スポット020 阿蘇の野焼きはいつから誰の手によって始められたのか?(後編)
「ひぼろぎ逍遥」 033 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? 支 那
「ひぼろぎ逍遥」 194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?
肥後に入った阿蘇氏=多氏=耳族=黎族=支那族、同じく肥後から博多湾岸に移動した白族(彼らが白川=白水地名を残す)に後れて、彼らとは別に半島経由でモ ンゴル高原からトルコ系の人々が大量に入って来ていることを百嶋由一郎氏は語っていますが、この話をすると全く荒唐無稽な話として排撃されてしま
います。
志々岐神社境内に鎮座まします大国主命
そ のことは十分理解できるのですが、私達、百嶋神社考古学を追求する者としては、百嶋先生から “天御中主(白山姫)を妃としたウマシアシカビヒコチ(金 越智)はトルコ系(匈奴)の一族で、二世紀前後に金海伽耶から大量に入って来ている。”“その子が大山祇(月読命)であり、瀛氏の一族の埴安姫との間に大 国主命が産まれている。”“従って大国主命は一応トルコ系匈奴の流れを汲むものである”…といった話を何度も聴かされており、その事によって、鹿児島の桜 島の正面に何故月読命が祀られているのか、薩摩の吹上浜や福岡県の旧夜須町、岡垣町に、さらには、熊本県熊本市の西里…にあれほど立派な大己貴神神社が存在しているのかが理解でき、日向国一の宮の祭神が何故大国主命されているかも納得できるのです。
このことに気付いたのは、出雲神話など全く関係の無い熊本県山鹿市志々岐の志々岐阿蘇神社に大国主命の大きな石塔が立てられている事を本気で考え始めた事が切っ掛けでした。
どうも、肥後から薩摩、大隅、日向に掛けて騎馬を使う集団(民族)が大量に入っているのではないか?
そ して、どうもそれが卑弥呼の女王国連合国家群と対立した狗奴国と重なり、停戦協定の中で、出 雲、伊予へと国変えが行われた結果が、神話に言う出雲の国譲りであり、大国主の出雲=出雲大社(実は大幡主の管理下)、大山祗の伊予=大三島神社(ここも 大幡主の管理下)だったように見えるのです。
出雲神話の国譲りの中心的舞台は実は九州であり、政治的に敗北した大国主が所替えにより移動した場所が現出雲なのです。
これについては現在の最大の関心事であり、内倉武久氏による新著「熊襲は列島を席巻していた」(ミネルヴァ書房)とも実は重なっているのではないかと考えているところです。
地 図は現海南省の南の一角ですが、中国の海南島には今でも多くの黎族が住んでいます。この人々は阿蘇の人々の一部(と言ってもかなりの部分を占めますが)と 同族と考えています。この地図に加茂地名があるのですが、豊玉彦=ヤタガラスの本拠地である下賀茂神社の賀茂と重なるのはヤタガラスの父にあたる大幡主、 その父の白川伯王家の故地と考えているところでもあるのです。
こ こから先は、限られた僅かな数の、しかも小さなピースで立体的な弥生式土器を復元しているような話であり何の意味も無いとお考えの方は無視されて一向に構 いません。しかし、その方に改めてお尋ねしたいのです。阿蘇の草原は何時から開かれ、鎌倉から室町末期の騎馬軍団は如何に登場したのかと。
四ツ目紋から見る試論
武田信玄と言えば甲州騎馬軍団が頭に浮かびますが、彼らの家紋(表紋)は四菱です。
ただし、それは簡略化されたもので、本来は四ツ目菱だったのではないか?少なくとも一部には四ツ目菱紋を使う人々がいたのではないかと考えられます。多くの例がありますが、幾つかご紹介しましょう。
武田鉄矢さんの武田姓は母イクさんの苗字です。
