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249 山陰土産 ⑫ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “柿木村の奇鹿神社とは何か”

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249 山陰土産 ⑫ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “柿木村の奇鹿神社とは何か”

20150904

久留米地名研究会 古川 清久


 柿木村には大山祇神社と並んで、奇鹿神社という気になる神社が二社確認できます。

写真左が木部谷の奇鹿神社、右が七日市の奇鹿神社です。

 島根県神社庁の資料によれは、七日市の同社は祭神を天児屋根命としますが、岐部谷のそれは不明とされています。

が多少思い当たることがあるので取上げる事にしました。

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七日市の奇鹿神社が祭神を天児屋根命としているのは、天児屋根が春日大神と同一視され、中臣連の祖神であり藤原氏氏神として信仰されたことから、帰順の結果受け容れた神と考えるのが順当で、そのまま真に受けることはできないでしょう。

ここでは無理な判断を止め、このような神社が存在する事を確認するに留め、今後の二次、三次の調査に待ちたいと思います。さて、地元には立派な研究者がおられるようで、


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というサイトがあります。

 全文は直接見られるとして、勝手ながら一部を引用させて頂きます。


要約すると、文武天皇(西暦697年~西暦707年)の頃、現在の福岡県あたりに悪鹿が出現。奇形で八足角は八つに分かれていた。この鹿の毛は赤く30㎝ほどもあったという。口は穀物を入れたり選別に使用する箕(み)のようだと言う。天を駆け地を走り鶏(鳥?)、動物を食い(鹿は草食のはず?)、人をも殺したと言う。そのため農作業もできなかった。天皇の命により江熊太郎がこの猛獣退治を始めた。

猛獣は追跡を逃れ小倉から山口県に逃げ、さらに鹿野を通りこの地に入り、大岡山の麓三つ岩に留まった。
江熊太郎は立戸の金五郎岩まで迫り毒矢を放った。悪鹿に矢が当たるとその本性を現し、江熊めがけて襲いかかってきたのを二の矢で射止めた。
 するとにわかに霧が立ちこめ天地が震動した。この悪機に触れ江熊太郎はその場に倒れ死んだ。
役所に報告し悪鹿の遺骸は引き出され、今の月和田に運ばれその形態を写生し解体した。その解体した場所を「骸崩」(からだくずし)と言い、解体するのに柚の木に引っかけて解体したので、以来、柚の木は育たないという。(大明神記には悪鹿は月和田まで逃げそこで絶命したともある)

 江熊太郎は荒神明神として祀られ鹿の霊も立戸の田んぼの中に大明神として祀られた。
悪鹿のたたりを恐れ良い鹿、良を吉とし鹿を賀(めでたい出来事祝う意味)にあらため「吉賀」とし、この地方の名前となった。

 

これ以外にも所謂「悪鹿伝説」に関しては多くの話しがネット上でも拾えますので試みて頂きたいのですが、柿木村一帯は古代から秘境中の秘境であったはずで、多くの政争に敗散した善良な人々が何派にも亘って入って来たものと考えられます。

それを受け容れるだけの広い領域が残され生きて行くことが可能だった桃源境が柿木だったのでしょう。

奇鹿神社の祭神に見当が着いた訳ではないのですが、他のサイトも含め、「柿木あれこれ」氏も奇鹿神社は明治まで鹿大明神と呼ばれていたとのことですので、まずは北部九州を中心とした海人族の一派が七世紀初頭前後に入って来た可能姓を否定できません。

博多湾沖に浮かぶ志賀島を中心とする安曇族が「シカ」「アズミ」「アド」(滋賀、鹿町、安曇野、安土、安曇川、熱海、渥美…)と言った地名と関係があることは古来多くの論者が述べてきたところです。



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HP「柿木あれこれ」より


また、これは当研究会のメンバーである 吉田宮司が言われている事ですが、古代の海洋民にとっては鹿角(骨ではなく爪と同じ弾力のあるタンパク質の塊)は黒曜石を効率良く応圧剥離し破片を取るの に必要なものであり、同時に、鹿角を加工するためにも黒曜石が必要なため、その黒曜石の採取者、運搬者、交易者として海人が大きな役割を果たしていたとす るのです。

