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745 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(補足)“宇佐空への哀愁”

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745 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(補足)“宇佐空への哀愁”

20190327

太宰府地名研究会 古川 清久


古くは、大分県中津市の松下竜一著による「私兵特攻」、最近なら「遥かなる宇佐海軍航空隊―併載・僕の町も戦場だった」今戸公徳)著を読むにつけ、70年以上前の宇佐空の姿が目に浮かび蘇ってきます。

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それにつけても、終戦の詔勅が出た後、違法な、しかし、日本軍人の誇りとサムライ精神を発露した第五航空艦隊(実質特攻編成ですが)司令長官宇垣纏中将揮下の武人の特攻を知る人も消えつつあるのです。

 敗戦は元より、戦闘中止命令が出された後の特攻など違法の極みですが、「俺も後から往くからな…」と送り出した指揮官として先に送り出した英霊に対して嘘をつけなかった誇りある武人が従容として死に就き、自決としての特攻を決行したのでした。

 詳しくは、ネット上からも拾えますので、以下外をお読み頂くとして、このような立派な人間は自決し、在日朝鮮人(半島も日本だったため平等に邦人扱いしたのですが)を始めとして日本人としての誇りも国への忠誠心も何もない自らの損得だけを選択するような人種が敗戦後の占領政策に重用され、あまつさえ指導層にまで一気に進出し登用されていったのでした。何故駅前にパチンコ屋が並んでいるかを考えろ。

 代表的なのがそもそも自民党(保守合同の結果ではありますが)なのであって、本来は、巣鴨プリズンで絞首刑になっていた様な人々の中から、アメリカに尾を振るどころかチンチンし、許され免責された人物の指令と誘導によって言論界、出版会、報道界、教育界…といったメディア占領が行われたのでした。

こうして、アメリカというよりユダヤ金融勢力に協力する現代へ続く洗脳政策が取られ続けたのでした。

 一方、共産主義政党などと言った振れ込みのスターリン主義者の某政党なども始めから社会主義革命など本気で行うはずもなく、旧勢力を抑え込む範囲内でマッカーサーに活動を許されたのであって、70年経とうが80年経とうが旗開きを続け百年民社化運動なる選挙活動を労働者の運動などと称しているのです。

 彼らは六全協によって「米軍=解放軍規定」を行ない、日本の民主化だけを活動の中心に於いたのであり、それは米国による占領政策の許容範囲で活動し、それからはみ出した全学連などを排除し、トロツキストとして切り捨てたのでした。

 一方、日本最大の某新聞や日○レもCIAによる資金供与により創られたものであって、戦前は戦争を煽り続けた朝○新聞は手の平を返し元々左派系新聞かのような報道を続けたのでした。

最大購読者を持つ某新聞社の正力○太郎に至っては、戦前は内務省官僚で特高警察のヘッドだったような人物で、当然、巣鴨で死んでいるべきはずの人物なのですが、手のひら返しを行ないアメリカの手先となり米国への協力工作を続けたのです。


CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎

 これは超弩級のニュースである。本日発売の週刊新潮2月16日号で、早稲田大学の有馬哲夫という教授が、正力松太郎がCIAに操縦されていた歴史的事実を明らかにした。その根拠は、例によって、米国公文書館の公開された外交機密文書である。しかも彼が見つけた文書はいまだ殆ど誰も手にしていない文書であるという。研究者にとっては願ってもない貴重な文書だったと有馬教授は述べている。この発見がこれからどこまで日本で波紋を広げていくのか。

 その文書から有馬教授が読み解いた事実の一端は次のとおりである。

 まずそのファイルの量である。同じCIAのファイルとして既に研究されている岸信介元首相や重光葵元外相のものと比べても、圧倒的な厚みであるという。CIAが正力を如何に徹底してマークしていたかの証明である。しかも正力を「ポダム」という暗号で呼んでいる。

