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597 2018年に頂いたある年賀状から「壊国」の日本を思う

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597 2018年に頂いたある年賀状から「壊国」の日本を思う

20180329

太宰府地名研究会 古川 清久


 個人的には年賀状、暑中見舞い共に一切出さない事にしています。

ただ、賀状は頂きます。しかし、返状も出さない事にしていますので、それを分かった上で出される方しか年賀状は頂くこともありません。あらためて、アルゼンチン・タンゴをこよなく愛する者としてFELIZ AÑO NUEVO フェリース アーニョ ヌエボ と申し上げておくことにします。

 さて、今年、ある方から驚愕の賀状を頂きました。当方も全面的に同意です。


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深刻な内容の話になりますが、その前に取るに足りない話からしておこうと思います。

 勿論、家主とか親方とか一族の長といった人々のところへ年賀を奏上し挨拶する風習はあったのですが、元々、日本人には戦前まで年賀状を書く風習は存在しませんでした。

 例外は、都市に住む文士、学士…といった連中ですが、これは全体の極一部の奇風といったレベルだったでしょう。それが、何故か学校などが率先して年賀状を出しましょうとか暑中見舞いも出しましょうといった馬鹿げた風習が蔓延した背景には、戦後の労働争議、その中核部隊であった国鉄労組、全逓労組…のボーナス闘争もあったのです。

 全逓宝樹一派と郵政省官僚の対立するように見せかけた裏取引と郵政労働者の分断、懐柔、支配といった構造が存在したのでした。

 ボーナスは要求するも、財源は無い…という構造が宣伝され、結果、出現したものは僅かなボーナスのアップと引き換えに年末年始を郵政労働者の過剰労働(年賀状配布)によって財源が確保されるといった馬鹿げた仕組みが産みだされ、今やそれも崩れ始めているのです。

 いずれにせよ、正月休みなしという労働者の過剰労働でボーナスを得ると言う仕組みが全逓中央のダラ幹と腐敗官僚によって意味のない年賀状生産という馬鹿げた文化が成立したのでした。

この事を知ったからこそ、中学前後から、全く年賀状、暑中見舞いを出さなくなったのでした。

ともあれ、この異例の賀状は年頭から深刻な思いを告げられるものでした。

このような日本という国家の国体に関わる危機の警鐘には心を揺さぶられる思いがします。

書かれたとおりですが、戦後のマッカーサーによる占領政策の延長上に、日本と言う国家を二度と米国に対して刃向えない国家として堕落させ徹底して誇りを失わせる愚民化政策(英米欧の植民地経営としては極当然のやり方だったですが)を取り続け、極限まで衰退し完成したのが現在なのかも知れません。

 まさにそれこそが賀状に書かれた「壊国」だと理解するのです。

 米国による日本占領は9年間=~1952年(昭和27年)で終わりました。

 しかし、その後も日米合同委員会は残り日本の政策は米国の指示の元左右され続け、実質的な占領は今も続いているのです。

 その底流にあるのは、日本と言う国家を骨抜きにして技術も富も全て吸い取り、米国の金融資本による支配を貫徹する事だったのです。

 このため、卑近な例では、やたらと休祭日を増やし勤労精神を奪い、労働生産性を下げさせましたし、山一證券を狙い撃ちにしたことを皮切りに隙間を創り、銀行証券一体化の元、事実上、日本の大手企業の大半は株式を通じて外資に抑えられ、大手の日本の民族資本企業と言うものはほとんど存在しなくなってしまいました。

 そのために、輸出のためには110ドル前後が適切だなどと言った大嘘がまかり通り、対ドル70円でも50円でもおかしくないにも拘らず、ただの紙切れでしかないドル(タヌキの葉っぱでしかない事実上の贋金)を印刷し、その資金力を持って日本の大手企業の株式を支配的なレベルで手にしたのでした。

 そのために日銀による円安政策が続けられているのです(白川)。なぜなら、日銀は日本国のために動く国有銀行ではなく米国金融資本と利害を一にする国際金融資本の一機関でしかないからです。

 こうして、日本はデフレ政策を採り続けさせられ、何時しかOECDの中でも最低の成長率と国民の所得低下が起こり、年金は意味のないものとなり死ぬまで働かされることになり(「一億総活躍社会」というインチキ)、国民健康保険の廃止への動き(代わりに外資のアヒル ガーガー保険などが日夜贋金に任せて宣伝が繰り返されている)によって全て日本の富が米国に回収される仕組みが持ち込まれたのでした。

 その代理人になった一部の人間(企業内の裏切り者、国家内の裏切り者の親米官僚)だけが法外な給料や闇のキック・バックを受けているのです。

 これが顕著になったのは、中曽根国鉄改革~小泉竹中による郵政民営化であって、竹○はパソナの支配者に納まり国民の疲弊をよそに自分だけは良い思いをしているのです。

 とにかく売国奴ばかりがいるのです。

スポット199(前) 赤村の超巨大古墳 ⑫ によって通説から離脱し始めた方々に出雲神話も再考を!

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スポット199(前) 赤村の超巨大古墳 ⑫ によって通説から離脱し始めた方々に出雲神話も再考を!

20180828

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。


再掲

現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


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赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


 今般の赤村の前方後円墳としか思えない巨大古墳状丘陵に関して、町興し村興し宜しく「卑弥呼の墓」といった噂が飛び交っているやにも聴いています。

 古代史の世界に多少とも関わった者として、地域振興のためのマヌーバとして、一時的に「卑弥呼の墓」…といったデマに近い話が流れる事が全く悪い事とは思いませんが…(絹も鉄も出土しない奈良県桜井市の巻向遺跡や巻向古墳を卑弥呼の大城とか埋葬墓などとするような大嘘よりは余程真面なのですから)、この実に素人臭い卑弥呼の墳墓説には多少の気恥ずかしさを越え暴走にしか思えません。これについては通説派の考古学協会なども“どうせ素人ですから…”などと馬鹿にしきっている事でしょう。

行政や教育委員会や文化庁…といった悪の牙城が、これまで敵視続けて来た「九州王朝論」の探究などに踏み込むはずもなく、いずれはうやむやにしてしまう事でしょう。そんな事は鼻っから分かり切っているのですが、何やら田川郡内でお祭騒ぎでもやれば新たな展開が見えるとお考えなのかも知れません。

ただ、彼らは邪馬台国畿内説などと言ったトンデモ説に利権を見出しただけのさもしい人々なのであって(中には、九州にも月額300万円などという法外な給与を貰っているインチキ考古学者もいるらしいのです)、そもそも学問とか真実の探求などと言った事を期待すること自体意味がないのです。

これについては、ひぼろぎ逍遥スポット180 赤村の超巨大古墳 ③ 発見と列島の穴掘り考古学の未来(跡宮)辺りを再度お読み頂きたいと思うものです。

出雲神話の舞台は九州だった!? 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕の発見!

20160626


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


2016625日に田神様を主軸に据えたトレッキングを行いましたが、大国主を祀る筑前町弥永の大己貴神社からほど近い場所に日隅宮(ウズノミヤ)が存在した事が、筑前町弥永にある田神社の縁起(旧縁起)から読み取れたのでした。


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大己貴神社 カーナビ検索 福岡県朝倉郡筑前町弥永697-3


現在、このあまりにも巨大な事実にたじろいでいるところですが、以前から書いてきた「出雲神話」の舞台は九州であるという仮説の証拠にも成りうる痕跡をその小字地名として発見した事になるのです。

なぜならば、大国主の国譲りに絡んで、高木大神が「新しい社を建て直してやる」としたのが「日隅宮」だったからです。

その「日隅宮」という小字が大己貴神社が鎮座する筑前町大字弥永にあったのですから、両者に関係がないとは考えられない上に、「日隅」を現地では「うず」と呼んでいる事も、その信憑性を物語っているように思えるのです。

通常「日隅」と書いて「うず」とは読みません。しかし、福岡市南区には「日佐」と書き、「おさ」と読む地名があるのです。

そこでお考えください。「九州では大事をしでかした…」「ウーゴトばしでかした…」と言いますね。

これもそれと同様で、「日佐」は古くは「うさ」と読まれ、中央語の影響を受け、現在は「おさ」と呼ばれていた可能性を否定できないのです。

栂を「ツガ」「トガ」と「フウヅキ」を「ホオヅキ」と読み替えている事と対応しますね。

「日隅宮」を「うずのみや」と呼んでいる事自体が古い表現を留めている事を意味しており、近年のそれではなく相当に古いものである事にただならぬものを感じるのです。

作業はまだ始まったばかりですが、まずは、現在消されているとしても、この小字「日隅宮」がどこにあったかを探り出さねばなりません。

しかも、「日本書紀」には仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まらず、大三輪社を建て刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあることから、その舞台が現出雲の国でないことは明らかなのです。違うと言われるなら説明をお願いします。

まさか、出雲大社からの勧請とか分社などとはおっしゃらないとは思いますが、日向の一の宮が高千穂とか霧島神宮などではなく、何故、宮崎県都濃町の都濃神社であり、その主祭神が出雲の神様とされる大国主命であるのか?


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日向一の宮都濃神社


また、熊本市西里に大己貴神社があり、薩摩も吹上浜や天文館近くに、大己貴神社が存在しているのかを統一的に説明して頂きたいと思います。

一方、宗像大社の本当の祭神は大国主命との説も飛び交っていますが、宗像の隣町遠賀川左岸の岡垣町手野にも大国主神社が鎮座しているのです。トレッキングの当初の予定ポイントは以下の通りでした。


 原田八幡宮(朝倉市小隈560)田神様を確認すべし!素晴らしい絵馬を奉納したのもこの人々!

 松尾神社(甘木バイパス沿線) 佐田大神がいた佐田から流れる佐田川沿いに松尾神社が鎮座する!

 金毘羅宮(朝倉市甘木公園) 田神様を確認すべし!金毘羅宮も贈)崇神による乗っ取りか?

 高木神社(朝倉市佐田町)  朝倉市佐田村は大山咋神の転勤地、「瀛津比売」は母神にあたる。


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大己貴神社からも近い筑前町弥永の田神社(天神社)


②と③の間に卑弥呼ロマンの湯に近い甘木の町中にある田神社を責任者であるN氏の提案で追加し、市街地の中にある湧水池付別天地とも言うべき田神社から甘木公園の田神社を確認したのですが、さらに同氏の提案で③と④の間に筑前町弥永の大己貴神社からもほど近い弥永の田神社(天神社)を見せて頂いたのですが、そこにはとんでもない事実が隠されている事が分かってきたのでした。


そもそも出雲神話の大スターである大国主命を祀る神社が何故この筑前町に存在するのかをどなたか説明して頂けないかと思っておりました。

 まさか、出雲大社からの勧請とか分社などとはおっしゃらないとは思いますが、日向の一の宮が何故高千穂とか霧島にはならずに都濃神社であり、その主祭神が出雲の神様とされる大国主命であるのか?

 また、熊本市西里や薩摩は吹上浜に、何故、大己貴神社が存在しているのかを統一的に説明して頂きたいと思い続けているのです。


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地番不詳 カーナビ検索 筑前町弥永 地元の方に田神社をお尋ねください


 一方、目を北に転じると、宗像大社には大国主命が主祭神ではないかという話が付き纏い、事実、遠賀川の流域の外れになりますが、岡垣町手野にも大国主命を祀る文字通りの大国主神社が鎮座しているのです。それ以上に驚愕すべき事例として、春日市の商工会議所の敷地には、オオナムチの幼名であるオオナビコを祀る伯玄社が存在している事を再度考えて頂きたいのです。

これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)024 大国主は九州で生まれた “オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”(をお読み下さい)

ここまでくると、筑前町の大己貴神社が非常に気になってくるのですが、百嶋神社考古学の洗礼を受けた者は大国主命が実際に活躍したのは九州であるという認識を持っており(現出雲の国は近畿大和朝廷が創ったテーマ・パーク)、そのポジションからもこの大己貴神社をクローズ・アップせざるを得なくなるのです。

田神社が大幡主、大山祗の二神による擬神体であるという百嶋説に基づく調査ですから、大国主命が無視できないのです。

理由は簡単で、百嶋神社考古学の立場からは、田神社=タノカンサー=大幡主+大山祗(擬神体)の第二世代が大国主命=大己貴だからです。


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スポット199(後) 赤村の超巨大古墳 ⑫ によって通説から離脱し始めた方々に出雲神話も再考を!

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スポット199(後) 赤村の超巨大古墳 ⑫ によって通説から離脱し始めた方々に出雲神話も再考を!

20180828

太宰府地名研究会 古川 清久


朝倉郡では平地に田神社、山手に山神社(大山祗神社)が数多く分布しています。そこで、「福岡県神社誌」で朝倉郡内の神社を調べると60社近い田神社が拾えます。ところが、何故か一社を除き、残り全てが無格社に落とされているのです。

 恐らく、この事が大国主の国譲りと関係しており、彦山に居た高木大神(高皇産霊神)から明け渡しを要求された国とは、この60社近い無格社が残る甘木~朝倉~杷木の一帯だったのです。

 さて、大国主命の国譲りの話はどなたも良くご存知ですが、国を明け渡し高木大神(高皇産霊尊)から天日隅宮を建ててもらい天穂日命に祀らせたとされています。


そこで、大国主命は、自らの国が見渡せる筑前町の東の端の日隅宮に住んだのであり、現在の大己貴神社とはその痕跡と考えるべきではないかと理解しています。

 百嶋神社考古学では、この天穂日命こそ田神様のお一人の大幡主(埴安命)になりますので話が繋がってきますね。

「天穂日命」が大幡主(埴安命)であることについては、ひぼろぎ逍遥 175 天穂日命(アメノホヒノミコト)とは」を併せてお読みください。

以前から、何故、筑前町と旧甘木市との境に大己貴神社が置かれているかが分からず奇妙に思ってきました。

普通なら、一定の領域の中心部若しくはその背後の高台といったところに置かれるはずなのですが、筑前町が朝倉市(旧甘木市)に突き出した先端のような場所に置かれているのです。

してみると、大国主の移転先が、故地(古地)が見える隣町(隣国)に置かれたと考えればすんなりと理解できるのです。これだけの事を念頭に置いてまずは弥永の田神社の新旧の神社縁起をお読みください。

お読みになれば分かるように、まず、現筑前町大字弥永に日隅宮という字があった(元々そこに大国主命の社があったと考えられそうですが、それが、国譲りの元宮があったという名残を持つ地名なのか?それとも国譲りの以前の宮があったという痕跡地名なのかは今のところ分かりません)事はまちがいないようです。

そうなると、やはり、甘木、朝倉の一帯が国譲りに関わる故地であるようです。最低でも、この筑前町弥永の田神社からそう遠くはない所に本当の出雲の日隅宮があったのではないかと考えられるのです。

ただ、22年当時の筑前町の教育委員会は、「日本書記」の日隅宮(大国主の国譲りに関わる重要な地名)とも考えられる重要な内容を積極的には触れたくはないようです(どうせ利権に乗っかった方々ですので)。

「出雲の国譲りの話が九州であるはずがない…」という通説に沿う当たらず障らずのお考えのようです。

普通なら、使えるものなら何でも利用して町興しに使ってしまうのが常なのですが、「日本書記」、朝廷、天皇…に繋ながるとなると、権力にひれ伏し尾を振り自己規制してしまうのです。

結局、九州王朝論の立場に立つものしかこの驚愕の事実を掘り下げる事はできないのでしょう。


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現在の神社縁起(上)平成22年以前の同社縁起(下)


出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。

大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)


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「天日隈宮」 “出雲大社”


神魂命が「「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)

崇神天皇607月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)


ウイキペディア (20160626 23:00による


「出雲国風土記」 出雲郡 杵築郷 の 条

「八束水臣津野命の国引き給いし後に、天下(あめのした)造らしし大神の宮を奉らんとして、諸々の皇神(すめがみ)等、宮処(みやどころ)に参集(まいつど)ひて、杵築(きづき)給ひき。」

「出雲国風土記」 楯縫郡 郡名由来

「神魂命(かみむすひのみこと)詔りたまひしく、「五十足(いた)る天日栖宮(あめのひすみのみや)の縦横の御量(みはかり)は、千尋(ちひろ)の栲紲(たくなは)持ちて、百八十(ももやそ)結びに結び下(た)れて、此の天(あめ)の御量(みはかり)持ちて、天下(あめのした)造らしし大神の宮を造り奉(まつ)れ」と詔りたまいて・・・。」

記紀によれば、国譲りにより葦原中つ国を天孫に奉還した大国主命が、退いて幽冥(かくりよ)主宰の神となるにあたり、大神の住まう宮殿を造るよう求め、天照大神が諸々の神に命じ造営させたとありますが、「出雲国風土記」によれば、八束水臣津野命の国引き事業の後に神魂命(かみむすひのみこと)の命により、天御鳥命(あめのみとりのみこと)が造営したとあります。

いずれにせよ、風土記でも日本書紀でも古事記でも、豪壮・荘厳な宮だと記しています。

・・・平安初期の天禄元年(970年)に源為憲の著わした「口遊(くちずさみ)」にも、「雲太、和二、京三」と詠われています。 

 「出雲太郎、大和二郎、京三郎」の略で、大きい建物の順を説明するものだそうです。

「雲太」が、出雲国杵築明神神殿(出雲大社)で、「和二」が大和国の東大寺大仏殿、「京三」とは京都の宮城内にある大極殿だとされています。

大社の宮前の町に入る宇迦橋の所に、日本一高い大鳥居があり、町を通り抜けた所にある祓橋(はらいのはし)を渡ると、鬱蒼とした松原の続く長い長い参道があります。参拝者は参道の端を歩かなくてはいけません。真中は神々の通り道だからです。


参道の終わりに手水処があり、胴囲が六尺ある青銅の鳥居をくぐると境内です。境内にはこの正門と、東西それぞれに三つの門があり、古来から「七口門」と呼ばれています。

正面にある拝殿にかかる「注連縄(しめなわ)」は豪壮で、参拝者の目を奪い、「出雲大社といえば・・」と言われるシンボリックなものです。 出雲大社のシメ縄は、世の神社とは唯一正反対になっています。即ち、一般の神社では、綯始(ないはじめ)・・・[縄を綯う始め] を社殿に向かって右にし、綯終(ないおわり)を左にします。祭式としては、左右尊卑本末論に合致しますが、出雲大社のそれは左右が逆なのです。

その由来は、どこにも書き記されていませんので「謎」です。


sp199-8より
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これから筑前町現地の「日隅宮」跡地を探す作業に入らなければならないようです。

勿論、もし、小字日隅宮が国譲り以前の宮の名称でもあるのならば、現在の大己貴神社が鎮座している場所も含めて検討する必要があるでしょう。

このように考えてくると、飯塚市に存在する、桂川の「出雲」交差点までもが俄かに信憑性を以て再考すべきではないかと思うのです。


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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200300万件のアクセスはあるでしょう。

598 遠い古代に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)

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598 遠い古代に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)

20180331

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回の話は、これまでスポット版で数本書いてきたものの概略を分かり易くまとめたものです。

後段の数本をお読み頂ければそれで済むのですが、さらに概略をまとめてみると鮮明に見えて来るのではないかと思うものです。

事の発端は野波神社の発見でした。五年ほど前に太宰府地名研究会の中島 茂氏が発見して十名ほどで現地にも入ったのですが、その後その重要性が分かり、古川が以前から注目していた旧背振村桂木の葛城一言主命を祀る神社との関係が見えて来るに至り、現佐賀市の旧三瀬村の水没した野波の里に神功皇后のご両親が住んでいた(従って神功皇后もこの地で産まれている)事が見えて来たのでした。


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佐賀県の脊振山中にある野波神社(左)と付近にある下ノ宮(右)です。

現在は北山ダム(1950~)に水没した事によって移転した後、さらにゴルフ場建設によって再移転を余儀なくされた神社ですが、この縁起には付近にしたご両親を祀る下ノ宮の事が書かれていたのです。

 詳しくは以下の数稿を読んで頂きたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

489 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! “宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”

