261 平安の歌人和泉式部は肥前國の杵島山で産まれ育った! ①
20151111
久留米地名研究会 古川 清久
四国の高良神社については、以前、愛媛と香川について現地を訪れご報告させて頂きましたが(「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」四国に高良神社を探る ①“しまなみ海道~中瀬戸自動車道 年末2(車中)泊3日の駆足調査旅行” 捷一号作戦 外5本)、今回も徳島と高知の五社の調査のため、メンバーで、元M県の学芸員でもあった某氏に同行をお願いし、4泊5日1600キロを走り抜くというハードな調査旅行を行い帰ってきました。
ようやく体の疲れも取れ、高良神社五社外のリポートを書こうとしていたところ、佐賀県のあるFM局から電話が入り、“肥前の国(佐賀県)の杵島周辺の和泉式部の生誕生育伝承”について話して貰えないかとの話が飛び込んできました。
2012年1月でしたが、久留米地名研究会は武雄温泉宿泊と併せ40人規模の新春トレッキングを行っています。
その現地探訪用の資料をそのまま久留米地名研究会のHPに31「杵島」というタイトルで掲載しているのですが、どうやらそれを読まれた同局のディレクターが関心を示されたようなのです。
これには、杵島山周辺の23ポイントをピック・アップしていました。
今回は、この中の和泉式部に関するお話です。
八艘帆ケ崎(百済聖明王一族の亡命避退地)~稲佐神社(いなさじんじゃ)
杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。
稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3(861)年8月24日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。
また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。
平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。
この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。
稲佐神社 〒849-1206 佐賀県杵島郡白石町大字辺田2925 0954-65-2177カーナビ検索入力用
ここには県道錦江~大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。
県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日 大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。
これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。
百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。
これは、その闘いの前の話なのでしょうか?それとも、一族の亡 命を意味するものなのでしょうか?また、火ノ君とは誰のことなのでしょうか。私には大和朝廷とは別の勢力に思えます。なお、聖明王は武寧王の子であり、武 寧王は先頃の天皇発言で話題になった桓武天皇の生母がこの武寧王の子孫とされているのです(続日本紀)。
八艘が崎の掲示↑ 八艘帆が崎(ハスポガサキ)当時の写真
このような場合に頼りになるのがHP「神奈備」です。孫引きになりますが紹介します。佐賀県神社誌(縣社 稲佐神社)から として …百済国の王子阿佐来朝し此の地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。…と、あります。
稲佐山畧縁記とありますが、掲示板の記述はこれによっても補強されます。
今後も調べたいと思いますが、これらに基づくものと思われます。
本来、「六国史」や「三大実録」あたりから日本書紀や三国史記を詳しく調べなければならないのでしょうが、当面、私の手には負えません。
少なくとも、この伝承は、杵島山の東側の山裾まで有明海が近接していたことを語っています。
和泉式部の生誕地白石町(旧錦江村) 福泉禅寺0954-65-4162カーナビ検索入力用
「万葉集」に「あられふる 杵島が岳を険(さか)しみと 草とりかねて 妹(いも)が手をとる」と詠われる杵島山では、かつて歌垣が行われていたと伝えられています。この地に揚子江流域から呉越の民、ビルマ、タイ系の人々が入ったことは疑いようがありません。
和泉式部は佐賀県白石町(旧錦江村)の福泉禅寺で生まれています。すぐそばには、百済の聖明王の一族が渡来(亡命)したとされる稲佐神社があります。式部は和泉守の橘 道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて和泉式部と呼ばれます。この道貞との間に小式部内侍が生まれます。夫とは後に離れますが、娘は母譲りの歌才を示しています。
皆さんご存知でしょうが、百済の王都は錦江(クムガン)にありましたね。稲佐神社に聖明治王の一族の亡命伝承があるとすれば、錦江村の錦江がクムガンと無関係とは思えないのです。もしかしたら、和泉式部も百済系渡来人の子孫かも知れないのです。
白石町の広域農道側に立てられた和泉式部生誕地の案内塔
和泉式部が育った塩田町
式部は杵島山を西に越えた嬉野市塩田町の大黒丸夫婦に9歳まで育てられ京都に登り参内します。
平安朝きっての歌人として名高い和泉式部は、佐賀県杵島の福泉寺に生れ、塩田郷の大黒丸夫婦にひきとられて9歳まで過ごしました。その後、式部は京の宮廷に召され、優れた才覚と美貌で波瀾に満ちた生涯を送ったと伝えられます。今でも嬉野市塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。「和泉式部公園」はこうしたロマンあふれる伝説の地に造られています(嬉野市のHPより)。 写真は和泉式部公園(嬉野市塩田町)