 正力は東京帝大を出て警察庁につとめ戦前、無政府主義者、共産主義者の取締りで名をあげたという。その正力は政界の大物から大金を借りて当時わずか5万部に低迷していた読売新聞を買収し、自ら陣頭指揮をとって、奇抜な企画や大衆に親しみやすい紙面つくりに励み、毎日、朝日につぐ大新聞に読売を成長させたといわれている。米国はその正力に目を付け、援助を与えることによって彼のマスコミに対する大きな影響力を利用しようとしたのだ。日本全土に、親米・反共のプロパガンダを流す手段にしたのだ。

 今度の研究で具体的に明かされた事実として、CIAが1000万ドルの借款を正力に与えて、全国縦断マイクロ波通信網を建設させようとしていたという。これが完成した暁には、CIAは日本テレビと契約を結んで、アメリカの宣伝と軍事目的に利用する計画であったという。

 幸か不幸か、この工作は成就直前で破綻した。その原因は、「正力とアメリカの国防総省が陰謀をめぐらし、正力がアメリカの軍事目的のために、アメリカの資金で全国的な通信網を建設しようとしている・・・近代国家の中枢神経である通信網を、アメリカに売り渡すのはとんでもない」という怪文書がばらまかれ、国会で取り上げられたためCIAが作戦を見直したからである。

 それにしてもCIAは資金や女性問題、果ては麻薬によるコントロールまであらゆる情報をファイルして工作対象者をマークしていることがこの文書で明らかにされている。正力の場合は、「テレビのベンチャーに対するアメリカの資金供与」と記載されていたと有馬教授は書いている。

 これまでにも岸信介元首相をはじめとして様々な日本の指導者が米国の手先となって、米国の日本間接統治に手を貸していたことが明らかにされている。しかし今回のCIAの正力ファイルはこの事実をここまで詳しく明らかに示した。

読売グループが何故ここまで対米追従のメディアであるのかは、この歴史的事実からつじつまが合う。

あれから半世紀、小泉、竹中は言うに及ばず、米国CIAの日本工作は我々国民の知らないところで驚くべき広さと、深さで進んでいることであろう。しかし恐れる必要はない。その事実が国民に知れた時点で、大きなしっぺ返しを食らう事になる。最後の決めては情報公開である。内部告発でも、密告でもなんでもいい。とにかく一つでも多くの隠された事実を白日の下にさらすことだ。これこそがジャーナリズムの使命であり、醍醐味である。

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要するに高潔で仲間を裏切れない人物は自決するか、処刑されるか、沈黙し隠棲するかであり、それが本物の日本の男の生き様だったのです。


最後の特別攻撃隊 

昭和20815日、最後の特別攻撃隊は第5航空艦隊司令長官宇垣纏中将が搭乗して大分海軍航空隊を離陸し沖縄方面へ飛行した。 離陸時間は日本政府がポツダム宣言受諾し、天皇陛下のいわゆる「玉音放送」が流された12時を過ぎた、まさに「戦後」の時間であった。

 終戦を知りながら将来ある若者22名(不時着等で5名生存、1名戦死)を率いて、沖縄方面に散華させた宇垣中将の行為は、戦後「私兵特攻」と評されて多くの非難を受けることとなった。


最後の特別攻撃隊  【宇垣中将 中津留大尉】           2013年作成による


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 特攻と言えば知覧詣でばかりが持て囃されますが、この宇佐空からも大分空からも多くの特攻機が飛び立っているのです。

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 特攻と言えば神風特攻の産みの親と言われる大西瀧治郎が浮かんで来ます。

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大西瀧治郎

19341115日、横須賀海軍航空隊副長兼教頭。大西は航空主兵論者の一人であり、1935年の戦艦大和、武蔵の建造に反対し、「一方を廃止し5万トン以下にすれば空母が三つ作れる」と主張した。また、福留繁軍令部課長に対し、「大和一つの建造費で千機の戦闘機ができる」と主張して今すぐ建造を中止するように要望した。

