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262 平安の歌人和泉式部は肥前國の杵島山で産まれ育った! ②

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262 平安の歌人和泉式部は肥前國の杵島山で産まれ育った! ②

20151112

久留米地名研究会 古川 清久


「天下の和泉式部が佐賀の片田舎の出身であった」はずがない? ② (橘氏の論証)

 

もう一つ、和泉式部がこの地で生まれ育ち京都に参内したと考えられる根拠があります。

それは、橘氏に関する濃厚な伝承です。

 まず、参内した式部は和泉守の橘 道貞の妻となっています(後に不和となり分かれますが…)。

何故、学会通説が馬鹿にする片田舎の肥前から、ある時期は藤原氏と凄惨な闘いを繰り返していた中央貴族の橘一族に嫁ぐ事ができたのでしょうか?

それは、この杵島山一帯が橘一族の本願地(もしかしたら出身地)であり、「奈良麻呂の変」(天平15年=743年)以降も同一族が陰に陽に住み続けており、中央の残存橘氏と繋がる一族(本家筋)が居たと考えられるのです。

では、その痕跡があるのでしょうか?実はあるのです。

 現武雄市橘町(明治の橘村)は、古来、橘氏が住み続けてきたことから橘村とされています。

 この武雄市橘町には潮見神社があり、橘 諸兄は元より、その直系の末裔である橘 公業などが祀られています。


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潮見神社縁起


橘 諸兄


橘 諸兄(たちばな の もろえ、天武天皇13年(684年)- 天平勝宝9年1月6日(757年1月30日))は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)[1]で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。                    …中略…

和銅3年(710年)無位から従五位下に叙せられ、翌和銅4年(711年)馬寮監に任ぜられる。

元正朝では、霊亀3年(717年)従五位上、養老5年(721年)正五位下、養老7年(723年)正五位上と順調に昇進する。

神亀元年(724年)聖武天皇の即位後間もなく従四位下に叙せられる。神亀6年(729年)正四位下・左大弁に叙任され、天平3年(731年)諸官人の推挙により藤原宇合・麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ公卿に列す。天平4年(732年)従三位。天平8年(736年)弟の佐為王と共に母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗る。

天平9年(737年)4月から8月にかけて、天然痘の流行によって太政官の首班にあった右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去してしまい、9月には出仕できる主たる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなった。そこで朝廷では急遽、鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して応急的な体制を整えた。翌天平10年(738年)には諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍朝廷の中心的存在となる。これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉をブレーンとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになった。

天平12年(740年)8月に大宰少弐・藤原広嗣が、政権を批判した上で僧正・玄昉と右衛士督・下道真備を追放するよう上表を行う[2]。しかし実際には、国政を掌っていた諸兄への批判及び藤原氏による政権の回復を企図したものと想定される。9月に入り、広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと(藤原広嗣の乱)、10月末に聖武天皇は伊勢国に行幸する。さらに乱平定後も天皇は平城京に戻らず、12月になると橘諸兄が自らの本拠地(山城国綴喜郡井手)にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われた。

天平15年(743年)従一位・左大臣に叙任され、天平感宝元年(749年)にはついに正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。

しかし、同年孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の発言力が増すようになる。天平勝宝7年(755年)聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言され、翌天平勝宝8年(756年)辞職を申し出て引退する。

天平勝宝9年(757年)1月6日薨去。享年74。最終官位は前左大臣正一位。

諸兄の没後間もない同年5月に、息子の奈良麻呂は謀反(橘奈良麻呂の乱)を起こし獄死している。

ウィキペディア(20151112 1030による


① この橘一族は源 頼朝からその功績を認められ伊予(西条市にも橘村があった)に領地を得ますが、後に、望んで杵島山山裾のこの地に入ってきます。

何故、そうしたかと言えば、彼らはこの杵島山の地が故地であると知っていたからだと考えるのです。

② この武雄市橘町一帯には橘氏に関わる伝承が色濃く残されていますが、最も重要なものとしては、橘 諸兄が失脚した後の藤原氏との権力を巡る争いの中(多くの争いが続きますが、最大のものが奈良麻呂の変)で、その立太子(敗北後は廃太子)道祖王(フナドオウ)の墓が、今も橘小学校付近のおつぼ山神籠石の正面の墓地にひっそりと残されています。


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道祖王の墓


① この橘氏は安全のためか、公業、公勢の時代に本家を渋江、分家を牛島、中村として三家に分かれ、多くの末裔が、佐賀、熊本に広く居住しています(実際には四家だったようですが、一家は絶えているようです)。

② この本家(渋江家)は現在熊本県菊池市の「天地元水神社」の社家として熊本市にお住まいです。

このように、万葉の歌垣(カガイ)が行われていた時代からこの地に住み続けていた橘一族は、九州王朝滅亡後に中央に移動したのですが、諸兄失脚後も五月雨的に続く政争に敗れ徐々に力を落としていきます。

その後、鎌倉政権登場による武家の時代に復権し、一派は杵島山一帯に戻りしばらく繁栄を見るのですが、後藤氏(武雄市)との争いに敗れ、菊池氏の庇護の元連携しその中心を肥後に移したようです。

