古学研究班のある女性のメンバーが、勇ましくも、たった一人で探索してきたと凄い事を言っていました。

これが何であるかは全く見当が付かないのですが、一般には原始信仰の場であるとか、百済系の神が祀られているとか、三女神の降臨地であるとか色々な説が飛び交っています。

無題.png

日本書紀巻は、原始、宇佐のこの地に祀られていたのは三柱の女神であったと云いたいのであろう。 御許山(大元山)の磐座は石の三柱である。この磐座信仰が原始宇佐の信仰であった。現在も大切にされている。 基本は御許山を水源とあがめる水神ではなかろうか。菱形池には霊泉と水分神が鎮座している。

興隆
  宇佐神宮の由緒書きにも「宇佐の地方神であった八幡神が八世紀には朝廷と結びつき、国家神にまでになったと記されている様に、突如として躍り出た神であ る。 これは祭祀に関わった大神、辛嶋、宇佐氏の内渡来系とされる大神、辛嶋両氏のいち早い仏教との繋がりが奏功しているようだ。 加えて、九州南部の平定、大仏の造営に大きい寄与を果たした事によるものである。
 聖 武天皇が大仏建立を決断しかねている時、宇佐八幡は託宣を下し、天神地祇を率い誘いて建立を成就せしめるであろうと、神々の先頭に立ったのである。 宇佐の地方神から南九州制圧で徐々に重きを持ってきたであろうが、多くの神々の先頭に立てたのは、仏教に帰依した最初の神であり、各神社も迷っていた事が あったからであろう。 迷いのないものは強いのである。それこ加えて香春の銅と鋳造技術の提供と云う現実的手段を持ち合わせていたのがこの宇佐神宮であった。大神氏は赤染氏を押 さえていたようである。 伊勢神宮と云えども銅を産するすべはなかった。

敬愛するHP「神奈備」より


無題.png無題.png玄松子のブログ

2012年10月29・ 大元神社 (大分県宇佐市)=宇佐神宮の奥宮で三柱の比賣大神が降臨された神山に鎮座 http://t.co/wO4SXVWg



大元神社

宇佐神宮の南東4Kmほどのところにある御許山山頂にある。JR西屋敷駅から林道が山頂まで続く。車でも登れるようだが、未舗装であり、林業の作業車が通れば、離合は難しい。よって、麓から5Kmの道を歩いた。                             

敬愛するblog「玄松子」より



無題.pngさすがの「神奈備」「玄松子」両氏によっても判然としないのですが、一つの鍵を発見しました。

この御許山は「大元山」と言い、神代に三柱の比賣大神が降臨された神山で山頂には御神体とされる三体の巨石があるとされています。

また、御許山は別名馬城峰」(マキボン)と呼ばれている事です。

マキボンと呼ばれている事を知ると、それが、温祚系(兄)ではない沸流(弟)系の扶余=温祚系百済の百済における王都が目支(国)マキ国と呼ばれていることを知ったからです。

この「目支」は纏向遺跡の「纏」「牧」「巻」…とも置き換えられますが、これに気付くと、大元神社の実体が沸流(弟)系百済の奉祭する、扶余系の祭祀であることが分かってくるのです。

その百済系渡来民の存在を示す大元神社と天皇家がどう繋がるのかは、今後のテーマになるのですが(敬愛する鬼塚英昭氏が言うように挿げ替えられた明治天皇が百済系の隠し玉の大室寅之祐なら分かり易いのですが、ここでは八世紀に始った天皇家の話です)、その入口として、一九一四年生まれで韓国国立公州大学客演でもあった故渡辺光敏氏の宇佐神宮に関する説の一部を「古代天皇渡来史」から紹介します。

同氏は朝鮮語、中国語にとどまらず、南方系の言語にも精通し、古代史研究者の中でも取分け際立った異彩を放っています。

氏は近畿天皇家が百済であるとはっきり言い切っておられ、 これからも分かるように権力に尾を振る御用学者などでは全くありません。まだ良く分からないのですが、御許山(オモトヤマ)にこそ、宇佐神宮最大の秘密= 日本古代史最大の秘密があると考えるのは、和気清麻呂が、何故、伊勢神宮ではなく、わざわざ九州の片田舎でしかない宇佐に御託宣を仰ぎに来たのかを解明で きない限り、古代史の解明は全くできないと考えるのです。

さらに言えば、百済と現天皇家が直結(九州王朝への接ぎ木)しているからではないかと考えているのです。今のところ宇佐神宮については故百嶋先生の説を軸に通説とは別の考えを持っていますが、当方も当惑しており見当が付かないでいます。

ただ、大元神社については、宇佐神宮の元宮ではなく近畿大和朝廷成立(七世紀)より前に九州の王権内で有力となった百済系傍系氏族の降臨伝承地との考えを持っています。とりあえず、ここでは、敬愛する渡辺光敏氏の説をご紹介しておきます。

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無題.png





無題.png大元神社(オオモト)は宇佐神宮の元宮ともされ、650メー トルほどの御許山(おもとさん)の頂上近くにあり、「大元山」「馬城峰」(マキボン)ともされる比売大神が降臨した神山です。山頂には御神体としての三体 の巨石があると言われています。ただ、大元神社から上は禁足地であり容易には確認出来ません。今のところ、現地を踏んでいないこともあり、韓国国立公州大 学校客員で「古代天皇渡来史」「天皇とは」ほか十冊近い研究書を残した渡辺光敏氏の説を追っています。

渡辺氏は「宇佐神宮で大元山が聖山になっているように天皇家ゆかりの三廟は岩座が神体であるから石上では神社はなく拝殿だけで、高庭の後ろには二つ山(二上山)があって、それはノインウラの絵に同じと言える。」としています。

読まれていない方には全くお分かりにならないと思うのですが、氏は温祚ウンジョ(弟)系と二派に分かれた沸流(兄)系の百済が半島から降臨し、それが大元神社となり、当然にも宇佐神宮に繋がっているとされたのです。

邪馬台国九州説でも単純な畿内説でもなかったのですが、略系図にある沸流(ビリュウ)系百済が畿内に入り天皇家になったとし、ノインウラのそれとした山上祭場磐座も天皇家の高御座(タカミクラ)と考えておられたのです。

この渡来した百済については、過日『百済の王統と日本の古代』(不知火書房)を世に問うた九州古代史会の兼川 晋氏も渡辺氏と同様に仇台系百済も加えたさらに詳しい検討を加えていることも紹介しておきます。


山陰地方に分布する大元神社


最後に大元神社についてお話しておきます。

島根県益田市から浜田市周辺に数十社分布しています。

さらに、現地には白村江の敗戦後四百隻の百済船が入ってきたという民間伝承があります。

言うまでもなく、その百済系避難民、亡命人が奉祭していた神こそ大元神社、大本神社に思えるのです。

倭の五王はもとより、九州王朝が百済と深く繋がっていた事は兼川 晋の研究でも明らかですが、それが何時の時点で近畿天皇家に簒奪(収斂)されるに至ったのか、その鍵を握るのがこの宇佐八幡宮と考えています。

ただし、そこに、百済が深く絡んでいることだけは間違いがないでしょう。

既 に、九州王朝=筑紫野君の支配がこの宇佐のハート・ランドである院内、安心院に及んでいたことは三女神社でも明らかですが、百済にとどまらず、高句麗、新 羅、秦の臣民、流民、これら大量に抱え込んだ半島からの流入者の力が増大し、何時しか、江南からの先住権力者であった熊襲の流れとも言える九州王朝の勢力 を上回る時点で権力の移動が起こったと考えられるのです。

一例ですが、益田市の大元神社をご紹介しておきます。

無題.png

extra007 宇佐神宮とは何か? ⑦ “宇佐神宮の向こう側”

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extra007 宇佐神宮とは何か? ⑦ “宇佐神宮の向こう側

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150406

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宇佐神宮の上宮に参拝された方でも本殿内部を見られた方は少ないと思います。

中に入る事ができるような参拝殿はなく、楼門の先に申(モウモウス)殿があり、一の御殿、二の御殿、三の御殿があるのですが、実際には格子窓の入った回廊があるためほとんど中を見る事はできないのです。

 結局は御許山遥拝所から山を見て帰ってこられた方が多いのではないでしょうか。

 右手には祈祷殿があり、有力者はそこから神殿にも入る事ができるようですが、かく言う私も祈祷殿から内側を垣間見た程度でしかありません。


無題.png

しかし、今は配付されていませんが、昔は一般にも公開されていた資料があり、それを見ると内部の配置を見る事ができるのです。

 この一社三殿三神の様式が確立したのは九世紀以降であり、それ以前は一社一殿一神の時代もあったのです。ただ、その話は後に廻すとして、まずは、神殿配置図をご覧ください。

 良く識者が口にする(俗に言う「八幡宮様式」)など、この神宮の本質には全く関係がないので無視して頂いて構いません。

 重要なのは、この神殿の中に別の神様が鎮座している事なのです。

 この神様こそ別王でしかない(誉田別尊、誉田別命、大鞆和気命と別、和気の入った和風諮号が付されています)第15代応神天皇が宇佐神宮に祀られる以前に祀られていた(もしくは宇佐を支配していた)本来の祭神ではなかったかと考えています。

 宇佐神宮は高格式のためか、回廊で囲まれた結果、通常の神社境内地に置かれる事になる摂社が神殿内に残された(囲われた、取り込まれた)事になったものと考えられます。

一の御殿=応神天皇(春日神社)、二の御殿=比売大神(北辰神社)、三の御殿=神功皇后(住吉神社)の配神に対して、各々、介添え役(スポンサー)内がおられるのです。

 ただし、「住吉神社」としても、「ひぼろぎ逍遥」155.百嶋神社考古学では住吉三神をどう考えるか」で取上げたように、それは初代住吉様=ウガヤフキアエズではなく、神功皇后をお妃とする二代目の住吉様=高良玉垂命=第9代とされる開化天皇なのです。

 「春日神社」にしてもこれまで一貫して書いてきたように、阿蘇高森の草部吉見神の事なのです。

 ここでは、このような三つの摂社が存在する事をご紹介しただけに致します。

無題.png

さらに別の側面から考えて見たい。宇佐神宮の西に位置する呉橋からは旧道が近くの「化粧井戸」を通り、一路、中津、豊前、採銅所のある香春岳へと勅使道が延びている。

その中間とも言える豊前市四郎丸山田に今も住吉大神を祭る大富神社があり「勅使井」が置かれている。

当 然にも近畿天皇家、大和朝廷からの勅使と説明され、和気清麻呂も含め明治期にも使ったとされるのだが、辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命の三神を祀る 香春岳一帯と宇佐との行路上にあるだけに、九州王朝の本拠地である太宰府、久留米高良大社とこそ通じていたと考えたい。

もしも、近畿天皇家の勅使であったなら宇佐神宮の呉橋の下を流れる寄藻川河口に鎮座する宇佐市和気(ワキ)の古代の岬(浅潟地は岬がに港になる)柁舵鼻神社辺りに直接船付けしそうなものである。

事実、同社の縁起にはそう書かれている。また、この勅使もしばらくして途絶え、ようやく明治期に復活したとも伝えられている。

では、天皇または天皇の勅使しか渡れないとされた呉橋を渡った後、その一行はどこへ向かうのであろうか。当然にも、上宮の二の御殿正面の勅使門であろう。

今は失われているらしいが、「この勅使門の内側には神棚が置かれ阿蘇の神と高良玉垂命が祀られていた…」と、以前直接神職から聴いたが、非常に興味深い話であり、以来九州王朝との関係を考え続けている。

ここで、何時の時点かで本来の祭神「比売大神」と一の御殿の祭神「誉田別尊」とが入れ替わったと想定して見よう。

それまで誉田別尊はどこにいたのであろうか。実は境外社であるが、宇佐神宮の摂社に「鷹居神社」がある。

この応神天皇、神功皇后、仲哀天皇を祀る神社には『八幡宇佐宮御託宣集』に基づいて「…この兩所は、宇佐郡の大河にあり。鷹に代り瀨を渡り東の岸の松に居しき。また空を飛び西に岸の地に遊す。故に鷹居瀨社と云ふ。この鷹は、これ大御神の變なり。大神比義、祈り奉りこれを顯す。祠を立て、祭を致すなり。…」(日本國御遊化部)という縁起がある。

辛島氏、大神比義の時代、誉田別尊はこの地にあったと考えたい。古来、神社と寺院は形を変えながら、時の権力に合わせ、時としては神社、時としては寺院に装いを変えながら生き延びてきたが、その神社と言えども時々の勢に合わせ、時として祭神を隠し、入れ替え、あるいは合祀してきた。

それは、奉祭する神とその氏族を守るためであり、それ以外に仕方がないことではあっただろう。

ただ、そうして入れ替えられ排された神といえども、祟りを恐れてもあるが、決して粗末に扱われることはなく、どこかに祀られていることが多い。

そうした眼で、一般にも手に入る「宇佐神宮御本殿について」を見ると、八幡宮様式の社殿側面図の下に平面図が書かれ、通常、容易には入れないために殆ど垣間見ることができない神宮の配置が分る。

これを見ると、前述の大富神社には祀られている住吉大神、春日大神、妙見神が排されているのではないかとの推定が一応できる。

ただ、春日大神が藤原氏を意味するものか、阿蘇神であるかは実物を見ないこともあり判らない。

宇佐のまほろばを安心院、院内としたが、院内インター付近には天御中主命ほかをまつる北辰神社があり、安心院インター付近にも住吉大神を祀る飯田神社があることに思い至る。また、春日大神は、境内の下宮近くにも確認できる。