ひぼろぎ逍遥

スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート

スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々

スポット172 姉川と妹川という名を付した人々と息長系氏族

スポット173 亀屋佐京


 メンバーの宮原誠一氏は、水没した野波の里で生活していたご夫婦の間に産まれたのが神功皇后であり、後に上宮として祀られたのが下ノ宮(皇后となったため下ノ宮と呼ばれた)であったのではないかとされているのです。

 いずれにせよ、桂木の一言主命神社の存在から葛城氏の一族が旧脊振村にいた事は推定されますが、縁起からは同じ脊振山系の旧三瀬村辺りに息長宿禰もいた事も推定され、葛城氏も息長氏もともに脊振山系に展開していた可能性があるのではないかと考えられるのです。

 当然ながら、通説派の方々は“何を馬鹿げたことを…”と取り合わないでしょうが、ではお尋ねしますが、皇后のご両親である息長宿禰と葛城高額姫を単独で祀る神社が何故この地に存在するのか、また、全国にそのような神社が存在するのであればご教授願いたいと思うものです。

 当然ながら、通説派の方々は“何を馬鹿げたことを…”と取り合わないでしょうが、ではお尋ねしますが、皇后のご両親である息長宿禰と葛城高額姫を単独で祀る神社が何故この地に存在するのか、また、全国にそのような神社が存在するのであればご教授願いたいと思うものです。

 メンバーの宮原誠一氏は、水没した野波の里で生活していたご夫婦の間に産まれたのが神功皇后であり、後に上宮として祀られたのが下ノ宮(皇后となったため下ノ宮と呼ばれた)であったのではないかとされているのです。


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いずれにせよ、桂木の一言主命神社の存在から葛城氏の一族が旧脊振村にいた事は推定されますが、縁起からは同じ脊振山系の旧三瀬村辺りには息長宿禰もいたとも考えられ、葛城氏も息長氏もともに脊振山系に展開していた可能性があるのです。

 まず、葛城氏と言えば、カツラギノナガエソツヒコが頭に浮かびますが、今でも「長江」という小字が脊振村に残っています。また、「ソツ」はソシモリノの「ソ」であり、「牛津」(佐賀県小城市牛津町)ではないかと考えています。また、ここで申し上げておきますが、背振山頂にある航空自衛隊のレーダー・サイトの直下には「伊福」という地名もあるのです。

伊吹山の「伊吹」とは「伊福」の置換えの可能性があるのです。

 少なくともこの二つの氏族は佐賀県の脊振山系から福岡県うきは市の耳納山系に移動している様に見えます。

 それは、巨勢川という名の川が佐賀市を流れ、同じ名、同じ表記の巨勢川がうきは市から久留米市を流れ筑後川に落ちているからです。

 さて、通説では神功皇后の一族(息長氏)は近江にいたとされます。

事実、敏達天皇のお妃となった息長広姫の陵墓などが滋賀県長浜市の姉川沿いにあるのですが、それはまだ後の時代の事なのです。

 ここで、佐賀県神埼市と福岡県うきは市に「姉川」と「妹川」という河川名、地名が存在している事をお知らせしましょう。

 地名には戸籍がなく、僅かに文献に拾えるものだけが価値あるものとして採用されるものの、通常はまともに取り扱われる事はありません。

 勿論、そう言っておけば、権威が維持できる事から学芸員や教育委員会関係者といった方々は火中の栗を拾う事はしません。

 そのような事は十分に承知の上なのですが、当方には権威などは一切関係がないため、故)百嶋由一郎氏が“95%が嘘”と言い切った「古事記」などを根拠に地名の起源を説明されていれば良いだけの事です。

この姉川地名は菊池氏の分流が肥前へ展開し現地の姉川地名を称したものと考えていますが、定かではありません。


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かつて、このダムが造られた北風の入る谷では多くの蹈鞴製鉄が行われていました。

三十近い○○多々良地名があったと言われています。

現在はダムの底に沈んでいますが、記録はダム事務所に保存されているかもしれません。

また、久留米市の東隣のうきは市には妹川地区があり、伊福さんという鍛冶屋さんも沢山住んでおられる(た)のです。この人々の後裔が滋賀県の伊吹山(伊福の置換え)に移り住んだと考えられるのです。 

つまり、伊福さんという鋳物師が住む川が妹川(イモカワ、イモゴウ)ではなかったかと思うのです。


598-5

太宰府地名研究会によるトレッキング(佐賀県神埼市脊振町桂木)葛城朝の起源か…


 筑後地方の人にとって、戦国期の草野氏の「草野」という地名はかなり重要です。

その久留米市草野町に対応する地名(長浜市草野町)が近江の姉川流域にもあるのです。

598-6



598-7勿論、姓名としての「草野」は不思議にも福島県に集中していますが、肥前起源とも言われる耳納山の麓に蟠踞した草野氏は、戦国期でその支配領域を失います。しかし、この移動は地名が成立する程度の千五百年以上前に起こったはずなのです。

 もう一つ対応する例をご紹介しておきましょう。

 高良大社と言えば、筑後地方で知らぬ者のない大社ですが、これに対応すると思われる高良神社が彦根市にもあるのです。

高良神社 (コウラ)カーナビ検索 滋賀県彦根市鳥居本町2464 祭神 武内宿禰命


しかし、この程度の話ではなく、どうみても決定的と思える例が、地名と神社に認められるのです。

さて、ここから太宰府~久留米を中心とした九州王朝の観点から少し考えて見ましょう。

 久留米と言えば高良玉垂命(実は仲哀死後の神功皇后をお妃として産まれた仁徳天皇以下五人の皇子の父神であり、藤原から第9代とされた開化天皇なのです)を祀る高良大社が頭に浮かぶのですが、その高良の置換えと思われる甲良町(甲良町は 近畿地方北東部、滋賀県東部にある犬上郡の町 滋賀県内にある地方自治体のうち 豊郷町に次いで面積が小さい があるのです)。

 高良神社に対応する甲良町があるだけじゃないかと思われるかもしれませんが、甲良神社がある上に、隣の豊郷町には安自岐神社を持つ安食という地区がある事に気付いたのでした。

 「高良」と「甲良」が対応しているだけならば、高知県東洋町甲浦のように(ここにも高良神社があります)他にもあるのですが、この甲良町の隣の安食の「阿自岐」まで揃っているとなると、どう考えても高良大社のある高良山の麓に居た阿自岐の一族が移動した痕跡地名としか考えようがないのです。

 ここでは太宰府の阿志岐(福岡県筑紫野市)地名を紹介しましたが、古代、有明海が久留米市の北側まで大きく入っていた1500年前頃まで、高良大社の南麓まで阿志岐であったと言われているのです。


597-8

山川校区は、耳納山地の高良山麓から筑後川の南側で、久留米市の東部に位置し、山と川に囲まれて、緑豊な人情味あふれる安心・安全なまちです。地名は明治6年、山麓の阿志岐村と川沿いの神代村の合併の際、両村の立地を組み込んで名付けられました。598-8による


598-9

甲良神社 カーナビ検索 滋賀県犬上郡甲良町尼子1℡0749-38-2462


一目瞭然ですが、高良玉垂命は完全に消され祭神の入れ替えが行われていますね。

 もうひとつご紹介しておきましょう。


甲良(こうら)神社は天武天皇の奥方である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。旧本殿は徳川家光の命により建立されたもので、社殿の彫刻などが室町時代の作風を色濃く表しているとして文部省の特別保護建造物に指定され、昭和35年には国の重要文化財に指定されました。

建物の背の高さと規模が小さいながらもしっかりとした造りが特徴です。屋根の線や建物の配置などから伊勢神宮に似ているとも言われています。例年415日に行われる甲良神社の太鼓祭は2メートルもある大太鼓が目を引き、人気があります。 597-10
   

598-11

古賀事務局長の洛中洛外日記  第147話 2007/10/09 甲良神社と林俊彦さん


 先週の土曜日は、滋賀県湖東をドライブしました。第一の目的は、甲良町にある甲良神社を訪れることでした。甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。

 ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。

 わたしは次のようなことを考えています。それは、天武が起こした壬申の乱を筑後の高良神を祀る勢力が支援したのではないかという仮説です。天武と高良山との関係については、拙論「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第9集)で論じましたので、御覧頂ければ幸いです。

 この甲良神社のことをわたしに教えてくれたのは、林俊彦さん(全国世話人、古田史学の会・東海代表)でしたが、その林さんが10月5日、脳溢血で亡くなられました。まだ55歳でした。古田史学の会・東海を横田さん(事務局次長、インターネット担当)と共に創立された功労者であり、先月の関西例会でも研究発表され、わたしと激しい論争をしたばかりでした。その時に、この甲良神社のことを教えていただいたのです。7日の告別式に参列しましたが、棺の中には古田先生の『「邪馬台国」はなかった』がお供えされており、それを見たとき、もう涙を止めることができませんでした。かけがえのない同志を失いました。合掌。


古賀達也氏が見たのは尼子1の甲良神社の方ですが、滋賀県犬上郡甲良町法養寺にももう一つの甲良神社があるのです。

 
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甲良神社 カーナビ検索 滋賀県甲良町法養寺


本殿は、流造(ながれづくり)で、檜皮葺(ひわだぶき)、蟇股(かえるまた)、組物(斗拱(ときょう))、木鼻(きばな)などの様式から江戸時代(16031868)初めごろの本殿建築の好例とされています。 境内には「町の木」であり、「湖国百選」に選ばれた高さ26メートル、750年以上の年を経た欅(けやき)があります。 木鼻:などが柱の外側に突出している部分で、この部分に繰形(くりがた)や彫刻をしています。                                        甲良町HP


以下は阿自岐神社です。

 
598-13

阿自岐神社 カーナビ検索
滋賀県犬上郡豊郷町安食西663 ℡0749-35-2743


この神社に祀られているのは、アジスキタカヒコネの神阿自岐氏のことです。阿自岐氏はかなり高貴な百済系の渡来人で、この庭園づくりに、日本に漢字を伝えた王仁氏を招いたといわれています。それはなんと今から1500年も前の事ですから、まだ庭などなかっただけに、阿自岐庭園は古代豪族の憩いの場となっていたのでしょう。これは日本最古の庭園の一つともいえます。また、この地域が安食と呼ばれるルーツは、やはり阿自岐氏からきたと思われます。阿自岐氏が近江に来て美しい庭園を築き、心豊かに安らぐこの郷に住んだと聞いて訪れると遠く千数百年前、古代豪族の美の世界へロマンが広がります。

豊郷町HP

【延喜式神名帳】阿自岐神社 二座 近江国 犬上郡鎮座

【現社名】阿自岐神社

【住所】滋賀県犬上郡豊郷町安食西663

【祭神】味耜高彦根神

(配祀)道主貴神 天児屋根命 保食神 須佐之男命 天照大神 大物主神 応神天皇 宇迦之御魂神 大己貴命 猿田彦神 埴山姫神


もうひとつ思いつく地名対応があります。

 佐賀県東部~筑後川左岸と琵琶湖の地名対応を考える時始めに頭に浮かぶのは前原と米原です。

 旧脊振村、旧三瀬村から北側の福岡県に下れば、現在糸島市となった前原町(旧前原市)こちらは「マエバル」と呼ばれていますが、伊吹山の麓、関ケ原の手前の東海道新幹線の米原駅の米原(滋賀県米原市米原)ですね。どう見ても近江にはこちらの人々が入っているとしか思えないのです。




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599 花に浮かぶ八幡神社 “山口県山口市阿東の徳佐神社”

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599 花に浮かぶ八幡神社 “山口県山口市阿東の徳佐神社”

20180403

太宰府地名研究会 古川 清久


 このところ北部九州から近江に移動した人々の具体的な姿を描く作業に追われています。

既に、以下のブログを公開していますのでご覧になった方もおられるでしょう。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

489 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! “宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”

ひぼろぎ逍遥

スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート

スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々

スポット172 姉川と妹川という名を付した人々と息長系氏族

スポット173 亀屋佐京

598 遠い古代に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)



研究会のスケジュールを縫って再び、近江に足を踏み入れることにしました。

それは、伊藤女史一行の丹波丹後の調査に合流し随行する前ついでに近江の調査もやってしまおうなどという狡猾な考えを持ったからでした。

こうして、おっとり刀の調査旅行が始まりました。

日田市を4216:00に出発したのですが、関門橋を渡り王司パーキング・エリアで最初の車中泊、二区間目の小月インターチェンジで降りれば500円未満で済みますので、渋滞を避けて国道2号線から9号線で山陰に入りました。

現在、出雲崎の手前の出雲市多伎の道の駅で休憩のためにブログを書いている訳です。

近江はまだまだ遠いのですが、目の色変えて突っ走るのもバカバカしいだけで、桜を愛でながら、また、めぼしい神社を拾いながらの十車中泊十一日の調査旅行が始まったのでした。

今回も往復2500キロの旅になることから、できるだけ休憩時間を十分に取りながら走る事にしていますので、神社と見れば気分次第で極力参拝させて頂く事にしています。

 その行きがけの駄賃とも言うのは失礼になりますが、花見と神社探訪が同時にやれるというお誂え向きの神社が、しだれ桜で著名な徳佐八幡宮です。


599-1

徳佐八幡宮 カーナビ検索 山口県山口市阿東徳佐中3673 ℡083-957-0413


 山陰に頻繁に通うものとしては3号線で山口市から島根県の津和野、益田に向かうのは一つのルートであって、いつも気にしながらもどうせ八幡宮だからとパスしてきた一社でした。


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しかし、高地故に丁度満開のタイミングで遭遇し天気が良好となれば参拝しない訳にも行かないでしょう。

 平日(43日 火曜日)とは言え、境内は花見客と参拝客とで賑わっていました。

 ただ、今回は近江などが主たるテーマであって、「山口県神社誌」~「鳥取県神社誌」も持っては来ていません。

 詳しい祭神については帰ってから正確に書き加えるとして、まずは、花と神社を見て頂きましょう。


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しだれ桜の名の通りしだれていますね


しだれ【垂れ/枝垂れ】とは。意味や解説、類語。枝や葉が、たれ下がること。しだり。しだれいと【垂れ糸】たれ下がっている糸。「素鑓(すやり)の鉤(かぎ)に―、さっとしだれて」〈浄・薩摩歌〉しだれいとすぎ【枝垂れ糸杉】ヒノキ科の常緑樹。高さ1015メートル。枝が垂れる。中国揚子江沿岸に分布。しだれうめ【枝垂れ梅】枝が垂れている梅。しだれざくら【枝垂れ桜】バラ科の落葉高木。ウバヒガンの変種で枝先が垂れ下がるもの。3月上旬に淡紅白色の花を開く。

垂れ/枝垂れ(しだれ)の意味 - goo国語辞書


 さて、祭神です。


599-4

神社参拝殿の由緒に依れば上のとおりですが、念のために「九州神社紀行-ブログ」を見ることにしました。


【御祭神】應神天皇 仲哀天皇 神功皇后
     (配祀)多紀理毘女命 市寸嶋比女命 多岐津比女命 天兒屋根命 天太玉命
     天鈿女命 興玉命 鹽土老翁命 手力雄命 大己貴命 少彦名命
【御由緒】
 徳佐八幡宮 (宝清山八幡宮)
 祭神
・八幡神、応神天皇、神宮皇后、姫大神ほか       
大国主命(おおくにぬし)、大己貴命(おおなむち)、少彦名命(すくなひこな)ほか


と、書かれていました。

天兒屋根命は阿蘇高森の草部吉見神=海幸彦、天太玉命はヤタガラス、天鈿女命 興玉命は豊受大神=アメノウヅメとニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦ですので興玉命は重複となります。

鹽土老翁命は大幡主=ヤタガラスの父神であり、由緒の国常立神と同一神となります。

まず、百嶋神社考古学では「国常立神」は大幡主=神産巣日神とします。手力雄命は勿論スサノウですので、後は皆さんでお考えください。

 この配神を見る限り、この基層には大幡主系=白族系が色濃く見えるのですが、それよりも神社の背後の高所に祀られている金山彦系の神々こそがこの神社の本質であることが見えたのでした。

 八幡神は仕方がなく受け入れたものであって、この地「徳佐」に住み着いた人々の本来の祭神ではないようです。

神殿背後のしかも高所に祀られている神こそが本来の神であるとすれば、三宝荒神と金毘羅社こそが本来の神様のような気がします。


599-5

稲荷は遥拝所ですし粟島社も横に祀られているだけですが、三宝荒神社は神殿背後の高所に置かれている事から(恐らく元々そこに鎮座していたのでしょう)この神様こそが八幡神が覆い被さる前の本来の徳佐の神々なのです。


599-6


599-7見辛いのですが、粟島社には「煩(ワズライノ)宇斯(ウシ)命という初めて見る神様が祀られています。これが何なのか気になり敬愛する「玄松子」のサイトで調べるときちんと書かれていました。

今日も「古事記」を聴きながら走ってはいたのですが、まだまだ駄目ですね。


和豆良比能宇斯能神 わずらいのうしのかみ

別名 煩神:わずらいのかみ 煩大人神:わずらいのうしのかみ

『古事記』では、伊邪那岐神が死の国(黄泉国)から戻って禊祓をした折、身につけているものを脱ぎ投げ出すと、それらから十二の神々が化生した。

杖より化生した神は、衝立船戸神。御帯から化生した神は、道之長乳歯神。

御嚢(みふくろ)より化生した、神は時量師神(あるいは時置師神)。

御衣より化生した神は、和豆良比能宇斯能神

599-8御褌(ふんどしのこと)から化生した神は、道俣神。

御冠より化生した神は飽咋之宇斯能神。

左の手纏(手にまく飾り、あるいは武具)より化生した神は、奥疎神、奥津那芸佐毘古神奥津甲斐弁羅神

右の手纏より化生した神は、辺疎神、辺津那芸佐毘古神、辺津甲斐弁羅神。


奥津那芸佐毘古神 奥津甲斐弁羅神 は奥津彦、奥津姫でしょうから、どう見ても金山彦系の神様である事は間違いがなさそうです。

 もう九時になりますが、夕食もとらずに道の駅でただ一人でブログを書いていますのでこれ以上書く気にはなりません。後は皆さんでお考えください。左は百嶋由一郎三宝荒神神代系譜です。


煩宇斯命とはどなたでしょうか!?加太は事代主のエリアなのですが…。


百嶋由一郎神社考古学の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。実費程度です。

600 花の舞鎮の先に鎮座する式内社 “京都府舞鶴市の阿良須神社”

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600 花の舞鎮の先に鎮座する式内社 “京都府舞鶴市の阿良須神社”

20180404

太宰府地名研究会 古川 清久


前ブログ 599 花に浮かぶ八幡神社 “山口県山口市阿東の徳佐神社”ではこのように書きました。


 このところ北部九州から近江に移動した人々の具体的な姿を描く作業に追われています。

既に、以下のブログを公開していますのでご覧になった方もおられるでしょう。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

489 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! “宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”

ひぼろぎ逍遥

スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート

スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々

スポット172 姉川と妹川という名を付した人々と息長系氏族

スポット173 亀屋佐京

598 遠い古代に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)


 研究会のスケジュールを縫って再び、近江に足を踏み入れることにしました。

それは、伊藤正子女史の丹波丹後の調査に随行する前についでに近江の調査をやってしまおうと思ったからでした。

こうして、おっとり刀の調査旅行が始まりました。

日田市を4216:00に出発したのですが、関門橋を渡り王司パーキング・エリアで最初の車中泊、二区間目の小月インターチェンジで降りれば500円未満で済みますので、渋滞を避けて国道2号線から9号線で山陰に入りました。


 以来、日本海側の無料の高速道路区間(山陰は元片山鳥取県知事のおかげ)は利用するも、基本的には一般道を利用し750キロを走り、現在は福井県小浜市の手前の高浜町(高浜原発の高浜です)の道の駅の温泉施設の休憩室でブログを書いています。


