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180 大相撲の桟敷席とは何か?

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180 大相撲の桟敷席とは何か?


「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150305

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




これも九州王朝論者でなければ決して解らないどころか気付きもしない普通に見過ごしてしまいそうなことであり、なおかつ、九州でもフィールド・ワークを広範囲にやっている人しか解らない事かも知れません。何故ならなら、野見宿禰と当麻蹶速が相撲を取った場所が奈良以外などと考える人はいないからです。これについては、十年ほど前に奈良県桜井市穴師にある「相撲神社」を訪問した時から、九州王朝論の立場から言えばこれも後代のもののはずで、その起源は九州のどこかになければならないはず…との思いを深めていました。

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それに先行して、大相撲の横綱昇進を巡って熊本市の吉田司家に挨拶に行くという慣行がある(あった)こと自体が非常に気になっていました(単に細川の要請で京都から引っ越したとは思えなかったのです)。

ただ、その話に入る前に、相撲の起源に絡む吉田司家について、まずはウィキペディアからお読みください。なお、現在、吉田司家と相撲協会とは関係が清算されています。


起源

志賀清林 を祖とする志賀氏 の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田家次(吉田豊後守 ぶんごのかみ)から始まり、相撲の宗家として代々「追風」の を名乗る。元来、京都二条家 に奉公し節会相撲 の行事官として務めていた。その後、二条家の許しを受け、細川綱利 に招聘され熊本藩 に仕え、武家奉公をした。以来、熊本県 熊本市 に住む。相撲に関する全権は、後鳥羽天皇 より委ねられたという。

横綱免許の権威として

1877 明治 10年)、西南戦争 において23世吉田善門は西郷隆盛 率いる反乱軍に従軍し戦いに敗れた後、熊本に帰り暫く謹慎していたが1882 (明治15年)7月、東京相撲会所と交わした約款証書に基づいて梅ヶ谷藤太郎 (初代) に横綱免許状を授与した。その反面、京都の五条家による横綱免許も続いていたが、これも明治末期を境にしてなくなり、以降戦後 に至るまで歴代の横綱は吉田司家のみによって授与されていくこととなる。

明治維新 の中で相撲廃止論が起こったとき、23世吉田善門は身を挺して国技 相撲を救った。そして1908 (明治41年)5月、九段靖国神社 の拝殿に相撲協会年寄 幕内 十両 以上の力士 、並びに足袋免許以上の総参集を求め奮起の一喝を与え、1909 (明治42年)6月の両国国技館 の新設に向かったのである。そして1925 大正 14年)8月相撲協会取締出羽海梶之助 から財団法人 化申請で相談を受けていた吉田善門は要職の一部を相撲協会の外部から招くよう助言し、同年12文部大臣 岡田良平 から財団法人の認証を受けた。会長には陸軍大将 福田雅太郎 、理事長には元陸軍 主計 中将 が就任した。

吉田司家に伝わる団扇や伝書等

志賀氏から受け継いだ相撲の故実 伝書 後鳥羽天皇 より勅賜の「獅子王の団扇」・「木剣 」・正親町天皇 勅賜の「マカロウの団扇」・関白二条家晴良公下賜の「一味清風」の団扇・豊臣秀吉 公下賜の「日月団扇」・徳川家康 公下賜の「葡萄団扇」・仏法即相撲・相撲行司大意之巻・相撲故実書・故実例式之巻・相撲十ヶ條・式字説・秘伝書・四十八手伝立・武家相撲開口・勧進相撲云立・方屋敷云立・そりの云立・四十八手解説・相撲来歴・相撲方諸国・相撲大意之巻・相撲故実三ヶ條・相撲行司大意之巻・相撲秘伝・横綱之故実・力士心得掟書・横綱之図・歴代横綱紀起請文・横綱免許願・その他、相撲関係古文書・資料等多数。


まず、冒頭の志賀清林 なる人物ですが、


伝承上の相撲行司の祖。相撲行司の宗家吉田司(つかさ)家の祖先書きに「聖武(しょうむ)天皇が神亀(じんき)のころ近江(おうみ)志賀清林 という者をめして行司にさだめた」とある。


デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

と書かれています。

近江の国と言えば安曇川が注ぐ旧安曇川町(現高島市)があります。

志賀島の安曇族が入っているから安曇川があるわけですが、そもそも滋賀県の滋賀という国名からして志賀島を起源にするものであることは明らかです。

さらに言えば、安土城の安土でさえも、アヅミ、アドゥミから派生している可能性さえあるのです。


してみると、この吉田司家とは安曇族に縁のある人物であったと考えるのが普通であり、相撲そのものの起源に倭人(海士族)が関わっていた(行事とは軍配執る主宰者であり仲裁者であり指揮者である)事が見えて来るのです。

 さて、相撲の起源と言えば野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹶速(タイマノケハヤ)の話に立ち至ります。



弩美宿禰:ぬみのすくね


天穂日命 十四世の孫、土師の祖、菅原道真 の遠祖。『日本書紀』垂仁天皇 七年秋七月、 当麻蹴速が天下一の力持ちだという噂を聞いた垂仁天皇は 挑戦者として出雲から野見宿禰を呼びよせて戦わせたところ 見事に野見宿禰が勝利し、当麻蹴速の土地を与えられて都にとどまった。また、垂仁天皇の皇后・日葉酢姫命が薨じた時、当時は殉死する者が多かったが天皇はこれを大そう哀しみ、 野見宿禰が埴土を採って物象を造り殉死に代えることを進言し、 出雲から土部百人を呼んで土の人形や馬を作らせ、これを埴輪と呼んだ。その功績により、土部の職に任じられ、土部臣の姓を賜った。光仁天皇の天応元年(七八一)、後裔の土師宿禰古人は、 住む土地の名によって土師を改め菅原姓を賜わった。古人の子が清公、清公の子が是善、是善の子が菅原道真。『播磨国風土記』揖保郡立野の名のいわれとして、 土師の弩美宿禰が出雲の国から行き来していて、 日下部野に泊まり病のために死んだ。その時、出雲の国から大勢の人々がやって来て、川の小石を高地へ運んで墓の山を作ったとある。 

* 敬愛するHP「玄松子」より




多少とも吉田司家が九州と関係がある一族であることが見えてきましたので、いよいよ本題に入りましょう。
十年ほど前に全国に天子宮なる奇妙な神社があることを知り、天子宮調査を行っていました。
長期間掛けて130本ほどの現地調査レポートを書いたのですが、その半分ほどが古田史学の会の会報にも掲載され、順次ホーム・ページでも読めるようになっています。
ただ、半分ほど掲載した時点で掲載を依頼されなくなったこともあり、掲載を止めいずれ終了した時点で画像付きで全てをネット上に残すことにしています。
この作業は一応の終了を見たのですが、その後も新たな情報が入ることや、東日本の調査を行っていない事から、何れはどうにかしなければならないと考えているところです。
その天子宮が集中するのがこの葦北郡であり、その調査で芦北町佐敷町のフィールド・ワークを行っていたころ同町の佐敷神社の境内に奇妙な観客席があることに気付きました。
コンクリート・ブロックが多くなってはいるのですが、昔は板石で組あげられたとしか考えられない四角い升席が境内全域に数多く設らえられていたのでした。
現在は冬場のためか手入れはされていないのですが、春からは草が払われ立派な桟敷席が一杯見えることになるはずです。
大相撲の桟敷席とはこの熊本県芦北町佐敷町の佐敷に端を発していたのではないかと考えたのです。
地元の方に話を聴くと、“この芦北一帯は昔から相撲が盛んだった。特に佐敷の諏訪神社で行われる全国相撲大会は有名で、往時には全国津々浦々から多くの力士が参加して大相撲大会が行われていた”というのです。
芦北町と言えば佐敷の岩永醤油がつとに有名ですが、全国航路の廻船の寄稿地の天草の牛深は目と鼻の先でもあり、佐敷港から運ばれた醤油と共に相撲の案内も届けられたのかも知れません。
ともあれ、大相撲の桟敷席がなぜ「桟敷席」と呼ばれるかについて定説がない中では、全国規模の相撲大会が古来行われて来た芦北町佐敷諏訪神社の「桟敷席」の存在は非常に興味深いものでした。