嬉野市(旧塩田町)五町田の和泉式部公園に置かれた式部像
時間の関係から、全てを廻る事はできませんでしたが、二日間で23ポイントの8割は周り、多くの皆さんが驚いておられました。
特に、平安歌人として有名この上ない和泉式部の生誕生育伝承地に関しては関心が高く、「こんなことが何故知られていないのだろう…」といった感想を口々に話されていた事が印象的でした。
トレッキングとして佐賀県を取上げたのは、この他にも淀姫神社と川上タケル佐賀の川上峡温泉の伝承地(これについては地名研HPから31「淀姫」ヨドヒメをご覧ください)があるのですが、やはり、紫式部、清少納言、赤染衛門と並ぶ四大女流歌人の一人である和泉式部への関心は、今尚、高いようです。
「天下の和泉式部が佐賀の片田舎の出身であった」はずがない? ① (錦江の論証)
問題は、それほどのインパクトのある話であるにも関わらず、何故、誰も知らないのか?という背景にあります。
確 かに、当の生誕地である現白石町(旧有明町)も、現嬉野市(旧塩田町)も大きな看板を掲げるなり(地元の農家しか通らない広域農道)、大規模な公園整備 (国道からは多少離れている)を行うなりそれなりの宣伝は行っているのですが、県レベルになると腰が引けているようで、大規模に幹線国道に宣伝するという 状況にはないのです。
も とより、日本の文化も風土も理解しない連中(ヨーロッパ不良貴族崩れ)に格付けをさせて肖ろうとする「世界遺産登録」ブームのように、そのような見苦しい 「町興し」、「村興し」運動に賛意を表するつもりもないのですが、なりふり構わず地域振興に狂奔する輩が、通常、このような好素材を利用しないはずがない のです。しかし、…… 普通は奇妙に思えるのですが、それには理由があるようです。
和泉式部の一般的な説明は省略しますが、まず、次をお読みください。
和泉式部
「越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい(母が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。」…中略…
佐賀県白石町/嬉野市 - 白石町の福泉禅寺で生誕し、嬉野市の大黒丸夫婦に育てられたとされる言い伝えがある。寺には故郷を偲んで詠んだとされる和歌の掛け軸が伝わっており、境内には歌碑と供養塔が建立されている。
「ウィキペディア」(20151111 19:45)による
平安時代のある朝、赤子の鳴き声で目を覚ました福泉禅寺の僧たちが周囲を探したところ、お堂の裏で白鹿が赤 ちゃんに乳をあげていた。そこに塩田(現在の嬉野市)から大黒丸という夫婦がやってきて、「私たち夫婦は子供がいないので、常々このお寺の薬師如来さまに 『どうぞ子供をお授けください』と祈願しておりました。するとゆうべ、『おまえたちの信心に応え、福泉寺に女の子を預けたので明日にでも寺に行き、つれて 帰るがよい』と薬師如来の夢のお告げがありましたので早速こちらへ参った次第です」と言った。大黒丸夫婦にもらわれていった女子はとてもかしこく美しく成 長し、縁あって宮廷に仕えることになった。それが後の和歌の名手和泉式部である。
福泉禅寺には和泉式部が故郷を忍んで詠んだという「故郷に帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらむ」という和歌の掛け軸が伝わっている。ただし、和歌の下に描かれていたという和泉式部の肖像は剥落してしまっている。
HP「九州物語」による
ネット上から「ウィキペディア」HP「九州物語」を見て頂きましたが、「越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。」とあるように、杵島の和泉式部伝承も通説では、片田舎の佐賀の杵島山で生まれたなどとは全く考えられていないのです。
当然ながら、身びいきの市町村レベルではともかくも、県以上(例えば教育庁文化課…)となると、学会通説に阿る傾向が強いため、畿内(京都)から遠く離れた佐賀の片田舎から和泉式部が出てきたなどとは全く考えない事が識者の条件とでも思っておられるようなのです。
これこそが、大々的にキャンペーンを張る歯止め(ブレーキ)になっているのであり、「邪馬台国九州説」や「九州王朝論」が排除されている事と通底しているのです。
では、実際はどうだったのでしょうか?
歴史は頻繁に偽装されますが、文学まではなかなか及ばない(お目こぼしにされます)ようです。
畿内でも式部の歌と認められている「“ふるさとに帰る衣の色くちて錦の浦やきしまなるらむ”」に言う「錦の浦」こそ、現白石町に編入された旧有明町の一部であった旧錦江村だったのです。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制度施行により、深浦村と坂田村が合併して竜王村になった。辺田村と田野上村と戸ケ里村が合併して錦江村になった。牛屋村と横手村が合併して南有明村になった。
「有明町(佐賀県)「ウィキペディア」(20151111 19:45)による
それは、この地が錦江と呼ばれていたからであり、前述したとおり、杵島山はかつて島であり、欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるからですが(稲佐山畧縁記)、百済の王都の正面を流れる河=錦江(クンガム)に因んで付された地名だったと考えられるのです(有名な「白村江の敗戦」の故地とも考えられています)。
錦江(きんこう、クムガン)は大韓民国南西部の主要河川である。
「ウィキペディア」(20151111 19:45)
冒頭の八艘が崎の掲示板 「八艘帆が崎(ハスポガサキ)」をお読みになれば、六世紀、この地に百済の王族が亡命し、「錦江」の地名も持ちこんでいる事が見えて来るのです。
そう考えれば、「“ふるさとに帰る衣の色くちて錦の浦やきしまなるらむ”」の意味が見えて来るのです。