600-1

天草市高浜


 その前に、この高浜と小浜が気になります。

有明海の出口の早崎瀬戸を挟んでこの二つの地名があるのです。

彼らが、西に船を出して対馬海流に乗りさえすればこの舞鶴、高浜、小浜、敦賀…には直ぐに辿り着けるはずです。

ある時、意を決した若者の集団が数十隻の船で丹後半島を越え越の国を目指したとすれば、自らの故地の地名を付けた可能性は高く、これらの地名付合がそれに起因するとするのはそれほどでたらめな想定でもないでしょう。


600-2

もう近江は目と鼻の先です。

小浜市から入れば安曇川辺りまでは直ぐですので、明日から近江の調査に入ります。

以下は福井の高浜と小浜地名です。


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さて、桜満開の舞鶴の鎮守府=舞鎮(佐世保は佐世鎮、呉は呉鎮、横須賀は横鎮)のイージス艦を左に、暫く走ると阿良須神社があります。




600-5阿良須神社

舞鶴市小倉フル宮13(平成22729)

東経1352559.45秒、北緯352839.85秒に鎮座。

 この神社は27号線に面して鎮座しています。社頭には二基の鳥居が見え、はじめは二基共この社の鳥居かと思っていましたが、左側がこの社の物で、右側の鳥居は富(布)留山神社の物でした。

この二社は地番も違えば、氏子地域も異なります。

 入口の社号標には「郷社阿良須神社」と書かれ、鳥居の額には「正一位一宮大明神」とあります。鳥居を潜り、石段を数段上がると境内で、広々と明るい境内左には境内社が配され、正面に神門のような感じの拝殿と、それに連なる回廊が建立されています。

 回廊は正面だけに建立されており、回り込むと本殿のすぐ近くまで行くことができます。本殿前にはこの地域には珍しい狛犬がおり、「式内阿良須神社」の社号標も立っています。流造りの本殿は彫刻が施された素敵な社殿でした。本殿右手の丘の上からは御神水が湧き出ているようです。

 背後の青葉山から続く鎮守の杜が、雄大さと静けさ、清々しさを感じさせる、神寂びた素敵な神社でした。

 御祭神:豊受大神一座、相殿神:多岐都姫命、市杵島姫命、多紀理姫命、三座、木花咲夜姫命(殿内秘座二宮神)

 祭礼日:10月末の日曜日 境内社:神明神社、二柱神社、桜王神社

 由緒:当社は崇神天皇十年丹波将軍道主王が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠と云う兇賊を征伐し給う時、豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りされたのを創祀とする。降りて天武天皇白鳳十年九月三日柳原の地に社殿を建て春日部村の氏神阿良須神社と奉称す、遡りて元年大友皇子の御謀叛の時越前阿須波の里へ忍び給う高市皇子は当社に幸し天下鎮静を大神に祈り御歌を詠じ給う。

 曇る世に柳ケ原をながむれば 神の恵みや晴るる朝霧 風来ぬる青葉の山の煙りたへ 行先遠き雲の上かな 御染筆奉納にありたり爾来朝家の御崇敬厚く殊に延暦二十四年正一位を賜わる。堀川院御子無きをうれいて当社に祈願を寄せ給いしに感応ありて宗仁親王誕生あらせられければ、寛治元年正一位一宮大明神の御額奉らる御筆は羽林飛鳥井卿の御真蹟なり。かくて当社は古来より子宝を授け安産に奇霊なる神徳を現わし給うと云う。貞元年中当国に叛賊起り国内乱れし時、藤原保昌賊徒平定を祈願し当社に拝す。観応元年三月十五日神田五反政所尭基寛正三年神田一反代官河嶋主計充秀寄進す。而して慶長五年九月七日兵燹に罹りて本社、二の宮、拝殿、御饌殿、神楽殿、中門回廊、宝物等悉く焼失した。翌年細川忠興社を布留山の地へ遷す、即ち今の社地なり。その後、明暦四年三月二十四日、文政十二年六月三日 両度本殿を改築す。

 (例祭) 九月三日が古例なれど現在は十月末の日曜日

 (式年行事) 御屋根洗式十ケ年 近年行われず

 (所有文書) 南北朝室町時代文書十三通(一巻)一宮大明神縁起(一巻)同造立願文(一巻)大般若経(一巻)を蔵し大般若経を除き京都府登録文化財並びに舞鶴市指定文化財である。



600-6による

思えば、「事代主のブログ」氏から最初のお電話を頂いたのもこの神社でした。

スポット200(前) 赤村の超巨大古墳 ⑬ 神功皇后は佐賀県の三瀬村で産まれた

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スポット200(前) 赤村の超巨大古墳 ⑬ 神功皇后は佐賀県の三瀬村で産まれた

20180530

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。

再掲

現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


sp200-1

赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


 今般の赤村の前方後円墳としか思えない巨大古墳状丘陵に関して、町興し村興し宜しく「卑弥呼の墓」といった噂が飛び交っているやにも聴いています。

 古代史の世界に多少とも関わった者として、地域振興のためのマヌーバとして、一時的に「卑弥呼の墓」…といったデマに近い話が流れる事が全く悪い事とは思いませんが…(絹も鉄も出土しない奈良県桜井市の巻向遺跡や巻向古墳を卑弥呼の大城とか埋葬墓などとするような大嘘よりは余程真面なのですから)、この実に素人臭い卑弥呼の墳墓説には多少の気恥ずかしさを越え暴走にしか思えません。これについては通説派の考古学協会なども“どうせ素人ですから…”などと馬鹿にしきっている事でしょう。

行政や教育委員会や文化庁…といった悪の牙城が、これまで敵視続けて来た「九州王朝論」の探究などに踏み込むはずもなく、いずれはうやむやにしてしまう事でしょう。そんな事は鼻っから分かり切っているのですが、何やら田川郡内でお祭騒ぎでもやれば新たな展開が見えるとお考えなのかも知れません。

ただ、彼らは邪馬台国畿内説などと言ったトンデモ説に利権を見出しただけのさもしい人々なのであって(中には、九州にも月額300万円などという法外な給与を貰っているインチキ考古学者もいるらしいのです)、そもそも学問とか真実の探求などと言った事を期待すること自体意味がないのです。

これについては、ひぼろぎ逍遥スポット180 赤村の超巨大古墳 ③ 発見と列島の穴掘り考古学の未来(跡宮)辺りを再度お読み頂きたいと思うものです。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)には百嶋神社考古学の影響を受けた多くの研究者によるblogがリンクされています。

その中でも、宮原誠一氏のsp200-2「宮原誠一氏の神社見聞諜」の最新号(現時点)に重要な論稿が掲載されましたのでご紹介を兼ねて全文を掲載したいと思います。同サイトを是非お読み下さい。

北部九州には神功皇后伝承が色濃く残されていますが、「日本書紀」に書かれた嘘話を真に受けていては古代の深層にはまったく辿りつく事などできません。宮原氏は抑制して書かれていますが、他の研究などと併せ考えれば正しい者と考えています。是非お読み下さい(古川)。

宮原誠一の神社見聞牒(025)
平成29(2017)1006

No.25 神功皇后生誕の地・佐賀背振の野波神社

1.王家の谷の野波神社と下ノ宮

佐賀県背振山南麓は古代の王家の子を養育するのに適した地であった。嘉瀬川上流の川上渓谷、城原川上流の背振渓谷があり、それらの渓谷の上流は北山ダム付近に集まる。その背振渓谷は、往古、素戔嗚(スサノヲ)系の支配領域と言われた。
かつて、北山ダム湖に沈む前の「野波(のなみ)の里」は神功皇后生誕の地という伝承がある。そこには、神功皇后を祭神とする野波神社があり、皇后(息長足媛おきながたらしひめ)の両親を祭神とする下ノ宮があり、この地域に息長足媛の伝承が残っている。
息長足媛の系図を百嶋神社考古学神代系譜からみると、父・息長宿祢(おきながすくね)と母・葛城高額媛(かつらぎたかぬかひめ)となっており、息長宿祢は父・建南方(たけみなかた)と母・奈留多姫(なるたひめ)であり、建南方は父・天忍穂耳命(あめのおしほのみみのみこと)と母・瀛津世襲足姫(おきつよそたらしひめ)であり、瀛津世襲足姫は素戔嗚尊の子であり、息長宿祢は素戔嗚直系の血筋である。葛城高額媛も素戔嗚尊四世の孫である。息長足媛の父母は共に素戔嗚系の流れとなっている。
伝承からして、息長足媛は父母が住む佐賀背振の野波の里で生まれ育ったと考えることができる。
しかし、神社由緒には神功皇后伝説特有の付会がみられ、野波の里は皇后生誕の地として可能性があるに留め置き、関連神社を紹介します。


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ここ十年程で、二、三度訪問した経験がありますが、当時は「神功皇后伝承」には関心がなく、野波神社、下ノ宮の事は承知していましたが、他の問題(米田良三氏が「長谷寺」で書かれた三瀬村に長谷寺があったという提起との関係も不明なまま)、棚上げ状態にしていました(古川)。

場所が分かり難いと思いますので、お知らせしておきたいと思います。

福岡市から三瀬トンネルを抜け三瀬村に入ると、杉神社から大瀬の大桂に向かう一帯に、九州王朝倭国の長谷寺があり(杉神社正面の鏡神社に長谷寺への桟橋の橋脚が存在した)、現在の北山ダムに沿い東に進んだ辺りに野波神社があり、下ノ宮は北山湖の湖底に沈んだのでした。


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神功皇后は滋賀県米原辺りの息長氏の一族であろうとか、近江出身であろうなどと通説に沿ったデタラメがまかり通っていますが、北部九州の神功皇后伝承は「紀」に合わない部分が多々ある事は知られていますし、どうやら、肥前の神功皇后伝承は唐津を除いて消されているようです。

 神功皇后を追い求められる方もこのような明瞭な伝承が残されている事を知るべきでしょう(古川)。


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神殿の千木は主祭神が女性神であることを示す。


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米田氏は以下のように述べている。「『源氏物語』の舞台の中心は倭国の時代の九州であった。京は大宰府都城であり、京から出掛けた 〝初瀬の御寺〟 も奈良ではなく、九州北部にあったはずである。私は佐賀県神埼郡三瀬村にあったと考えている」

 この部分は私を大いに刺激し、生まれて始めて長谷寺を訪れるきっかけとなった。現在の長谷寺の本堂、観音様は517年に完成し、721年に現在地に移築されたという米田説を信じた上での訪問である。訪れた時の印象は 〝感動〟 の一語に尽きる。時のたつのも忘れ、1時間以上大悲閣前の舞台でボーっとしていた。もちろん、現地の解説ボードを信ずればこうはならない。観音像は今までに6回焼失し、現在のものは室町時代に作られた7代目であり、本堂は江戸時代のものであると記されている。巨大木造彫刻十一面観音像の制作年代の説明に約1000年の開きがあるのだ。

 その後も先の引用部分のことが心の隅に引っかかり、2002年8月、三瀬村の観光協会に「村で一番古いお寺は?」と問い合わせたところ、反田という集落に長谷山観音寺という寺があったが、昭和38年、子供の火遊びが原因で焼けてしまったということであった。

 ネーミングからすると、幻の長谷寺は昔ここに建っていたに違いないと思い、2007年11月、日帰り弾丸ツアーで現地を訪れ、地元のお年寄りに焼失前の寺の様子を聞いた。

 この長谷山観音寺の件と、その西にある「宿」という名の集落がじつは椿市ではないか、と米田氏に電話したのだが、当時、氏は幻の長谷寺発見については著作で述べている程には意欲的ではないようであった。これほどまでに著者にプッシュし続ける自分は日本のシュリーマンになったような気分であった。

 後でわかったことだが、この寺は1521年、神代大和守勝利と言う人が伝説の長谷寺に憧れ創ったものであるらしく、私の努力は空振りに終わった。

 しばらくして、米田氏から倭国長谷寺の所在地が同定できたと連絡が入った。国土地理院の地図を凝視しているうちに閃いたというのだ。そこは「源氏物語画帖」玉鬘の巻、『枕草子』、『住吉物語』の描写にぴったりマッチするというのだ。

 ここで混乱しないように言っておかねばならないのは、3作品ともオリジナルは倭国の時代のものであるということである。『源氏物語』は一昨年「千年紀」と大騒ぎしていたが、正確には、もう350年ほど遡り、現代の作家が江戸時代初期の物語をパクるようなことが平安時代に行われていたのだ。


倭国長谷寺跡の発見 - AB&JC PRESSによる


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スポット200(後) 赤村の超巨大古墳 ⑬ 神功皇后は佐賀県の三瀬村で産まれた

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スポット200(後) 赤村の超巨大古墳 ⑬ 神功皇后は佐賀県の三瀬村で産まれた

20180530

太宰府地名研究会 古川 清久


2.野波神社の吉田藤雄氏の神社案内板について

吉田藤雄氏の神社案内板の最後の部分の1月7日の「ドンド焼き」の記述では、仲哀天皇は神功皇后と武内宿弥の間に生まれた子と思わせるような記述であり、仲哀天皇が野波の里で生まれたかのようなっている。
しかし、野波神社の由緒、下ノ宮の由緒からすると、皇后の両親、息長宿祢と葛城之高額媛が野波の里におられ、皇后が1月7日の「ドンド焼き」の日に生まれたと、捉える方が自然ではなかろうか。また、1月7日の「ドンド焼き」の朝、皇后が産気づかれて、仲哀天皇が生まれたとされるのは、ほかの皇子とも取れるが、誉田別皇子が筑前宇美の地で出産された以外に信頼できる伝承はない。
別の考え方として、この話が新羅征討後のものであれば、周囲に大雀命・菟道穉郎子が祀られており、開化天皇と皇后の皇子の出産ととれ、九体皇子の内の三名?の皇子が野波の里で出産されたと考えることもできる。
また、新羅征討のおり、筑肥を通過とは、朝倉市蜷城の美奈宜神社の由緒からすると、筑後川の大善寺の往来と考えられるが、「筑肥通過の折、この地に寄られて・・・」という伝承は神功皇后伝説特有の付会ではなかろうか。また、神功皇后の時代に「ドンド焼き」の行事があったであろうか。どうも、神功皇后特有の伝説が神社由緒に記載されると、由緒の信頼度が落ちるような気がしてならない。
ということで、神社案内板の最後の部分は認識の誤りとみるが、この由緒の全てを否定するものではありません。


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3.神功皇后伝説

日本書記の神功紀で、荷持田村(のとりたのふれ)の羽白熊鷲(はしろのくまわし)討伐のおり、筑紫野を神功軍が通過時、「旋風がにわかに吹いて皇后の御笠が吹きとばされ、時の人はそこを名づけて御笠(みかさ)という」、「羽白熊鷲と層増岐野(そそきの)で戦闘となり、ついにこれを滅ぼした。皇后は近臣に'熊鷲を取ることを得て心安らかになった'と言ったので名づけて安という」の地名説話がある。
しかし、御笠地名の近くには御笠山(宝満山)があった。
戦闘勝利した「安」については、秋月の入口の旧安川村に「安川」が流れ、ここ一帯を「安野」といった。この時点では、熊鷲は討伐されていない。敗退して秋月盆地に陣を建て直している。旧安川村の中心付近にある老松神社の社伝では、ここを「御府の森」といい、この神社は大国主一人を祀る。この神社の近くの北の山裾の楢原に「奇志神社」という聞きなれない秘密めいた神社がある。大国主を主祭神とするが、社紋は神功皇后の紋があり、熊本県山鹿市の「志々岐阿蘇神社」と同じ神額の額縁を持っている。この志々岐阿蘇神社は大国主、建南方を主祭神とする。「奇志」の名は、この志々岐阿蘇神社の「志々岐」をもじったように見える。また、「志々岐」は「ししき」「そそき」と訛り転化しているようにも聞こえる。
この「岐」は「城、柵、木」と同意語で、志々の柵、そその柵、つまり、砦、陣所ではなかろうか。その「そそき野」で戦闘の激突があった。層増岐野は、ここ、旧安川村から続く旧甘木市一帯をいうのではなかろうか。
神功皇后伝説の「御笠」、「安」は語呂合わせで、後世の府会のように思えるのだが、ここでの私の話も語呂合わせと取られそうです。


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「志々岐」の名を持つ他の神社  志々岐神社 福岡市早良区内野


祭 神 神功皇后、十域別王命、稚武王命(二人は仲哀帝の弟でヤマトタケルの皇子)


百嶋神代系譜・素戔嗚尊・神功皇后 神代系図(8)


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4.野波神社、下ノ宮の概要

 野波神社

所在地 佐賀県佐賀市三瀬村大字杠(ゆずりは、中谷) 1358-41
祭 神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)
由 緒(要約)西暦268年に創立。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地に寄られたと云う。明治43年村内の無格社が整理統合され、祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。
昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。

下ノ宮
所在地 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭 神 息長宿祢命・葛城之高額媛命
由 緒(要約)創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるが、本宮よりも上流に祀られ「下ノ宮」というが、息長足媛命が皇后になられてより、立場違いにより、後に「下宮」となったのであろう。
野波神社の例祭時、当宮との間に皇后の御神輿の上り下りの行事が行なわれている。


5.資料・佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」HPから

①「三瀬村史」による野波神社
社号 野波大明神
祭神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)
應神天皇の御代、西暦268年に勧請された神社で当地では最も古く、棟木札銘(昭和28年焼失)には次のような記録が残されていた。
 文中2(1373)再興。
 長禄2(1458)再建。
 元亀2(1571)再々建。
 宝永元年(1704)再々々建。
 天保14(18433月、1575年祭施行。
今から1700余年前の古墳時代初期に勧請されたことになる。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地にもおいでになって、宇土の大石に腰をおろして休息せられる時、一帯の風光を眺められて「最も能き野奈美哉」と仰せられたので、この一帯を野波の里とよぶようになった。また、大石の前の河で御裾を麗がれたので、その地を渡瀬の手洗松と言い伝えられた。その御遺跡に御社を営み、古くから神埼佐賀七山の宗廟として崇め、上下の信仰が厚かった。七山というのは、杠・関屋・小副川・菖蒲・畑瀬・松瀬・名尾の七山である。
室町時代、嘉吉2年(1442)の初春には、阿波の国の住人杠日向守が下向して当地の領主となり、神田五町歩を寄進して年々の祭祀を盛んにした。その後、天正年間(15731591)の頃には、神田等多数の領主から寄進があって、年中盛大な神祭りが行なわれたという。降って江戸時代の延宝2年(16742月には、杠権右衛門尉藤原吉満が、「七山宗社」の額と「宝物」数種を寄進して祭祀を行なった。
近代になって、明治61031日村社に指定され、同431013日に神饌弊帛料供進の指定を受けた。また、同年には村内の無格社が整理統合され、それらの祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。
昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。このとき焼失したもの。
  「七山宗廟野波大明神」-拝殿入口の額
  「七山宗社」-弊殿入口の額「銚子」二、「瓶子」 三、何れも木製

  「表札」-神社の伝説口碑を記したもの
御神体は古来「グミの木」と言われていたが、陶器製のものだけが焼け残っていた。
昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。海や河川にかかわりの深い祭神淀姫神の霊示が具現されたのであろうか、ダム湖水を眼下に見おろす中谷山の現地に社地社殿が構築され、同年12月遷座式が盛大に執行された。
淡島明神 野波神社の境内には、別に淡島明神を祭った小社殿がある。土地の人は「あわしまさん」とよんでいる。何時の頃勧請されたかは明らかでないが、淡島信仰は和歌山市の淡島明神を中心として広まったと言われ、江戸時代中期の元禄年間ごろから、淡島願人とよばれる一種の物もらいが、諸国を巡歴して婦人病に効験あらたかな神として信仰をすすめた結果、民間に広く普及し、とくに花柳界の女性の間に広く信仰されるようになった。
和歌山市加太町にある加太神社が淡島明神として著名で、祭神は少彦名命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)の3柱で、婦人病に霊験あらたかとされ、縁結び・医薬・海上鎮護の神として信仰される。
野波神社の淡島明神も、もちろん婦人病に効験あらたかとされ、安産・長寿・海上河川鎮護の神として、山内山外の人々に信仰されてきたのである。
出典:三瀬村史p710

②「三瀬村史」による「下ノ宮」
社号 下ノ宮 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭神 
息長宿祢命・葛城之高額媛命
創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。
下宮が本宮よりも上流に祀られているところに不可解な点もあるが、祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるので、上流に祀られていても不思議ではない。
野波神社の例祭のときには、現今でも当宮との間に御神輿の上り下りの行事が行なわれている。
出典:三瀬村史p712


青字の明朝体は宮原誠一氏の原文、黒字のゴシック体は古川による挿入文、赤字の明朝体AB&JC PRESSによる。

この野波神社、下ノ宮の伝承が荒唐無稽な話として否定される方は多いでしょう。しかし、滋賀県からやってきているはずだとおっしゃっておられる高名な方々のお話に根拠があるとお思いでしょうか?只の推定でしかなく何もないのですよ!それならこの現地伝承が何かを御説明頂きたいものです(古川)。

 

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研究目的で百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください


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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200300万件のアクセスはあるでしょう。


スポット207(後) アクセスへの露骨な操作をしているとしか思えないアメーバ・ブログから離脱しま

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スポット207(後) アクセスへの露骨な操作をしているとしか思えないアメーバ・ブログから離脱します!