父親の嘉元さんは婿養子で、旧姓は村上。イクさんの父親は計早蔵(けさぞう)といい、その父親は喜十郎。喜十郎は鉄矢さんのひいおじいさ んにあたりますが、熊本県阿蘇郡南小国町中原(なかばる)樋ノ口で区長や南小国村村会議員をしていた大地主でした。ところが喜十郎が昭和2年(1927) に死亡すると、一人息子の計早蔵は先物取引で失敗し、瞬く間に破産してしまい、妻ヒロとも離婚。失踪してしまいました。一家が離散したため長女のイク(鉄 矢さんの母)は博多の親戚の家に預けられてしまいます。
この樋ノ口の武田家。
第56代清和天皇(850-881)の流れをくむ清和源氏武田氏族の一族で、鎌倉時代(1185-1333)に甲斐国(山梨県)からやって来たといわれていますが、具体的なことは分かっていません。
『姓 氏家系大辞典』によれば、武田信義の四男兵衛尉(ひょうえのじょう)有義の二男為太郎信盛の流れが五島列島(長崎県五島市)に移り住んで、福江藩主五島氏 になったとありますから、もしかすると樋ノ口の武田家もこの一族と関係があるかも知れませんが、距離的にかなり遠いのでなんともいえません。
い ずれにしても樋ノ口の武田家のご先祖をさかのぼるためには、まずは武田一族の菩提寺で過去帳を調べること。そして墓石の戒名や没年月日・俗名を調べるこ と。さらに熊本県立図書館などにある『小国郷史』『続小国郷史』のような郷土誌を丹念に読んでみる必要があるでしょう。
テレビに映った武田喜 十郎の紋付は「丸に四つ目菱」。一方、樋ノ口の蔵に付けられていた家紋は「武田菱」 でした。喜十郎の使っていた四つ目菱は武田菱をアレンジしたものでしょうが、通常、家紋を変化させるのは分家です。喜十 郎は所有していた財産から考えて樋ノ口武田一族の本家筋と想像されますので、その喜十郎家が武田菱ではなく、四つ目菱を使っていたということが、いまいち 腑におちません。とはいえ家ごとの家紋の変遷はまさに千差万別で、とてもひとつの法則ではくくりきれませんので、本家が四つ目菱を使っていても不思議とい うほどのことはありません。
鉄矢さんは現在、「丸に割り菱」を使っているといわれていますが、武田菱と割り菱は変化が微妙で区別しづらいため、実際は「武田菱」を使っているのに、「割り菱」と喧伝されているのかも知れません。
もうひとつ鉄矢さんの家系で気になるのは、北里柴三郎とつながりがあるという噂です。細菌学者の北里柴三郎男爵は阿蘇郡小国町の出身で、武田家の南小国町 とは隣町です。両家のつながりについて詳しいことは分かっていませんが、喜十郎の妻か計早蔵の妻ヒロが北里家の縁者なのかも知れません。このへんのことは 武田家の除籍謄本を取り寄せればはっきりするでしょう。
なお北里家は小国町北里から発祥した家で武田家と同じく清和源氏の末裔と称しています。戦国時代は阿蘇氏や大友氏に従い、江戸時代になると加藤家臣をへて熊本藩細川氏から惣庄屋に任命されました。柴三郎の家はその分家筋にあたります。
緒方洪庵や佐久間象山らから洋学などを学び、箱館戦争の舞台として知られる洋式城郭「五稜郭」を設計・建設した。明治7年(1874年)3月、陸軍大佐[1]。 陸軍大学校教授、陸軍士官学校教授、陸軍幼年学校長(初代)。
文 政10年(1827年)、伊予大洲藩士・武田敬忠の次男として伊予国喜多郡中村(現在の愛媛県大洲市)にて誕生。先祖は甲斐武田氏の出で、大洲藩加藤氏に 仕えたが、名をはばかって江戸時代は竹田姓を名乗っていたこともある。家紋は四つ目菱(甲斐武田の本家は四つ菱)である。
ウィキペディア20150504 7:03
四面神から見る試論
まず、「古事記」に「次生筑紫島此島亦身一而有面四面毎有名故筑紫国謂白日別豊国言豊日別肥国言建日向日豊久士比泥別熊曾国言建日別」とあります。
古事記の島々の生成説話に、伊耶那岐命、伊耶那美命の国生み譚では、淡路島、四国、隠岐の島の次に九州島を生んだとある。面四つあるとし、筑紫を白日別、豊の国を豐日別、肥の国を建日向日豊土比泥別、