大西は大型機論(戦闘機無用論)を支持していた。1935年、横須賀航空隊副長兼教頭だった大西は横空研究会で、戦闘機より優速の双発陸上攻撃機の完成が近いこと、戦闘機は短航続力で海上航法能力も小さいため、空母での使用制限があることから戦闘機無用論を唱えて、横空の戦闘機関係者を論破した。また援護戦闘機も不要と主張していた。

ウィキペディア(20190328 2146による


彼は神風特攻の創設者のような奇妙な評価を受けていますが、このような愚策を取る前に、究極のアウトレンジ戦法である航空戦力による艦隊撃滅戦を考えていたのであって、旧来型の艦隊決戦など意味が無いと看破していたのでした。

 事実、英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズや巡洋戦艦レパルスはマレー沖海戦に於いて日本海軍機の攻撃を受けて撃沈されているのです。

 その彼が神風特攻を指揮したこと自体悲劇的で、彼も従容としてと言えばあまりにも衝撃的な自決をしているのです。


大西は816日自刃した。「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書を遺して割腹自決。遺書には自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭している。

自決に際してはあえて介錯を付けず、また「生き残るようにしてくれるな」と医者の手当てを受けることすら拒み、特攻隊員にわびるために夜半から未明にかけて半日以上苦しんで死んだという。享年54

割腹自決時に遺した辞世の句は「これでよし 百万年の 仮寝かな」と「すがすがし 暴風のあと 月清し」である。終戦時の割腹自決の後、特攻隊員の犠牲者の名簿にも、大西の名が刻まれた。

大西瀧治郎の切腹・・・特攻の「責任」より


宇垣中将といい大西中将と言い武人とはかくあるべしという死に様でしたが、対して総理にまで上り詰めた中○根などは、CIAの職員試験を受け採用されているようで、彼によって日本の冨がアメリカに売り飛ばされた事は周知の事実です。それに続いて小○竹○郵政民営化以降日本経済が破壊されたのは皆さん良くご存じでしょう。

正に、正力と言い中○根と言い、薄汚い立派な人物が登り詰め、日本をアメリカに売り渡したのでした。

勿論、児玉誉士夫とか小佐野賢治氏といった連中が戦争をビジネス・チャンスと考えていた事もお分かり頂けるでしょう。

今や、国会には国士は殆どいないはずで、中国の手先、アメリカの手先、米国に調教された官僚共…と自衛隊によるクーデターの方が余程まともな国家に蘇ると思うこの頃です。

外にも書いていますが、とりあえず、宇佐神宮に関しては以下の20本のブログを書いていますので、関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。

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ひぼろぎ逍遥(跡宮)

125

宇佐神宮とは何か? ⑳ “宇佐神宮の勅使井と百体神社”

124

宇佐神宮とは何か? ⑲ “宇佐神宮の隣の国東に鎮座する八幡神社の境内社について”

123

宇佐神宮とは何か? ⑱ “宇佐神宮の(仮称)中宮に鎮座する若宮神社とは何か?”

122

宇佐神宮とは何か? ⑰ “宇佐神宮の上宮に鎮座する三摂社を実見した?”

105

宇佐神宮とは何か? ⑮ “そろそろ本殿の探査に踏み込みましょう”

104

宇佐神宮とは何か? ⑭ “到津屋敷をご存じですか?”

103

宇佐神宮とは何か? ⑬ “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは「三国史記」の目支国のマキ”

102

宇佐神宮とは何か? ⑫ “境外摂社鷹居社とは何か?”

101

宇佐神宮とは何か? ⑪ “安心院の妻垣神社は自称神武こと崇神天皇を供応したか?”

100

宇佐神宮とは何か? ⑩ “安心院の三女神社は筑紫の君が祀った?”

99

宇佐神宮とは何か? ⑨ “安心院の三女神社は二女神社だったのか?

98

宇佐神宮とは何か? ⑧ “神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内町に鎮座する”

97

宇佐神宮とは何か? ⑦ “宇佐神宮の向こう側”

96

宇佐神宮とは何か? ⑥ “御許山の大元神社とは何か?”