20181111

太宰府地名研究会 古川 清久


今のところ桜ブログはほとんどアクセス規制、アクセス不正を行っていないようで敬意を表しますが、村興し町興し世界遺産登録万歳と言った行政に尾を振る様な内容しか書かない人畜無害の方々は(そんなお花畑の内容は何の価値もないものですので、そもそも、無理して書くほどのものではないのです)、アメブロを使われて構わないと思います。真実を追求しようと思われ心ある方は、このような露骨なアクセス規制をする可能性があるようなものからは早めに離脱されるか、そもそも近づかれない方が良いのではないかと思います。

まず、桜ブログで日量800件以上のアクセスを維持しているものより、絶対量が多い先行ブログのアクセスが、ここ二年ほどで日量平均450件から250件に激減するはずがないではないです。操作ですね!

 そんなものは利用する価値が無いのであって、もう少し健全な普通のプロバイダーに移行しようではないですか! さよならアメブロ!これでは信用できません!これまでありがとうございました。深謝。 まあ、ひぼろぎ逍遥(跡宮)のアクセスだけでも望外の成功で、これだけでも文句はないのですが、不正は許せないので!将来に備えて早めに手を打つべきで、今は引っ越し先を選んでいるところです。

 勿論、一本化は危険であって、複数の媒体で発信するべきですが、緊急措置を取ろうと思います。


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将来的には別の媒体による複数の発信も考えています。アメブロでの旧ブログは今の状態で残します。


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Sympathy for the Devil糸島半島の二見ケ浦 写真提供 松尾 紘一郎(糸島市)


太宰府地名研究会 古川 清久

はじめに


「ひもろぎ」とは神の憑代ですが、「ひぼろぎ」も“ひもろぎ”を意味します。

つまり、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」…とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。

これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており(これ以外にも、N音とD音、H音とK音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます)日本語の興味深い現象です。

さて、我が読者の方々ならば、真実を伝えると困る方々がおられる事は良くご理解されていると思います。これまで「ひぼろぎ逍遥」はアメーバ―・ブログで掲載を続け二年程前までは、最低でも日量平均350450件程度のアクセスがありましたが、ここ一年程明らかにアクセスが下がる傾向が顕著になってきました。これはアクセス制限が行われているのではないかと予測していました。

それは、後発でファイル数もひぼろぎ逍遥の7割程度のひぼろぎ逍遥(跡宮)が既に日量平均800件程度(年間30万件)になっており、先行するひぼろぎ逍遥と併せれば二本立てで年間560万件のアクセスとなっていたはずなのです。

ところが最近のひぼろぎ逍遥のアクセスの頭打ち低落は、プロバイダーの方で意図的に操作されているとしか考えようがなく、恐らく行政や神社や業界関係などのダミー団体からのクレームを受入れ、露骨にアクセスを下げているのではないかと考えています。このため、人畜無害の村興し町興しサイトならいざ知らず、真実を追求するための「新ひぼろぎ逍遥」をスタートさせる事にしました。このため今後新規の記事は桜ブログで公開していく事に致します。

 要はアメブロから桜ブログに引っ越しましたので、今後は、こちらを宜しく。

元々、戦後の言論機関の全てがアメリカによる日本占領政策のために許可されたものでしかなく、そもそも言論の自由などといった虚構が存在しているなどとは全く考えていませんが、それなりの準備は必要なのです。少しでも真実を探求し知らしめる運動にご協力頂きたいと思います。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念にお読み頂き有難いと思っています。

sp207-9 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。

 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜など文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者協力者が増え神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。

 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし(また新たにお一人加わられる予定です)、ブログは書かないまでも独自に神社調査を行い記録を残している方もおられます。

 勿論、今尚統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託し、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。

 百嶋先生と知り合いになったのは八年ほど前でしたが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。

しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。

さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。

 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくもないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)

さて、四月の近江~但馬、五月の糸魚川~諏訪~山梨、六月の青森と15日間づつ、三度に亘って長躯の神社調査を行いました。

ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書く必要も有り、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。

今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。

元々、福島の原子力災害辺りからこれ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのです)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。

人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。

基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二~三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。

今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオン・エアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。

振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。

 大分銀行 若宮支店 0183-000093-7505802 フルカワ キヨヒサ

 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ

また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。

 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp
携帯 09062983254 (常時対応)


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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件へ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。ちなみに昨日のアクセスは両ブログで日量2000件を超えています。毎日続けば良いのですが。

スポット207(前) アクセスへの露骨な操作をしているとしか思えないアメーバ・ブログから離脱しま

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スポット207(前) アクセスへの露骨な操作をしているとしか思えないアメーバ・ブログから離脱します!

20181111

太宰府地名研究会 古川 清久


 現在、アメーバ・ブログblogひぼろぎ逍遥を、桜ブログblogひぼろぎ逍遥(跡宮)をと、二本立てで発信しています。

 一応、地名、古代史、民俗学をテーマとするひぼろぎ逍遥に対して、神社研究限定のひぼろぎ逍遥(跡宮)と多少はスタンスを変えてはいますが、先行するひぼろぎ逍遥では既に900本近いブログを掲載しています。

 対して、後発のひぼろぎ逍遥(跡宮)も600本近いブログを掲載していますので、実際にはかなりのピッチで追いついている事になるでしょう。ところが、一昨年の夏ぐらいから、アメブロのひぼろぎ逍遥の方が頭打ちになっており、日量平均350450件と順調にアクセスを延ばしてきたものが、日量250件と三年前以下のレベルに落ち始めたのです。

 一方、後発で多少ファイル数の少ないひぼろぎ逍遥(跡宮)は、桜ブログでオンエアしており、二年前にひぼろぎ逍遥を追い越し、今や月の1/3の日が日量1000件を超える(十日は1000件超え)状態になっているのです。平均850ぐらいですか?

結果、二本立のブログで平均850250350件程度=1,1001,200件(年間4050万件)のアクセスに留まっているものの、本来はもっと大きなアクセスになっていてもおかしくないはずなのです。

無論、決め手など何もありませんが、恐らく露骨にアクセス制限を操作されているはずなのです。


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この現象は如何にも不可解で、本来ならば、両方で15001700件(年間60万件)程度には成長している可能性もあったはずなのですが、どう考えてもアクセスし難くするために順位を50番以下に落とす(こうすれば普通の検索には引っかからない)とか、特定の業界、地域にはアクセスできないといった操作が行われていると考えられるのです。

もともと「インター・ネットは自由な空間」などと言った振れ込みではあるものの、有力で強力な言論が登場すると困る権力は、ダミーを使って多くのプロバーダー、サーバーにクレームを付け(付けさせ)順位を下げさせるとか削除させるなどさせるものなのです。

勿論、幼児虐待、小児性愛、ポルノ、バイオレンス、誹謗中傷…といったものは排斥されても仕方がないでしょうが、その基準があいまいな上に、実際には恣意的に判断され、露骨な言論弾圧、サイト閉鎖へと進むなど、中国共産党やトランプ政権が闘い続けているCNNなみのフェイク言論空間へと変ってしまっている(既に完全に変わっている…のであり、始めだけは誘引のため自由な言論空間を装っていただけ)のです。

 対して、民族派の「桜ブログ」の方はどんどんアクセスが上がり、そのうち単独でも平均日量1,000件も見込める勢いになってきているのです。

 ちなみに以下は、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の先々月と先月のアクセス数です。


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ひぼろぎ逍遥(跡宮) 桜ブログ(2018-10月)


2018年の10月は1,000件超える日が9日間で、平均日量アクセスは817件でした。これは経験的に見て想像がつくのですが、普通は一~二年で平均アクセスが1,000件程度になる可能性があるのです。

 こういったアクセスを考えると、先行してオンエアしてきた上に、記事の数も二割程度は多く内容も一般的なひぼろぎ逍遥が、ここ一~二年で逆転され二年前に半減するアクセスとなっている理由は、「CO2温暖化論が原子力産業が流したデマである…」「熱中症でバタバタと人が倒れる都市の高温化は下水道とコンクリートの雨樋化によって地上から水を消した国土交通省、農水省が引き起こした…」「西日本豪雨水害は普通の大雨程度のものでしかなく、売れもしない針葉樹を大量に植えさせ、急傾斜の山林に伐期を越え放置した結果引き起こされた失策でしかない…」「日本の婦女子を火薬と引き換えに奴隷貿易を行っていたポルトガル宣教師が齎したキリスト教を持て囃す世界遺産登録を止めろ…」「不正選挙」「人工地震」の可能性…といった過激な内容をスポット版で大量に書いている事以外にはありえないのです。

 だからと言って真実を書かないとすれば、言論の自由が保てない上に権力に尾を振るものになり、自主規制によって行政や教育委員会や学会通説が吹聴する大嘘を暴く事など到底不可能になるからなのです。勿論、これらのアピールが全て正しいと考えている訳ではなく、絶えず疑いを持って可能な限り調べているのです。むしろ、既存のマスコミや通説を丸呑みし信用しきっておられるのは、批判さトンデモ説を批判される側の方なのです。所詮、政府見解、NHK,大手マスコミをそのまま受け入れていることの根拠は何がしか根拠があるのか逆にお尋ねしたいぐらいなのです。

 このため、このままアメブロで書いていては、多くの読者に訴える事はできなくなる事は明らかですから、全く同じものをそのまま別のプロバイダーから発信するなど、アメブロとの差を明らかにさせるとともに、新規に「新ひぼろぎ逍遥(仮称)」に新しい原稿を供給し、不正なアクセス規制をしている可能性があるアメブロというサイトの現実をお伝えしたいと思うとともに、全国のブロガーに警告を発しようと思うものです。スノーデンやジュリアン・アサンジによるインター・ネット批判は事実なのです。

 別のサイトをどこで行うかは現在考慮中ですが、全く不正をしない桜ブログには敬意を表しています。

しかし、一本化するとそこで切られると一切を失う可能性もある事から、新規についてはアメブロから離脱し、34月から別のプロバイダーから新ブログをスタートさせるつもりで作業を行って行きます(未定)。少なくとも我々は失うものは何もない為真実と考える情報を今後も発信するつもりです。


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米下院司法委員会で11日に開かれた公聴会で、米グーグルの検索エンジン「Google画像検索」に「idiot(ばか)」と入力するとドナルド・トランプ米大統領の写真が表示されるとの証言があった。この証言を受け、「idiot」は13日現在で100万回以上検索されている。

idiot」とトランプ大統領の画像との関連は、グーグルのスンダル・ピチャイ最高経営責任者(CEO)に対する厳しい議会質問の中で指摘された。

この結果は、グーグルの検索アルゴリズムにある政治的偏向の一例なのではないかと尋ねられたピチャイ氏は、これを大筋で否定した。

グーグルでの検索回数の推移を示す機能「Google Trends」によると、「idiot」は現在、アメリカで最も検索された単語の1位になっている。

公聴会で民主党のゾーイ・ロフグレン議員は、idiotと検索するとなぜ大統領の画像を含む検索結果が表示されるのかと質問した。

「どうしてこんなことが起こるのですか? このような結果が出るのは、どんな検索の仕組みなのですか?」とロフグレン氏は尋ねた。…


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851 高千穂町の一角で神社を再建する運動が始まった “ひのみこ社のご由緒について”

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851 高千穂町の一角で神社を再建する運動が始まった “ひのみこ社のご由緒について”

20200906

太宰府地名研究会 古川 清久


 全国の神社の建物が劣化し、それを支えるべきはずの氏子の組織までが壊滅しつつある今、宮崎県高千穂町の一角において、売りに出されていた神社の敷地と社殿を買い取り再建する運動が始まっています。

 かく言う私もこの土地と社殿を管理していた不動産屋との相談にも多少は関与していた事から、参加できる日は阿蘇の外輪山沿いの100キロ近い道をひた走り、社殿を磨いたり参拝殿の床を磨いたりというささやかなお手伝いの作業をさせて頂いています。

 その運動と言うよりも、熊本の霊能者と言うか神ごとに関係する女性先導者自身が、あまりにも素晴らしいそのロケーションと古代にまでも遡る地域の歴史に感じいった事から、何とか再建し皆の拠り所としたいとの思いの実現に踏み出し実際にそれをやってのけておられている事に感じ入り書き始めたものです。


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仮称 ひのみこ社 カーナビ検索 宮崎県高千穂町上野(カミノ)4956地先 ※この地番は上野中学校


 この神社の正面に四恩(シオン)岳がある事がお分かり頂けるでしょう。

 長年、神社調査を行ってきた者として解るのですが、神野、上野(カミノ、ウエノ…)と呼ばれる姓の人若しくは地名は何らかの形でイスラエル系、ユダヤ系と言われる人々との関係が辿れるのです。

 ただ、始めからこのような話を持ち出せばトンデモ説扱いされる事は明らかで、一般的には曹洞宗や浄土真宗などでも主張される仏の「四恩」としておくことが穏当かも知れません。

 無論、シオン山とはイスラエルの聖地エルサレムの南にある山とされていますよね。

 少なくともそういった知識を持った人々が入っていた土地だったとまでは言えそうです。


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エルサレム シオン丘陵


この上野地区の北には愛宕山があり金山彦(「古事記」ではカグツチ)の象徴ですし、同じく南の下野地区にも烏岳があります。

ヤタガラス(豊玉彦)系の山岳修験(豊前の求菩提山)の南の拠点であった事までが見えてきます。

 熊本の南阿蘇から宮崎の高千穂へと繋ぐ国道傍の住宅地ながら、同社の脇には素晴らしい清流が流れ

ています。

 F女史がこの地を惚れ込んだ理由もこのロケーションがあった事は言うまでもありません。

 しかし、そればかりではなく霊能者である彼女は自らの霊能によってこの地の歴史的重要性を感じ取り、神社の再建を始めたのでしょう。

 さて、そもそもこの地にあった元々の神社はそれほど古いものではありません。

 同社に残されている創立者田尻武雄氏の略歴(碑文)によれば、明治の教派神道系の言わば新興宗教団体で、その背後にあるのは、現在、石見、出雲、伯耆辺りに閉じ込められている出雲大社が全国的教団として教線を強化するために創られた教団と思われます。


出雲大社教 出雲大社教(いずもおおやしろきょう)は、1882年(明治15年)、当時の出雲大社前大宮司・第八十代出雲國造・千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団である。教派神道(神道十三派)の一つ。

明治13年に東京都日比谷の神道事務局に設けられた神宮遥拝所において、神造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)および天照大神の四柱を祀ると決定されたことに対して、出雲派は大国主大神も祀るべきだと主張し、伊勢派との間で大きな論争になったが、伊勢派が明治天皇の支持を得たこともあって、出雲派は敗北し、大国主は祀られないことになった(明治13年の祭神論争)。さらに、明治151月に明治政府が布告した「神官教導職分離令」によって、神社に奉仕する神官と布教を行う教導職が分離され、これによって出雲大社に勤務する神官が国家とは別に独自に出雲信仰の布教を行うことが禁止された。そのため、当時の出雲派(千家)のトップである千家尊福は、出雲大社大宮司を辞職して自らが教団の開祖となり、信仰組織を出雲大社本体および国家神道から分離させる形で明治15年に設立した。出雲大社教は昭和26年に出雲大社と統合されたが、その後も法人としては出雲大社教と出雲大社は別団体となっている。      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20200811 12:18 による

結局、良く知られた 黒住教、御嶽教、神理教、金光教、天理教…などと同様の明治期の新興宗派であり、主祭神を大国主命とする教団の神社だったのです。ちなみに隣県の熊本市にも同教団の教会があります。出雲大社熊本教会: 熊本県熊本市中央区九品寺2丁目6-61 ℡ 096-364-3779


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「古事記」の大国主命と因幡の白兎の話はどなたもご存じですが神殿入口の欄干には折れたまま耳のない波乗り兎が(因幡の白兎の故事ですね)…


波乗り兎のモチーフです、誰か耳を治して頂ければ有難いのですがやりようが分かりません。

高千穂にしかも九州に大国主命とは訝しがる方は多いでしょうが、実は九州の方なのです。

これについては百嶋神社考古学の根幹を成す部分で、かなり多いので関心をお持ちの方はとりあえず以下辺りから探ってみて下さい。


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 新ひぼろぎ逍遥

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全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(追補)

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全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(下)

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全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(中)

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全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(上)


仮称 ひのみこ社 カーナビ検索 宮崎県高千穂町上野(カミノ)4956地先 ※この地番は上野中学校


ここからは、再生なったひのみこ社のチラシの素案です。

ひのみこ社に参拝された皆様へ


ご参拝になった ひのみこ社 は、神社庁にも属していません。

また、色々な新興宗教団体にも属しておりません。

いわばどなたでも自由にお参りになられ思うように願いを託すことのできる神社です。

この神社の前身は、明治の初め(明治5年)に出雲大社がその教えを普及するために創られた出雲大社(イヅモオオヤシロ)教の枝の一つとして旧上野村村長も務められた田尻武雄氏によって設立された高千穂教会を始まりとしています。

それについては、今も同社参拝殿正面に残された碑文に書き留められています。

このため元々は大国主命と繋がりを持つ神々が祀られていたのです。


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「古事記」の大国主命と因幡の白兎の話はどなたもご存じですが神殿入口の欄干には折れたまま耳のない波乗り兎が(因幡の白兎の故事ですね)…


このため、現在も神殿の欄間にはうさぎのモチーフがあり、神殿にも神鏡が残されています。

しかし、数年前にこの教会を継承されていた方がご高齢のため離れられ、その際にその神霊は出雲に戻され大国主命の祭祀は完全に消えております。

古来、続く多くの神社であれ、新興の教団であれ、地域や集落の力が失われていけば、このような神社も後を継ぐことができなくなり潰え去って行くのは仕方がないでしょう。

それどころか、ほぼ一世代に亘るここ30年の構造的経済社会の停滞によってか、全国の多くの神社がその継承者、支援者、氏子組織に衰えを見せ廃社、統合、合祀どころか災害なども加わり地域そのものを押し潰しつつあります。

そうした中、この高千穂町と谷で隔てる熊本県高森町草部出身の女性が荒れて行く神社を建て直そうと思い立ったのでした。

まだ、子育ても完全には終了していないうら若き身にありながら、多くの悩みをもつ困窮者、社会的弱者を救済する拠り所にしたいとの思いから神社の再生のための活動を始められたのです。

本来、神社であれ、寺院であれ、教会であれ、教団そのものの利得や名声を優先する向きがあるとも聴きますが、社会や地域が崩れ落ち人生さえも失う人々が増えつつある今日、本来、教団の有るべき姿を追い求めたいとの気持ちが在られたのではないかと思っています。

そうでもなければ、いくら子供の時から良く通っていた思い出深く素晴らしい背景を持った土地だったとしても、個人で土地建物を求め相当の資金を注ぎ込んで手間の掛かる事業に踏み入れる人などいるはずは無いはずなのです。

しかし、彼女を慕う多くの人々の手によって神社の蘇生は始まりました。

多い日には20名近い人々が入れ替わり立ち代わり加わりで作業が行われました。

それこそ手弁当に食事持ち込みで床磨き~天井磨き、壁磨きが行われ、資財、道具、備え付けの器具などの持ち込みも行われました。

また、素人には手に負えない大工仕事、左官仕事、解体作業、廃棄物の搬出…なども、いつしか地域の協力者が現れ、元の出雲大社教時代の信者おばあさんから頼まれたとして子、孫などの世代のその道の専門家が協力を申し出てこられ、瞬く間に再生へと向かったのでした。

新しい神社の名称は“ひのみこ社”とされたようです。古代日向国のことその意味は日に向かうまさしく陽の御子(巫女)の意味であろうと思うのですが、まだ、その真意はお伺いしてはいません。

少なくとも、熊本から宮崎そして大分に掛けての方々が関心と救いを求めて訪問される心の拠り所となる本物の神社が生まれたと思うものです。

ひのみこ社社務所:熊本市or高森町草部連絡先問い合わせ先 090-9793-4630

スポット261 2021年夏の取り組みをご紹介します

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スポット261 2021年夏の取り組みをご紹介します

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


妙な肺炎ウイルスの世界的拡散によってこのウイルスの製造と蔓延に関わったと考えられるフランス、アメリカ、中国…自体も自ら大きな被害を被っている中、これを新たなビジネスとばかり様々な動きが認められるこの頃ですが、何時しか今夏も終わろうとしています。

 思い起こせばこの2年余近く、我が研究会も活動を制限され、内部でも一部に委縮する人々が出る中、何とか月例研究会、月例トレッキングを維持してきました。

 会場の使用を禁止された場合も何とか別の会場を見つけ、場合によっては個人の施設を利用し小規模でも研究会を続けるなどしてきた結果、新たなメンバー、新たな研究会の展開の目途もたってきたこの頃です。

 今夏も、熊本市の中心部から南阿蘇にと繋がる丘陵地の西原村でこの4年ほど夏場の4か月間継続して来た万葉集の勉強会(伊藤女史)の会合に便乗し、神社研究でも最も重要と考える「炎のピラミッド」研究の二度目の収録を実現し、将来的にネット上に動画として再生する事も考えている所です。これについては、既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)として公開していますので是非お読み頂きたいと思います。


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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

⑩ 八坂神社+龍王社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

⑩ 八坂神社+龍王社 数理編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

⑨ 郡浦神社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

⑨ 郡浦神社 数理編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

⑧ 甲佐神社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

⑧ 甲佐神社 数理編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

⑦ 健軍神社 祭神編 

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

⑦ 健軍神社 数理編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

⑥ 草部吉見神社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

⑥ 草部吉見神社 数理編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

⑤ 阿蘇神社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!

