スポット020 阿蘇の野焼きはいつから誰の手によって始められたのか?(前編)
20150501
久留米地名研究会 古川 清久
以前、スポット008 久留米地名研究会日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所から見る春の胎動 primavera
20150309
において、阿蘇の野焼きを取り上げました。以下、まず、その一部…を掲載します。
さて、次をご覧ください。これは約一月後、3月9日の阿蘇の一角を写したものですが、一見して山火事(野火)ですが、有名な阿蘇外輪山の野焼きです。
これは春の始りを告げるもので、阿蘇外輪山に連なる日田市の五馬高原でも同時に春がはじまるのです。
次もなかなかお目に掛からない阿蘇外輪山北壁の写真ですが、今まさに火の帯が外輪山の内側に(右から左に)進もうとしているもので、これも春の訪れを告げる狼煙と言えそうです。
これを、何故、再び持ち出したのかと言うと、熊本県内にお住まいのある高名な医学博士から、非公式ながら「阿蘇の草原はいつから始ったのか?」「どのような人達がはじめたのか?」と言った趣旨の問い合わせが寄せられたからでした。
まだ、詳しくは申上げませんが、その方とは、「砷地巡歴 水俣-土呂久-キャットゴーン」熊本出版文化会館刊 2013年8月10日)を世に問われた堀田宣之先生です。
熊本市西区二本木3丁目1-28 熊本出版文化会館(℡096-354-8201)刊
頒価2800円
大家の風の大学病院の奥御医師(オコウイシ)を好まず、町医者、良医を由とするのが古川定石ですが、近年亡くなられた水俣病の原田正純先生とも一緒に活動されていたようです。
原田先生とは福岡市でご一緒した事もあり、その時の事をついつい思い出してしまいました。
全世界的な砒素中毒に関するこの本とその内容の重大さについての話は別稿としますが、ご依頼のあった件については既に菊池(川流域)地名研究会でも議論になった事でもあり、まずは、叩き台として試の仮説を出しておきたいと考えています。
そもそも堀田宣之博士が「阿蘇の原野の起源」を世に問われた理由は、熊本県内の河川の危機、ひいては日本全体の河川の問題を意識されての事 だったのですが、菊池(川流域)地名研究会の中原 英先生の古代湖「茂賀浦」研究を知り、また、拙著「有明海異変」(不知火書房)の第4章 税金のダム遣い、第5章 高級すぎる源流問題 を先行して読まれていたからだったようです。
まだ、お手紙だけの関係ですから軽々にはご紹介できないのですが、阿蘇の草原の存在そのものを由とすべきであるのかという問題も含め、農業 そのものも自然環境の破壊の一つである事は否定できず、深部には人間の生産活動全般が反映しているという要素が隠れているような気がしています。
ただし、それがドクトル堀田の関心事なのかは、なお、不明です。
元より、阿蘇の草原は何時から開かれたかをはっきりと書き留めた古文書などあるはずもなく、野焼きが行われた考古学的痕跡や遺跡なども確認しようはないでしょう。
ただ、古文書から阿蘇の古代の一端と多少の推定ができるだけなのです。
しかし、植物学者の目からは見れば、阿蘇の植生がどのように入れ替わってきたかは大きな単位では分かるのかも知れません。
前述の、スポット008久留米地名研究会日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所から見る春の胎動primavera20150309の最後には以下の様に書いていました。
最近は少し減った気はするのですが、ひところ女子大生やOLといった方達が阿蘇にくると決まって「雄大な阿蘇の大自然…」といったステロタイプ(stereotype)の表現で写真を撮り廻る風景があるのですが、阿蘇程度の緯度と 標高では、火山活動さえ拡大しない限り、放って置きさえすれば百年を待たずして巨大な森林が復活するのであって、古くは阿蘇国造神社、阿蘇神社の号令の 下、この時期に野焼きが行われ続けて来たからこそ大規模な草原が維持されるのであって、自然に対して人為的に干渉し複林を防ぐ言わば環境破壊が続けられて いるからこそ大規模な草地が成立しているのです。そして、その背後に焼き子の営々たる作業が存在している事には頭が向かないのです。