このため、本州の黒曜石の産地である長野県の和田峠に和田(綿津見のワダ)が付されており、現在も志賀島の志賀海神社には鹿角堂(倉庫)が置かれている…。というのです。

ここでは、鹿大明神を奉祭したのは海人族の末裔の可能性があるまでは言えそうです。

問題は「奇」とされた意味ですが、卑字の可能性もあり、好字の可能性もあり今のところは判断が着きません。

 我々九州王朝論者にとって、“文武天皇の七世紀前後に海人の侵入があった”とすれば、それは、九州王朝の敗北と、近畿大和朝廷による本格的九州制圧の時期だけに、続日本紀に言う、「山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、百日首(もう)さぬは、復(また)(つみな)ふこと初の如くせよ。」『続日本紀』元明天皇和銅元年(七〇八)正月条 に相当し、多くの避退者、抵抗者、落武者が発生した時期に対応しそうなのです。

ここで話しが変わりますが、一つの面白い現象に気付きます。

この吉賀町七日市の奇鹿神社の正面、隣には「朝倉」(朝倉折…)という地名があります。

実は、兵庫県の日本海側の但馬地方になりますが、城崎温泉で知られる豊岡市の南隣の養父市朝倉に「九鹿」(現在はクロクと読む)という地名があり、以前から気にしていました。

 既に、この朝倉地名については、「ひぼろぎ逍遥」144 「朝来」地名について ① “兵庫県朝来市の朝来山から”145 「朝来」地名について ② “但馬、朝倉、養父、志波” 146「朝来」地名について ③ “朝倉氏と小佐氏”において取り上げているように、熊本市の南(益城町)から福岡県朝倉市、兵庫県養父市朝倉を経由し戦国期の浅井、朝倉の朝倉氏の居城金ケ崎城(福井の「金ケ崎」地名も宗像大社に近い鐘ケ崎の地名移動)へと朝倉地名を運んだ一族が居た事を確認しています。

今回、この吉賀町の「朝倉」地名の存在を知った時、直ちに吉賀町が「朝倉」地名の移動の中間点である事に直ちに気付きました。

 その吉賀町に奇鹿神社を見出した時、養父市の九鹿地名の事が頭に過りました。

 そもそもこの「朝倉」地名を移動させた人々とは博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の一族である事を故百嶋由一郎先生から教えて頂いています。

 ただ、百嶋説によれば、造化神のイザナギ、イザナミのイザナミ命は、イザナギと短期間で別れた後、大幡主の妃となりヤタガラス=豊玉彦の母となっているのです。

 このため、一概に大幡主の一族と言っても、大幡主そのものの白族、金山彦の妹であるイザナミ(大幡主のお妃となり熊野夫須と名を変える)の流れの瀛氏の一族、豊玉彦=ヤタガラスの一族と、それぞれ氏族が異なる事が分かります。

熊野三山でも熊野夫須美命を祀るとする熊野那智大社は実はイザナミ命を祀る神社です。

 ちなみに、熊野速玉大社は速玉大神と熊野夫須美大神を主祭神としますが、大幡主とイザナミ命の夫婦神を祀る神社と考えられます。

熊野本宮大社ですが、実は前者の間に産まれた細石神社のイワナガヒメを祀る神社なのです。

 いずれ、熊野三山の解読に取り組みたいと考えています。

 そして、吉賀町朝倉にも那智神社があるのです。

ここで、但馬の朝倉をご紹介したいと思います。以下…。

…兵庫県の但馬地方に御井神社があります。

この但馬という地名も宗像大社の大字田島の地名移動であることは、まず、間違いないでしょう。

神額に式内「御井神社」と書かれています。ただ、この神社がある場所をお分かりになる方はまずいないのではないでしょうか。


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神額に式内「御井神社」と書かれています。ただ、この神社がある場所をお分かりになる方はまずいないのではないでしょうか。

兵庫県の日本海側、但馬の国は養父市大屋町という奥まった山村です。九州王朝の近江遷都が取り沙汰される中、但馬の御井神社が九州王朝と全く関係がないとは考え難いように思えます。

 そもそも、久留米市の目と鼻の先、佐賀県鳥栖市の中心部に養父町があり(明治には養父郡養父町)、現在でも旧三根、養父、基肄の三郡をもって成立した三養基郡が残っているのです。…

朝倉氏の出自が但馬の養父市に端を発し ていることは明らかなのですが、それに加えて、このような多くの地名対応が認められることから、この養父市の朝倉氏のさらなる起点を福岡県の朝倉市に求め たいと考えています。では、ここでは養父市の中心部に朝倉という字地名があり朝倉と言う交差点があることをお知らせして次回に繋ぎたいと思います。神社調 査は根気とフィールド・ワークの積み重ねなのです。


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朝来市から養父市への幹線道路の終点付近にこの交差点があります  養父市八鹿町朝倉

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