⑤ 阿蘇神社 数理編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

番外 二つの直角三角形

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

④ 両神社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

④ 両神社 数理編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

③ 吉松宮 数理編祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

② 阿蘇霜宮数理編祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

① 阿蘇国造神社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

① 阿蘇国造神社 数理編

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阿蘇山を中心に“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が

精密に配置されている! 



そうした中、このテーマをベースに新たなメンバーの参加も得ており、何よりも81歳になられた研究者をお呼びして講演頂き動画収録もできた事に喜びを感じているところです。

 今回は、この企画で使用したチラシ数葉をブログとしてもご紹介し、お読み頂ければと思い公開するものです。



 以下は、この企画のために作成したチラシ3種を再編集しご紹介するものです。

9月講演予定の 「炎のピラミッド」田尻盛永八坂神社宮司 は西原村講演に変更されそうです!

画像阿蘇山を中心に“ピラミッドの法則”により肥後の11の神社が精密に配置されている! 注)古川

 以前、南阿蘇の八坂神社(祇園社)の田尻宮司による精密な数理研究をご紹介しました。

 とっかかりとしては以下のブログを中心にお読み下さい。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)90 驚愕の“炎のピラミッド” 004 図26-1,2 “八坂神社両神社の、境内地の具体的な対称性”~86驚愕の“炎のピラミッド” 001 阿蘇小国両神社と阿蘇南郷谷八坂神社の境内地の不思議な対応  年間500社もの神社を巡る二十年近い神社探訪でも最も驚いた事がこの田尻宮司による阿蘇を中心とする11社の研究でした。南阿蘇村八坂神社の田尻宮司は1997年の地理情報システム学会(東京大学)ばかりではなく、当時、熊本県観光連盟主催(県観光振興課後援)の「ふるさと寺子屋塾」においても講演されていました。今、明らかになる「火の国の炎のピラミッド」以下要約。

自然の阿蘇五岳と人為の神社群。それらの位置関係を調べると、驚くべき事実が浮かび上がってきます。それらの神社群が黄金比の拡大数列であるフィボナッチ数列と呼ばれるものによってキチンと配置されているのです。具体的に言うと、阿蘇神社とその補完社である霜宮、八坂神社とその補完社である竜王社(久木野神社)、この4点に囲まれた図形は、きれいな平行四辺形になります。そしてその中心に阿蘇五岳があります。ちょうど噴火口と火口湖の中間地点が中心となります。その中心を通る北北東に傾いた二十二度四十二分の線の延長上に国造神社があります。その他の阿蘇郡内の小国両神社、草部吉見神社、吉松宮、群外では健軍神社、甲佐神社、三角の郡浦神社、これらは阿蘇の三摂社といわれ、特別に所縁のある神社ですが、これらの火の国最古の十社と阿蘇五岳の山頂の三角点を厳密に結ぶと、きれいに配置がなされています。そして、神社の境内の造り、石垣、建物までも、すべて類似性と対称性を持って造られていることがわかりました。それらの配置のすべて数学的に計算されており、阿蘇五岳の中で、高岳の炎を噴き上げる姿を核となし、自然の五岳と人為の神社群の組み合わせによって、ピラミッド状に造形されているのです。
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阿蘇神社(阿蘇市)国造神社(阿蘇市)霜神社(阿蘇市)吉松宮(阿蘇市)両神社(小国町) 八坂神社(南阿蘇村)龍王社(南阿蘇村)草部吉見神社(高森町)甲佐神社(甲佐町)健軍神社(熊本市)郡浦神社(宇城市)これら数十キロ離れた肥後の重要な神社群が、大きな高低差がある中三次元的に正確に配置され社殿、境内地までも計算され建設されているのです。

この素晴らしい研究を神社本庁、県神社庁、文化庁…は無視し続けていますが、宮司も80歳になられ、講演を企画したものの、小倉では不可能となり西原村の伊藤邸での収録を代行講演の予定です。ご参集を!

八坂神社(北山神社・祇園社)カーナビ検索熊本県阿蘇郡南阿蘇村一関671

丁巳歴史塾と太宰府地名研究会の合同トレッキング 太宰府地名研究会20218月以降のスケジュール

8月は盆休みとしてテーブルについた研究会は行いません。ただ、8月には防府、9月には小石原のトレッキングを行ないます。なお、1022日は昨年雨で中止した宮地岳神社の筑紫舞奉納見学会を12:00~行います。

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西原村に於ける勉強会は数年を経て軌道に乗って来ましたが、826日(木)のお昼過ぎ13:00から萌の里で伊藤正子女史の講演を行います。内容は伊藤女史の資料をお読み下さい。


現在、阿蘇神社のお膝元の宮地地区で、56人規模ですが、百嶋神社考古学の勉強会を行なっています。

始まったばかりで、まだ、34回ですが、今後とも継続し、熊本方面の中心的神社研究の拠点になって行けばと期待しています。行政や学芸員に認められるような研究会では真実は全く探求できません。田尻盛永宮司の研究でも明らかですが、あまりにも真実を探求すると、大嘘で塗り固めた通説にとっては厄介なものになるのです。そういった組織は早々に消滅するか解散して頂きたいものです。


丁巳歴史塾+太宰府地名研合同研究会現在調整中北九州市小倉北区阿蘇の11社は正確に配置されている

9月期 要:参加費資料代(注意:日程変更有)2021926日(日)13:00~(予定)

無題.png於:北九州市生涯学習総合センター 北九州市小倉北区大門一丁目643

講演テーマ 「阿蘇の11社はピラミッドの法則で建てられている」 熊本県南阿蘇無題.png村八坂神社 田尻盛永 宮司に代行し収録ビデオを流し、古川が(古代「火の国」の象徴「炎のピラミッド」の発見)概要の説明を致します。

阿蘇11社は、今尚、π、Φ、ヒボナッチ数列などピラミッドと寸分たがわぬ建築技術を持った人々によって建てられ現在も配置されている!古代「火の国」の象徴「炎のピラミッド」の発見補遺-細部構造解説


無題.png10月期

1022日(金)はテーブルでの講演会を行なわず、丁巳歴史塾+太宰府地名研究会合同の取り組みとして宮地嶽神社の筑紫舞奉納見学会を行ないます。昨年は雨で見学会を中止しましたが、今年は天ではない限り合同見学会を行います。


 12:00 福津市宮地嶽神社神殿前集合 奉納金1000円を取纏めます。

 

阿蘇一宮を中心とする熊本県内11の神社群は正確にピラミッドの法則に

基づいて配置されていた(る)。 (南阿蘇村 八坂神社 田尻盛永宮司)


 この貴重な研究成果を残し後世に引き継ぐために講演収録会を実施します(先着20名程度)


 
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まず、阿蘇神社、霜宮、国造神社、小国両神社、八坂神社、龍王社、草部吉見神社、健軍神社、甲佐神社、郡浦神社、吉松宮の11社が正確に配列されているのです。

例えば甲佐町の阿蘇三宮甲佐神社は小国両神社から引かれたメソポタミヤ神聖直角三角形(5×512×1213×13)、東端斜線は良く知られる3:4:5のエジプト神聖直角三角形を形成しているのです。

また、阿蘇谷の阿蘇神社とその真西に置かれた霜宮、南郷谷の八坂神社とその真西に置かれた龍王社が形成する平行四辺形は正確に22.7度を形成しており、これは太陽と地球の間で起こる歳差運動を表しているのです。

考えて頂きたいのは、標高も異なる11の神社がメートル法も存在しない時代どころか、宮司のお考えでは5世紀には全ての神社の参道、境内地、形状、が決定されており、π、Φ、フィボナッチ数列も駆使され配置されているのです。…

 

会場が分からない方など付近まで来られたら09062983254古川までご連絡下さい。09052859108も可。

駐車場は心配いりません。お弁当は「萌の里」で買えます。

俵山交流館「萌の里」熊本県阿蘇郡西原村小森2115-3 096-292-2211


実はこの時期、別のイベントにも関係していました。


85日と89日 阿蘇の高森町と阿蘇の産山村で平野虎丸氏と阿蘇の風Gが焼畑を行ないます(配布時点終了)


 無題.png焼畑と言えば、九州では宮崎県椎葉村上椎葉の椎葉クニ子さんが最も知られており、焼畑は元より、栽培種の管理、収穫物の保存や調理、栽培品種の種の保存…とあらゆる知識を蓄えた生きる図書館の様な方なのです。

ただ、そのクニ子様も齢100歳に近づいておられ、将来的にはいずれ終焉を迎えられるはずで、“焼畑の民宿”のために継続されてきた焼畑も、その後継者である息子さんが地場の土木業に頼っておられることから、いずれは消失する事になるはずなのです。そこら辺の事情については、最近、足が遠のいている事からそれ以上の事情を知りません。さて、平野虎丸氏のお話では上椎葉には同じく椎葉姓の方でもう一人焼畑をやっておられる方が残っておられるとの事、今回のイベントには何とか足を運びたいものと考えています。

平野さんも子供の頃から焼畑を行ってこられた方ですが、この椎葉さんとその他の協力者、全国の平野虎丸ファン・クラブのメンバーも加わり焼畑の復活を行なわれる事になるでしょう。

しかも山の神への許しを請う唱え「火入れの唱え言」を唱えるのが、高千穂で売りに出されていた神社を買い取り半年で再生させた民間宗教者のF女史(ひのみこ社)と言うのですから、十分過ぎるほどの役者が揃っているのです。

このヤボに火を入れ申す  ヘビ、ワクドウ()、虫けらども、早々に立ち退きたまえ 山の神様、火の神様、お地蔵様、どうぞ火の余らぬよう  また、焼き残りのないよう、お守りやってたもうれ

 村ぐるみのような大規模な焼畑が行われる場合には山法師に頼む事もあったのでしょうが、数戸単位の焼畑の場合には、実際に火入れを行なう人と焼畑の地権者は同一である場合が多く、焼畑の実行者が唱えたのが上記の山の神への許しを請う火入れ言葉だったはずなのです。

 無題.png無題.pngともあれ、高森ではついぞ聞いた事のなかった焼畑が、宮崎ではなく熊本の阿蘇外輪山東麓の高森と産山で実現すると言う事実、それもその中心的人物が私の極近しい人であったことから心を揺さぶられないはずのない実に感動的な話が湧いてきたのです。

 私自身、椎葉クニ子さんの著書も読み、民宿「焼畑」にも何度か泊まりましたが、当時は、「稲作以前」(NHKブックス)佐々木高明著を読んだ直後でしたので、戦前から普通の畑で行われていた陸稲(おかぼ)栽培と、焼畑の関係が良く分からず、全く起源の異なる物なのか(事実宮崎の焼畑ではおかぼ栽培は行わない)、陸稲栽培が焼畑の延長上に成立した水田稲作に先行する物なのかを考えていたのでした。

ともあれ、以下の二著は実践的でその意味で興味深い本ではあったのです。

 場所は高森町尾下(オクダリ)ですが、国道57号線波野村の笹岡交差点から大型広域農道が高千穂へと向かう325号線に向かって伸びており、その沿線に虎丸さんの本拠地である「花の森」が見えてきます。ひのみこ社グループは10時に草部吉見神社付近の奥阿蘇物産館から数キロ入ったストーン・サークル(物産館関係者もご存じです)に10時集合すると聞いています。

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した!

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ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

20160614

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


625日に田神様を主軸に据えたトレッキングを行いましたが、大国主を祀る筑前町弥永の大己貴神社からほど近い場所に日隅宮(ウズノミヤ)があった事が、筑前町弥永にある田神社の縁起(旧縁起)から読み取れたのでした。

無題.png

現在、このあまりにも巨大な事実にたじろいでいるところですが、以前から書いてきた「出雲神話」の舞台は九州であるという仮説の証拠にも成りうる痕跡をその小字地名として発見した事になるのです。

なぜならば、大国主の国譲りに絡んで、高木大神が新しい社を建て直してやるとしたのが「日隅宮」だったからです。

その「日隅宮」という小字が大己貴神社が鎮座する筑前町大字弥永にあったのですから、両者に関係がないとは考えられない上に、「日隅」を現地では「うず」と呼んでいる事も、その信憑性を物語っているように思えるのです。

通常「日隅」と書いて「うず」とは読みません。しかし、福岡市南区には「日佐」と書き、「おさ」と読む地名があるのです。

そこでお考えください。「九州では大事をしでかした…」「ウーゴトばしでかした…」と言いますね。

これもそれと同様で、「日佐」は古くは「うさ」と読まれ、中央語の影響を受け、現在は「おさ」と呼ばれていた可能性を否定できないのです。

栂を「ツガ」「トガ」と「フウヅキ」を「ホオヅキ」と読み替えている事と対応するのです。

「日隅宮」を「うずのみや」と呼んでいる事自体が古い表現を留めている事を意味しており、近年のそれではなく相当に古いものである事にただならぬものを感じるのです。

作業はまだ始まったばかりですが、まずは、現在消されているとしても、この小字「日隅宮」がどこにあったかを探り出さねばなりません。

しかも、「日本書紀」には仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まらず、大三輪社を建て刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあることから、その舞台が現出雲の国でないことは明らかなのです。違うと言われるなら説明をお願いします。

まさか、出雲大社からの勧請とか分社などとはおっしゃらないとは思いますが、日向の一の宮が高千穂とか霧島にはならず、何故、都濃町の都濃神社であり、その主祭神が出雲の神様とされる大国主命であるのか?

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日向一の宮都濃神社


また、熊本市西里に大己貴神社があり、薩摩は吹上浜に、大己貴神社が存在しているのかを統一的に説明して頂きたいと思います。

一方、宗像大社の本当の祭神は大国主命との説も飛び交っていますが、宗像の隣町遠賀川左岸の岡垣町手野にも大国主神社が鎮座しています

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現在は失われた大字弥永の田神神社の旧縁起


一方、鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)の起源は朝倉郡に集中する田神社であり、博多の櫛田神社の大幡主がその正体であることをお伝えしています。

「田神社」として幟を揚げた田神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近くが拾えたのでした(「福岡県神社誌」)。 

今後ともこの田神社を軸に調査を続けますが、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回の朝倉郡内の40社近い無格社の田神社を発見した事によって、その実体がある程度掴めた事になるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。

このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。

しかし、フィールドはさらに凄いことを教えてくれます。

今回、中島 茂氏の案内により、筑前町(旧夜須町)の大己貴神社に近い弥永にある田神社(天神社)を発見した事は実に画期的な事であり、同社が、大国主命が贈られた日隅宮の痕跡である可能性はますます高くなってきたようです。


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地理院地図


現在、日隅宮は福岡県筑前町(旧夜須町)の弥永に田神社(天神社)とも呼ばれ鎮座しています。

この境内に日隅宮も置かれ、実際には日隅(ウズ)宮とも呼ばれているのですから、甘木、朝倉、杷木の一帯を明け渡した大国主系の人々が、明け渡した故地を偲ぶかのように東を向いて鎮座しているのです。

「奈良」という地名もご確認ください。この地名についても故)百嶋由一郎氏は、奈良に持ち出されていると言われていました。

奈良と言う古代に於いても重要な地名がこの地から持ち出されているのです。

思えばこの山手の夜須高原一帯(夜須川も流れ降る=天の安川ですね)には大山祗神社が数多く拾えますし、平野部は田神社(タノカンサー)が朝倉郡内に60数社拾えますし、一社を除き無格社に落とされているのです(「福岡県神社誌」)。

この地こそが高木大神から明け渡す事を要求された出雲の地なのです。

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筑前町弥永の田神社現縁起(上)と再掲載同社旧縁起(下)


「古事記」や「出雲神話」を持ち上げ、通説にどれだけ通じているかをひけらかすような権威主義的な方から、通説から離脱したものの学会通説に尾を振るようなさもしい人々まで出てくる始末なのです。

百嶋神社考古学の者の目から見れば、殆ど漫画の世界であり、現場を知らず、見ようともせず「記」「紀」を丸呑みする方々は今もなお後を絶ちません。情けない限りです。

ビアヘロ069 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er

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ビアヘロ069 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 

20180728

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえれば、アフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

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他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。

さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、 “この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(これらについては後述します)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神代系譜の緑枠で囲った部分の金越智=ウマシアシカビヒコヂ~大山祗~大己貴(+神大市=罔象女神ミヅハノメ木花咲耶姫)の系統こそが列島に入って来たトルコ系匈奴と考えられていたようです。

ちなみに、本物の神武天皇の本物のお妃であったアイラツヒメも金山彦と大山祗トルコ系の神大市=罔象女神の間に産れたプリンセスであるためトルコ語の月=アイラールからアイラツ姫と呼ばれたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


無題.png中国領 塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)は、現在、ウイグル人(トルコ系とされる)が住み着いていますが、キルギス人もいるようです。このキルギスも、ギリシャに「キルキス」と言う都市名があり、元々はギリシャ系ではないかとも思うのですが、どうせこの辺りはトルコ系、ペルシャ系、ギリシャ系、ユダヤ系…の混血が進んでおり議論しても意味はないのでしょう。