もし、阿蘇国造神社と阿蘇神社の号令のもと野焼きが行われてきたとすると、彼らの出自を探れば、阿蘇の野焼きの起源は自ずと分かるのではないかと思うものです。
まず、「日本書紀」景行紀には、“天皇は九州各地を経て阿蘇の国にやって来たが、野は広く人家が見えなかった。天皇がこの国に人はいるのかと尋ねたところ、阿蘇都彦(アソツヒコ)、阿蘇都媛(アソツヒメ)の二神が出てきて私達二人がいます…”といった話があります。
これが直ちに阿蘇では、当時(学会通説派も景行は九州を制圧したと喜んで、この辺りから勝手に実在としているようですが…)から原野(自然の草原かも)が広がっていた可能姓を考えられそうです。
また、阿蘇の旧一の宮町「一の宮町史 草原と人々の営み」(大滝典雄著)には
法律「延喜式」第二十八巻(兵部軍事関係の項)に阿蘇の牧野に関して記述が見られる。
延喜式では、肥後の国の「二重馬牧(ふたえのうままき)」と「波良馬牧(はらのうままき)」という、阿蘇郡内と推定される地名が記載されたあとに、「肥後 の国の二重牧の馬は、もし他の群より優れた馬があれば都に進上し、他は大宰府の兵馬及び肥後国その他の国の駅馬として常備するように。(意訳)」と記され ている。このことから、当時阿蘇では優れた馬を生産する牧(原野)があり、その名が中央政権まで知られていたと判断できる。
まず、本来、森林地帯であり(あった)はずの土地を、労力を加えて伐開しながら、敢えて耕地とはせずに草地とするのは牛馬の放牧のためとしか考えようがありません。
勿論、最初の初形は火山爆発による山火事や降灰によって自然発生的に成立した草地を復林させずに火を入れ続け、結果、草地を維持し広げるものだっただろうことは容易に想像が付きます。
さらに言えば、通作距離から考えると、焼き畑の延長上に現在の阿蘇の大草原が成立したとは考えられず、乱暴ではありますが、人為的火入れによって冬場に山火事を起こして草地を造っていたのではないかと考えています。
ただし、例え、自然発生的に成立した草原であっても火を入れ続けない限り、森林が再生するのは明らかであり、最低でも千数百年、もしかしたら二千年という単位で火が入れられ続けているのかも知れません。
では、放牧のためとした場合、その必要は何に由来したものでしょうか?
農 耕用牛馬、軍馬、食肉用牛馬、乳牛の生産しか考えようがありませんが(牧羊は温暖地のため、元々存在しなかった)、現在の放牧は食肉用の阿蘇の赤牛(肥後 牛)生産が中心であり、実際には放牧もされますが、サシの入った高級和牛肉の生産のためには、牛舎に入れ栄養価の高い配合飼料が使われる事から、現実的に は、採草地として配合飼料の補助的な飼料栽培が行なわれているものと理解しています。
採草地を必要とされるようになるのは、牛馬の生産が組織的に要求されたからとは考えられますが、農耕用に牛馬が利用されるようになったためか、それとも、騎馬を中核とする軍事(武装)集団が登場したからのどちらかでしょう。
荷 駄搬送用も含め、遠距離輸送用や農耕用の牛馬はそれほどまとまった大量の数が必要とされたとは考えられず、半世紀前でも農村では普通に繁殖(交配)がされ ていたことから、組織だった草地の維持は、やはり軍事目的の騎馬生産が行われるようになって以降の話ではないかと思うものです。
ほんの五十年前までの日本でも牛馬による耕作は普通に見られる風景でした。
テーラー(もうご存知でない方が多いと思いますが米国テーラー社製の耕運機が起源)が村にやって来ると、牛馬による耕耘は十年ほどで消え、馬小屋や牛小屋はテーラー社製の耕耘機置き場に替わってしまいました。
農業史関係の資料を読むと、荘園制下では既に牛馬による犁耕が始まっていたとされますが、江戸時代においてさえも、牛馬や鋤、馬鍬を所持しているのは大百姓(高持ち百姓)に限られていたとされており隅々まで行き渡っていたと言うほどの物でもないようです。
そこまで考えて来ると、現在でも牧神社や牧地名が熊本県内にも散見されます(宇土の馬門地区など)。これらが荘園時代やそれ以前にまで遡るものなのか、藩政時代のものなのかは中々判別が付きません。
現在でも、騎馬戦を彷彿とさせる福島県の相馬野馬追や南部藩のそれは有名です。