熊曾の国を建日別と言うとある。 筑紫の国魂であるとされる由縁である。 「神奈備」より
遠く甲斐源氏、武田信玄のルーツではないかと考えている神社が島原半島全域にあります。
それが、島原市有明町の温泉(ウンゼン)神社=四面神社(長崎県島原市有明町大三東<オオミサキ>丁531番)他…この一群の神社の神紋が四ツ目菱なのです。
島原半島全域で見られる、四面信仰の末社の一つ旧三会村の三会神社。旧格付けでは、村社であったろうから、村の名前を冠して呼んでいるのだろうが、実際は温泉神社の末社。額束や神額にも「温泉神社」と記されている。
四面信仰の中心となる雲仙の温泉神社は、現在でこそ温泉街に隠れているが、山岳信仰時代は、島原半島内の中心的神社で、女人禁制の霊山であり、また男であっても、簡単に参詣にいける場所ではないので、雲仙の麓に数多くの末社が祀られた。
島原鉄道の線路を挟んで、海から入る一の鳥居。
【祭神】
白日別命、豊日別命、向日豊久士比泥別命、建日別命、速日別命
東側に面した二の鳥居。
【創建】
旧四面宮の創建は、みな神亀5(728)年といわれる。創建当時は、礼拝所程度のものだったかもしれない。
ネット上の「三会神社(島原市三会町)」による
ここでは、何故面四ツ、四神が面五ツ、五神となっているかは不明。
いずれにせよ、四ツ目紋を使う一族が甲州、信州と島原半島に展開している事は見当がつかれたのではないでしょうか。
この四面神こそ高御産巣日神=高木大神(島原半島は南高来郡、諫早などは北高来郡)であり、天孫族が九州に入って来る以前に阿蘇から高千穂=三田井(南北を含む)高来郡一帯を支配していた先住神であったと考えられるのです。
阿 蘇の草部吉見神社が、何故、草部と称 していたかは朝鮮半島の伽耶と九州の大半を制圧していた高木大神の一族への入り婿として傘下に入った事をもって伽耶部=茅部=草部と称したのであり、鹿児 島県の甑島から旧溝部町に基盤を置いていた土俗宗教がカヤカベ教と呼ばれた事も同様に伽耶の高木大神の領域であった痕跡なのです。
ここまで見て来た上で、これまで百嶋先生が言われていた内容から想像を広げると、主として阿蘇高森の草部吉見=海幸彦に象徴される阿蘇系騎馬軍団と山幸彦に象徴される新羅系氏族、それに、新たに加わってきた大 山祇神とその子大国主に象徴されるトルコ系騎馬集団が九州の熊本以南に入り狗奴国と呼ばれ、その戦後処理=国譲りによって、大山祇系は愛媛に大国主系は出 雲に、他の領域の大半は博多の櫛田神社の大幡主の領域へと変わり、さらに崇神天皇が行ったとされる九州王朝の四道将軍の派遣による展開と、最終的には九州 王朝が白村江の闘いによって亡んで以降の避退、逃散によって、その戦闘集団の多くが、山陰から但馬へと展開し、さらに甲州、信州に展開して行ったように見 えるのです。
いずれにせよ海士族中心に論ぜられる倭人の古代国家ですが、後には陸戦を得意とする匈奴(トルコ)系氏族の流入を考えざるを得ないのであり、彼らによって騎馬戦が持ち込まれたと考えるのです。
四、伝説
(1)神大野宿禰に関する伝説
此れは肥前風土記に関係ある伝説である。乃ち景行天皇が肥後の長渚浜の行宮におはしまして、我が雲仙岳をお望みになり、彼の山は島の様だが陸に続いた山か、或は島であらうかとお尋ねになったけれども誰も知るものがない。そこで神大野宿禰に詔して見に遣はされた、と言ふのが風土記の記事である。
然るに此の大野宿禰の乗った船が果して何処に着いて上陸 したか、と言ふのが此の伝説である。それは長渚浜の真正面で最も近距離にある大三東村の大野であると言ふのである。大野は明治二十二年までは大野村といふ 一村であった。此の大野といふ地名も即ち大野宿禰から出たのだと言ひ伝へてゐる。風土記の記事が真実であるならば、当さにさもあるべき、極めて自然的な伝 説と言ふことが出来よう。
『島原半島史』 林 銃吉 編
HP「仮称リアス式」による