さらに踏み込もう。弘仁14年(823)に神功皇后が三の御殿として祀られたとしたが、もし、住吉大神が比売(姫)大神であり、高良玉垂命であるとすると高良大社で触れた「高良玉垂宮神秘書」(同紙背)の上注「高良大明神は神功皇后と夫婦なり」が生きてくるのである(高良大社の項参照)。

なぜなら、高良玉垂命と夫婦であることを知っていたために、三の御殿の神功皇后が傍に置かれ、また、宗像三女神と入れ替えられた後も、住吉神社としてそばに置かれたと見ることができるからである。

extra008 宇佐神宮とは何か? ⑧ “神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内に鎮座する”

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extra008 宇佐神宮とは何か? ⑧ “神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内に鎮座する

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150407

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宇佐神宮の元宮については諸説あります。

 中津市の薦神社説、宇佐神宮境外摂社の鷹居社説、宇佐市安心院の妻垣神社説、飯塚市の大分(ダイブ)八幡宮説、御許山の大元神社説…これらを全て見て回るだけでも目が廻りそうですが、それなりの根拠や謂れがあり一概に無視できるものではないのです。

  それは、宇佐神宮に於いても、千数百年、若しくは二千年近くまで降る歴史があり、多くの勢力の入れ替わり、合流、離反が存在したからであって、その各々の 勢力(直近の到津家はともかく、大神比義、唐島、古くは筑紫の君=九州王朝)の故地、故社がそれぞれ元宮として崇敬された過去、時代が存在したからと考え られるからです。

 ただ、私達のような神社考古学の徒にとっては、今尚、現存する神社、故地、社伝を実見し、フィールド・ワークによって検証して行く事が唯一の方途であって、第一には現場から入る事を最重要視しているところです。

 そういう意味では、“古来、宇佐八幡宮の故地が院内、安心院の一帯(安心院盆地)だったのではないか”とする伝承は重要で、文献上も「古事記」「日本書紀」に各々「一柱騰宮」「足一騰宮」として足跡を残す現「妻垣神社」が現存するこの地を無視する事はできないのです。

 その意味で、もし安心院盆地が「記」「紀」に名残を残す(従って八世紀以前の)故地であれば、上宮内摂社の痕跡(097 宇佐神宮とは何か? ⑦ “宇佐神宮の向こう側参照)が必ず安心院盆地内にも拾えるのではないかと考えたのでした。

 結果は意外と容易く見つかりました。

院内IC付近に上宮内摂社の二社、北辰神社(宇佐市院内町香下)がIC正面に、同じく住吉神社(院

内町小坂)が鎮座していたのです。


無題.png

 安心院盆地はかつて巨大な湖だったと言われています。その盆地の出口に相当する場所にこの二社が鎮座していたのです。

 この一帯は川による浸食が大きく、また屈曲しているため土砂が堆積しやすく、洪水によって水平堆積が繰り返された結果比較的平坦な平野が形成されたようです。ただ、川床底が低く湖の水が抜けて以降、長年月が経過していることも事実の様です。

無題.png

住吉神社と春日神社に関しては誤って画像を消去してしまっているようで、今回は掲載できませんでした。場所は地図でお分かりと思いますので実見をお勧めいたします。


では、もう一つの上宮内摂社である春日神社はどこにある(あった)のでしょうか?

実は、後の行政の中心地である宇佐市川部にあったのです。

数 年前、この地を訪れ実見しましたが、陸化のテンポを考えると、駅館川河口という古代におけるウォーター・フロントであり要地であったことは間違いがなく、 阿蘇の草部吉見神の流れを汲む後の藤原氏の宇佐における、目の行き届く根拠地近く亀山の地に宇佐神宮を移転したのではないかとの思いを深くしたところで す。

そう言えば、古代の中国への貿易港と思える球磨川河口の徳淵(徳佛)港(熊本県八代市)にも春日神社が置かれており(ここには正倉院が置かれていたと「続日本紀」に記載があるようです)、商業的利権を確実に手中にしていたことが分かります。

無題.png

面白いのは、球磨川河口に高下(コウゲ)地区があることです。

この古代の貿易港であったと思われる徳淵湊の付近に「コウゲ」があり、安心院の北辰神社(妙見神社)が香下(コウゲ)地区があることです。

八代と言えば妙見神社との反応が出るほど、神社関係者には名高い妙見信仰の起点(私にはそう思える)だけに、この九州の東西に存在する高下、香下(コウゲ)という地名は天御中主に関係したものだったのかも知れません。

安 心院盆地から流れ下る駅館川の河畔に宇佐市役所があり、古代官道の伝駅の名残を表す駅館(ヤッカン)川の傍に春日神社が置かれた事は、瀬戸内海を利用した 内国物流の要衝を制した事を表しており、宇佐神宮が最終的にどの勢力によって保持されたかが良く分かるような気がします。

では、それは何処から持ち出されたのでしょうか?

勿論、安心院盆地のハート・ランドとも言うべき場所にあったのだと思うのですが、ここではその話にまでは踏み込まず、上宮内摂社の元宮が元々存在していた可能性を指摘して置くだけに留めます。

余白が出来ましたので、今回も、芦北町在住の吉田耕一画伯の素晴らしい絵を見て頂くことにします。

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extra009 宇佐神宮とは何か? ⑨ “安心院の三女神社は二女神社だったのか?”

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extra009 宇佐神宮とは何か? ⑨ “安心院の三女神社は二女神社だったのか?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150408

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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宇佐市安心院に三女神社があります。
既に、097 宇佐神宮とは何か? ⑦ “宇佐神宮の向こう側”で書きましたが、宇佐神宮が現在の亀山の地に鎮座する前、その原型は安心院にあったのではないかとしました。
一方、現在の宇佐神宮の公式見解では、二の御殿(中央殿)には宗像三女神が祀られるとされています。
もし、宇佐神宮の原型が安心院にあったとすれば、その中央殿の宗像三女神も安心院に祀られていたはずなのです。
そして、事実、宇佐市安心院に三女神社が鎮座しているのです。
そもそも安心院(アジム)という地名自体が、海洋民の安曇族から付された地名である可能性が高く、盆地の入口(出口)の院内からさらに中央部に入った、現在の安心院旅行村の直ぐ下、安心院盆地が見渡せる小高地に同社が鎮座しているのです。
まず、宇佐神宮を考える場合、同じく安心院に鎮座している妻垣神社と併せ、外すことのできない神社です。
無題.png

この神社を初見したのは四年前でしたが、驚くべき事実に気付きました。

それも、普通に聞き及んでいる話と異なる奇妙な事が二つもあったのです。

一つは、この参道に置かれた数本の鳥居に掛る額束(神額)です。


無題.png

これは一枚目の写真の鳥居の神額を拡大したものですが、どう見ても二女神社と書かれているのです。

しかも、三女神社を修正して二女神社と書かれている様でもあり異様です(うっすらと下に三と書かれていたように見えますね)。

その次の鳥居も奇妙です。

無題.png
こちらは逆に、「二女神」「二大神」若しくは「二人神」(フタリガミ)と書かれていたものを無理やり「三女神」と改竄(かいざん)したようにさえ見えるのです。
二 年前、太宰府地名研究会主催で宇佐神宮を中心とする「宇佐神宮トレッキング」を三十人規模で行いましたが、この事実を皆さんにお知らせしたところ、「ひも ろぎ逍遥」管理人の彩杉女史は間髪いれず、“三女神のうち大国主のお妃となった二人とそうでないお一人ではないか?“と気付かれました。
そう考えていただけに、さすがは彩杉るな!と思ったのですが、恐らく、その事が関係しているのではないかと考えています。
恐らく、この事の背景には宗像大社の本質に絡む古代の秘密が関係しており、それが現在まで引き摺られているのだろうと思います。
皆さんも、もし、宇佐神宮から安心院盆地まで足を伸ばされる機会があれば、自分の目で確認して頂きたいと思います。
実は、この三女神社にはこの鳥居から下に降りる参道や社殿に、さらに五、六本の鳥居があります。

無題.pngその建築年次、順番、奉納者、寄進者、材質を系統だって調べれば、その背景が少しは見えて来るのではないかと思っています。

どなたか地元の研究者でもおられて教えて頂ければ助かるのですが、これも今後の課題です。

このトレッキングには彩杉るな女史と並ぶ太宰府地名研究会のエース級才女伊藤まさ子女史が同行されていました。

彼女のブログ「地図を楽しむtizudesiru.exblog.jpにも書かれていますので、こちらからご紹介しましょう。


安心院の二女神社?三女神社?

同じ神社に二つの名前があっても、不思議ではありません。土地の人の呼び名や、正式名称があるでしょうから。

でも、この神社は不思議です。まず、神社の案内板には、「三女神社」とありますが。横の鳥居は、二女神社。三女神と云えば、宗像三女神でしょう。なんで二女神なんでしょう。

不思議に楽しくなってしばらく行くと、次の鳥居。それは、三女神社でした。二女から三女になったのです。さらに進むと、三女神社が見えてきました。

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extra010 宇佐神宮とは何か? ⑩ “宇佐市安心院の三女神社は三沼の君が祀った”

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extra010 宇佐神宮とは何か? ⑩ “宇佐市安心院の三女神社は三沼の君が祀った”

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150413

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 さて、もう一つの事実をお知らせしましょう。

これも、一般的には全く知られていない(知らされていない)半ば秘密です。

驚くことに、この神社の縁起には、“芦原の中国の宇佐嶋とは宇佐郡安心院邑のことで、その地を支配していたのは筑紫君である”としているのです。

筑紫君とは、当然、筑前、筑後に分国される以前の話であり、九州王朝論者の中では常識に近いのですが、筑紫君とは久留米市三潴町の三沼の君のことであり、高々一三〇〇年の歴史しかない近畿大和朝廷などのことではないのです。

繰り返しますが、当然にも、安心院、院内、山香の一帯こそが宇佐のまほろば=ハート・ランドに思えるのですが、この安心院の地には、現在、公式に宇佐神宮の二の御殿の祭神とされている宗像三女神が三女神社として鎮座しています。

ところが、この三女神社の縁起には、今も堂々と芦原の中国の宇佐嶋とは宇佐郡安心院邑のことで、その地を支配していたのは筑紫君であるとしているのです(縁起を参照のこと)。

 筑紫君とは、一応、筑前、筑後に分国される以前の話となりそうですが、九州王朝論者の中では常識に近い久留米市三潴町の三沼の君のことであり、高々一三〇〇年の歴史しかない近畿朝廷のことではありえないのです。

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再度、伊藤まさ子女史にご登場願いましょう。


神社の門前に「水沼井」の案内板がありました。「井」とは井戸の事ですが、「水沼」とはなんでしょう。川岸の三女神社に、沼はないでしょう。水沼とは久留米 の三潴の事でしょうか。水沼君の墓もあるし、玉垂宮もある。そうなると、安心院は古代を解く鍵を持っていることになります。

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ひとまず、社殿にお参り。

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社殿に由来がありました。

むむ・・「豪族筑紫君等がこれを祀る。爾来一貫してこの地に鎮座して今日に至ると伝えられる」
 私たちを案内した人は、この「三女神社由緒」を読んでほしかったのです。わかりました。

それで、水沼井の案内板に戻り、「社家は水沼氏」というところをアップして写真に撮りました。「筑紫君」の「君」は、「国造」とは若干違います。国造は、「国のみやつこ」ですから、「国に仕える御奴」という意味です。君は地域の首長です。君と呼ばれる豪族は、多くはありません。更に、水沼(みぬま)君が書 紀の雄略天皇のところに出ています。その水沼君の氏族が、社家であったのです。それも、三女(二女)神社の。三女神は、筑紫君の神だったのです。
 だから、此処は「筑紫君」が祭った神社であったのです。
 五二七年の磐井の乱で、筑紫君磐井は豊前の山に逃げています。磐井の行方が分からなくなり、怒った官軍が磐井の墓の石人を破壊したと、風土記にありました。筑紫の君と安心院(宇佐嶋)との関係が見えましたね。
 さらに、社殿の隣の摂社「貴船神社」の由緒。


それで、水沼井の案内板に戻り、「社家は水沼氏」というところをアップして写真に撮りました。「筑紫君」の「君」は、「国造」とは若干違います。国造は、 「国のみやつこ」ですから、「国に仕える御奴」という意味です。君は地域の首長です。君と呼ばれる豪族は、多くはありません。更に、水沼(みぬま)君が書 紀の雄略天皇のところに出ています。その水沼君の氏族が、社家であったのです。それも、三女(二女)神社の。三女神は、筑紫君の神だったのです。
 だから、此処は「筑紫君」が祭った神社であったのです。
 五二七年の磐井の乱で、筑紫君磐井は豊前の山に逃げています。

さらに、社殿の隣の摂社「貴船神社」の由緒。

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なるほど、元正天皇の時代になったころ、この土地の人々は「貴船神社」に雨乞いをしていたのですか。八世紀の貴船神社は、すでに大きな信仰の対象だったので すね。三女神社は地域の守り神というより、格式が上げられていたのでしょうか。それとも筑紫の君の衰退により、雨乞いの神事もできなくなっていた……
  さて、「二女神社」ですが、田心姫命・湍津姫命の二神は大国主命の妃だそうです。だから、もともとはこの二神を祀っていたのではないかというのです。後から市杵嶋姫命が加えられたとか。それで、言い伝えを知っている人が、二女神社の鳥居を寄進したという事ですか。ふうん、「安心院の不思議」が解ければ、古代がすっきり見えてくるかもしれません。もう一つ付け加え。

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三女神社の境内に「皮籠石」(カワゴイシ)という切石がありました。これは、なんでしょう。


多分、彼女は神籠石を念頭に置いておられるのでしょうね。この要衝安心院にもあったのかもしれませんね。

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194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?