95

宇佐神宮とは何か? ⑤ “宇佐神宮の境内摂社「大尾神社」をご存じですか?”

94

宇佐神宮とは何か? ④ “宇佐神宮宝物館の神輿は誰のものだったのか?”

93

宇佐神宮とは何か? ③ “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺”

92

宇佐神宮とは何か? ② “和気清麻呂は勅使道ではなく舟で上陸した”

91

宇佐神宮とは何か? ① “呉橋から北へと延びる勅使道”


746 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再考)“一体川上神社とは何なのか?”

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746 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再考)“一体川上神社とは何なのか?”

20190327

太宰府地名研究会 古川 清久


再び宇佐の金屋の川上神社を探ることにしますが、現在の課題である川上神社の直接的な祭神については知り合いの神社関係者にお調べ頂いていますので何らかの回答が得られるとは考えています。

ただ、顕微鏡的に調べるのではなく、全国の神社から俯瞰して見ようと考えたのが今回の作業です。

 まず、川上神社がこの駅館川の川上から付された社名で無い事は明らかでしょう。

 どう考えても川下ではあっても川上ではないはずで、この点からも頭に浮かんでくるのは佐賀県の嘉瀬川の川上(淀姫)神社(この神社も古代の河口にあり川上にはないのです)や熊野の丹生川上神社(上、中、下)社であり、その分布から同社の素性を探ってみたいと思います。まず、グーグルの検索画面を引っ張り出し、「川上神社」と入力します。

 すると、以下のような画面が出ますので、やはり全国単位で代表的な丹生川上神社などが出てきます。

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この方法で、西日本を中心に(東日本にはほぼ存在しない)探すと、川上神社との名を持つ神社が相当数存在する事が分かってきます。まさか、野球の神様の川上哲治を祀る神社は無いでしょうが、そのようなものも含め、川上神社とも呼ばれた神社(複数の社名を持つものも含まれる)を拾い出す事にします。

しかもその神社に関する情報を拾えることからネットによる簡単な全国調査も可能になって来るのです。

このような方法で構わないと申し上げるつもりはないのですが、正体が不明な時にはこのようなネットによる簡単かつ経済的な民俗学的帰納演繹的調査方法を採用せざるを得ないのです。

勿論、文献や神社庁の判定などと言った文献史学的な決め付けよりは余程有効と考えています。

 では、川上神社の全国的分布分状態を見て頂きましょう。

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良く知られた湯布院の宇奈岐日女神社が川上神社と関係があることは意識していましたが、まだ不明な点もあり、今後の課題ですね。


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佐賀県、長崎県の川上神社


肥前の川上神社は大半は淀姫神社と重なります。これについては、以下で取り上げていますので、関心をお持ちの方はお読み下さい。

ひぼろぎ逍遥

554

淀 姫 ④ ” みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について”

553

淀 姫 ③

552

淀 姫 ②

551

淀 姫 ①


 熊本県も見ましたが阿蘇高森の野尻川上神社一社のみ。他に大津町に淀姫神社が一社あります。

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鹿児島、宮崎の川上は重要でもしかしたら震源地ではないかと考えています

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この外には、愛知県清洲市、福井県勝山市、山梨県北都留郡丹波山村の押垣外川上神社も丹波川沿いにあることからどうも丹生(水銀朱)と関係がありそうです。

 してみると宇佐の川上神社も、大分市佐野に丹生神社があり構造線沿いに広がった神社とも言えそうです。

 また湯布院温泉で有名な大分県由布市の宇奈岐日女神社も元は川上神社と呼ばれていた可能性があるのです。式内社で旧社格も県社の堂々たる大社で「六所宮」とも呼ばれますが、鎮座地は県由布市湯布院町川上2220なのです。