写真は現代のウイグル人美女(良過ぎますかね)。

 いずれにせよ、かつてこの地はシルクロードの東西交易の要衝であり、塔什庫爾干の石城山は誇り高いこの地のシンボルだった時代があったのです。

 どうも、この中国表記の=石頭城、石城山が熊襲=トルコ系匈奴と共に列島に入っているようなのです。

以前から気にしていたのが長崎県川棚町石木(イシキ)、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)、鹿島市の石木津(イシキヅ)…でした。当時は奇妙な地名だなあ…程度だったのですが、故)百嶋由一郎氏がはっきり言われたのが、熊本県玉名市の石貫(石貫穴観音横穴や石貫ナギノ横穴群外多数の横穴式石室を持つ古墳群)、宮崎県西都市の石貫神社(オオヤマツミとコノハナノサクヤを祀る神社)であり、正面の西都原第 二古墳群に伝大山祗の墓=柄鏡型前方後円墳があるのです。

また、大分県にもあります。旧石城川村(湯布院と高崎山の間の山中の村)です。この由布市から大分市に向かう谷間の一帯も山神宮外大山祗~大己貴祭祀が濃厚なエリアです。

この外にも、山口県光市の石城山神籠石、愛媛県越智郡上島町岩城(イワギ)は平安時代に「石城」の表記で記録のある地名で、そもそも大山祗を祀る瀬戸内海の大三島は愛媛県にあるのです。

さらに、東北の福島県の石城郡、いわき市・南相馬市の相馬の馬追を思い出して下さい。

いわき市のいわきは石木、岩木、磐城=タシクルガンなのです。

そして、出羽三山の湯殿山、羽黒山にも岩木山がありますね、ここも大山祗祭祀が非常に濃厚なところなのです。

 無題.png当然にも甲州騎馬軍団が跋扈した山梨県にも無いはずはありません。石和温泉の石和(今は笛吹市ですか)です。

ここからコノハナノサクヤを祀る富士山の河口湖一帯に掛けて、石尊神社が数多く拾えますが、これも、まず、大山祗=月読命なのです。まだまだありますが、このように実際にトルコ系の民族が入っているようなのです。

参考


「石貫神社」について ○創建:天平5(733)と伝えられています。○御祭神:コノハナサクヤヒメの父神のオオヤマツミノカミ。○オオヤマツミノカミ:山の神で、「天神」・「国神」・「海神」の三神の大神。○大祭日:1129日。石貫神社から169段の階段を上った西都原古墳群内の『大山祇塚(おおやまつみづか)』の前方部前で神事が挙行されます。                     西都市観光協会


先にひぼろぎ逍遥 641 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu として石頭城、石城山を取り上げ、この地名が列島に大量に持ち込まれていると言う事を書きましたが、当然にもこの地名は中国本土にもかなり拾えるのです。

勿論、占領されているとは言えタシクルガン自体は今尚中国共産党の支配地ですが、ここではそれ以外のタシクルガンをご紹介したいと思います。

恐らく、列島の十倍以上はあるのではないかと考えていますが、なにぶんにも中国語に対応できていないネット上から分かる範囲で探して見る事にしました。

きっかけになったのは故)百嶋由一郎氏が残された手書きメモに石頭塞があることに気付いたからでした。勿論、支那(シナ)という地名が残る麗江の南の石頭塞です。


 その前に南京に石頭城がある事を思い出しました。


石頭城(せきとうじょう)は、中華人民共和国江蘇省南京市鼓楼区、清涼門の北に位置している城址。六朝の都である建康の西面を守る城塁であった。後漢末の212年(建安17年)に孫権により築城され、1988113日、国務院により全国重点文物保護単位に指定された。現在は城壁の一部が残り、その城壁の模様が鬼の顔に見えるということから、別称を鬼顔城とも称す。

清涼山の自然地形を利用して土と石で築城し、西と北の両面は長江に近接し、地勢はけわしかった。石頭城西南には烽火楼があり、長江上流と連絡を通じあった。またここには水軍の駐屯地で、長江最大の波止場であり、船舶1000艘を停泊させることができた。

石頭城から城壁に沿って北側は六朝の頃の城壁で、南に行けば清涼門である。石頭城の城壁の上を歩く場合は国防園に入る必要がある。

ウィキペディア(20180730 1515による


 無題.pngshítóuchéng

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戦国時代,周顕王三十六年(前333年)に楚が越を滅ぼした。この 時楚の威王が金陵邑を今の南京に建設した。同時に、今の 清凉山と呼ばれるところに城を築いた。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵?とした。三国時 代,孫権は、秣陵を建業と改称、清凉山 に石頭城を建設した。当時、長江は清凉山下流を流れていて、石頭城の軍事的重要性は突出していた。呉では、水軍もっ とも重要な水軍基地とし、以後数百年 間、軍事上の要衝となった。南北朝時代、何度も勝負の帰趨に大きな役割を果たした。

石 頭城は清凉山の 西の天然の障壁をなし、山の周囲に築城したもの。周囲7里(現在の6里)あり 北は大江に接し南は秦淮河に接している。南向きに二つ門があり、東に向かって一つ,南門の西に西門があった。内部に は石頭庫、石頭倉と呼ばれる倉庫があっ た。高所には烽火台があった。呉以降南朝でも重要性は変わらなかった。

ネット上の「旅行日記」による

「三国志」がお好きな孫権とか周瑜ファンの方には魅力的な所だと思うのですが、「旅行日記」にはこのように続けられています。


写真は、城壁の拡大写真。上端部分が、明代の磚築部分。六朝時代の城壁部分(真ん中の大きめの煉瓦部分)も、一応日干し 煉瓦を埋め込んだような構造となっている。磚築となったのは、東晋末と考えられる。東晋時代は、全土、主に城門だけが磚築となり、城壁は版築だった。南斉に至り、各城 で城壁が磚築となったと考えられている。それまでは土墻(版築城壁)と竹籬(竹を編んだ城門)だった。

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次は 阿蘇氏の故郷、雲南省麗江から北へ延びる茶馬古道の石頭城です。

これは、雲南省麗江の北の石頭城で、百嶋メモに出てくる「石頭塞」ではないようですが、「~茶馬古道をゆく~ 宝山石頭城」からご覧ください。


麗江市内からは車で約4時間、村の上方にある駐車場まで分乗車で向かいます。

その地形から、見下ろすことのできる景色にまず、息を呑みます。

長江の支流、金狭江の峡谷にある巨大な岩の上に築かれた集落は、3方向が断崖絶壁となっており、

城砦と呼ぶにふさわしい佇まいを見せてくれます。

宝山石頭城は元代の1277年から1294年の間に築城されたと言われています。

当時、宝山州と呼ばれたこの地は、自然により形成された難攻不落の砦で、

この地に居住していた少数民族・ナシ族はかつて戦乱を避けるため、山腹に沿うようにして村を築きました。

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次は百嶋メモに出てくる雲南省麗江からずっと南の石頭塞です。

百嶋由一郎先生は生前、中国で400回飛行機に乗って8,000万円遣ったと言っておられましたが、西のタシクルガンばかりではなく、南の石頭塞にも足を運ばれていた事が分かります。

 解放前の中国ですから苦労も多かったと思いますが、文字通り半島、北京からコーカサスへ、そして雲南省、四川省、貴州省まで調査に飛びまわれたようです。

以下は貴州省の「石頭塞」ですが、雲南省にも「石頭塞」があるようです。

非常に分かり難く、検索を続けて調べましたが、云南省河哈尼族彝族自治州と書かれており雲南省昆明辺りからベトナムのハノイ(ハロン湾)に注ぐ紅河の近くにもあるのでしょう。

パーモはインパール作戦に出てくるビルマのバーモでしょうし、木姐(ムセー)もビルマ領にあります。

 従って、ここが百嶋メモに出てくる石頭塞ではなく、雲南省昆明のそれであり、さらに、中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログに出てくるプイ(布依)族の住む石頭塞もべつになります。このように、少し調べるだけでもかなり多くの石頭塞が拾えるのですが、現在の住民とこの地名を残した民族が一致している訳でもないと思います。結局、多くの石頭城型地名が確認できただけでした。


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百嶋手書きメモから


中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログがあります。


プイ族の住居 2010-02-01 12:11:46 | 中国のこと

 2006年3月に貴州省の西南部を旅した時に、少数民族のプイ(布依)族の集落に立ち寄った。プイ族は人口300万人くらいで、主に貴州省の西南部(黔西南プイ族ミャオ族自治州)に居住しているが、貴州の各地にも散在し、ほかに雲南省や四川省の一部やベトナムにも住む。
 訪れた村は石頭寨と言ったが、家々はすべて石造りで、このあたりのプイ族の集落の特徴らしかった。
 入り口のゲート。いろいろな銘盤が嵌め込まれているが、中に「貴州省 文明風景名勝区」というのがあった。プイ族の集落の中でもよく保存されているものなのだろう。

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事務室のような所に入ると、民族衣装姿の大柄な娘が出てきて、村の中の古い住居や住居跡を案内してくれた。ゲートから向かって左には小高い丘があり、そこに石造りの家が並んでいる。だいぶ古いものらしく頑丈な造りだが、住んでいない家もあった。

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倉庫らしい建物 土地廟。村の神を祭る。道教でも仏教でもない、産土(うぶすな)神のような原始的な信仰ではないか。

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石組み。鉄筋や漆喰は使っていないで見事に築かれている。
 途中で村を一望できる場所があった。現在の家屋の多くは平地に造られているようだ。

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上に行くほど古い住居があり、すべて廃墟になっている。どれもかなり大きなもので、このような高い場所にたくさんの石を運び建物を造ることは大変な労働だったのだろう。これらの多量の石材はどこから切り出されたものか。

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廃墟の道 石頭寨の傍にあった池。貴州でよく見られるカルスト地形の山が遠望される。

 石頭寨からの帰途の風景。この時期にはあちこちに菜の花畑がある。

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百嶋由一郎手書きスキャニング・データより

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ビアヘロ079 人吉盆地に奥深く鎮座する熊野神社の正体を見たか?“熊本県あさぎり町岡留熊野坐神社

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ビアヘロ079 人吉盆地に奥深く鎮座する熊野神社の正体を見たか?“熊本県あさぎり町岡留熊野坐神社”

20181120

太宰府地名研究会 古川 清久


本稿は重要と考えますので、ビアヘロ版079として先行掲載します(予定では掲載が15か月程度先になりますので)。2018111718日に掛けて「宮原誠一の神社見聞諜」の誠一先生に随行し人吉盆地に踏み入りました。

と、言っても、八代から球磨川を溯上したのではなく、宇土市と八代市の中間の旧小川町から山を越え五木村から相良村に降り下り晩秋の人吉盆地に入ったのでした。

暫く前からネット上で遭遇した「ひろっぷ」というブログをお書きの聡明な女性と頻繁にメールをやりとりしておりました。

このため、誠一先生も含め、まずは、直接お逢いしてお話ししたいと思っていたのです。

以外と早くこの思いが叶い、静かな人吉盆地のご自宅を訪問し数時間に亘ってお話しさせて頂き、一旦青井阿蘇神社の付近の安宿に戻り翌朝から、あさぎり町と多良木町を中心に神社を見せて頂きました。

私は十数年前から天子宮調査で延二十日間は入っていましたので、ある程度の土地勘を得ていましたが、地元の方のご案内を頂くと全く違う世界が広がるもので、新たな知見が幾つも飛び込んできました。

この間研究会内部では不思議と橘一族の後裔が集まり始めており、静かな広がりを見せています。

既に56人の橘一族の後裔によるネット・ワークが形成されており(ブロガーだけでも4人の5ブログがあり、それに宮原姓をお持ちの「ひろっぷ」様が加わって頂ける事になりそうです。

実は、私も橘一族の後裔として末席を汚していることが最近になって分かり、当方の二本のブログに加え、百嶋神社考古学256のブログの中に、


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高知の別役(一応伏せますが)まで、56本のブログが揃う事になるのです。

早朝から宮原誠一先生に青井阿蘇神社をご案内、その後ひろっぷ様から十社ほどの神社をご案内頂きました。

私にも初見の神社がいくつもあり、非常に興味深く見せて頂いたのですが、その中から今回は一社だけをご紹介したいと思います。

人吉盆地内の神社については、これまで、雨宮神社(相良村)、十島菅原神社(人吉市)、大宮神社(多良木町)、槻木四所神社(多良木町)白水阿蘇神社(水上村)、…などこれまで10社程を書いていますが、まだ、それほどの深入りはしておりません。それは、まだ人吉盆地内の神社群の全貌が見えていないからです。青井阿蘇神社をそのまま阿蘇系神社と考える様に単なるガイド・ブック的な話をするならばいざ知らず、私達は、覆い隠された古代の真実を探り、出来れば相良入府以前の世界までも解き明かそうとしている訳で、部分的に試みてはいるものの、中々、おいそれとは踏み込み難かったからでした。


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岡留熊野神社座神社 カーナビ検索 熊本県あさぎり町免田西1582

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熊本県には熊野坐神社、熊野神社…が訪問や通過までも加えれば、知っているだけでも二十社程度はあるようです。勿論、人吉盆地内でも他に数社は拾えます。

特に、「坐」(います)を付す神社は古いようで、この神社(「座」としてはいますが)もその一つになるのでしょう。

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同社由緒 御祭神 伊邪那岐 伊邪那美 速玉之男神


まず、神社ウォッチャーの方ならば大体お分かりだと思いますが、イザナミは祀るものの、イザナギを祀らない神社が非常に多い事にお気付きだと思です。

事実、熊野三山には、本来、イザナギは祀られてはいないのです。…以下簡略化して説明します。


熊野本宮大社  アカルヒメ=ヤタガラスの姉でスサノウのお妃で姫島に逃れている(市杵島姫を連れ)

熊野速玉大社  豊玉彦=ヤタガラスの父神 大幡主=カミムスビの神(造化三神)神産巣日神、神皇産霊尊、神魂命とされる

熊野那智大社  イザナギと別れた後、名をクマノフスミと名を変えたイザナミ


「古事記」神話と違うではないか…と猛然と抗議される方がおられると思いますが、その根拠を問えば神社庁が言うからとのことなのです。この手合いには、ご自分でお調べ下さいとしか言うしかありません。

一例をご紹介しましょう。人吉市から球磨川を少し下ると、球磨郡球磨村神瀬甲820の巨大鍾乳洞内に鎮座する熊野座神社があります。

ここでも、イザナギは祀られていないのです。以下は、その熊野座神社の御由緒です。


ひぼろぎ逍遥 でも取り上げています。

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イワツバメの大群が飛び交う巨大鍾乳洞に鎮座する熊野座神社


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速玉男命 死んで黄泉国にいかれた伊邪那美神を、伊邪那岐神が追っていったところ、 すでに伊邪那美神の遺体は腐ってうじがたかり、遺体の各部に八雷神が生まれていた。

『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男

敬愛する「玄松子」様より引用

一書のとおりイザナギとイザナミは分かれた後、大幡主のお妃となられているのです。

ここでは、事解之男を採用されていますが、百嶋神社考古学では熊野速玉神社は速玉男命とします。

従って、後代の追加による例外はあるものの熊野系にイザナギが祀られる事はないのです。

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百嶋由一郎 004ヤタガラス系譜(部分)クマノフスミこそイザナギと別れた後のイザナミなのです


ここで、話を岡留熊野座神社に戻しますが、念のために「熊本県神社誌」でも確認しておきましょう。

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「熊本県神社誌」262p(部分)左は境外摂社 ご覧のとおりイザナギが入っています


私には明治の村社昇格に絡んで、通り良く「記」「紀」に沿うように祭神が入れ替えられた(イザナギが挿入された)様に見えるのですが、無論、これは推定でしかありません。

ただ、この事が、同社の参道階段右手に置かれた境内摂社によってある程度の推定ができるのです。

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一言で言えば、本来神殿に祀られていた神様がごっそり祀られているようです。

窪権現(権現は神仏混合時代=江戸期以前の神仏名ですが…)の窪の意味は不明ですが、熊野大神とされている事からこの神様こそが元々鎮座されていたイザナミの後の夫となられた大幡主=造化三神のカミムスビの娘(ヤタガラスの妹)であるアカルヒメ(熊野本宮大社の主神)の事なのです。

この大幡主が神殿から下の摂社殿に降ろされているのです。

イザナミが神殿に残された以上、この岡留神社の基層には、前述の神瀬(コウノセ)の熊野座神社が金山彦を掲げる様に金山彦(イスラエル)系の神が祀られていたことになり、これを祀った人々もその系統の人々だったことになるのです。

菅公は良いとして、と言っても、こちらも大幡主系と金山彦系の本家同志で成立したのが菅原家ですからここでも消された二系統が大切に祀られている事が分かります。

ただ、人吉盆地でも散見される八王子は十年来の謎でまだ分かりませんのでパスします。

二宮は阿蘇神社の二宮の意味ではなく、健磐龍を祀る阿蘇神社に対する二宮、つまり、高森の草部吉見神社のヒコヤイミミの事であり、この草部吉見と宗像三女神の市杵島姫との間に産れたのが左端の阿蘇北宮(ここでは北嶽と書かれています)国造神社の大山咋(オオヤマクイ)=現地では速瓶玉命の事なのであり、後の日枝山王権現、日吉神社、山王神社、酒の神様松尾大社、佐田神社(出雲)、の佐田大神(断じて猿田彦に非ず)…となるのです。これらの話は幾らも書いているのでネット検索で確認してください。

池王社を飛ばしましたが、これも大幡主の子(母神は言うまでも無くクマノフスミと名を改めた金山彦の妹イザナミ)豊玉彦=ヤタガラスとなるのです。

何故、池王と呼ぶかは多少の見当が着くのですが話が逸れますのでここでは止めておきましょう。

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そう考えていると参拝殿の横にヤタガラスの掲示がありました これでは丸わかりですね


そして、この神社の宮司家は尾形(緒方)ですから大雑把に言えば阿蘇神社の系統になるでしょうが、大神一族ですね、そう考えると、ここに雨ノ宮姫が祀られている事にも納得がゆくのです。

何故なら、この雨の宮の雨宮姫から事実上の阿蘇家初代の阿蘇惟人(コレヒト)が産まれるのです。

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百嶋由一郎 018阿蘇系譜①-2 神代系譜(部分)


してみると、左の雨の宮殿の中に置かれた3体の男神像は、阿蘇氏初代の惟人と高橋+速日と考えられそうです。ここまで考えてくると、少し面白い事に気付きました。

ご迷惑になるといけませんので、あくまでも可能性の範囲とご理解いただきたいのですが、このあさぎり町には、白岳酒造があります。

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人吉盆地にも百済=旧多良木の人々が入っているようです。だから錦町はあさぎり町とは別なのです。

 あさぎりはどちらかと言えば百済ではなく新羅の多羅伽耶から入った人のような気がします。

それは山の名を見れば分かります。

 白髪岳、小白髪岳、白髪野、陀来水(多羅を見る)と半島の東南部を偲んだ名が残されているのです。

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白岳酒造があさぎり町の南の高峰白髪岳から名を取っている事は明らかでしょう(高橋が新羅と言う意味ではないのでご注意を)。

白岳がそうだとして、そこに高橋酒造が在ったとしたら、再度申し上げますが、阿蘇高森の草部吉見ヒコヤイミミと宗像三女神の市杵島姫との間に産れた阿蘇国造速瓶玉(大山咋、日枝山王権現、日吉大社、佐田神社…)は、酒の神様=松尾大社でもあるのです。

相良村の雨宮神社や市房山神宮の境外摂社雨宮姫(岩野)は元より、熊本市内などにも数社存在する雨宮(阿蘇ツ姫の娘)が大切に守られ、今尚「白岳」を造る高橋酒造とは、この阿蘇国造と雨宮姫の直系の一族であるかも知れないのです。してみると、上の三体の神像のうちの二体のどちらかが高橋神であり、速日(速瓶の子)と思われ、高橋酒造から焼酎を奉納し祀られる価値があるのではないかと思うものです。

そして、「岡留」(元寇期までは辿れるとの事)という地名が気になっていました。何とも違和感のある奇妙な地名だと思っていましたがようやく見当が着きました。下の神殿に降ろされた筆頭の神が熊野大神ならば、それは熊野本宮大社のアカル姫のはずなのです(隠れ菊池一族の米良の銀鏡神社の主神でもある)。その消されたアカル姫の「アカル」の置換えが「岡留」(オカル)なのではないか…と考えるのです。今後の課題ですね。消された理由も分かります。アカルヒメは金山彦の妹のイザナミの娘であり神武天皇に背いたナガスネヒコに繋がるから慎重に神殿から外されたのです。簡単に言えば神祇官対策ですね。

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最期にこのフクロウが気になるのです。ヤタガラスとフクロウと言えば、茨城県の鳥子山上神社が頭を過ります。ヤタガラスの子である鳥の子と言えばトリノコ山上神社に繋がるかはこれからの課題です。

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雨宮姫については幾つか書いていますので、関心をお持ちの方は ひぼろぎ逍遥+雨宮姫で検索を…

また、フクロウについてはブログ「ひろっぷ」で興味深い話を書かれておられます。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

邪馬壹国ってどこにあった? 正しい邪馬台国への理解の為に

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邪馬壹国ってどこにあった?