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194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?

20150331

久留米地名研究会 古川 清久

現在、百嶋由一郎氏から送って頂いた文字データのデジタル化の作業を再開していますが、丸一日は張り付かなければならないため、なかなか思い立たず、ようやく第3集の作業が終わったところです。

百嶋先生の作られた資料は形が不揃いの上に、多くの図表が重ねられていますので作業が煩雑で、思った以上に作業に手間が取られてしまいます。

ともあれ、半日掛ってようやくひとまとまりの作業が終わりましたので、再度、四月中に第4集の作業を終え、既に一部の熱心な皆さん宛に配付している第1、第2集と併せ、希望者に配布したいと考えています。

その作業で目に付いた櫛田神社に関する手書き資料になるほどなあと思わせるものがありましたので、お知らせしたいと思います。


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どうやら、百嶋先生は、博多に雪崩れ込んだ、白族(ペイツー)のルーツは雲南省昆明に近い、謎の青銅器文明(漁労+水田稲作農耕)として知られる「滇国」を想定しておられたようです。

考えて見れば、昆明には白族がいましたし、「滇国」の本拠地である滇池もそこにあったのですから、「滇王」の印を貰った「滇国」の一部が博多の櫛田神社の主祭神の大幡主に繋がる事は理があることなのです。

ただ、それを結びつけられるところが、百嶋先生の凄いところだと改めて思うものです。


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(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。歴史[編集]の将軍荘蹻が遠征した時に、によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。紀元前109前漢武帝の攻撃で属国になり、益州郡の統治下に入った。滇王之印滇王之印晋寧県の石寨(せきさい)山の遺跡(石寨山滇国王族墓)からはこの時代のものと思われる青銅器や「滇王之印中国語版」と書かれた印鑑などが発掘されている。西嶋定生はこの滇王之印と日本の福岡県で出土した漢委奴国王印とが形式的に同一であることを指摘している。古滇国の歴代君主[編集]以下は黄懿陸の著『滇国史』から整理した。文字史料が不足しているため、大部分の滇王墓の主はその本名と年代を確認することができない。                       ウィキペディア(20150331 12:00による)

白族は黎族(阿蘇氏)と併せ、日本人のかなり重要な部分を構成しているはずで、白族の起源の一部がが「滇国」にあったと考える事が可能であれば、多くの照葉樹林文化論者達が主張している話とも符合する訳で、単に白族の一派が南ルートで渡来していると抽象的に考えるよりは、より具体性を帯びており、視界が広がった思いがしています。

雲南の二大王国

 現在の中華人民共和国最西南部、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する地域で、北隣に四川省(しせん)、北東隣に貴州省(きしゅう)、北西隣にチベット自治区と接する雲南省(うんなん)。省都は昆明市(こんめい)であり、雲南という名は四川省と接する雲嶺山地(うんれい)の南にあることに由来する。現在は約39万平方キロメートルで、中国の行政区分別では8番目の広さである。漢民族以外にはイー族、ペー族、ミャオ族、チワン族など少数民族も多く存在する。中国古代王朝では、雲南・貴州のこうした漢民族以外の少数民族を西南夷(せいなんい)と呼んだ。

 歴史の上での雲南地方では、中国史における戦国時代(B.C.403-B.C.221)にその黎明期があったとされている。戦国・楚(そ。?-B.C.223)の頃襄王(けいじょうおう。B.C.298-B.C.263)の時代(あるいは威王の時代か。いおう。B.C.339-B.C.329)にいた武将で、春秋五覇の1人と数えられる楚の名君・荘王(そうおう。B.C.614-B.C.591)の子孫と伝えられた荘蹻(そうきょう。荘豪とも。そうごう。生没年不明)が、現在の昆明市西南に、同省最大の湖である"滇池(てんち)"付近に遠征を行い、同地を楚の支配下に入れたが、その遠征路を占領した秦王朝(しん。?-B.C.206)によって帰路を断たれた。そこで荘蹻は滇池を拠点に初代王(在位不明)となって王国"滇(てん)"を建国したとされるが、伝説的要素が濃く、建国年はB.C.5世紀からB.C.3世紀頃と確定には至らず、滅亡年も紀元前2世紀から紀元後2世紀の間で諸説ある。この滇国が雲南を拠点にした初の王国であるとされる。これに関し、その後の歴史を語る上で、雲南の異称として"滇"が用いられることも多い。

 一方で夜郎(やろう。B.C.523?-B.C.27)という国家があった。 夜郎は滇より建国が古いとされるが、拠点は現在の貴州省で、雲南寄りにある畢節(ひっせつ)市の赫章(かくしょう)県にあったとされ、また一時的に楚の荘蹻に占領されたとも言われている。司馬遷(しばせん。B.C.145?/135?-B.C.86?)著の紀伝体正史『史記(しき)』の『西南夷伝』によると、夜郎は西南夷国家の中で最も強勢であったとされた。さらに、前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)時代、前漢からの遣使が滇王・嘗羌(しょうきょう。位B.C.123?-B.C.85)の会見機会があり、嘗羌が「自国と漢はどちらが強勢か」という、漢王朝からしてみれば愚問に値する内容を遣使に尋ねた。そして隣国の夜郎も王は同様の愚問に値する内容を尋ねた。こうした故事から、"夜郎自らを大なりとす"、すなわち"夜郎自大(やろうじだい。自身の力量や世間を知らず、自信過剰に威張ること)"の言葉が生まれたとされる。

HP「世界史の目」より


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昆明市全図

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これも百嶋先生の資料に入っていたものですが、余裕のある方はお読み頂きたいと思います。


195 若き神社考古学者の50代の写真 “日中友好千万年”

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195 若き神社考古学者の50代の写真 “日中友好千万年”

20150401

久留米地名研究会 古川 清久

前ブログ、194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか? において、「百嶋由一郎氏から送って頂いた文字データのデジタル化の作業を再開していますが、…」としましたが、作業中に、50歳代と思われる百嶋先生の元気な姿を発見して喜んでいます。

百嶋先生は中国語の会話には不自由がなく、漢籍は文句なく読まれていましたし、北京大学で聴講生として学ばれていましたので新聞記事でも「歴史研究考家百嶋由一郎」と紹介されているようです(1986926日)。

約三十年前になりますので、55歳程度のバリバリ研究されていた当時の御真影となります。

「同封の新聞は、遼寧省(朝陽市)から送って参りました。…1987年、朝陽市で“古代における朝鮮族の移動”と言う題で意見交換会議をやりました。記録は遼寧大学に保管されております。」(別紙手紙)


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 驚くのは、ジャワ原人の子孫が遼寧付近に住んでいると言う話です。通説からも外れており、私もなお疑っています。日本でも勿論考慮されていませんが、中国では他の方面でもこの手の話を複数回聴いたことがあり、中国ではかなり一般的な理解で、逆に、ジャワ原人、北京原人の栄えある子孫が我々だ!といった理解もされているようなのです。

 下の手紙は私信ながら問題がないと考えますので公開しますが、この手紙を書かれた半年後に亡くなられました。

 今なら、お聴きしたいこと、お尋ねしたいことが山ほどあるのですが、今、ようやく何をお尋ねしたいかが分かるようになってきた訳で、
もっと早い段階で、適切な方にバトンタッチしておかれるべきだったのではないかと思うばかりです。

 私自身は、元々、文献史学など素養は全くないのですが、何故か古代史に嵌り、九州王朝論などの虜に195-2なってしまっているのですが、「古事記」神話の95%は嘘と言い切った百嶋神社考古学を知ると、通常の九州王朝論では全く古代に迫れない事だけは確実であるという思いを深めています。

現在、百嶋神社考古学に対して関心を示される方が急増していますが、私の任務は、この百嶋先生の資料を散逸させないように残し、拡大の前の拡散、分散、継承にあるのではないかと考えているところです。


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今回も余白ができましたので、芦北の吉田画伯の画集から一題ご紹介いたします


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196 出雲の長浜神社の祭神

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196 出雲の長浜神社の祭神

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院共通掲載

20150401

久留米地名研究会 古川 清久


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写真は久留米地名研究会のホーム・ページにも組み込んでいる長浜神社の裏参道の写真です


出雲と言えば出雲大社だけにスポット・ライトが向けられるご時世ですが、以前から気にしていた長浜神社の祭神についても百嶋先生は分析をされていました。


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この神代系譜も、現在作業中の百嶋データ・ファイル第3集に収めたものの一つです。

出雲の長浜神社と言ってもご存じでない方が多いと思いますが、個人的には佐田大神(大山咋命)を祀る佐田神社(断じて猿田彦を祀るのではない)と並んで出雲で最も好きな神社です(何やら流行の神社ガールのような表現ですね)。


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長濱神社 参拝殿(画像は「松江周辺の神社仏閣」より)


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長浜神社はその名の通り、北西の季節風が卓越し東進する潮の流れが運搬し続けた結果形成されたと考えられる出雲大社裏手の大岩塊へと繋がった巨大なトンボロの上に鎮座する古社です。

 皆さんも出雲大社ばかりに足を向けるのではなく、このような本物の古社を是非参拝して下さい。


カーナビ検索 島根県出雲市西園町上長浜42580853-28-0383


祭神は次のとおりですが、ほとんど見掛けない神様が祀られているのです。


祭神 八束水臣津野命 配祀 布帝耳命、淤美豆奴命


由緒  出雲郡の式内社出雲神社の論社の一。出雲神社だったとすればここに同社韓國伊大氏神社が鎮座しているか、摂社にあるはずだが今回は見あたらなかった。出雲神社の創建は和銅三年以前。

 『出雲国風土記』によると、八束水臣津野命、詔りたまひしく、「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なるかも。初国小さく作らせり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、「栲衾志羅紀の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり」との胸取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別けて、三身の網打ち挂けて、霜黒葛闇耶闇耶(シモツヅラクルヤクルヤ)に、河船の毛曽呂毛曽呂(モソロモソロ)に、「国来、国来(クニコ、クニコ)」と引き来縫へる国は、去豆の折絶よりして、八穂米支豆支(ヤホシネキヅキ)の御埼なり。かくて堅め立てし加志は、石見国と出雲国との堺なる、名は佐比売山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長浜、是なり。式内社の出雲神社の論社は出雲大社の本殿の後に鎮座する素鵞神社と平田市別所町の諏訪神社が論社である。通称は妙見神社、鎮座地は妙見山。

HP「神奈備」より


八束水臣津野(ヤツカミズオミツヌ)命 配祀 布帝耳(フテミミ)命、淤美豆奴(オミズヌ)命 と言う見慣れない(島根県以外では岡山市東部と鳥取県に八束水臣津野命を祀る神社があるのみ)名前の神様を祭る神社ですが、百嶋先生は、この三神も九州出身の、大国主命(宗像大社の本来の祭神)、市杵島姫(宗像三女神の一人)、草部吉見=海幸彦(市杵島姫の先夫)という奇妙な三角関係そのもののような神社と見なしておられたのです。

これを三勢力の協力連合体を示した配神であると見る事は可能かもしれません。

思い起こせばこの神社を訪れたのは五年ほど前の事でした。

室伏志畔(「伊勢神宮の向こう側」他著書多数)氏に随行して、十六島(ウップルイ)周辺からカラサデ神事の佐田神社を見に行った時でした。

同社の宮司は知識豊富なうえに非常に明晰な方で、室伏先生は小一時間近く話をされていましたが、私は傍でじっと聴いていただけでした。その時の情景は今でも目に浮かんできます。

ユーチューブを検索していると、その時お会いした秦 和憲宮司が岡山在住の神社研究者の質問にお答えして話しておられるものが出てきて驚きました(出雲長浜神社 秦和憲宮司「八束水臣津野命」2014/5/6吉備歴文会)。

百嶋先生からは、九州の神社を調べれば全国の神社も分かると言った話を聴かされていましたが、自身としては、当時は「出雲の長浜神社の祭神など九州とは全く違う神様がいっぱいおられるのにそう言い切れるのか…」と思っていたのですが、ようやく少しは意味が解ってきたような気がしています。

ただ、「八束」の意味は依然として不明です。今のところ、八千鉾の神の「八」が多いと言う意味の言葉とすると、千代に八千代、八千鉾、八千草…の「八」と「千」がやはり多いという意味の同じ冠詞と考えられることから、物部氏の居留地、本拠地に 千束、千種、八並、八草…と同様の意味の「八束」ではなかったかと考えているところです。

大国主命が八千矛神と呼ばれた事は知られていますが、百嶋系譜には、そのまま大国主命が八束水臣津野命、草壁吉見神=海幸彦が布帝耳命として書き留められていました

ただ、大きな問題が横たわっています。長浜神社の縁起では、配神の 布帝耳(フテミミ)命、淤美豆奴(オミズヌ)命を各々大国主命の祖母と、祖父であるとされている事です。

これについては、島根県内の他の八束水臣津野命を祀る神社、岡山市の某社等については訪問してはいるのですが、その観点に絞って見ていないため、再度見る必要がありそうです。

このようないい加減な状態でブログに書いたのは不謹慎極まりないのですが、ユーチューブで熱弁されている秦宮司のご尊顔を見た事からついつい書いてしまったというのが実情です(書いてシマッタ!?)。

もしも、百嶋先生が読み解かれた系譜が正しければ、佐田神社の本物の佐田大神(大山咋命)は、同社の布帝耳(フテミミ)命と淤美豆奴(オミズヌ)命の間に生まれた神になるのです。

もう一つ考えたいのが、安芸の宮島の厳島神社の摂社である長浜神社の祭神が津姫命と津彦命とされている点です(宗像大社の瀛津島姫=市杵島姫であり の置き換え文字がです)。