史上、騎馬を最も巧みに使用したのは、将平の乱や源平合戦に象徴される関東武士団であり、甲州騎馬軍団に象徴される戦国武士団だったことはどなたもご存知のとおりです。
ただ、九州でも騎馬が組織的に生産されていた事についてはあまり知られていません。
「平家物語」に登場する名馬と言えば、宇治川の先陣争いの佐々木高綱が乗る池月(イケヅキ)と梶原景季が乗る(スルスミ)が有名ですが、名馬「池月」は薩摩半島の池田湖周辺で生産されていたという伝説があります。
その真偽のほどは置くとしても、日向の国は古代からかなりの馬を組織的に生産していたという話があるのです。
これはネットでも検索できますので試みて下さい。他にも薩摩、大隅でもこの手の話は拾えるのです。
肥後の場合でも軍馬の生産は行われていたと見る方が正しいと思うものです。
ただし、戦国期、南北朝期と言わず、肥後は絶えず争乱の中心にあった訳で、自国の生産で間に合わない部分が日向、大隅、薩摩で補う形になっていたのかもしれません。
この程度の事までは言えそうですが、纏まった研究を知りませんのでご存知の方はお教え願いたいと思います。
組織だった軍馬生産の必要性は騎馬戦の発生にあります。
一人の騎兵が一頭の馬を操っている様にお考えかもしれませんが、モンゴル軍は一人の騎兵が交代用の馬も含めて五頭程度の馬を常備して絶えず最高の戦闘能力、機動力を維持していたと言われます。
従って、千人の騎兵隊を維持するためには最低でも五千頭の軍馬が必要になってくる訳です。
その飼葉、水、塩…の調達だけでも相当の兵站が要求されるはずであり、圧倒的な騎兵隊を維持するためには広大な草地が必要になることがお分かり頂けたことと思います。
そこで阿蘇を考えると、透水性の土壌のために水田稲作に不適であるため通常の農耕民との衝突もなく火山性の噴出物が大量に存在する阿蘇は、方々に大量のミネラル塩や水と草が調達できることから、まずは最適の放牧地となる条件を持った土地だったのです。
ここまで見てきて、ようやく阿蘇の野焼きを考える条件は整ったように見えます。
もしも思考の冒険を許されるならば
以前から気になっていた事に納豆に対する嗜好が東西、南北に分裂している事があります。
水戸納豆に象徴される関東以北の納豆文化に対して、九州でも肥後以南に納豆を好む傾向が強く認められます。これは焼酎に対する嗜好とも対応するため、民俗学上は非常に興味深いテーマです。
また、前者は当然ながら照葉樹林文化ですからこ、れとは全く対応しないと思うのですが、馬肉(特に馬刺し)を食べる傾向が、肥後と中部山岳地帯の甲斐、信濃一帯(一部東北地方)に認められます。
この「馬刺し」に対する著しい嗜好の東西分裂には何らかの関連があるのではないかと以前から考えてきました。
馬を食べると言う習慣は、朝鮮半島南半部にはないようですが、モンゴル人からモンゴル西部のカザフ人に広く見とめられ、ヨーロッパでもフランス、ベルギー、ポーランド、 ドイツ、イタリア、ブルガリア… と昔から盛んです。
問題は生食についてです。朝鮮のユッケ(恐らく馬肉はないと思いますが…)はともかく、タタールスタンのタルタル・ステーキ(牛、馬)は良く知られています。
トルコ系匈奴(シュンヌ)(フン族)がタルタル(ギリシャ語のタルタロス)人と同一視されたことは有名です。
この文化が、肥後、信濃、甲斐、東北地方に分布している馬の生食と関係があるように思えるのですが、その理由は、当然にもそのトルコ系匈奴は一世紀頃分裂し、その一部が半島経由で日本に入っているのではないかと考えているからです。
ここまで踏み込むと、既に「ひぼろぎ逍遥」のバック・ナンバーを読まれている方は思い当たられる事があるでしょう。
阿蘇の草部吉見神社の祭神のカミヤイミミ、ヒコヤイミミの流れを汲む阿蘇氏の一族(黎族)は、中国の雲南省の麗江からメコン川(瀾滄江)を 降ってサイゴンのデルタから海路北上し海南島に入り、そこから天草芦北経由で阿蘇に入っていること、また、博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の一族(実 はヘブライ系白族=ペイツー)は雲南省の省都昆明からファン河(紅河)を降り、ハノイ(ハロン湾)に出て正面の海南島に集結し、同じく肥後に入っている事を書いています。