正しい邪馬台国への理解の為に

はじめに

 筆者はここ数年、鹿児島県大隅半島の歴史季刊誌「大隅」(大隅史談会発刊)に論考を掲載させていただいている。このところブログの執筆をさぼっていたので、この5月に発刊されたお「大隅」に掲載された「卑弥呼」「邪馬壹国」に関する論考を二回に分けて読者に届けたい。特に新しいことは書いていないが、まとまった形なので参考になれば幸いだ。

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相変わらず古代史フアンの間では「邪馬台国と女王・卑弥呼」についての関心が高いようだ。外国の史書だけに記され、『日本書紀』(以下『書紀』)では偽られている「謎の女王」だから、当然と言えば当然だろう。みんな、ロマンと古代史に関して何がしかの知識を持ちたいと思う心のうちはよくわかる。

これまでにも全国組織のグループがいくつも結成されていて、小生の知人の何人かもそれぞれの地域の「地域長」を務めている。

知人らはそれぞれ自分で研究し、勉強をしているのだが、なかなか発表の機会に恵まれない。勉強の結果をみんなに知らせたがっている。そんな人たちに機会を与えようというのも会の目的のひとつだろう。

もちろん、なかには「ロマンだから七面倒くさい『事実や証拠』などどうでもよい」と思っている人もいるだろう。が、多くの人はとても真剣だ。

でもこうした人々に共通して言えるのは、さまざまな〝専門家〟の著書などをベースにしてそれぞれの地域の伝承やデータを判断しようとしているのだが、えてして地域にこだわりすぎ、冷静な判断ができなくなり、ひいき倒しになってしまっているケースが多いことだ。

問題になるのは、判断のベースとした「専門家の知識、意見」がどこまで信頼していいのかということだ。これが実にあやしい。なぜならそこには純粋に学問的な追及が行われておらず、先生や同僚、仲間への「配慮」が先行するという日本人的な風土が学界や大学の中で支配的であるからだ。

「先生」に気に入ってもらえるよう、「多くの必要な事実」に目をつぶり、見て見ぬふりをして論文や意見の発表をまとめようとする。先生が作った枠(わく)から絶対に大きくはみ出さないように配慮を重ねる。

枠を外れた意見を公表したら大変だ。研究者として一生冷や飯を食わされる。優秀な研究者がそんな憂き目に会っているのを多く目にしてきた。

「邪馬台国の卑弥呼」が九州や関西、そして四国などあちこちに飛んでしまい、未だに収拾がつかない原因はそこにある。逆に「素人(しろうと)」が大活躍する素地もそこにあろう。しかし小生は、「ロマンは事実をもとにわからないことに思いをはせるものであって、事実を離れた妄想ではしかたがない」という意見である。

 今回は多くの「邪馬台国論争」(注1)から欠如していると思われるいくつかの事実やデータをお知らせしたい。論議や考察の一助になれば幸いだ。


①「隠されてきた」の認識が大事


一般に言う「邪馬台国」は、日本の古代史をつづったという『古事記』や『書紀』には記録されていない。
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『書紀』には「神功皇后」紀のなかに、中国の史書『三国志・魏書』(魏志)倭人伝に記録された「女王。卑弥呼」について、割注を設けて写真の様に書いている(写真 新潮社刊『日本書紀』)。

「『書紀』の割注を読めば、読者は、邪馬壹国の女王・卑弥呼」は『魏志』にいう二世紀から世紀に生きていた人でなく、四世紀後半の人であろう「神功皇后」のことだと勘違いするように仕立て上げられているのだ。


しかし、『書紀』が記された八世紀の人や、少しでも勉強している現在の人ならば、百年以上も違う時代に生きた人が同じ人だなどと思う人はいないだろう。

 それもあって『書紀』はおそらく、わざとであろう、『魏志』の記述を変えて紹介している。

まず十九年の「景初二(二三八)年」を景初三(二九)年己未」に「卑弥呼の使者難升米?を難米」に「帯方郡太守の劉夏」の名を「夏」に四十年の項も「正始元(二四〇」年、太守弓遵、建中校尉梯儁を遣わし」を「正始元年、建中校尉梯携を遣わし」と太守の名を削除したり、建中校尉の名前も違わせている。四十三年の項も大夫の名を違わせるなど「誤引」だらけだ。

しかし、『書紀』の筆者はそこらあたりの素人ではない。筆者であるとみられる「紀の清人」や「三宅の藤麻呂」らも当代きっての学者、歴史家であろう(注2)。これほど間違った誤引を連発することは一〇〇%考えられない。

『日本書紀』で「九州倭(い)政権」や「卑弥呼」の存在を削除するように命じた藤原不比等への物言わぬ反抗だろう。わざと間違えてみせ、読者が疑問を抱くように仕立てていると考えられる。「本当はそうじゃないんです。わかってください」というわけだ。『書紀』のいろんな場所に散りばめられている「事実解明への暗号」のひとつだろう。

不比等は邪馬壹国や九州倭政権の存在を隠して「大和政権こそ古来日本列島を支配してきた唯一の政権である」という虚構を読者や世間に認めさせようとしているようだ。『書紀』はとんでもない歴史の偽書と言えよう。当時の世相から見れば編纂を命じたのは彼しかいない。合わせて自分の一族を権力の中枢に据えようと考えたのであろう。

 「大和政権」は開元の初め(七一三)年に派遣した中国・唐への使節団に「なるべく多くの中国史書を買ってこい」と命じたらしい。中国は『(旧)唐書』日本伝に、「日本の使者らは(我々の天子が送った有難い)品々をことごとく金に換え、市場で大量の文籍を買い込み、海に浮かんで帰った。」と、「まったく失礼な連中だ」と言わんばかりの記録を残している。

 買って帰った「文籍」のなかに『魏志』があったことは間違いなかろう。『書紀』のなかの割注や天皇の言葉、歴史上の人物の発言のほとんどが、中国史書のなかの文言をそのまま、あるいは脚色して使われている秘密がここにある。


②中国の「正史」を呉音で読むのは間違い

文部科学省は、小、中、高校の教科書のすべてにこの「倭」に「わ」とルビをふるよう「指導」していて、一般の人は「ぎしわじんでん」が正しい読み方だと思い込み、定説化している。多くの古代史フアンの頭もこの読みに占領されている。文字通り「三つ子の魂百までも」状態だ。
023しかし、この読みは誤りであり、「倭」は正しくは「ヰ(い)」と読むべき漢字である。
従って「魏志倭人伝」は「ぎしいじんでん」と読むべきである。また「奴」も「ナ」でなく「ト」の音しかない。

「倭奴」を正しく「ゐ(い)ど」と読まなくては我が国の古代史の解明は不可能、あるいは錯誤に陥ってしまうことになる。

この件は拙著『卑弥呼と神武が明かす古代』(2007年ミネルヴァ書房)や、小生のブログでも扱った。煩雑だが骨格だけでも再録しよう。

福岡県教委などが、『魏志』に記録された「奴国」は博多湾岸の「那(な)の津」を指すなどと言っているが、これは大嘘、といえる。「ナ国」という国は存在しない。

一度でも中国に行き、中国人と話をした事がある人なら、自分が勉強した中国語がほとんど通じない場面に遭遇したことがあるだろう。上手、下手は別として、南方と北方とでは同じ漢字でもまったく発音が違うからだ。

現在どうなっているかは知らないが、小生が中国に通っていた二十年ほど前までは、テレビドラマの下部には役者のセリフを全部漢字にしてテロップで流していた。そうでもしなかったら、出演者が何をしゃべっているのかわからない人がたくさんいたのだ。

北方の長安や洛陽地域の音を「漢音」、南方の音を「呉、音」という。「呉音」は中国南部の「呉」や「越」の地域一帯、すなわち江蘇省南部、浙江省、福建省、広東省などで使われていた読みである。「倭」は呉音では「uwa:(わ)」と発音されていた(注3)。お互い外国語のようだ。古代には特に顕著だったろう。だから日本の漢字辞典も必ず「漢音」と「呉音」をきちんと区別して記している。

『魏志』倭人伝など中国の「正史」はすべて「漢音」地域で書かれ、読まれたものである。『三国志』のなかの≪魏志≫が著述されたのは三世紀末、場所は中国西北部、西晋の都であった洛陽である。編者は西晋の著作郎であった陳寿(二三三~二九七年)だ。

陳寿らが使っていた字音は「正音」、すなわち「漢音」であり、読者である西晋の天子や官僚たちはもちろん「漢音」を使っていた。疑問の余地はない。漢を引き継いだ魏、晋朝は、天子と官僚のトップが代わっただけで、官僚たちは漢時代と同じ人たちだったからだ。

しかし、言葉は時代によって変遷していく。従ってより正確に言うと『三国志』(魏志倭人伝など)は「三世紀末、洛陽で使われた漢音」で読まなければ正確な情報は得られない。

『魏志』は、正始八(二四七)年、「邪馬壹国」を訪れた帯方太守・王頎一行や、十六年もの長い間、軍事顧問として「邪馬壹国」に滞在したという張政らが、倭(い)の人から聞き取った国名や官職名、人名を、音がよく似た「三世紀末、洛陽で使われた漢字、特に卑字」を使って表記したのである。

だから理解しようと思ったらきちんと「漢音」で読まなくてはならない。そうしなければ、書かれている国々とか人の名前はわかりっこないのだ。

しかし、中国大陸から九州に漂着してきて全国に展開していった人々の大半は、「呉音」を使っていた南方の人が圧倒的に多い。熊曾於族しかり、紀氏しかり、ニニギの天族しかりだ。

だから日本語の漢字の読みは、初めから「呉音」なのだ。決して何十年かに一回、日本の使節団が中国に行って習ってきたからではなかろう。もちろん「倭人伝」は漢音で読まなくてはならない。

ところが、国史学者をはじめ、古代史の世界ではこのことにまったく無頓着だ。自分らが日常使っていた「呉音」で読んでしまうから勢い、でたらめ状態になってしまう。

国史学者らは『日本書紀』に頼って日本の古代を知ろうとするから、その辺のことがまったくわからない。かつ市民に寄り添うより、権力に尻尾を振ろうと努めるケースが多いから、勢い「大和政権一元論」に立ってものを言ったり書いたりする。


③『説文解字』が明かす日本の古代国家名

では「三世紀末に使われた漢音」が如何なるものであったか。その資料としては最も適当と考えられるのは、西晋の前代である後漢の長安で著述された『説文解字』であろう注4

許慎が著した『説文解字』の原典は失われているが、宋代から清に至るまで多くの研究者によってその復元研究が続けられてきた。清の段玉裁の『説文解字注』などはその到達点との評価がされる。

しかし、はっきりと『魏志』を『説文解字』で読むべきだとする研究者
03は今のところ、岩波文庫の『新訂 魏志倭人伝』和訳を担当した石原道博以外多くはない。最も適当な「字典」だと考えられるのだが、どうしたことだろうか。この「字典」を持ち出せば、自説に都合が悪い、と考えて避けているのであろう。国史学界のいい加減さ、恐ろしさが感じられる。

「倭」と「奴」のそれぞれの字音について、段玉裁の『説文解字注』(図1,2)はこう記す。

倭は形(つくり=委)に従う。倭と委の意味はほぼ同じである。委は従うの意。『広韻』は慎む形に作る。人に従う。委声。於為の(反)切(owi音はすなわち烏(wu)と何(he)の切に転じた。詩に「周の道は曲がりくねり、遅々として進まない

と記す。()内、 。、は筆者

すなわち、オと発音する口の形をしてウイと言いなさい、と言う。日本語では「ヰ」に相当する。「委員」の委だ。「委や倭遅(ヰジ)」の「ヰ」であり、後に「we」に転じたとする( 『説文解字注』」の「倭」と「奴」の記述。『許慎撰 清 段玉裁注』 (上海古籍出版社)より。大意と発音の部分のみ掲載。用例部分はカットした)


「奴」の読みについてはこうだ。

奴は奴婢にして皆、古の罪人。『周礼』には奴男子は辠(官営の牢)に入り、隷(身分の卑しい)女はつきワラつき役にされる。駑馬はのろまな(馬)なり。その字皆、奴に作る。皆(駑)から引伸ばした意味である。乃(dai)と都(do)の(反)切(do)である


とし、「奴」は「駑馬(ドバ)」の「駑」の音(do)であるとする。

「奴隷」のド、「匈奴」のドである。ただ、北方の音には本来濁音はない。息を激しく吐く有気音と息をださない無気音だけだ。「do」は日本語では「ト」に近い音である

現在『魏志倭人伝』に記す「奴国」を「ナ」と呼んで、福岡市中央区の「奴(ナ)ノ津」に当てる説が定説化している。もちろんこれは誤りである。「ナ」と読む読みは「切韻」による「呉音」であり、「倭奴国」は正しくは、「ヰド国→『魏志』の伊都国」と読まなければならない。「ワのナ国」などという読みは『魏志倭人伝』など中国史書の読み方としては有りえない読みである。

一方、「呉音」というのは「いわゆる呉の地域独自の読みではなく、東晋(AD三一七~四一九年)の首都であった建康(現在の南京)で使われた読みをいうのだ」と、奇妙なことを主張する研究者もいる(注5)。だが、この主張ははっきりと誤りであると思われる。

なぜなら東晋は、さまざまな失政や北方の匈奴の侵入によって首都・洛陽を追われた西晋(AD二六五~三一六年)の天子や官僚たちが南に逃げ、建康を首都とした経緯がある。

しかも西晋の滅亡によって多くの人々が南に逃げたという。その数九十万人。世界史的に見ても稀に見る「民族大移動」であったという(注6)。

「呉音」地帯に「漢音」地域の人々がなだれこみ、「呉音」「漢音」は双方とも大きな影響を受けたことは間違いなかろう。が、東晋政府が使っていた漢字の読みは決して「呉音」ではなかっただろう。

いきなり「漢音」とは全く違う「呉音」を使うことは不可能であるからだ。東京で育った人が東北や鹿児島に移り住んでもその地域の言葉が全く使えないのと同じである。

 この主張は国史学者らに媚び、通説を正当化しようとするいかがわしい意見とのひとつと考えられる。


04
④「奴国」は二カ所あった

『魏志倭人伝』には「奴(ト)国」が二つあったと記されている。ひとつは「伊都国から東南陸行百里の奴国」、もう一つは「邪馬壹国の境界が尽きるところ」で「南には狗奴(コード)国がある所にある奴国」である。大方の古代史家がこのことに気づかず、あるいは気づかないふりをして勝手な論陣を張っている。現在定説化している「ナ国」の推定地は福岡市中央区や春日市周辺一帯の一ヵ所しかない。『魏志倭人伝』の記載と合わず、場所的にも疑問がある。拙著『卑弥呼と神武が明かす古代』(2007年)で詳述した。

『倭人伝』のふたつの「奴国」に該当すると思われる地域のひとつは、福岡市の早良区と西区の境界を流れる室見川(むろみがわ)周辺。「山門(やまと)」という場所だ(注7)。もうひとつは有明海に流れ込む筑後川河口付近だ。ここは旧福岡県山門(やまと)郡(現みやま市)である。いずれも『倭名類聚抄』に「里」「郷」として記載されており、現在も地名として使われている。

室見川付近の「山門」は、中世の荘園文書には「山戸(やまど)」と記載される例がある。室見川の中流域には弥生時代前、中期の著名な遺跡「吉武高木遺跡」などがある。前漢鏡や銅戈、矛、玉など「三種の神器」を納めた甕棺の密集地帯であり、国の正殿を彷彿とさせる堂々とした建物が発見されている(写真 福岡市西区吉武で)。

もう一方の「山門」、筑後川は人も知る北部九州随一の大河川である。流域は筑後から筑紫、そして大分県日田を貫流して熊本県の山国にまで及ぶ。河口一帯を「国への口」と呼ぶにふさわしい。

いずれの「山門」もそれぞれ玄界灘と有明海側から内陸部(山)に入る「戸口」「門口」という意味であろう。『魏志』の筆者である陳寿は「戸の国」を卑字を使って「奴(ト)国」と表現したのだ。
05この「山」が「倭人伝」にいう「邪馬壹国」を意味している可能性は高いと思われる。「同じ国名の重出」とみる説もあるが、『魏志』が指し示す場所は全然違う(
 伊都(倭奴)国と二つの奴国想定位置図)。通説がいう福岡市中央区の「奴(な)国」の地は邪馬壹国そのものを勘違い、あるいは「関西説」を補強するために強引な解釈をしていると思われる。

「伊都」は現在は「イト」と清んで発音される場合が多いが、元来は「イド」である。この地は旧福岡県怡土(いど)郡であるからでもある。「怡土」とは「喜びの地」という意味である。ニニギら天族が初めて列島を代表する自分たちの国家を誕生させた「喜ばしい伊都(倭奴)国の地」という意味であろうか。

「倭」を「ワ」と読むか「ヰ」と読むかは、江戸時代に福岡県の志賀島で「漢委奴国王」と刻した金印が発見されて(注8)以来、「漢のワのナの国王」と「漢のイト国王」と読む両説がある(注9)。しかし、多くは現在のように考古学的成果が発見される以前の説であり、中国の印制とも合致しない。

中国の印制では金印が与えられるのは皇后、皇太子、丞相、大将軍御史大夫、諸候王、列候のみ。以下は位に応じて銀印、銅印が与えられる(梶山勝 大谷光男編『金印研究論文集成』所載「金印と東アジア世界」)新人物往来社 1994年など)

この「伊都(倭奴)国」に金印が与えられたのは当然だろう。「奴国」は名前を並べられた約三十ヶ国のなかの二つにすぎない。人口は多いが、日本を代表する国とは記されていない。その位置についても。考古学研究者の不断の努力によって明らかにされた成果をもとに新しく判断し直さなくてはならない。


⑤『魏志』の「一里」は七十六m前後だ
06『魏志倭人伝』は「末蘆国(唐津)→伊都国(糸島市前原)」間を「五百里」と記している。ここを車で走って距離を測ると約三十八㎞前後ある。

と言うことは『魏志倭人伝』の「一里」は、三万八千m÷五百里=七十六m。すなわち百mに満たない距離を「一里」と言っているらしい。通説の「四百六十㍍前後」とは全然違う。約六分の一だ。この距離記載を「短里」と呼び、通説を「長里」と呼んでいる。

また、「朝鮮半島(金海)―対馬」「対馬―壱岐」「壱岐―末蘆(唐津)」間(それぞれ約六十~四十㎞)をそれぞれ「千里」と記している。

「朝鮮半島―唐津」間は流れが急で大荒れする対馬海流を横切らなくてはならない。海流に逆らって航海しなければならないから、西に向かって進み、かなり大回りする必要があった。歩いて測ることもできない。それで地図上より長い「千里=七十六㌔」という表現になったと考えられる。

また『魏志』韓伝は、韓の地域を「方四千里」と記録している。半島から北方の帯方郡、南方の倭地の除いた場所が「韓」地(一辺の距離約三百キロ)だというから、やはり短里の「一里=七十六m前後」で記録している。

帯方郡から「女王の都するところ、すなわち邪馬壹国首都」間は「一万二千里余り」だという。晋の前後の国である漢や唐代の距離記載、すなわち通説の「一里=四百六十m」で計算すると「五千五百二十キロ」となる。日本列島をはるかに超えてしまう。「短里」だと約九百十二キロで、九州の西側が範囲に収まる(図)

この件についても通説派は、邪馬壹国近畿説に都合が悪いので、頬かむりを続けている。

「伊都国→奴(ト)国」間は「百里」(七・六㎞前後)と記録されている。伊都(倭奴)国、すなわち糸島市前原からいったん南東に向かい、「日向(ひなた)峠」を越えて、少し東へ行けば吉武高木遺跡がある。実に正確だ。歩いた歩数で計算しているのであろう。通説の「那の津」は伊都(倭奴)国(前原)から二十五キロ以上離れている。「長里」では「約四十六㎞前後」となる。通説でもぜんぜん合わない。


⑥漢音に「ワ」が登場する理由は?