この一連の歴史の流れの中の一コマに、十世紀、本願地から中央に進出した橘氏に送り込まれたのが和泉式部だったと言えるのかも知れません。

奈良麻呂の変の廃太子道祖王の墓地

757(天平宝字元)年3月、孝謙天皇は、道祖王が喪中にも関わらず侍童と密通したとして、皇太子を廃太子にしました。 
 4月、孝謙天皇(25歳)は、新しい皇太子を公募しました。右大臣藤原豊成は、道祖王の兄である塩焼王を推薦しました。左大弁大伴古麻呂は、池田王(舎人親王の子)を推薦しました。
 藤原仲麻呂は、孝謙天皇が選ぶべきと進言しました。孝謙天皇は、不行跡の道祖王の兄である塩焼王は不適当でり(ママ)、池田王は親不孝であり、大炊王(舎人親王の子)は悪い噂を聞かないので皇太子に立てると提案し、群臣も賛同しました。
 大炊王は、藤原仲麻呂の長男である真従(早世)の未亡人粟田諸姉を妻としており、仲麻呂邸に同居していました。大炊王の立太子は仲麻呂の強い希望であったことがわかります。
  7月、橘諸兄(74歳)が亡くなると、その子奈良麻呂(37 歳)は実権を失いました。仲麻呂の台頭に不満を持った奈良麻呂は、大伴古麻呂らと挙兵し、仲麻呂殺害・孝謙天皇廃位、塩焼王・道祖王らの即位を計画したと して、密告され、殺害されました。この計画に連座したとして、古来の名門である大伴氏や佐伯氏らが逮捕されました。
 前皇太子の道祖王も謀反の容疑をかけられ、藤原永手らの拷問を受けて、獄死しました。これを橘奈良麻呂の乱といいます。
 8月、孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇(25歳)となりました。

hp「エピソード日本史」より


概略は以上のようなものですが、橘 諸兄は縣(橘)犬養三千代の子であり、奈良麻呂は、また、その子、三千代の孫になります。

で は、なぜ、道祖王の墓(ドウザノボチ←ドウソオウサマノボチ)がこの地にあるのでしょうか?橘 諸兄が太宰の権帥のとき、配下にいたのは吉備真備でした、諸兄の後に真備が太宰の帥になっていますので、真備に匿われた可能性はあるでしょう。何よりも、 奈良麻呂の変の時期にも、和泉式部参内の時期にもこの杵島山一体と中央には橘氏のルートが存在していたと思われ、もしかしたら、橘氏の本貫地の一つであっ たのかも知れません。


橘 諸兄とかっぱを祀る潮見神社

 

春日神社側の伝承として、「北肥戦志」に次の記録がある。(若尾五雄「河童の荒魂」(抄)『河童』小松和彦責任編集。シリーズ『怪異の民俗学3』より転載)
「昔 橘諸兄の孫、兵部大輔島田丸、春日神宮造営の命を拝した折、内匠頭某という者九十九の人形を作り、匠道の秘密を以て加持するに、忽ちか の人形に、火たより風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到り、神力を播くし精力を励まし召使われる間、思いの外大営の功早く成就す。よっ てかの人形を川中に捨てけるに、動くこと尚前の如く、人馬家畜を侵して甚だ世の禍となる。此事遥叡聞あって、其時の奉行人なれば、兵部大輔島田丸、急ぎか の化人の禍を鎮め申すべしと詔を下さる。乃ち其趣を河中水辺に触れまわししかば、其後は河伯の禍なかりけり。是よりしてかの河伯を兵主部と名付く。主は兵 部という心なるべし。それより兵主部を橘氏の眷属とは申す也。」

 さらにこの論文で若尾氏は、島田丸の捨てた人形は日雇いの「川原者」ではなかったかと推測している。                                                  

hp「麦田 耕の世界」俳句禅善より)

「奈 良麻呂の変」後、橘氏のかなりの部 分が殺され、半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢させます。その背後には、釘 を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています。

詳しく知りたい方は、古川のhp「環境問題を考える」(アンビエンテ)から「兵主」をお読みください。橘氏と河童さらには兵主のことを書いています。

ちなみに、武雄周辺では悪口で「ヒョス」が最近まで使われていましたが、これは河童をあざけった兵主からきたものでしょう。

 

橘 公逸(キンナリ)

武雄市橘町永島にある神社。旧郷社。祭神は上宮が伊ザナギ命・伊ザナミ命,中宮が神功皇后・応神天皇・武内宿禰・橘奈良麻呂・橘公業。下宮は今はないが,渋江公村・牛島公茂・中村公光を祀っていた。社伝によれば,往古この地は小島で島見郷と称し伊ザナギ・伊ザナミ2神を祀っていたが,その後橘奈良麻呂が恵美押勝との政争に敗れて当地に逃げのび土着したと伝える。さらにその子孫の橘公業が嘉禎3年(1237)にこの地の地頭となって赴任し,奈良麻呂の父橘諸兄をも合わせ,その他諸神を配祀して鎮守社としたと伝える。平安期安元22月の武雄神社社憎覚俊解状(武雄神社文書/佐史集成2)に「御庄鎮守塩見社」と見え,武雄社と並んで長島荘の鎮守の1つとされていた。また同地の橘氏の流れをくむ武蔵橘中村家の文書,寛元元(1243)年96日関東御教書案(鎌遺6235)には,99日の流鏑馬を土地の者が勤めないとあり,この流鏑馬は潮見社の祭礼に関わるものと考えられる。

当社には昔肥後国菊池経直が祭礼の流鏑馬に落馬して葬られたと伝える墓がある。…(中略)…

当社は河童の伝承を有し,これは橘公業が当荘赴任の際に全国の河童がつき従って当地にやってきたためと言い伝えている。社蔵の御正体(市重文)は元禄51692)年の再興銘を持つが,その銘に「本興建久六乙卯九月一日」とある。以上、久留米地名研メンバー牛島稔大のhp牛島さんたちのル-ツに迫る」より。


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