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「日本書紀」に、第11垂仁天皇の時に出雲の野見宿禰(ノミノスクネ)と大和の当麻村の当麻蹶速(タイマノケハヤ)とが相撲を取り、ノミノスクネがタイマノケハヤを蹴り肋骨を折りなどして踏みくだき殺すという非常に乱暴な話が残されています。

その褒美として野見宿禰は天皇から当麻蹶速の領地を与えられたと書かれており、これが相撲の始まりとされているのです。

さて、あまり知られてはいませんが、この芦北地方は隼人塚として知られる地下式横穴墓の北限に近いところであり、この佐敷諏訪神社の直ぐ近くの神社の境内地にもその一部が保存されています。

また、俗に景行天皇の熊襲征伐と言われる「九州巡行」の地とされ、さらには、「万葉集」に長田王の歌とされる二首の「野坂浦」の歌の候補地の一つとされている土地でもあるのです。

してみると、一般的に出雲系とか言われ大国主命の子とされる建御名方(ここでは話が複雑になるので致しませんが、百嶋神社考古学では建御名方を大国主命の子とも大国主そのものも出雲系ともしません…急がれる方は、blog「ひぼろぎ逍遥」跡宮などから関係個所をお読みください)が、出雲から野見宿禰を呼びよせて戦わせたところ見事に野見宿禰が勝利しとあるように、野見宿禰が当麻蹶速と闘って蹴殺した地であり、相撲発祥の地がこの佐敷諏訪神社一帯だったとしてもおかしくはないどころか非常にぴったりした話になるのです。何故ならば、九州王朝論者としては、片田舎の奈良が相撲発祥の舞台(恐らく複数の異民族の衝突融合)のはずはないからです。




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もしかしたら、野見宿禰が闘った当麻蹶速とは地下式横穴墓を残した熊襲系の人だったのかもしれません。
そして、その相撲大会を企画したのも、海士族、安曇族の頭目、博多の櫛田神社の神様である大幡主だったと考えています。実は大国主はトルコ系(匈奴)である大山祇の子であり、民族も異なる大幡主(白族)の傘下に入ることが許されたことから「主」という尊称を許されていたのです。これについては長くなるため別稿とさせて頂きます。トルコ系民族は相撲(レスリング)を得意にしていることから、佐敷諏訪神社が大国主の流れなら話は早いのですが、そう簡単ではないのです。
ともあれ、野見宿禰が勝ったことを記念してか、以後、千数百年来、相撲大会が行われ、それを主宰してきたのが志賀島の海士族だったのではないかとのまでは想像が及ぶのでが、ここでは、大相撲の「桟敷席」の語源について一つの作業仮説として提出して留めておきたいと思います。
なお、この桟敷席=芦北桟敷諏訪神社起源説については、2014年9月30日出版の「熊襲は列島を席巻していた」ミネルヴァ書房刊 内倉武久(元朝日新聞記者)にも一部掲載されています。
先月、えびの市で発見された未盗掘の地下式横穴墓を見るため内倉先生とご一緒した際にも、もう一人の同行者に現地を見せるために三人で再訪したのですが、当の内倉先生は “桟敷席の起源がこの地である可能性”をアドバイスしていたのが私であった事を既にお忘れになっていました(数年前の同行時にはメモも取られていたのですが)。
いつの間にか自分が気付いたものと思い込んでおられた訳です。勿論それは共同研究であり、先行して公表するものから順次記録を残して行けば良いだけの事ですが(アルツハイマーの初期かも知れないと心配しています)、今回、神社研究の立場から多少考えが纏まってきた思いがしています。
単に明治以後成立しただけかも知れない「桟敷席」の語源をこの地に求めたとしただけでは深みのない話になりかねないですから。




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