十一世紀完成の字典『集韻』で「ヰ」の音に「ワ」が加わった事情については、『旧唐書』『新唐書』の記述と関係があるのではないかと考えられる。

『旧唐書』(九四五年完成)は日本について「倭国」と「日本」という二本立てで記載していて、「は古(いにしえ)の倭奴国である」「日本は倭の別種」である」と記載している。

「倭伝」の記事を通説は「はいにしえののナ国である」などと読んでいる。が、これでは「ワ」が重複していて文章になっていない。徹底的に簡素化した表現を目指している史書としては考えられない読みである。明らかにごまかしだ。

要するに『旧唐書』は、中国の歴代王朝がこれまで付き合ってきた、あるいは六六二年(『日本書紀』では六六三年)の「白村江の戦い」を戦った相手は「倭国」であり「日本」ではない。「日本」との付き合いが始まったのは「長安三(七〇三)年」(使者は粟田真人)からであると記載しているのだ。もちろん、「九州年号」の消滅、大和政権の年号(大宝)の開始(七〇一年)とぴたりと合っている。

一方、『旧唐書』に遅れること約百年後の一〇六〇年に完成した『新唐書』では、「倭国」の文字は消え、「大和政権(日本)の言い分」をほぼ全面的に取り入れて記録している。「日本はもともと倭国と言っていたのであり、名前を変えただけだ。倭国は我々の政権そのものであった」という大和政権側の主張(『旧唐書』に「疑わしい」と記載)をそのまま受け取って記録したと考えられる。

この時期は日本の平安時代に当たり、大和政権が全国の支配権を確固たるものにした時期である。中国側の担当者も代わり、それを認めてしまったのではなかろうか。通説派は『旧唐書』の記載も自説に都合が悪いので、もっぱら百年後に書かれた『新唐書』を用いている。まったくあきれた連中ではある。
07「大和政権」の「大和」は漢字の音としては決して「ヤマト」とは読めない漢字である。「だいわ」だ。「大」を美称とみると奈良県一帯は当時「和(わ)」と呼ばれていた地域である可能性がある。
奈良盆地を象徴する「三輪山」も、本来「美しいの山=美和山」という字義であったと考えれば納得もできよう。

要するに、『集韻』で「ヰ」の読みに呉音系統、すなわち日本語の読みである「ワ」が加わったのは日本列島の支配権を確立した近畿(大)和政権の主張によるものと考えられる。

次回「邪馬壹国 その2」に続く(2023年8月)

600 花の舞鎮の先に鎮座する式内社 “京都府舞鶴市の阿良須神社”

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600 花の舞鎮の先に鎮座する式内社 “京都府舞鶴市の阿良須神社”

20180404

太宰府地名研究会 古川 清久


前ブログ 599 花に浮かぶ八幡神社 “山口県山口市阿東の徳佐神社”ではこのように書きました。


 このところ北部九州から近江に移動した人々の具体的な姿を描く作業に追われています。

既に、以下のブログを公開していますのでご覧になった方もおられるでしょう。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

489 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! “宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”

ひぼろぎ逍遥

スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート

スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々

スポット172 姉川と妹川という名を付した人々と息長系氏族

スポット173 亀屋佐京

598 遠い古代に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)


 研究会のスケジュールを縫って再び、近江に足を踏み入れることにしました。

それは、伊藤正子女史の丹波丹後の調査に随行する前についでに近江の調査をやってしまおうと思ったからでした。

こうして、おっとり刀の調査旅行が始まりました。

日田市を4216:00に出発したのですが、関門橋を渡り王司パーキング・エリアで最初の車中泊、二区間目の小月インターチェンジで降りれば500円未満で済みますので、渋滞を避けて国道2号線から9号線で山陰に入りました。


 以来、日本海側の無料の高速道路区間(山陰は元片山鳥取県知事のおかげ)は利用するも、基本的には一般道を利用し750キロを走り、現在は福井県小浜市の手前の高浜町(高浜原発の高浜です)の道の駅の温泉施設の休憩室でブログを書いています。


600-1

天草市高浜


 その前に、この高浜と小浜が気になります。

有明海の出口の早崎瀬戸を挟んでこの二つの地名があるのです。

彼らが、西に船を出して対馬海流に乗りさえすればこの舞鶴、高浜、小浜、敦賀…には直ぐに辿り着けるはずです。

ある時、意を決した若者の集団が数十隻の船で丹後半島を越え越の国を目指したとすれば、自らの故地の地名を付けた可能性は高く、これらの地名付合がそれに起因するとするのはそれほどでたらめな想定でもないでしょう。


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もう近江は目と鼻の先です。

小浜市から入れば安曇川辺りまでは直ぐですので、明日から近江の調査に入ります。

以下は福井の高浜と小浜地名です。


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さて、桜満開の舞鶴の鎮守府=舞鎮(佐世保は佐世鎮、呉は呉鎮、横須賀は横鎮)のイージス艦を左に、暫く走ると阿良須神社があります。




600-5阿良須神社

舞鶴市小倉フル宮13(平成22729)

東経1352559.45秒、北緯352839.85秒に鎮座。

 この神社は27号線に面して鎮座しています。社頭には二基の鳥居が見え、はじめは二基共この社の鳥居かと思っていましたが、左側がこの社の物で、右側の鳥居は富(布)留山神社の物でした。

この二社は地番も違えば、氏子地域も異なります。

 入口の社号標には「郷社阿良須神社」と書かれ、鳥居の額には「正一位一宮大明神」とあります。鳥居を潜り、石段を数段上がると境内で、広々と明るい境内左には境内社が配され、正面に神門のような感じの拝殿と、それに連なる回廊が建立されています。

 回廊は正面だけに建立されており、回り込むと本殿のすぐ近くまで行くことができます。本殿前にはこの地域には珍しい狛犬がおり、「式内阿良須神社」の社号標も立っています。流造りの本殿は彫刻が施された素敵な社殿でした。本殿右手の丘の上からは御神水が湧き出ているようです。

 背後の青葉山から続く鎮守の杜が、雄大さと静けさ、清々しさを感じさせる、神寂びた素敵な神社でした。

 御祭神:豊受大神一座、相殿神:多岐都姫命、市杵島姫命、多紀理姫命、三座、木花咲夜姫命(殿内秘座二宮神)

 祭礼日:10月末の日曜日 境内社:神明神社、二柱神社、桜王神社

 由緒:当社は崇神天皇十年丹波将軍道主王が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠と云う兇賊を征伐し給う時、豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りされたのを創祀とする。降りて天武天皇白鳳十年九月三日柳原の地に社殿を建て春日部村の氏神阿良須神社と奉称す、遡りて元年大友皇子の御謀叛の時越前阿須波の里へ忍び給う高市皇子は当社に幸し天下鎮静を大神に祈り御歌を詠じ給う。

 曇る世に柳ケ原をながむれば 神の恵みや晴るる朝霧 風来ぬる青葉の山の煙りたへ 行先遠き雲の上かな 御染筆奉納にありたり爾来朝家の御崇敬厚く殊に延暦二十四年正一位を賜わる。堀川院御子無きをうれいて当社に祈願を寄せ給いしに感応ありて宗仁親王誕生あらせられければ、寛治元年正一位一宮大明神の御額奉らる御筆は羽林飛鳥井卿の御真蹟なり。かくて当社は古来より子宝を授け安産に奇霊なる神徳を現わし給うと云う。貞元年中当国に叛賊起り国内乱れし時、藤原保昌賊徒平定を祈願し当社に拝す。観応元年三月十五日神田五反政所尭基寛正三年神田一反代官河嶋主計充秀寄進す。而して慶長五年九月七日兵燹に罹りて本社、二の宮、拝殿、御饌殿、神楽殿、中門回廊、宝物等悉く焼失した。翌年細川忠興社を布留山の地へ遷す、即ち今の社地なり。その後、明暦四年三月二十四日、文政十二年六月三日 両度本殿を改築す。

 (例祭) 九月三日が古例なれど現在は十月末の日曜日

 (式年行事) 御屋根洗式十ケ年 近年行われず

 (所有文書) 南北朝室町時代文書十三通(一巻)一宮大明神縁起(一巻)同造立願文(一巻)大般若経(一巻)を蔵し大般若経を除き京都府登録文化財並びに舞鶴市指定文化財である。



600-6による

思えば、「事代主のブログ」氏から最初のお電話を頂いたのもこの神社でした。

742 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(上)“駅館川河口を見下ろす川上神社”

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742 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(上)“駅館川河口を見下ろす川上神社”

20190327

太宰府地名研究会 古川 清久


 この話は以前文章化してネット上にも公開していたような認識を持っていたのですが、いくら探しても出てきませんでした。

結局、書くつもりで放置していたようで、今般、人吉のひろっぷ女史から「南」姓についての照会があった事から宇佐の金屋地区に於ける「南」姓の集中の話で答えたのですが、思考を具象化するためには文章化しなければならないという訳で、ブログがなければと新たに書くことにしたものです。

今月も何とかブログ30本を書き上げ多少ネタ切れでもあった上に天気も良かったことから、60キロほどの宇佐からさらに現地までプラス10キロ弱(一時間余り)の移動で、再々度の訪問としたのでした。

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恐らく、艦攻、艦爆が飛び交っていたいた宇佐空(大日本帝国海軍宇佐航空隊)が存在していた戦前戦中まではかなり賑わい景気が良かった地区ではないかと思います。

 凡そ長洲駅より海側はだいたい自然陸化と干拓地なのであって、恐らく日豊線の内側までが古代の陸域であったはずです。さらに言えば川向うの柳ケ浦もその名の通り浅い沼沢地だったことでしょう。

近世以来、大型船も入るウォーター・フロントの港湾地域がこの地区です。

航空隊の誘致以来、戦前には相当に賑わっていた地域だったようです。

これから、もう78年前に宇佐の神社を調べていてこの金屋地区に迷い込み遭遇した神社の話をしたいと思います。


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神額には牛頭天王とあり普通はスサノウとか八坂とか祇園社とされる神社かと考えられそうです


川上神社 カーナビ検索 大分県宇佐市金屋980


それほど衝撃的な印象を受けた神社ですが、駅館川右岸の丘陵地と言うよりも崖の上に民俗学で言うところの町(農家の集落ではない)が存在し、川岸には醸造業者(酒、味噌、醤油)や港湾荷役や船食などの産業の痕跡がある小都市というほどのものではありませんが、それなりの街並みが広がっているのです。

この山手の一角に川上神社があります。どう見ても川下なのですが、この点は、佐賀県の嘉瀬川の太古はウォーター・フロントだったと思われる地に川上神社(淀姫神社)が存在している事を思いだします。

勿論、牛頭天皇はともかくとして本来の祭神も特定できていないため(現在、大分県にお住いの「一つあがりのカフェテラス」氏に頼んで調べて頂いています)軽々には言えませんが、川上神社と言えば淀姫か奈良県の丹生川上上中下社…となる訳で、いずれこの社名を含め正体を突き止めたいと思っています。

ただ、今回の話は神社そのものではなくこの神社を支えた氏族に関わるものであり、全く想像の域を出ませんが少し思考の冒険に踏み込んで見たいと思います。

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左が川上神社で右が川上社の右手上方、後方に牛頭天皇社があります


左手に川上神社の参拝殿神殿があり、右手の高台のしかも後方に牛頭天皇社が置かれています。

このため、普通に考えれば、牛頭天皇社が上位で格上の神社に見えるのです。


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牛頭天皇社から見下ろすと川上神社が…

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私もグーグル・マップで確認しましたが、確かにこの三社は直線状に並んでいます。

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上は放生会の和間宮の沖宮ですが、同社の浮殿の上をラインが通過しているのが分かります


川上神社は非常に分かり難い場所に在るからでしょうが、ネット上にもほとんど情報が出て来ません。ただ、「邪馬台国と大和朝廷を推理する」氏の資料にこの川上神社が出てきます。

和間神社は熊襲を放つ放生会(私もたまたま15年前の放生会の祭礼の日に訪問しましたが)で知られた神社ですし豊後高田の若宮八幡宮も既にひぼろぎ逍遥(跡宮)で取り上げた九州王朝の古代官道と推定勅使門の可能性を持つ神社ですので、どう見ても熊襲絡みの神社の可能性もあり、九州王朝の時代に成立した神社群です。従ってラインで繋がるように思えるのです。若宮八幡神社については以下をお読み下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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20178月豊後高田トレッキング ① 若宮八幡神社(豊後高田市)


さて、この神社川上神社の境内には寄進者による勧進者一覧表、記念碑が残されています。始めて訪問した折にもあまりにも多くの南さんがおられる事に驚きました。

寄進者には転出者もおられるかも知れませんが、今も相当数の南さんが氏子としてお住まいになっておられるようです。

さて、後には内倉武久氏を案内して同社を再訪した時にも話した事ですが、初参詣当時から思いついていたことがあります。

これほどの数の南さんが宇佐神宮のお膝元の重要港湾周辺に住んでおられたとすると、これは古代にまで遡る何らかの同族集団である可能性を否定できない様に思えるのです。

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改築記念なのか石盤には寄進者の名前が書かれており大半が南姓である事が分かります


突飛に思われでしょうが、考えついたのは卑弥呼の遣いとして派遣された難升米(ナシメなどと妙な読み方がされていますが…)で、邪馬台国ファンの皆さんは良くご存じの外交使節で大夫と称した人物です。

まず、中国ナンバー・ワン周王朝の士大夫という役職名を名乗り半島、大陸に移動でき、外交ができた人々であり、後の紀氏に繋がる一族の可能性を考えたいのです。すると丹生川上神社とも繋がりそうです。


難升米『三国志』魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(魏志倭人伝)中に卑弥呼の使いとして登場する。

景初2年(238年)6月、卑弥呼は帯方郡に大夫の難升米と次使の都市牛利を遣わし、太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出た。劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。難升米は皇帝に謁見して、男の生口4人と女の生口6人、それに班布22丈を献じた。12月に皇帝は詔書を発し、遠い土地から海を越えて倭人が朝貢に来た事を悦び、卑弥呼を親魏倭王と為し、金印紫綬を仮授した。皇帝は難升米と都市牛利の旅の労苦をねぎらい、難升米を率善中郎将に牛利を率善校尉に為して銀印青綬を授けた。皇帝は献上物の代償として絳地交龍(コウジコウリュウ)の錦5匹、コウジスウゾクのケイ(けおりもの)10張、センコウ50匹、紺青50匹、紺地句文の錦3匹、細班華の(けおりもの)5張、白絹50匹・金8両・五尺の刀を2ふり・銅鏡100枚、真珠、鉛丹を各50斤の莫大な下賜品を与えた。朝貢は形式的な臣従の代償に、莫大な利益をもたらすものであった。なお

正始6年(245年)、皇帝は詔して、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を仮授した(帯方郡に保管された)。正始8年(247年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史張政が倭国に渡り、その際に難升米に黄幢と詔書を手渡している。

238年の遣使の際に魏から率善中郎将の官職を得ているが、これは243年の邪馬台国からの使者(掖邪狗ら)にも与えられている。こうした官職は外国からの使者に与える形式的な名誉職であり、魏の国内においても中郎将や校尉が黄巾の乱以後の戦乱の影響で任官が濫発されていたとは言え、245年に突然、(卑弥呼やそれを補佐する男弟ではなく)難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられていることは注目される。同時期、魏の帯方郡に対して、三韓が反乱を起こして帯方郡と楽浪軍の太守によって鎮圧される事件が発生しており、難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられたことの関連性が注目される。

京都大学教授だった内藤湖南の説では、難升米を垂仁朝に常世の国に使者として赴き景行朝に帰朝した田道間守としている。

また、皇帝から渡された黄幢は皇帝軍旗であり、それを受け取った難升米は魏人で、魏から卑弥呼の元に送られた諜報員と見る説もあるが、あまり信憑性は無い。

ウィッキペディア(20190328 1546による

一般的に南氏については藤原の北家との話はありますが、分布からは海洋民にしか見えませんね。

743 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)に続く

743 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)“金屋の南さんとは何か”

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743 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)“金屋の南さんとは何か”

20190327

太宰府地名研究会 古川 清久


単純過ぎますが、「難」さんが「南」さんに置き換わっているのではないか?と言うだけのものです。

また、もしかしたら「灘」さんも可能性があるのかも知れません。

さらに言えば、あくまでも日本語の呉音、漢音でしかないのですが、大陸の言語が4世紀前後に大きく変化し、結果、音博士を招聘せざるを得なくなったほどに、N音がD音に移行し、日本人の姓も、それに対応し、「南」「灘」が「段」「団」「壇」…姓に変化したとも考えられそうですが、総じてこれらの姓を持つ人々は、元々、同族であった可能性も考えておくべきなのかも知れません。

「南」と「団」が何の関係があるのかとお考えの方がおられるでしょうが、坊主読み 官学の武家読みで考えればお分かり頂けるかも知れません。一例です。

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この外にも、難(ナン/ダ ン)、男(ナン/ダン)、奴(ヌ/ド)…が浮かんで来ますが、後はご自分でお調べ下さい。では、南姓の分布を見ましょう。

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まず、分布からは海に関係のある一族に見えますね。


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当然にも「灘」姓も姫路、洲本など海岸部に分布している事は明らかで、彼らの属性が見えてきます。

 大分県の「灘」姓が宇佐に集中している事からも、一応は灘=南の推定ができそうです。

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この外島根県の分布も隠岐、江津、松江が中心で海洋民族の後裔氏族であることは明瞭です。


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上左は段さん、上右は団さん、下は壇さんです。

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気になったので日田市を調べましたが、大分県の壇さんは日田市に集中していました。

744 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)に続く

744 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)“金屋地区は廻船業者の街”

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744 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)“金屋地区は廻船業者の街”

20190327

太宰府地名研究会 古川 清久


金屋界隈 川上神社周辺グラフィティ

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廻船業者は米だか麦だか豆だかを大量に詰め込み、ある種密閉した空間(船倉)で搬送を繰り返しますので、列島周辺では必ず発酵が始まり、腐りかけたものを何とか商品にできないかと考えいつしか倉庫業者、廻船業者は醸造業者になって行ったのです。

海水や塩はふんだんに確保できますし、大分でも臼杵のフンドーキン、フンドーダイの醤油メーカーを持ち出すまでもなく、多くの醸造業者が港湾に立地している事を考えれば良くお分かりになるでしょう。

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無題.pngただ、普通は「金屋」と言う地名から鍛冶屋なり製鉄業の存在をを考えそうですがその痕跡を感じさせません。これについては別の地名起源を考えています。

驚かれるでしょうが、ひぼろぎ逍遥 695698 田ノ浦 ①~④で取り上げているポリネシア語のタウルア、カウルア、タウルアヌイ、カウルアヌイ…というカタマラン:外洋性の大型アウトリガーカヌーのカウルアヌイ(カヌー)の寄港地としての鹿屋(カノヤ)や金屋(カナヤ)ではないかと考えています(元東海大学の茂在教授が提案した仮説です)。これについては佛教大学の黄 當時(「悲劇の好字」)も専門分野から再提案されている地名仮説に従いたいと考えています。

745 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(補足)に続く

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