百嶋先生の系譜では、海幸彦は格式は低いものの、瀛氏の市杵島姫と姻戚関係になったことから、その子津姫命と津彦命は格式が上がり、瀛氏扱いとされたことになります。


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画像はパワーチャージの旅o(^-^)o お祭り日記より


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長浜神社境内に置かれた瀛インの鳥居と岐(くなど)神社(画像は「松江周辺の神社仏閣」より)

 八束水臣津野(ヤツカミズオミツヌ)命 配祀 布帝耳(フテミミ)命の二神は確実に瀛イン氏です。

宮司が秦さんですから考えて見れば当然かも知れません。


瀛インの鳥居については「跡宮」016「古表神社と古要神社“古表神社の例大祭から古要宮へ”」他を参照

瀛イン氏については「跡宮」054「秦の始皇帝と市杵島姫」を同じく参照のこと

岐(くなど)神社については「跡宮」063出雲井神社 初見」を同じく参照のこと


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福岡県築上郡吉富町の古表神社の鳥居(左) 佐賀県嬉野市塩田町八天神社の正殿前鳥居(右)

古表の「古」は胡人の「胡」         金山彦~ヤタガラス

瀛インの鳥居が置かれ、岐の神が置かれていると言う事は、やはり長浜神社はただならぬ神社ですね。


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厳島神社の摂社である長浜神社の神紋も博多の櫛田神社の大幡主の三盛亀甲ですね(中は三五桐ですが)


三盛亀甲の神紋については「跡宮」064博多の櫛田神社の祭神とは何か?」を参照して下さい。


厳島神社の摂社長浜神社が三盛亀甲の神紋を使っている(使わせて頂いている)ことは、この一帯も博多の大幡主の領域であったことが分かります。

同じく、大国主(八束水臣津野命)が「主」という白族の尊称の使用を許されている事の背後にも、博多の瀛氏の首領である大幡主の傘下にあった事を意味しているのです。

してみると、長浜神社の「長浜」は九州朝日放送の鎮座地福岡市中央区長浜1-1-1の長浜がルーツかも知れませんね(勿論、三か所とも長浜にあった事は間違いがないのですが…)。

197 ピナツボ火山(フィリピン)は“火の壺火山”

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197 ピナツボ火山(フィリピン)は“火の壺火山”

20150401

久留米地名研究会 古川 清久

古代史、神社研究、地名研究…といったものに取り組む毎日が続いていますが、いつ読んでも何度読んでも示唆に富んだイメージを与えてくれる本に、故渡辺光敏氏の「日本語はなかった」があります。

19961月に三一書房から出されていますから、約十年前の本になります。


197-1

渡辺光敏のプロフィール

山梨師範(現山梨大学)卒。日本民族学会、日本地理学会会員。元韓国国立公州大学校客員講師、同大学百済文化研究所客員。東南アジア全域に渡る調査旅行(18回)。最近はヨーロッパへも調査の対象を広げている。また、百済義慈王と太子隆の陵墓を中国より移し、日本在住の子孫を祭主とした(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

                                「エルパカ」より


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今も、テーブルの上には氏の主要な著書が並んでいますので写真に撮ってみました(かなり持ち歩いているので傷んでいますが)。1914年の生年ですから百嶋先生よりもさらに一回り上の世代の研究者だったのですが、民族学会と言う利権構造のない研究に没頭されていたからか、出版が遅かったためか、また、天皇渡来説(朝鮮半島目支国沸流百済…)という「現在でも国賊扱いされる立場」だったためか、凄い知識と知見をお持ちだったにもかかわらず、あまり業績も知られず既に鬼籍に入られているようです。

このため、一般の邪馬台国論争、九州王朝論にも関わることなく、民間の研究者でもあまり知られていません。「日本語はなかった」は、一般向けに解り易く書かれた言語学、民族学、民俗学がふんだんに盛り込まれた本で、丁度、百嶋先生と同じスケールで、日本人のルーツ、日本語の起源、多くの民族が日本に流れ込んできている事を描いておられます。

まずは、頭の固まった神社庁や考古学会協会から国史学会の方々にお読み頂きたいと思うものですが、このような荒唐無稽な話は、言語学者などは無視するか眉を顰めるはずです。

「ドラヴィダ語起源説」といった大野 晋のような大家のものでさえ、好機とばかりに叩いた言語学会の事ですから期待しても無駄かもしれません。このような説を取り上げないのが学者のステータスと言わんばかりです。

では、ピナツボ火山(フィリピン)は“火の壺火山”の話に入りましょう。

世界的に見ても、fireファイアー(英)、Feuerフォイアー(独)、fuegoフェゴ(西)、huǒフォ(中)、fuoco フゥオーコ(伊)、feu フゥ(仏)、 ブル、プル(朝)、F音が認められます。

 これは、息を吹く時の口の形から派生したからと考えられますが、P音もその一つでしょう。


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まさに「ピナツボ」は「火の壺」ですね…


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次は「原」と書いてハル、バルと読む地名ですが、拙論は、久留米地名研究会のホーム・ページから「原(ハル、バル)」をお読みいただくとして、九州限定の原をハラとそのまま読む地名と、原(春、治、針…)をハル、バルと読む地名は全く別の語源の開墾地を意味するとするものです。

 渡辺先生もこの事に気付いておられますが、栃木県、茨城県の新治(ニイハリ)同様の地名が久留米市の東隣の浮羽市にも新治(ニイハル)として存在します。


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このニイハリ、ニイハル地名は、愛媛県の今治にもあるのですが、その底流に満州語のチチハルなどとの対応も考えておく必要があるでしょう。

 谷川健一も書いていましたが(「地名の古代史九州編」谷川健一 金達寿)、畑を耕しに行く事を「パリしに行く」とか、「開墾する」「耕す」を「パリする」というようで、未確認ですが、これは朝鮮語と同じとなるそうです(金達寿は何でも朝鮮語にしてしまいますが)。一般に、日本古語の「ハリ」「ハル」は開墾した土地を意味すると解すべきで、バリやバルになるのです。

 地名の話としてはここまでになりますが、百嶋神社考古学ではさらに掘り下げ、久留米市に編入された、旧田主丸町には「豊城」(トヨキ)があり、ここには、第10代と格上げされた自称神武こと崇神天皇の息子(皇位継承権など全くないのですから第一皇子じゃなく長男ですが)である豊城入彦が豊前から移動ししばらく滞在していた。その後関東に派遣された時に(四道将軍)、持ち出した地名がこの新治(ニイハリ)で
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あり、そもそも、「新」をニューとかニイとかニッと発音する言語特性(ヨーロッパ系)をもった民族が新羅から列島(勿論九州にですが)に雪崩れ込んでおり(宮崎県の航空自衛隊基地のある新田原ニュウータバル、可愛=エノ山稜で知られる鹿児島県薩摩川内市の新田(ニッタ)神社…、それらが関東に展開したと考えるのです(新田義貞もその一例)。

右は久留米市田主丸町豊城の交差点

198 百嶋神社考古学研究会の構想

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198 百嶋神社考古学研究会の構想

20150402

久留米地名研究会 古川 清久

現在、仮称百嶋神社考古学研究会(勉強会)の設立の話が出ています。

久留米地名研究会のように大規模に月例会を持つのではなく、実際に神社を調べて廻っているフィールド・ワーカーの連絡調整を図り疑問点を付き合わせ勉強しようという集まりです。

場所は、JR鹿児島本線春日駅から歩いて一分ほどの自然食喫茶「くるま座」になりそうです。

百嶋神社考古学はネット上でも関心を持たれており、関東地区からも新たに三名の方が百嶋先生の音声データ(40時間余り)や文字データが欲しいとの問い合わせが行われているところです。

熊本では、元々存在した研究グループが百嶋研究に関心を示しておられますし、地名研究会内部にも十名程度(これが実質的な神社考古学研究班ですが)、また、外部にも数名、百嶋先生のデータを熱心に調べておられる方がおられます。

会合を持ちやすい場所と時間帯で継続し、ネット上でも呼び掛ければ、直ぐに20名程度の研究会にはなりそうですが、当面は百嶋先生の講演録(玉音放送)聴きながら、分からない点を検討しあうところからスタートし、テレビ(HDMIタイプ)をおいて、パソコン、ワイファイで全国の神社を検討するとか、自分が調べて来た神社の祭神、祭祀氏族を検討するという作業を行いながら、真実の神代史の復元を図るつもりです。

スタート時点での入会金(設立準備金=ほとんどTVの購入費用のみ)なしで、参加費1000円程度を考えています。


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参加したい方は、くるま座(中島)まで連絡して下さい(℡中島:09052892994orくるま座:092-592-8903随時)。

「古事記」「日本書紀」を知らない初心者も歓迎します(皆初心者です)どうせ古事記の95パーセントは嘘なのですから…。

 現在、集まれそうな人は10人程度ですが、少しずつ参加者は増えて行くことでしょう。

 最近は地名研究会も久留米大学公開講座と組んで、大規模になってしまいましたので、いつの間にか私自身も質問を抑え、議論をしなくなっている事に気付いていました。

 再度、地べたにへばりついて、一から皆と議論し、内容を掘り下げて行く必要があるのです。

 まだ、仕事を終えた人が集まれる時間帯にするか、平日の午後二時以降にするか決めていません。

 テーマは山ほどありますし、メンバー数名が二〇分程度の短時間のリポートを持ち寄って発表してもらう形にするかも決まっていません。


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extra011 宇佐神宮とは何か? ⑪ “安心院の妻垣神社は自称神武こと贈)崇神天皇を供応した

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extra011 宇佐神宮とは何か? ⑪ “安心院の妻垣神社は自称神武こと贈)崇神天皇を供応したか?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

201504014

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


さて、宇佐神宮を考える上で、最も重要な妻垣神社(宇佐市安心院)に踏み入りましょう。

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今より2600年も遥か昔、日向を発し東国へ向かわれる途中、神武天皇は宇佐の地に立ち寄られました。
その際、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメの兄妹は一行を迎え入れ、宮を造り盛大にもてなしました。
翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をご覧になり、いたくお気に召されました。

天皇は連なる山々よりひと際輝く共鑰山に御母玉依姫命の御霊をお祀りする社をお造りになり、自ら祭主となって、玉依姫命の御霊を共鑰山にお迎えし、社を「足一騰宮」と名付けられました。このことより当社の歴史が始まりました。

妻垣神社HP 由緒 「妻垣神社の始まり」より


言うまでもなく「日本書紀」で一柱騰宮(ヒトツハシラ アガリノミヤ)、「古事記」で足一謄宮(阿斯毘苔徒鞅餓離能瀰椰 アシヒトツ アガリノミヤ)とされる重要な古社です。

ここで先回りした議論を優先させて頂きます。

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百 嶋神社考古学においては、これも初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を僭称した九州王朝の臣下としての第十代贈)崇神天皇(ハツクニシラススメラミコ ト)に関わる神社であり、ここに言う玉依姫も初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の御母君=神玉依姫ではなく、大山咋命の妃で贈)崇神天皇の母君、鴨玉 依姫の事と考えています(これについては百嶋由一郎最終神代系譜を参照して下さい)。

私がこの神社を意識したのは五年ほど前だったと思いますが、その時は、百嶋先生から頂いた資料に「一柱騰宮」と書かれていた様に記憶しています。

当然にも冒頭に挙げたこの神社の案内標識塔も「一柱騰宮」と書かれていたようでしたし主祭神も比売大神だったと理解しています。現在でもその痕跡が石塔の案内板に残されています。

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ところが、現在の由緒は「古事記」に沿って、足一騰宮とされ、主祭神も比咩大神(玉依姫命)とされているのです。

まず、神社を参拝する者にとって、縁起、由緒…が動く事は不安を感じますし、一体如何なる神様が祀られているのだろうかと疑うわけで、不安は不信へと発展する切っ掛けになりかねません。

勿論、神社のご判断で正しい表記を目指されるのは当然の権利であり、氏子でさえもない人間がとやかく申し上げるべきものではない事は重々承知しているつもりですが、迷い惑わされる事にはなるでしょう。

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さらに言えば、これは現在の御由緒ですが、数年前に訪問した時は、また違う由緒があったのです。


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これは、現在の御由緒と基本的には同じなのですが、ご覧になって分かるように、恐らく「比咩大神」が「比咩大神(玉依姫)」に、「一柱騰宮」が「足一騰宮」へと修正された跡が見て取れるのです(シートが上から張られていますね)。

こだわり過ぎていると言われそうですが、只でさえ謎の多い宇佐神宮について考えている訳であり、その元宮が妻垣(共鑰)神社ではないかと考える者にとっては、おいそれと避けて通ることはできないかなり大きな問題なのです。

と、ここまで見てきて、再度、考え直してみたのですが、この修正はそれほど古い時代に行われたものではないようですので、恐らく、現在の宮司にお尋ねすればそれで済む事なのでしょう。

  多分、宇佐神宮の祭神問題同様、比咩大神と九世紀に追祀された神功皇后とのバランスが悪く、こちらでも神功皇后を祀っているのに「姫」(比咩が女性で姫な らばですが…)大神とは?という問題があり、ましては主祭神が「比咩大神」では一体誰なのかに苦心されておられるのだと思うのです。

 これは宇佐神宮とて同様であり、“比咩大神とはきっと女性だろうから…”と宗像三女神とされているのかも知れないのです。

 妻垣にしても、まさか応神天皇のお妃でもないでしょうし、きっと神武天皇のお妃か母神様とでも考えられたのだろうと勝手に考えているところです。

 整理しましょう。宇 佐国造(コクゾウ=クニノミヤツコなどとは読まないように…)については、「日本書紀」「古事記」に初見があり、「神武紀」には天皇が筑紫国菟狭に至り、 後に菟狭國造の祖ともなる菟狭津彦と菟狭津媛から出迎えを受け、菟狭川の上流に造られた「一柱騰宮」で饗応を受けた。また、菟狭津媛を妻とした侍臣天種子 が後に中臣(藤原)氏の祖ともなったことが記されているのです。