 外には上越市の山奥や山形県酒田市の山奥にも、順番が狂いましたが兵庫県淡路島に二社拾えます。

 ここまで見てきただけである程度の傾向が分かってきましたが、どうやら丹生川上神社に象徴される水銀朱の採取と関係しているようで川上の意味もそこに繋がりそうです。

 問題は祭神です。しかし、まだまだ調べなければならないでしょう。


丹生川上神社

本殿の主祭神は、中央に罔象女神をお祀りし、相殿として東方に伊邪奈岐命、西方に伊邪奈美命を配祀しております。

東殿の中央には [天照大神]その東方に譽田別命 [応神天皇]、その西方に八意思兼命をお祀りしております。

西殿の中央には開化天皇と上筒男命、その東方に菅原道真と綿津見神、その西方に大国主神と事代主神をお祀りしております。

境内社としては、川向いの本宮山に摂社丹生神社として彌都波能売神(みづはのめのかみ)をお祀りし、蟻通橋北詰には末社東照宮があります。又西殿の西北には末社木霊神社として五十猛命(いたけるのみこと)をお祀りしております。

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無題.png旧鹿児島県肝属郡錦江町城元1495の河上神社については故)百嶋由一郎氏による006橘系譜に川上大明神として中将が書かれています。

鵜草葺不合尊 神武天皇 五瀬命(イツセノミコト) 稲飯命(イナイノミコト) 三毛入野命(ミケイリヌノミコト)

由緒: 不詳。元、川上大明神と称された。上古天竺の魔訶陀国の末の姫が当地に渡海され、この姫を祭神と崇めたという。


和歌山県田辺市上秋津1509番地の河上神社は以下の様に書かれています。

(主祭神)瀬織津比売神 速秋津比古神 速秋津比売神 他12神 (配祀神)天照大神 愛宕大明神 大山咋命 事代主命 須佐之男命 熊野夫須美神 速玉男神 伊邪那美神 家津御子神 水分神 倉稲魂神 少彦名命


宮崎県東諸県郡国富町八代南俣2087の川上神社は以下の様に書かれています。

淳和天皇の御代天長八年(831)辛亥九月十五日、肥後国佐賀郡川上村鎮座の川上大明神より、御祭神淀姫命(與止女神)の神霊を旧八代村宮田の地に勧請し鎮座した。旧称川上大明神という。その後天明八年(1788)戊申八月十六日、日向国高岡郷浦之名鎮座の川上大明神より神功皇后他八柱の神霊を合祀する。

棟札によれば、文明四年(1470)三月二十七日藤原(伊東)祐堯同祐国公、永正六年(1509)十二月十八日藤原尹祐公、天文十九年(1550)藤原義祐公より造営再興が繰り返されており、都於郡城主伊東氏の厚く尊崇する神社であった。明治九年六月十八日旧八代村宮田の地より、現在の川上の地に遷宮鎮座、川上神社と改称し、明治四十年二月神饌幣帛料供進社に指定された。

境内神社には、肥後の菊池より勧請と伝える大将軍神社(祭神 武甕槌命、経津主命、大山祇命)がある。

特殊神事としては、例祭日の神楽、秋祭りには五穀豊穣の感謝の意味をこめ、氏子たちが踊りを奉納する。

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~による


島根県松江市の川上神社は【比定社】川上社 【祭神】大己貴命、高龗男命、稻田姫命【住所】島根県松江市上本庄町921【備考】式内社・河上神社に比定


島根県雲南市 大東町川井1202番地続1の川上神社は、風土記:川上社延喜式:河上神社雲陽誌:川上明神(稲田姫)様式:大社造変態御祭神: 大己貴命・高龗命・稲田姫命中海北西岸の本庄地区より本庄川 ... 神国島根』に拠ると、 大己貴命が千酌地域の不逞の輩を鎮撫せんとした折、この辺りの川石にて焚火なして休息をおとりになられた。