こ の記述だけからも、宇佐神宮の原形が宇佐市安心院町の妻垣(ともがき)神社に端を発したことが見えるのですが、何故かこの神社は、現在「日本書紀」の「一 柱騰宮」(アシヒトツアガリノミヤ)から「古事記」の「足一騰宮」(アシヒトツアガリノミヤ)へと変えておられるのです。

実 際、混乱はここにも及んでいるようで、宇佐神宮の二の御殿の祭神も元はこの妻垣神社にあったのではないかとも考えるのですが、いつしか「比咩大神」から 「比咩大神(玉依姫)」に変わっているようなのです。もちろん玉依姫(カムタマヨリヒメ)は神武天皇の母神(一応育ての)の意味でしょう。

当然にも、安心院、院内、山香の一帯こそが宇佐のまほろば=ハートランドに思えるのですが、この安心院の地には、現在、公式に二の御殿の祭神とされている宗像三女神が三女神社として鎮座しています(二女神社かも?)。

ところが、この三女神社の縁起には、今も堂々と芦原の中国の宇佐嶋とは宇佐郡安心院邑のことで、その地を支配していたのは筑紫君であるとしているのです(縁起を参照のこと)。

 筑紫君とは、当然、筑前、筑後に分国される以前の話となりますが、九州王朝論者の中では常識に近い、久留米市三潴町の三沼の君のことであり、高々一三〇〇年の歴史しかない近畿朝廷などのことではないのです。



 無題.png当方とても悩みは同様で、実際に共鑰山中まで「一柱騰宮」=「足一騰宮」を確認に行きましたし、社報「ともがき」も読んだりもしたのですが、徐々に考えが纏まってきました。

 ここで、当方の試案を提出したいと思います。

 問題は比咩大神です。九州王朝論者にとって、豊玉姫とか玉依姫といったものにこだわる必要は一切ありません。それが柔軟に考えることができる鍵なのです。比咩と言えば頭に浮かぶものは、まず、呉の太伯の裔(周王朝)としての倭人であり、倭国の大王が姫(紀)氏であることを知っているのです。そうです、呉の太伯の一族は姓を「姫」としていたのです。


太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国王朝の古公亶父の子で兄弟。后稷を始祖とすることから、宗家と同じ姫(き)紀元前12世紀紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。太伯は長男で、(句呉,)の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は次男。仲雍、仲とも。

「ウィキペディア」20150414 23:20 による

これは作業仮説として理解して頂きたいのですが、倭国の大王としての神武(仮に)が祖神としての姫大神(比咩大神)を祀ったと考えるのです。

九州王朝の時代が終わり、宇佐神宮の前身である九州王朝の神宮も、749年に九州の総廟を現高良大社から宇佐神宮に奪う過程でこの九州王朝の祖神が応神天皇に替わったのですが、直ぐに比咩大神が呼び戻され、一社二殿二神の時代が続いたのです。その後九世紀になり、何故か神功皇后が追祀され現在の一社三殿三神形式が成立したのです。

してみると、この比咩大神とは高良玉垂命=第9代開化天皇だったことにもなりそうです。何故ならば、神功皇后と高良玉垂命とは夫婦だったからです(「高良玉垂宮神秘書」)。

 そうすると、三女神社が“同社は水沼君が祀った”とする縁起を持つ事が氷解するのです。“比咩大神とは高良玉垂命=第9代開化天皇”としましたが、“神武天皇がこの地を訪れた時に共鑰山に玉依姫を祀った”のだからおかしいじゃないかと言われそうですが、実はその話にはとんでもない仕掛けがあるのです。

「記」「紀」に言う神武天皇とは“東征の神武”を含め初代の神武(カムヤマトイワレヒコ)ではなく、“自称神武”“神武僭称”第10代崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)だからなのです。

 初代神武の母神は神玉依姫(カムタマヨリヒメ)であり、神武僭称第10代崇神の母神は鴨玉依姫(カモタマヨリヒメ)なのです。

この崇神(ツヌガノアラシト)は同時に、正妃を神功皇后とする高良玉垂命(藤原により第9代とされた九州王朝の大王開化天皇)の年上の臣下であり、妻垣神社の比咩大神とは高良玉垂命の事であり、宇佐神宮にも神功皇后が併祀されていた可能性があるのです。それは夫婦神だったからです。


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無題.pngそこで、同社神殿の屋根を見て下さい。はっきりと高良玉垂命の神紋五七桐が打たれていますね。左に在るのは剣唐花です。これが高良大社(が隠している)の本来の神紋であり、現在高良大社が左三巴と共に表に挙げている木瓜紋(右)は臣下の神紋なのです。

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安心院の他の地域にもこのスタイルの五七桐が打たれた貴船神社が数社ありますが、それも九州王朝の臣下としての意味だったのです。


あくまでも百嶋神社考古学の立場からの結論ですが、この妻垣神社も、七世紀までは九州王朝の神宮であったものが、いつしか崇神天皇にすり替わった神社だった事になりそうです。

extra012 宇佐神宮とは何か? ⑫ “境外摂社鷹居社とは何か?”

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extra012 宇佐神宮とは何か? ⑫ “境外摂社鷹居社とは何か?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

201504015

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


次は、宇佐神宮を考える上では避けて通ることのできないもう一つの視点から考える事にしましょう。

宇佐神宮の境外摂社に鷹居社があります。


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10号線沿いに交差点がありこの鳥居から数百メートル入ると鷹居社があります。


カーナビ検索用大分県宇佐市上田字1435

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仲哀天皇神功皇后応神天皇


本殿は覆殿の中にあって見えないが、流造らしい。中を覗こうとしたが「無線警報装置」があると書いてあったので止めた。 元明天皇和銅五年の創建で、八幡大神の御社を最初に奉建した霊地である。
 宇佐神宮に関する、辛嶋氏伝承では、八幡神は、欽明天皇の御代、宇佐郡辛国宇豆高島(
稲積山?)に天降り、大和国の膽吹嶺に移り、紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、乙咩泉社瀬社当社鷹居社小山田社現社地へと移ったとする。拝殿後方に幣殿があり、その後ろに覆殿に覆われた本殿。境内には、駐車場などもあり、「憩いの場」を目的に整備されたようだ。が、雑草が多く、あまり活用されている雰囲気ではない。

敬愛する「玄松子の記憶」より


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読めばお分かりになると思いますが、八幡神に大出世した応神天皇(実は別王)が元々いた場所の一つがこの鷹居社なのです。

逆に言えば、元々、現在の亀山はもとより、安心院にもいなかったという事になるのです。従って、現在の鷹居社自体も抜け殻の神社との印象を持つのですが、お叱りは覚悟の上です。

玄松子氏が引用された宇佐郡馬城嶺(マキボン)こそ大元神社が鎮座する御許山(マキボン)の事でしょうが、それは降臨説話であり、実際にはこの地に駐留していたのだと思うものです。

では、それ以前、実際にはどこにいたのでしょうか?

それが、香春三山のある田川(鷹羽)郡であり、筑前大分の飯塚市の大分八幡宮だったはずなのです。

これも、贈)応神から見た場合の元宮、元々宮、元々々宮になるのですが、その前はと問われれば、渡辺光敏氏の説に乗り、朝鮮半島の馬韓 目支(マキ)国=沸流百済であり、それこそが崇神→応神朝廷=近畿大和朝廷に成長したと考えています。

従ってこの鷹居社こそ九州王朝の下剋上成り上がり国家=近畿大和朝廷の故地なのです。

次は、この事を考える事にしましょう。

extra013 宇佐神宮とは何か? ⑬ “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは「三国史記」の目

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extra013 宇佐神宮とは何か? ⑬ “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは「三国史記」の目支国のマキ

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

201504015

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


101 宇佐神宮とは何か? ⑪ “安心院の妻垣神社は自称神武こと贈)崇神天皇を供応したか?において、

「記」「紀」に言う神武天皇とは“東征の神武”を含め初代の神武(カムヤマトイワレヒコ)ではなく、“自称神武”“神武僭称”第10代崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)だからなのです。


と、しましたが、崇神の和風諡号「紀」では御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエ)とも御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)とし、「記」でも御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエ)とします。

してみると、そのマキとは、宇佐神宮上宮の遥拝所から崇める御許山の別名が馬城峰(マキボン)と呼ばれている意味が分かってもらえたと思います。

この、贈)崇神天皇に関わるマキは外にも馬城小学校などとして現地でも確認できます。

ここで、敬愛する渡辺光敏氏の「日本語はなかった」から一部をお読み頂きます。

妻垣神社に現れた神武天皇なるものが、初代神武天皇ではなく、藤原によって第10代と超格上げされた贈)崇神天皇の事である(この事は日向から東征した神武も)としたことが多少とも理解頂けるでしょう。

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無題.pngでは、藤原氏は九州王朝の臣下でしかなかった崇神を贈)崇神天皇とまで格上げしたのでしょうか?

 それは、彼らの出自そのものがそこにあったからなのです。

 事実、妻垣神社の縁起でも、天種子命が藤原氏の遠祖であるとしています。

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妻 垣神社で供応した宇佐津彦、宇佐津姫の一族が藤原の遠祖である天種子と合体しその後の薦神社の社家や宇佐神宮の到津家になっているのですが、だからこそ、 妻垣で供応されたとする贈)崇神を初代神武としたいのであり、九州王朝の痕跡を消す事によって、盤石の近畿大和王権(実質は藤原王朝)を確立しようとした のです。

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どうやら近畿大和朝廷が、何故 宇佐神宮をこれほどまでに重視し贈)崇神を神武であるかのように装ったのかが見えてきました。皆さんも、再度、百嶋神代系譜で確認して下さい。

 ここで「記」「紀」に「一柱騰宮」、「足一騰宮」と書きとめられた時代を考えて見ましょう。

 この神武が藤原によって高下駄を履かされた贈)崇神天皇だったとしましょう。

 では、それを出迎えた(受け容れた)菟狭國造の祖ともなる菟狭津彦と菟狭津媛とは如何なる一族(民族)だったのでしょうか?

 まず、贈)崇神は大山咋の子であり、大山咋は阿蘇の草部吉見の子です。ただ、これは父(男)系として見た場合の話であり、母(女)系として見れば、鴨)玉依姫、活)玉依姫…瀛氏、白族の流れとも言えるでしょう。

 そこまで考えれば、宇佐の安心院で供応した一族も同様(阿蘇系、白族)だったと考える余地は十分にあるわけで、 既に三女神社があることはお知らせしましたし、瀛氏の宗像大社の一族が先住者としていた事が見えてきます。

他に、大神比義の一族、唐(韓)島氏もありえるのですが、後に、各々排斥された事を考えれば、恐らくこの瀛氏、白族の一族が、宇佐神宮の原初的な一族だったことが見えてくるのです。

この点は今後とも探求が続きます。

最後に、百嶋先生は安曇族の故地もここ安心院であり、直接的には温見(ヌクミ)地区で、本来はアツミなのだと言われていました。熱海温泉の「熱海」も渥美半島の「渥美」もこの派生したものなのです。

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extra014 宇佐神宮とは何か? ⑭ “到津屋敷をご存じですか?”

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extra014 宇佐神宮とは何か? ⑭ “到津屋敷をご存じですか?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

201504015

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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宇佐神宮参道

宇佐神宮の表参道をそのまま進むと右手に宇佐神宮庁、左手に菱形池がありますが、手前の大鳥居(写真の鳥居ではありません)を潜る前の右手に鎮座する黒男神社の辺りで左手に進むと、左手に立派な宮司屋敷があり、到津○○との表札が掛けられています。

何を言おう、この建物こそ千数百年に亘って宇佐神宮を預かってきた到津家の御屋敷なのです。

宇佐神宮には時代と共にその時々の多くの宮司家がありました。面白いところでは、石油元売り出光興産の一族も宇佐氏であり、一時期宇佐神宮の宮司を務めています(他にも安心院氏など数家)。

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宮司屋敷の門に残された紋章、何故か五七の桐(高良玉垂命=開化天皇の神紋)恐らく九

州王朝滅亡後の749年に九州の宗廟を高良大社から奪った時以来の戦利品なのでしょう!!


宇佐神宮、女性権宮司を解雇…神社本庁から免職

20140529 1457 読売

 全国八幡宮の総本社・宇佐神宮(大分県宇佐市)は28日、到津克子・権宮司(46)が神社本庁(東京)から権宮司職を免職されたことを明らかにした。

 神宮は到津さんを解雇した。いずれも15日付。

 到津さんは「自分が宮司」と主張し、2010年、地位確認などを求める訴訟を起こしたが、昨年5月、最高裁で敗訴が確定した。

 神宮の責任役員会は今年1月、神社本庁に到津さんの免職を具申。

免職決定を受け、到津さんを解雇し、母親と住む境内内の職舎を明け渡すよう通告した。

 同神宮の籾倉了胤・顧問弁護士は28日記者会見し、「免職を求めた理由は明らかにできない」とした。その上で、訴訟の期間を含め3年以上、到津さんが神宮での仕事をせず、敗訴確定後、神宮側の指導にもかかわらず、勤務状態が改善されなかったことなどを明らかにした。

 一方、到津さんの関係者は「到津さんは宮司の指示に従って働こうとしたが、神宮側が仕事をさせなかった。納得できない。本人もショックで体調を崩している」と反発している。

佐伯市から観光で訪れた主婦(63)は「宇佐神宮はいつも、混乱しているイメージがある。一日も早く、問題を解決して立ち直ってほしい」と話していた。


確定したのは昨年の今頃だったのですが、同年夏の大祭のおり偶然にも到津克子さんとその娘さんが宮司屋敷の表木戸から入って行かれるのを見掛けた事があります。

最高裁の確定後でしたが表札は元のままでしたし、今も荷物は置かれていると聞き及んでいます。

ま ず、宮司屋敷なるものがある事をご存じない方が多いと思いますので、ご自分の目で確認される価値はあるのではないでしょうか?問題は宇佐神宮が国のもの (国家神道は高々百年もない)なのか、それとも私的な一氏族のものなのかというところにあります。国家神道といった概念は戦後になり廃止されたはずだった のですが何故か神社庁は専横を振い、彦山など他の神社でも大小の差こそあれトラブルは増加しているようです。元々日本に於いては憲法が存在しても守られた ためしはないのであり、そのような憲法を守るべきだとも、改めるべきだとも一切考えませんが(元々一度も守られた事の無い憲法を云々する事に意味は存在し ない!)権力はいついかなる時でも必要さえあれば、憲法違反も法律違反もするのであって、国家が法律とか憲法とかを守るなどと夢々考えてはならないので す。

  まあ、そんなことは分かり切っているので、どうでも良いのですが、そもそも宇佐氏から分裂して到津家(武家=侍分)が成立した事自体が南北朝争乱期の生き 残り戦術だった訳で(良く言って、両派に与していれば何れかが生き残れる、悪く言えば、必要な時には何時でも勝ち馬に乗りいつでも裏切ろう・・・)、古く は、鎌倉幕府成立前、源義経を助けるべく奔走した豊後の緒形三郎惟栄は、潰された大神氏の恨み故か平家の拠点だった宇佐神宮焼き討ちしているし、戦国期も大友宗麟の手で再び焼き討ちされています。

  従って、国家のものだったはずはないのであり、その時代時代で、有力な勢力と結びつき生き延びてきただけのことだったのです。古来、天皇家=近畿大和朝廷 が援助し守って来たなどとは凡そ言えないものなのです。ただ、宇佐神宮が到津家のものだったかと言えばそれも間違いであるはずなのです。

この点、“本願寺教団の財産”とか言った仏教系の財産の様に分かり易い評価が非常に難いのです。

神社庁が専横を振うのは、今も昔も力を握った連中の習性であり、自らを守ろうと思えば太宰府天満宮の様にせっせと金を贈り官僚どもを接待し良い思いをさせ続ける以外にはないのです。

役人とは所詮そんなさもしい連中なのであり、強請り集りのオリンピック委員会(IOC)がクーベルタン以来、ヨーロッパ貴族のゴロツキ興行主(日本では相撲の勧進元=地まわり)であった事と同義なのです。

extra015 宇佐神宮とは何か? ⑮ “恐れ多い事ですが、そろそろ本殿の話に踏み入りましょう

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extra015 宇佐神宮とは何か? ⑮ “恐れ多い事ですが、そろそろ本殿の話に踏み入りましょう

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

201504021

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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カーナビ検索宇佐市南宇佐2859 (℡ 0978-37-0001


一之御殿  八幡大神誉田別尊(応神天皇)

祭神  二之御殿  比売大神宗像三女神多岐津姫命市杵姫命多紀理姫命

三之御殿  神功皇后 息長帯姫命

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宇佐神宮公式HPより

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宇佐神宮由緒                   妻垣神社由緒

まず、分かりやすいように、宇佐神宮のしばらく前の由緒書と重要な妻垣神社のしばらく前の由緒書を見比べて見ましょう。

問題はヒメオオカミ(両社で表記が異なるためカタカナにしました)とは何かです。

現在の宇佐神宮は、元は「比売大神」だったものを宗像三女神としています(現HPをご覧ください)。

一方、妻垣神社は、これも元は「比咩大神」だけの表記だったものを玉依姫(同社の理解は、記紀の初代神武天皇の育ての母である玉依姫の意味と思われます)と()書きを加えています。

このような重要な祭神(恐らく応神ではなくこちらが主祭神)に関して全く異なる解釈がされているというある種の混乱があることから、ヒメオオカミをめぐって「卑弥呼」「天照大御神」…といったとんでもない説が取りざたされる余地が生じているのです。

その前に、何はともあれこの配神体制がいつから取られるようになったのかを考えて見ましょう。

宇佐神宮沿革

宇佐神宮を九州王朝論の立場から取り上げることについては、少なからざる危うさが付きまといます。

九州王朝論者の内部においてさえ、和気清麻呂の故事でも知られる近畿大和朝廷とのただならぬ結び付きからか、敵とまでは言わないものの、むしろ九州王朝の対極(敵方)と考える向が少なからずあります。

当然ながら、九州王朝論に立場にある研究者の中にも宇佐神宮に古王権の痕跡を探った人を知りません。

しかし、宇佐神宮という最低でも六世紀まではその存在が想像できる神社が仮に九州王朝の敵対物だったとした時、西日本全域から東日本までも版図を伸ばしていたとは全く想像できない事になるのです。  

当方も百嶋先生との接触によって、ようやく、七〇一年以前において宇佐神宮は九州王朝の神宮だったと考えるに至ったのでした。

勿論、通説に寄り添う方々はこぞって否定されるでしょうが、注意して考えれば宇佐神宮はその痕跡をなおも持ち続けているのです。

そもそも「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、八幡大菩薩(大帯姫)は善記元年に唐より日本に還ってきたというのです。

まず、「善記」そのものも通説派が否定し続ける最初の九州年号なのであって、容易に九州王朝との関係を無視できるはずがない事は明らかでしょう。

そこまで考えるまでもなく、宇佐神宮の祭神については、古来、“主祭神は二の御殿の比売大神ではないか”とか、実は“卑弥呼である”といった多くの疑問が出され提案もされてきたのです。

ここではそのような経緯にはふれず、簡単に九州王朝との関係を考えて見たいと思います。

まず、主神は一の御殿の凡牟都和気(応神天皇)、正面の二の御殿に比売大御神、右の三の御殿に神功皇后が配されますが、当然にも重要なのは、やはり、中央の二の御殿の比売大神でしょう。

その証拠に、そこには勅使門、申殿が置かれているのです。

しかし、宇佐宮が始めからそうであったというわけでもないのです。

顕現は古く、欽明天皇32年(571)といわれ、和銅五年(712)に官幣大社に班幣されたと伝承されているのです。

今の亀山の地での創建は神亀2年(725)であり、その時点では一の御殿の応神天皇が単独で祀られていたとされるのですが、何故か、直ぐ四年後には二の御殿の祭神、姫神、(比売大御神)が天平元年(729)に併祀され、さらに百年近く遅れて平安時代の弘仁14年(823)に神功皇后が三の御殿として祀られ現在の形が成立しているのです。

無論、根拠が僅かしかない私見ですが、数年で二殿、二神とされた経緯は何とも奇妙です。

本来、二の殿の比売大神が祀られていたものが、応神天皇にとって変わり祀られたものの収まらず(治まらず)、あわてて元の比売大神が呼び戻され合せ祀られたものに見えるのです。

では、比売大神とは何か。これが、全ての謎を解く鍵でしょう。ここで、一つの作業仮説を提出します。

もしも、比売大神が女神を意味するお姫様の姫(媛)ではなく、「姫」姓を名乗る男神の姫氏であったとしたらどうでしょうか?

九州王朝論者に限らず、古代史に精通した人ならば誰でも知っている「倭人は呉の太伯の末」という「後漢書」ほかの多くの中国側史書に記載された有名なフレーズが直ぐに浮び上がってくるのです。

いわゆる邪馬台国論争はともかくも、北部九州が倭人の国であったことについては、畿内説論者でも無理に否定する人は少ないでしょう。

「呉」も、もちろん三国志の呉ではなく「臥薪嘗胆」の故事で知られる「呉越同舟」の呉ですが、その王は姓を「姫」と称していたのです。

だからこそ、その周王朝の末裔である姫氏=九州王朝の大王が祀られ、その裔たる天子が通るからこそ宇佐神宮の正面に呉橋(今は呉の工人が造ったとだけ説明される)が掛けられていたのです。

現 在、宇佐神宮庁は二の御殿の比売大神を公式には宗像大社の三女神としているのですが、それは、三御殿制となって以降、比売大神の存在と神功皇后との座りの 悪さによって生じた混乱を解消しようとされた上の事ではあるのでしょうが、いつしか一社、三御殿、五神制という極めて変則的な形になった今の姿は、さらに 一層混乱した姿に見えるのです。

もう一つ、「八幡宇佐宮託宣集では「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とし、大分八幡宮こそが本宮としているのです。

この大分(ダイブ)についても、九州王朝論者の一部では、太宰府、太保府、太傅府、とは、中国の周の時代の役所名であり、大分は“天子の養育に携わる太傳府が置かれた場所である”との説が提案されています。

その証拠というほどのものではなく一つの傍証でしかありませんが、大分八幡宮の正面には汐井川が流れており、本家移転の箱崎八幡宮も元は大分八幡宮のお汐井汲みの場所でしかなかったのです。

安全な内陸部での王室、皇室の維持には、塩分(ミネラル)分の供給が欠かせない事は言わずもがなでしょう。

太宰府は文字通り現太宰府市が、太保府が小郡市大保に、太傳府が飯塚市大分にあり、三府が筑前に揃い、宇佐神宮と九州王朝との関係が多少とも推定できるのです。(HP「倭国筑紫王朝」より要約)

さらに別の側面から考えて見ましょう。

宇佐神宮の西に位置する呉橋からは旧道が近くの「化粧井戸」を通り、一路、中津、豊前、採銅所のある香春岳へと勅使道が延び、さらに大分宮から太宰府へと延びているのです。

その中間とも言える豊前市四郎丸山田にも住吉大神を祭る大富神社があり今も「勅使井」が置かれています。

当 然にも近畿天皇家、大和朝廷からの勅使と説明され、和気清麻呂も含め明治期にも使ったとはされてはいるのですが、辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命の 三神を祀る香春岳一帯と宇佐との行路上にあるだけに、九州王朝の本拠地である太宰府、久留米高良大社とこそ通じていたと考えたいのです。

もしも、近畿天皇家の勅使であったなら宇佐神宮の呉橋の下を流れる寄藻川河口に鎮座する宇佐市和気(ワキ)の古代の岬(浅潟地は岬がに港になる)柁舵鼻神社辺りに直接船付けしそうなものでしょう。

事実、同社の縁起にはそう書かれています。

また、この古代官道を利用する勅使も、しばらくして途絶え、ようやく明治期に復活したとも伝えられているのです。

では、天皇または天皇の勅使しか渡れないとされた呉橋を渡った後、その一行はどこへ向かうのでしょうか。当然にも、上宮の二の御殿正面にある申殿、勅使門でしょう。

今は失われているらしいのですが、「この勅使門の内側には神棚が置かれ阿蘇の神と高良玉垂命が祀られていた…」と、以前、神社関係者から直接聴いた事があるのですが、非常に興味深い話であり以来九州王朝との関係を考え続けています。

ここで、何時の時点かで本来の祭神「比売大神」と一の御殿の祭神「誉田別尊」とが入れ替わったと想定して見ましょう。

それまで誉田別尊はどこにいたのでしょか。境外社ですが、宇佐神宮の摂社に「鷹居神社」があります。

こ の応神天皇、神功皇后、仲哀天皇を祀る神社には「八幡宇佐宮御託宣集」に基づいて「…この兩所は、宇佐郡の大河にあり。鷹に代り瀨を渡り東の岸の松に居し き。また空を飛び西に岸の地に遊す。故に鷹居瀨社と云ふ。この鷹は、これ大御神の變なり。大神比義、祈り奉りこれを顯す。祠を立て、祭を致すなり。…」 (日本國御遊化部)という縁起があります。

辛島氏、大神比義の時代、誉 田別尊はこの地にあったと考えられます。古来、神社と寺院は形を変えながら、時の権力に合わせ、時としては神社、時としては寺院に装いを変えながら生き延 びてきたのですが、その神社と言えども、時々の勢に合わせ、時として祭神を隠し、入れ替え、あるいは合祀してきたのです。

それは、奉祭する神とその氏族を守るためであり、それ以外に仕方がないことではあったでしょう。

ただ、そうして入れ替えられ排された神といえども、祟りを恐れてもあるが、決して粗末に扱われることはなく、どこかに祀られていることが多いのです。

そうした眼で、一般にも手に入る「宇佐神宮御本殿について」を見ると、八幡宮様式の社殿側面図(最後部に添付)の下に平面図が書かれ、通常、容易には入れないために殆ど垣間見ることができない神宮の配置が分ります。

これを見ると、前述の大富神社には祀られている本来の祭神=住吉大神、春日大神、妙見神が排されるものの決して粗末にされる事なく祀られているのではないかとの推定が一応できます。

ただ、この春日大神が藤原氏を意味するものか、阿蘇神であるかは実物を見ないこともあり判りません。

こ こで、宇佐のまほろばを、安心院、院内としたのですが、院内インター付近には、今も、天御中主命他を祀る北辰神社があり、安心院インター付近にも住吉大神 を祀る飯田神社があります。また、春日大神は、境内の下宮近くにもあり、宇佐市役所付近の古代のウヲーター・フロントに今も確認できます。

さらに踏み込みましょう。

無題.png弘仁14年(823)に神功皇后が三の御殿として祀られたとしましたが、もし、住吉大神が比売(姫)大神であり高良玉垂命であったとすると高良大社で触れた「高良玉垂宮神秘書」(同紙背)の上注「高良大明神は神功皇后と夫婦なり」が生きてくるのです(高良大社の項参照)。