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青森にまで川上神社が分布しています


正確ではありませんが、全国的な分布がある程度把握できたと思います。

川上神社が何かを把握するには祭神を特定することが重要です。

全国分の神社を少しずつ調べて行けばある程度可能になるでしょうし、僻陬の神社には本物の神様がそのまま変化を受ける事無く残されているかも知れないのです。

勿論、全ての神社とはいかないものの重要な神社を発見すれば調査には行けるでしょうし、既に30人近いブロガーがいるのですから百嶋神社考古学のネット・ワークによって調査を委託する事もできるのです。

今回は、大まかな拾い出しをおこなったところまでで止めておきたいと思います。

747 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再々考)“全国の川上神社の祭神を調べよう”

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747 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再々考)“全国の川上神社の祭神を調べよう”

20190327

太宰府地名研究会 古川 清久


粗いながらも、まずは、祭神究明のための作業をしてみましょう。この作業は今後も続きます。


辺境の川上神社から


青森県青森市久栗坂      川上神社 祭神 以下

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縁起によりますと、慶長元年(1596)に当村の開発の際に田地から発見された観世音像を、津軽家中野宮一郎兵衛と村民が堂を建てて崇敬。その場所には1本のケヤキの古木があって御神木といわれていました(ケヤキの古木の下に小祠があったといいます。)。明治初年の神仏分離で高おかみ神を勧請して川上神社と改称。旧村社。

案内板由緒より…『御事暦…髙オカミ神ハ伊弉諾尊ノ御子々座マシ雨ヲ掌ラセ給フ御神ニシテ山上ノ龍神ト申シ奉ル即旱天ニハ雨ヲ降ラシ霖雨ニハ之ヲ晴ラシ千五百秋ノ瑞穂ノ國土ヲ永遠ニ潤シテ五穀豐饒ヲ守ラセ給フ廣大ノ御神徳アリサレバ朝廷ニ於テ炎旱霖雨ノ際ハ髙オカミ神ヲ祀レル社ニ奉幣祈祷ヲ給フヲ例。由緒…慶長元年勸請明治六年三月村社ニ列セラル』


青森県青森市富田2丁目3-32  丹生川上神社 祭神 素戔嗚尊 奇稲田姫尊

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但し、境内の案内板によりますと…『寛文12年村中にて五穀成就のため建立。明治9年村社に列せらる』とあります。御祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫尊。『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)』では「西滝の川上神社はスサノオノ命と奇稲田姫を祀る農業と水の神であるという。」と紹介されています。

「くぐる鳥居は鬼ばかり」による

青森県五所川原市喜良市金木町千苅263 丹上川上神社 祭神不詳


山形県酒田市穂積字尻地56-113      川上神社 祭神:彌都波賣神(みずはのめのかみ)

山形県酒田市北青沢大俣-41       川上神社 祭神不詳


新潟県上越市吉川区川谷         川上神社 祭神不詳


山梨県北都留郡丹波山村押垣外476    押垣外川上神社 祭神不詳

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創建由緒は不詳であるが、明和三年(一七六六)八月二十一日再建との棟札があるので、それ以前より鎮座されてゐることは明らかである。甲斐国志には「川上明神押垣外にあり鎮守、神躯掛鏡中に大日像を鋳る、別当法興寺」とあるのは、神仏習合の社であつたことを示す。又猿田彦命(佐田比古は別名)を祀る庚申信仰を示すものでもある。明治六年村社となる。

山梨県神社庁


福井県吉田郡永平寺町中島1027    川上神社

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河濯神社(吉田郡永平寺町松岡椚57-12 明神社境内)の紹介です。

 石川県の瀬織津姫社の祭神は「川濯御神」とも尊称されていました。「川濯」というのは川で濯ぐ(川で禊ぎする)といった意で、瀬織津姫神は禊ぎを司る霊神でもありました。

 明神社(写真1)の境内に鎮座する河濯神社(写真2、向かって右の社殿)の由緒を知るには、その分社である川上神社(福井市志比口町1-3-9、写真3)が参考になります。同社の由緒案内を読んでみます(写真4)。