なぜなら、高良玉垂命と夫婦であることを知っていたからこそ、三の御殿の神功皇后の傍に住吉神=高良玉垂命が置かれ、また、宗像三女神と入れ替えられた後も、住吉神社としてそばに置かれたと見ることができるからです。

 ここで、小さな点にも触れておきます。久留米市の大善寺玉垂宮が高良玉垂命を祀ることは前述していますが、大善寺町には玉垂宮と別に天台宗の古刹大善寺があり、この大善寺と全く同じ「大善寺」という字が宇佐八幡宮のすぐ近くにあるのです。場所は寄藻川の上流、呉橋から2300メートルほどのごく近い場所で、下宮からも500メートルとは離れておらず、実際、現在も曹洞禅宗の大善寺があることに奇妙な一致を見て面白いと考えています。

 この宇佐の大善寺には今も大きな弥勒菩薩が置かれており、この巨大仏像は明治の廃仏毀釈の時期に、この寺にと移されたと聴いています。これが偶然であるはずはなく、古代の神宮寺であった事のなごりだったと思っています。

 ここで宝物館の御輿についても考えておきます。参拝者の一割も訪れない宝物館の中心的な展示物が三基の御輿です。写真撮影が禁止されていることから、最近鬼籍に入った神社考古学者から入手した資料から一枚の古い写真を既に掲載しておきます。

 真中の御輿だけに鳳凰が飾られていますが、この御輿は現在の御殿の並び方とは異なり、一の御殿の応神天皇のものとして説明されているのです。

 そのことにも疑問を持つのですが、この木瓜紋(剣唐花)も高良大社(高良玉垂命)に配された神紋なのです。これらのことから、宇佐神宮もその原型は九州王朝の大王を祀るものであったのではないかという問題に行き着くのです。

誤解を恐れずに言えば、古田史学の会系の本流の九州王朝論者の間でさえも津田左右吉以来の通説を無視できず、神功皇后は卑弥呼や九州王朝の大王の業績を置き換えたものとしており、神社庁はもとよりこのような話は受け入れられない内容でしょう。

このため、神武はともかく第二代綏靖から第九代開化までのいわゆる欠史八代の天皇を全くの架空と考える向きが多いのです。

権 力=近畿大和王権に対して尻尾を振るしかない者は、所詮、研究者ではなく、古代史村、考古学村の住民でしかないためしかたがないとしても、大和朝廷の都合 に合うように書かれたもので、所詮、偽書の一つでしかない「日本書紀」「古事記」をいかに徹底的に読もうが、通説の大家の説に学ぼうが、ほとんど真実に近 づくことはできないのではないでしょうか。

結局は不比等の仕組んだ迷路に踏み込ことにしかならないのです。

高良大社は、高良玉垂命、八幡大神、住吉大神の三神を祀るのですが、高良玉垂命と住吉大神とは別の神とされています。

この点にもふれないと新たな混乱を生じかねないから断っておきたいのですが、百嶋由一郎氏は六十数年の神社研究を元に、三つ巴の神紋を使った住吉大神には前の代と後の代があったと言残しています。その高良大社はこの二つを使い分けているのですが、到津家の屋根瓦にも左三つ巴と三五の桐が見て取れます。

三五の桐は神功皇后の神紋ですが、辛島、大神比義に続き、千年続いた到津家も、天下り先を貪欲に求め続ける神社庁から遂に排されることになったようです。

まだまだ書きたい事はあるのですが、あまり宇佐神宮ばかりを取り上げても読者が嫌がられると思う事から、ここでいったん中断することとしたいと思います。

少しは宇佐神宮に対して関心を持って頂いたのではないでしょうか?

最後になりますが、宇佐神宮と妻垣神社とに認められる姫大神を巡る混乱の背後にも、北辰神社を奉祭する氏族と春日神社を奉祭する氏族との対立を見て取る事ができそうです。

藤原氏自体がこの春日神社(実は草部吉見系)を奉祭する氏族の中から登場し成長しているのであり、妻垣神社に現れた神武天皇も実は第10代とされ格上げされた崇神天皇の事だと透けて見えます。

私達はこれらの多くのベールを剥ぎとることなくしては、決して古代を見通すことはできないのでしょう。

今後とも、日本のダビンチコードとも言うべき宇佐神宮=従って九州王朝の古代神宮を探る作業は続きます。なお、宇佐神宮についてはしばらく休憩します。



高良大社に残る古文書「高良玉垂宮神秘書」

無題.png



九州王朝の最後の天皇であり高良玉垂命(開化)と神功皇后の間に生まれた長男を祀る

このことも含めていずれ書く事にしましょう。

199 「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の“跡宮”とは何か?

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199 「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の“跡宮”とは何か?

20150403


久留米地名研究会 古川 清久


連携ブログの「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院は、百嶋神社考古学に特化したより専門的なブログとして別のサーバーからオン・エアしています。

ただ、「(跡宮)って何だ?」という声も聞かれますので、ここで、説明しておこうと思います。

「跡宮」と聞けば古い方ならば、戦後の焼跡ラジオ・ドラマ(NHK連続放送劇と言うべきですか?…実に古い表現ですね…)として全国を沸かした「君の名は」の主人公、氏家真知子の恋人役の後宮春樹を思い出される方もおられるでしょう。

199-1

勿論、「宮跡」という言葉は存在します。言うまでもなく神社の移転後の跡地程度の意味ですが、実は「跡宮」という表現を残す神社があるのです。

これは、恐らく後置修飾語(フランス語、スペイン語、イタリア語…)の名残などではなく、“確かに御神霊をお移しした跡地ですが、ちゃんと分霊を今もお宮としてお祭りしているものですよ。”といった気概が込められた名称のように思います。


その神社とは、剣豪塚原卜伝が信奉した武甕槌大神を祀る常陸の国の鹿島本宮(跡宮)です。

みなさんは、鹿島神宮に実は「本宮と跡宮」がある事をご存知でしょうか?このことは「新鹿島神宮史」にも記述があり以前より気になる場所でした。今回の探訪は、今までの鹿島散策とは、一味違った散策となりました。本宮と云われているのは、茨城県潮来市大生にある大生(おおう)神社です。
ここは、毎年11月中旬に開催されている茨城県無形民俗文化財ともなっている「巫女舞神事 」で、有名です。大生神社は、建御雷之男神を祭神としていますが、梅原猛が「神々の流竄」の中でこの神社の事を言及しています。同著の中で氏は、大生神社が建つ地は大生氏すなわち多臣氏が開拓した地であるという説を紹介していて、これらのことから鹿島は建借間命の名をとって地名としたのではないかと結論づけています。確かに「タケカシマ」から「カシマ」そう言われると尤もに感じてしまうわけですが、ここ常陸の国の大半が多氏によって開拓されたのは事実のようです。ここ、大生神社は多臣の氏神様の地でもあるわけです。


199-2 三間社流れ造りの見事な茅葺の拝殿と本殿


199-3 通称「なんじゃもんじゃの樹」左下には、明るい「オーブ」が出現!?

199-4 参道脇に陰陽石がひっそりとお祭りされていました。


境内は、とても静かで最後まで私達以外は、尋ねてくるものは誰もいませんでした。
本殿は、神社の中でも珍しい三間社流れ造りの見事な茅葺(さすがに現在は、茅葺を模した造りになっています)で、茨城県指定有形文化財にもなっているそうです。由緒では、「創祀年代はあきらかではないが鹿島の本宮と云われ古く大和の飯富(オフ)族の常陸移住の際氏神として奉遷し、祭祀したのに始まる」とありました。跡宮の地は、鹿島神宮から南に行った神野4にあります。ここには、面白い伝承があります。以前サクラさんがさくらの日記に書いていたので紹介します。本社より南にあり、荒魂宮とて有り。大曲津命を祭る。俗に跡宮といふ。是れ神野と云ふ里なり。この傍に女一人あり。神主亀卜を以って之を定む。当社神秘の例を勤め行ふ。当社の神符を授く。物忌職と為す。以上「鹿島宮社例伝記」より

…中略…

鎌倉時代に「光俊朝臣」は歌に


みそらより 跡たれそめし 跡の宮 その代もしらす 神さいにけり

  
と詠み、この跡宮が「鹿島社の大明神がはしめて天くたらせ給いし所なり云々」と伝えています。この跡宮に降りた神こそ、鹿島の神なのでしょうか…。


199-5

「(武甕槌大神が)神護景雲元年に奈良にご遷幸の際ここから出発されたのでその跡宮として祀る」とあります。                               

ブログ「日々平穏」より


お分かり頂けたでしょうか?「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 の“跡宮”とは、この神社から採題したものでした。

さて、ブログ「日々平穏」氏がお書きになっているとおり、大生神社は、建御雷之男神を祭神として、大生神社が建つ地は大生氏すなわち多臣氏が開拓した地す。


その多氏こそ「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 で何度となく書いてきた阿蘇氏の事であり、建御雷之男神、建借間命武甕槌尊…とする阿蘇高森の草部吉見神社の祭神=彦八井耳命=海幸彦=大年神=天児屋根=天忍穂耳=支那ツ彦=贈)孝昭天皇(勿論、本物の天皇ではない)なのです。

この草部吉見神社については、その重要性から「ひぼろぎ逍遥」でも過去何度となく取上げ書いてきました。

「ひぼろぎ逍遥」掲載分のみで「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 のものは含まれていませんが、少なくともこれだけは取上げています(以下、関心をお持ちの方はお読みください)。



199-6



ブログの冒頭001から書いている様に、この俗称海幸彦は、山幸彦(実は香取神社の祭神)とともに、常陸の国=日高見の国=北上の国(H音とK音の入れ替わり現象)まで進出していたのです。

これが九州王朝の最大版図であり、第二ブログをスタートさせる時点で、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)とした理由なのです。

では、この鹿島神宮の鹿島とは何でしょうか?

それこそが、肥前の国(佐賀県)有明海西岸の小都市鹿島市の事であり、佐賀県白石町、嬉野市、武雄市…と境を接する「万葉集」に歌われた杵島山の河岸の間である対岸の鹿島市(鹿嶋アントラーズの鹿嶋と鹿島市は市の名称を巡り多少のトラブルがあったことはご存じでしょう)の意味だったと考えるのです。

この地には、建借間命が東に向かったと言う伝承があり、この「万葉集」に歌われた杵島山は歌垣(嬥歌:かがい)の伝承地であり(常陸の筑波山の歌垣と対応します)、「常陸国風土記」に登場する“だまし討ち”とも対応するのです。

これについては、分かり易いブログがありますのでご紹介します。


 『肥前国風土記・逸文』(万葉集註)にある杵島の峰は比古神・比売神・御子神が鎮座していて、「郷閭(ムラザト)の士女、酒を提へ琴を抱きて、歳毎の春と秋に、手を携へて登り望(ミサ)け、樂飮歌ひ舞ひて、曲盡きて歸る。歌の詞に云はく、「あられふる杵島が岳を峻(さか)しみと草採りかねて 妹が手を執る」是は杵島曲(キシマブリ)なり」

…中略…

 再び常陸国。行方郡の話。

 崇神天皇のとき、健借間命という人が国巣(=土蜘蛛)のヤサカシとヤツクシを倒すため、油断をさせようと「天の鳥琴・天の鳥笛、波の随に潮を逐ひて、杵島唱曲を七日七夜遊び楽ぎ歌ひ舞ひき。時に賊の党、盛なる音楽を聞きて、房(イエ)挙りて男女、悉尽に出て来て、浜傾かして歓咲(ヱラ)ぎけり」。そこで我等がタケ・カシマ、「堡を閉ぢしめ、後より襲ひ撃ちて、尽に種属を囚へ、一時に焚き滅しき」。その戦勝を記念して各地にヨクコロシタとかカンタンニコロシタとかいう意味の地名をつけた……。

 記紀で崇神天皇が東国に使わした四道将軍は「健沼河別命」(古川注:草部吉見の父)であった。この人は、同時期に強敵・越(つまりヤマタノオロチ の出身地)を平定した大毘古の息子で、二人がそれぞれ攻めあがって、再会したところを「相津」=「会津」と名づけた。ちなみに大毘古は八代・孝元天皇の息子で・次の開化天皇古川注:高良玉垂命のお兄さんでもある…。ふうむ。タケカシマなんて、鹿島大神を思わせる武人名。やっぱ、タケミカヅチは後付なのかな?          