川上神社の由来

御祭神  美都波能売命 瀬織都[ママ]姫命 大己貴命 伊弉册命

慶長年間(一六一〇年頃)結城秀康公越前の国へ御入部になり、芝原用水を定められた時、昔、白山の麓に奉斎されていた、美都波能売命と、大野郡女神川上流に鎮座ましました、瀬織都姫命の二柱の神を芝原用水守護神として、この用水の上流松岡の地に遷座し、その後慶應元年(一八六五年)此の水神の信徒壱萬より芝原用水郷の中央の志比口「現在の地」に御移転を願い、大己貴命と伊弉册命とを合祀して川上神社と称へ、芝原用水郷、福井城地の町家の浄水とし、水神の徳沢を崇敬しました。

  諸々のなり出るもとは水の神  もらさてめくむ御祖なりける

昭和二十年七月の戦災、三十二年漸く再建、四十五年四月不慮の火災で焼失し、翌年四月神殿、拝殿、玉垣、再び建立しました。

  清川の川辺に立ちてつみとがを  其の日其の日にかきながさばや

 川上神社の主祭神は「美都波能売命」と「瀬織都姫命」で、「美都波能売命」は「白山の麓に奉斎されていた」、また「瀬織都姫命」は「大野郡女神川上流に鎮座ましました」もので、慶長年間(一六一〇年頃)、この「二柱の神を芝原用水守護神として、この用水の上流松岡の地に遷座」したとあります。九頭竜川から芝原用水として取水するところが「松岡の地」で、ここにまつられていたのが「河濯神社」でした。この河濯神が、慶應元年(一八六五)に福井城下に「御移転」され、そこで大己貴命と伊弉册命を合祀して現在の川上神社となります。

 瀬織津姫神がもともと鎮座していた「女神[おながみ]川」の上流には「弁ヶ滝」があります。越前側の白山禅定道は、この女神川沿いを遡上する道筋となっていますので、ここに禊ぎを司る霊神(河濯神)として瀬織津姫神が鎮座していたということなのでしょう。

 また、白山禅頂道途中にある「小原峠」を越えた石川県側には、その名も「川上御前社」が鎮座しています(石川県白山市白峰)。「白山妙理大権現縁起」の禅定道七宿の項には、泰澄の夢の中に白山神が「天女」の姿となって現れ託宣する場面があります (上村俊邦『白山の三馬場禅定道』岩田書院、所収)

 師(泰澄)この所に於いて一宿したまう。夢中に天女現じて曰く「吾ここにありて国中の水を守護す。中居の林中天然の横災起きるときは此処に移坐し、鎮まるときは彼こ[ママ]にまた還りて遊居す」と語りおえてうせたまう。

 大師驚き覚めて心静かに法施まいらす。幽谷の草木も奇異の色を顕わせり。是れを以て名となすと。後に大師一社を創建して河上大権現と崇め奉るなり。

 河上大権現(川上御前)、つまり白山の「天女」(白山比咩神)は、泰澄に「吾ここにありて国中の水を守護す」と夢告したといいます。「国中の水を守護す」とは、なんとも頼もしい託宣です。川上神社由緒にみられる奉納歌「諸々のなり出るもとは水の神もらさてめくむ御祖なりける」に詠われた「御祖」「水の神」は、白山比咩神のことと読んでもさしつかえないでしょう。

 一方、由緒には「清川の川辺に立ちてつみとがを其の日其の日にかきながさばや」と詠われてもいました。これは河濯神(禊ぎの霊神)としての瀬織津姫神を詠んだものとおもわれますが、この神と「美都波能売命」(白山比咩神)とが異神であったというわけではありません。白山比咩神もまた禊ぎの霊神であったことはすでに指摘されていることでした(菊池展明『円空と瀬織津姫』下巻)。

 さて、川上御前は、越前市大滝町では「越前和紙」の祖神(「紙祖神」)として、大滝神社本殿に岡太神の名でまつられています(写真56)。ここは大滝神の先行古祭祀がありましたが、境内案内によれば、大滝神社は「養老三年(七一九)、越の大徳と称せられた泰澄大師がこの地に来り、大徳山を開き、水分神[みくまりのかみ]であり、紙祖神である川上御前を守護神として祀り、国常立尊と伊奘諾尊の二柱を主祭神とし」た、さらに泰澄は別当寺の大滝寺を創建、本地仏を十一面観音に定めたとされます。明治期まで、大滝神は「大滝兒大権現」とも「小白山大明神」とも称されていました。「小白山大明神」の小白山は、白山(別山)のことですが、ここも白山信仰のもとに祭祀が営まれていました。

 富山県・速川神社では、明治期、瀬織津姫は国常立尊と祭神変更され、石川県・瀬織津姫社では、伊奘諾尊の禊ぎによって生誕したとされる大禍津日神を瀬織津姫の「別称」としていたことも想起されるところですが、大滝神を「国常立尊と伊奘諾尊の二柱」というのはやはり無理があります。大滝神と紙祖神(岡太神)・川上御前が異神かのごとく表示されているのは、福井市・川上神社における「瀬織都姫命」と「美都波能売命」(水の御祖神、白山比咩神)の二神表示とよく似ています。

 泰澄は、大滝神の本地仏を「十一面観音」に定めたというのも示唆すること大きいです。なぜなら、白山比咩神の本地仏もまた十一面観音でしたから。

 養老元年(七一七)に白山を「開山」した泰澄でしたが、彼は、加賀の白山本宮(白山比咩神社)においては、「河濯命大権現像」を彫ってもいました。白山比咩神社の社域駐車場横には、伝・泰澄作の本尊を有する「河濯尊大権現堂」が、町の人々によって大切にまつられています(写真78)。お堂横の由緒案内を読んでみます。

河濯尊大権現堂之由来

当御本尊はむかしよりカハスソサマと称へられて難病を御済いくださると信ぜられ殊に下半身の諸病には御霊験あらたかにして祈願参拝の人又御礼詣りの人、日に日に盛んなり。伝説には泰澄大師御自作と謂と雖も往古より度々水火の難により大破損の為に信者之を大修繕を為す。〔中略〕元は神社地内白山参道脇の小祠に鎮座ましましたが明治の頃二回の火難の為に此の処に遷したてまつり現在に至る。遠近の敬信いよいよあつし。然れば病魔の苦しみある人は一たび御参拝なされて病魔退散の御利益をいただきなされ。ゆめゆめ疑う勿かれ。

 河濯尊大権現は、白山比咩神社(白山本宮)の社地内白山参道脇にまつられていたものの、「明治の頃二回の火難」にあい、そのために現在地へと遷座してきたとされます。また、「難病を御済いくださる」、「殊に下半身の諸病には御霊験あらたか」といった神徳も述べられています。河濯尊の「濯」つまり「そそ(すそ)」は「おそそ」にも通じるため、ついには「下[しも]」の病の神とみなされたものですが、この神徳は、各地の河濯尊(川濯神)の多くに共通して伝承されているようです。

 泰澄は、白山比咩神の本地仏(主尊)を十一面観音とする一方で、河濯尊(川濯神)をまつる(像を作る)ことをしてもいました。泰澄における、河濯尊(川濯神)、つまり瀬織津姫神に対する崇敬の気持ちが並々ならぬものであったことはほかにも事例があります(泰澄における白山の本源神に対する深いこだわりについての詳細は『円空と瀬織津姫』下巻に譲ります)。

 伝・泰澄作とされる河濯尊大権現像は、泰澄時代(奈良時代初期)のものではありませんが、しかし、人々が河濯尊(川濯神)をどうイメージしてきたかは、いくらかはその面影をしのぶことができそうです(写真9)。ここには禍々しい神(大禍津日神・八十禍津日神)といったイメージはなく、むしろ対極というべきイメージで、これは造像されているようです。一見女性地蔵尊ともみえる、このチャーミングな神像(本尊)は、やはり泰澄の抱くイメージでもあっただろうとおもいたいところです。

千時千一夜による

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