…中略…

 で、この土着マツロワヌ勢力の二人組みを、だまし討ちにしたり・歌にからめて滅ぼすっていうのは、神武軍・大久米命の得意技じゃあないか! このあたり神武=崇神=ハツクシシラシシスメラミコトのミックスジュースを還元できるかどうかワクワクするところであります。で、やっともとの神武天皇の話にもどった。

ブログ「不思議なことはあったほうがいい より



199-6

恐らく阿蘇五岳の一つに杵島山があり熊本県にも益城郡嘉島町があることもこの通称杵島山や鹿島から建借間命の阿蘇への移動と関係があると考えています(鹿島の前の鹿島は鹿児島県薩摩川内市市の甑島かも…)。



199-7

写真提供:松尾紘一郎(糸島市)


杵島山より対岸(古代には杵島山は島だった)の鹿島方面を望む(さらに先は雲仙岳)


軍神建借間命の一族(黎族=多氏=宇治氏=支那人)は、雲南省麗江からメコン川を下り、海に出て海南島に集結し、黒潮に乗り、熊本県の天草下島の苓北町に上陸し(この時点で杵島山方面に移動した分派があったと考えています)、その後阿蘇に移動して、先住者であった高木大神(高御産巣日神)の傘下に入ったのです。

その後(神武後)、九州王朝の時代、第9代開化天皇の時代の四道将軍が東日本に送り込まれるのです。

建借間命が直接送り込まれたのか、この神を奉祭する一族が進出したのかは、まだ、見当が付きません。

その後、七、八世紀になり藤原が権力を掌握して一族を守る軍神が必要とされ春日大社が造られる事は良く知られています。

今回は、「跡宮」の意味をお知らせしただけでしたのでここまでとします。

200 越人はスラウェシ海からやって来た!“再び「日本語はなかった」(渡辺光敏)から”

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200 越人はスラウェシ海からやって来た!“再び「日本語はなかった」(渡辺光敏)から”

20150403

久留米地名研究会 古川 清久


200-1今回も渡辺光敏氏の「日本語はなかった」“私説日本語の起源”からの採題です。

古代史の世界でも重要なテーマである“「倭人」とは何か?”に関わるものですが、ここには、倭人の主要な部分が中国の江南地方の海岸部からの移住者だったのではないかという問題が横たわっているのです。

二千数百年前、漢族の南下によって中原、江南から押し出された人々が、対馬海流にのって日本海を北上し定着したのが、越前、越中、越後であったのかも知れないし、また、同時に「倭人は呉の太伯の裔」との云いとも重なってもいるのです。

一方、陸路で南に追われた人々によって生まれたのが南越国や、越南(ベトナム)であったのではないかとも考えられる訳であり、この越人が何であるかも倭人を考える上で大きな課題と言えるのです。これについても、渡辺光敏氏は実に明確でした。

とっくの昔に答えを出しておられたのです。

インドネシアのボルネオ島の東のスラウェシ海、スラウェシ(セレベス)島にいた人々が北に移動し江南に入っていたのが「越」であったと考えておられたのです。

その根拠とされたのが、前三世紀の「越絶書」であり、そこには「舟を須慮(スラ)と言う」とあると言うのです。

そう言えば、石を載せて運ぶソリも修羅(シュラ)と言い、船も「コンピラ舟舟シュラシュシュシュ」ですね。

まさに、越人とはスンダランドから北に移動した海洋民であり、その中にはバジャウ起源の船上生活者である家船の人々もあったのだろうと思うのです。

さらに言えば、ボルネオ島ダヤク族のガルーダの葬舟も列島の舟形石棺と対応するのです。

以下は、私の「船越」という小論に書いたものです。

民俗学の世界には"西船東馬"という言葉があります。これは中国の軍団の移動や物資輸送が"南船北馬"と表現されたことにヒントを得たものでしょうが、確かに西は船による輸送が主力でした。また、"東の神輿、西の山車"という言葉もあります。これは、それほど明瞭ではないのですが、東には比較的神輿が多く、西には山車が多いというほどの意味です。
 非常に大雑把な話をすれば、全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で"船越"を行なっていた時代からの伝承ではないかとまで想像の冒険をしてしまいます。
 直接には長崎(長崎市)に船越地名は見出せませんが、ここの"精霊流し"もそのなごりのように思えてくるのです(長崎の精霊船は舟形の山車であり底に車が付いており道路を曳き回しますね)。」

…中略…

永留久恵氏の「海神と天神」の「第一部 海神編 第二章 対馬のウツロ舟伝説 十、葬送と舟」にこの話の解答に近いものがありますので、少し長くなりますが、その一部をも紹介してこの論考をひとまず終わりにしたいと思います。しかし、再び対馬を訪ねることになると思います。その時には再び、船越(補稿)II を書きたいと思います。

 「・・・中国の史書「隋書」倭国伝を見ると、倭人の風俗を述べたなかに、「貴人三年殯於外、庶人卜日而葬」との記述があり、貴族は殯宮を建てて長期間もごり をしたことがわかる。庶民は卜して葬(はふり)をしたが、その間にはやはり殯の仮屋をこしらえたはずである。
 しかし、屍を安置する施設をもたないものは風葬に近い形がとられたであろう、と井上氏は説く。そして『続日本紀』文武天皇の七〇六年に、放置された屍を埋葬するよう令した詔が引用されている。
 水葬について諸先学は、蛭子を舟に載せて流したという『記』『紀』の神話は水葬の習俗を映したものだと説いている。南方の海洋民族の間には、死者は船に乗って他界するという説話があり、死者を舟に載せて流す風習があったという。この南海の民族と、いろいろの点で似た習性をもっていた倭の水人に、水葬があったと考えることは無理ではない。志摩で棺をフネとよぶことには、遠い昔のある姿を想像して深い意味を感じる。志摩は、熊野へと続く海人の活動舞台だったからである。また、海辺の村で初盆に精霊船を流すのは、死者の霊が遠い海の彼方に帰るという信仰による。
 と舟について考えるとき、死者を載せて流すことばかりにこだわってはいけない。屍を葬地に運ぶためには船が必要だったからである。これを思うのは縄文晩期に始まる対馬の古い埋葬遺跡がほとんど海岸にあり、海に臨んだ突崎や、離れた小島にあるからだ。南西諸島では、今でもそのような場所に葬地を営んでいる。この葬地まで運ぶためには、当然舟を必要としたはずである。陸路から行けるところもあるが、舟による方が便利であり、また、舟なくしては不可能な場所が多い。死者を葬地に送るために、舟に乗せて運んだことは間違いない。
 さきに引用した『隋書』のなかに、「及葬置屍船上牽之」と、屍を船上に載せて葬地に運ぶことが記されているが、この場合は水上を航行するのではなく、陸上をいたのである。およそ推古朝頃の風俗を記したものであろうが、船と棺との区別がわからない。しかし、これについて上井氏が攝津の住吉大社の資料から分析した論考は明快である。その概要は、同社に深い関係を持っていた舟木氏があり、この舟木は舟の建造を職掌としたが、同時に棺をも造った。しかも木棺ばかりではなく、石棺をも作っていた。そこで『古事記』にいう「鳥之石楠舟」には舟と棺のイメージが混然としている。というものである。・・・」

本引用は私の「環境問題を考える」(環境問題の科学的根拠を論じる)のサブ・サイト、「有明海・諫早湾干拓リポート」II(八月号)掲載文書「77.船越(補稿)対馬 阿麻氏*留神社の小船越」の転載です。

これらも含めて越人の風習の様に思えてくるのです。では、渡辺光敏氏の説をお読みください。



200-2

古代中国の越人は、スラウェシ島からの移住者なのです。


200-3スラウェシ島

スラウェシ島は、インドネシア中部にある島。植民地時代はセレベス島と呼ばれたが、インドネシア独立後は一般的にはスラウェシ島と呼ばれる。一部が赤みがかったタロイモの品種であるセレベス芋は、この島が原産である。



セレベス芋


200-5

 セレベス(Celebesは、サトイモ(里芋)の仲間のサトイモ目サトイモ科サトイモ属の非耐寒性イモ類です。インドネシアのセレベス島(現スラウェシ島)から伝来したサトイモの一種で、千葉が主要な産地となっており早生栽培されます。

そもそも、倭人も里芋を食べて生き残って来た民族なのですが、民俗学で有名な「里芋正月」「餅なし正月」が強く残るのも愛媛県であり、そこが海賊の住処だった事と、倭人のルーツをセレベス(スラウェス)に求めれば、通底しているようにも思えるのです。


201 「黄泉」とは何か?“再び「日本語はなかった」(渡辺光敏)から”

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201 「黄泉」とは何か?“再び「日本語はなかった」(渡辺光敏)から”

20150407

久留米地名研究会 古川 清久


201-1

今回も渡辺光敏氏の「日本語はなかった」“私説日本語の起源”からの採題です。

「黄泉」とは何か?…は、「記」「紀」を聖典として崇めているだけの方々は別として、神代史に関心を向けていると考えなければならない問題です。


「逃來猶追到黄泉比良坂之坂本時」 

(訳)逃げ来るを、猶ほ追ひて、黄泉比良坂の坂本に至りし時


口語訳では「(イザナギが)逃げるのを、(イザナミは)まだ追いかけて、(イザナギが)黄泉比良坂の坂本に着いたとき」となるが、この「坂本」は坂の下・坂の上り口を表している。それゆえに、イザナギは黄泉比良坂を駆け下りてきたということ


201-2


が示唆される。すなわち、黄泉の国は必ずしも葦原中国に対して地下にあるわけではないと分かる。 この時、追いすがる妻やその手下の黄泉の醜女(しこめ)達を退けるため、黄泉路をふさいだ大石を、道反の大神(ちがえしのおおかみ)といい、この世に残った黄泉路の半分(または黄泉比良坂の一部)が、伊賦夜坂(いぶやざか)とされる。そしてさらにその場にあったの木から実をもぎ取ってを投げつけることで黄泉の醜女を追い払っており、このときの功績によって桃は富加牟豆美命(おおかむつみのみこと)という神名を賜り、「これからも(今私にしてくれたように)困った人を助けておくれ」と命じられた。

根の堅洲國は日本書紀では根の国といい、それは黄泉国と違うという考えや同じとする考え方がある。同じとする学者が、黄泉の国は地下にあるものと考えているし、現在では一般にそう受け取られている。しかし、死者の世界が地下にあるということは、漢語の黄泉の意味から来たことであり、本来の日本の考えに即さない。黄泉とは単純に根の国の地名を指し、現在の島根県安来市を中心とした地域で、鳥取県米子市夜見町から黄泉比良坂(伊賦夜坂)のある島根県松江市東出雲町の間にあった土地と言う説[誰?]が有力である。

「ウィキペディア」(20150407/0830)による

これについても、故渡辺光敏氏は明確でした。



201-3-「ここに黄・泉が出てき、カレン族は死者の世界を文のように考えているのである。私はこの発想を中国の始祖の黄帝、黄土の黄と、そこの泉の風土で作っているカレル=地下水路の故郷での生活からの発想だろうと思った。」                    
(※ カレルはカナートと考えられます)


タイ、ミャンマーの山岳少数民族の中に「黄泉」が出て来る事に驚きを感じますが、一つの点として、このことから、カレン族もかつては中原に展開していたものの、漢族から追われ追われて南下したのであろう事を思わせます。

また、「イザナギ、イザナミ」神話との接触、言いかえれば、イザナギ、イザナミに関係する民族も、このカレン族と接触していたか、若しくは、この中原に展開していた時代があった事を教えてくれているのです。

とにかく、「黄泉」が島根県の地名「夜見」などではなかった事だけは確実でしょう。

百嶋神社考古学と併せ考える時、故百嶋先生は、イザナギはAD100年代に活躍した新羅系の昔氏であり、イザナミは、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ「瀛」氏の金山彦(カグツチ)の妹でした。

従って、イザナミもイザナギも黄土高原のカレルを知らないはずはないのです。

従って、この二つの民族が列島に移住した時点で、「黄泉」が持ち込まれる事は理解できるのですが、では、カレン族はどうなのでしょうか?

これについても故百嶋先生は手掛かりを残してくれていました(次葉)。

阿蘇氏の一族(草部吉見系)は、雲南省麗江から海南島を経由し入ってきたビルマ・タイ系の一族でした。

彼らは全体として黎族と呼ばれ、その一派だったのですが、彼らは、紀元前後、中原にも展開していた古代九黎族の一つの流れであり、苗族も漢族に帰順した黎族なのです。

当然、彼らも「黄泉」という地下の泉の事は知っていたはずで、その民族の記憶が、列島とタイ、ビルマの山岳地帯まで運ばれたと考える事ができそうです。

してみると、渡辺光敏氏は、カレン族のかなり具体的な伝承(記述)を切っ掛けに、「古事記」神話の「黄泉」の意味に到達されたのでした。

一つの謎解きが出来た訳です。深謝!


201-4

百嶋手書きデータ・スキャニング01「カレン族」より


カナート(アラビア語: قناة‎ (qanāt))とは、イランの乾燥地域に見られる地下用水路のこと。同様のものをアフガニスタン、パキスタン、ウズベキスタン、新疆などではカレーズ(karez; ペルシア語: كاريز
‎ (kāriz) より)といい、北アフリカではフォガラ(foggara)という。

イラン高原を中心に各時代に出現したペルシア帝国が、ティグリス川・ユーフラテス川沿岸の古代メソポタミア文明を凌駕した点の一つにこのカナートという灌漑施設があったといわれる。現在に至るまで古代に起源を持つこの水路が使われている地域も多い。

山麓の扇状地などにおける地下水を水源とし、蒸発を防ぐために地下に水路を設けたものである。山麓に掘られた最初の井戸で水を掘り当ててその地点から横穴を伸ばし、長いものは数十kmに達する。水路の途上には地表から工事用の穴が掘られ、完成後は修理・通風に用いられる。水路が地表に出る場所には、耕地や集落のあるオアシスが形成されている。耕地では小麦、大麦に加え、乾燥に強いナツメヤシ、近年では綿花やサトウキビなどの商品作物の栽培が行われている。


イラン等: カナート(qanat)
アラビア等: ファラジ(falaj)
マグリブ: フォガラ(fogara)
モロッコ: ハッターラ、カタラ(Khettara,khitara)
アフガニスタン、パキスタンやトルキスタン(中国の東トルキスタン): カレーズ(karez)
中華人民共和国の西部(西域・甘粛省等): カンアルジン(かんじせい/坎儿井/坎児井/KanErJing)
日本:マンボ(東海地方、愛知県・三重県にある人工地下水路。間風と当て字される事がある。)


上記のように、その地方によって異なる名称が使用されているが、さらにローマ字での表記では、現地の発音とローマ字に転記する人物の使用する言語の発音体系等の違いにより、ローマ字の名称にも大きな差がある。


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カナートの伝播と名称の違い

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