201511029
久留米地名研究会 古川 清久
邪馬台国畿内説の亜流でしかなかった東遷説が消えゆく中、最後まで九州王朝の探求を続けた古田武彦氏の生き様は見事と言うべきでしょう。
在野では多数派の邪馬台国九州説論者の多くも、大半は古田武彦氏の影響を多少は受け続けているようです。
一方、古田研究を傷つける事だけが目的で持ち出された『東日流外三郡誌』偽書捏造問題でしたが、裁判も負け「寛政原本」も出て以降は悪質極まりないY氏などもこの事に対しては口を噤めいるようです。
さて、久留米地名研究会の提携団体に菊水史談会があります。
同会は有名な銀象眼太刀が出土した江田船山古墳のある熊本県和水町を中心とする伝統ある郷土史研究団体(史談会)ですが、一昨年、玉名郡内の某庄屋家の古文書から実用されていた形跡さえもある「納音九州年号対照表」を発見し、五月には古田史学の会編集長古賀達也氏、八月にも非(反)古田系九州王朝論の旗手福永晋三の講演を取り組んでいます。
そうした中、昨日の事でしたが、佃 収 氏の講演会「卑弥氏と江田船山古墳」が行われたのです。
多くの史談会、郷土史会が、たあいもない邪馬台国九州説や学会通説に沿った俗論で満足する中、同会は十年以上前から九州王朝論の最先端を走る佃収氏の講演を取り組んでいるのです。
古田武彦亡きあと九州王朝研究、邪馬台国研究を最先端で牽引する佃 収氏(東アジアの古代文化を考える会主宰『古代文化を考える』(同人誌)事務局)の講演「卑弥氏と江田船山古墳」を取組んでいます。
なお全体で十数著にのぼる佃 収氏の主な著書は以下の通りです。
「倭人のルーツと渤海沿岸」「伊都国と渡来邪馬台国」「物部氏と蘇我氏と上宮王家」「天武天皇と大寺の移築」「倭の五王と磐井の乱」「神武・崇神と初期ヤマト王権」「四世紀の北部九州と近畿」…外十数著 いずれも星雲社「古代史の復元」シリーズ
連絡先 ℡ 048-977-3676(東アジアの古代文化を考える会)別に同人誌 季刊「古代文化を考える」(現在66号まで…)会費年4000円
鉄も絹も出ない奈良を邪馬台国に比定するたあいもないS氏流の「邪馬台国畿内説」はともかく、今後とも権力と繋がる通説に許容される範囲でそれに尾を振り続ける町興し系統の俗説は再生産され続け、学芸員の全てが「畿内説」で塗り潰されるといった陳腐化した状況になって行くことでしょう。
今後、九州王朝研究がどのように深化、流動化して行くかは分かりませんが、通説、従って税金に群がる思考からはいかなる古代の真相も描き出す事などできないことでしょう。
提携団体を含め7~8団体に拡大した久留米地名研究会グループは今後とも取り組みを進めます。
講演内容は別稿とし、ユーチューブでの公開も考えていますが、佃氏の九州王朝論の全体については、現在、PDF文書として公開されています。
関心をお持ちの方は、ぜひ、tsukudaosamu,comと入力しアクセスを試みて下さい。
日本古代史の復元-佃收著作集-でもアクセスができます。
紀元前1200年ころの「倭人」は中国呉地方に居た。日本は縄文時代である。約1000年をかけて「倭人」は中国大陸を北上し、渤海沿岸をまわり、朝鮮半島南部を経て、北部九州に渡来している。
「倭人」の一派である「天氏(安冕辰ウン氏)」は山東省の臨シを通り、ラン河の東(遼東)で箕子朝鮮と混血する。渤海沿岸を通り、大凌河の下流に在る医巫 閭山の近くに建国する。「卑弥氏に国を譲り、朝鮮半島南部に「高天原」を建国する。前漢時代に北部九州に移る。これが「天孫降臨」である。
天孫降臨の地は福岡県福岡市西区の「吉武高木遺跡」である。「大型建物跡(長井宮)」と「墓(木棺・甕棺)」が出土している。『宮下文書』(『神皇紀』)に記録されている通りの遺跡が発掘された。
『宮下文書』は史実を正確に記録している。
天孫降臨のとき一部は有明海から佐賀県南部に上陸する。吉野ヶ里遺跡をはじめとして、甕棺墓を埋設する文化がはじまる。
天氏は吉武高木遺跡から前原市へ移り、「伊都(いつ)国」を建国する。対海国・一大国・末廬国・奴国・不彌国を支配して「伊都国王朝」を樹立する。
「倭人」の移動ルートを究明しているときに「中国の古代史」で「地名」の解釈が間違っていることに気付いた。
「万里の長城」の位置、「遼東」の位置、「箕子朝鮮」の位置、「漢の武帝が設置した四郡」の位置、「衛満朝鮮」の位置等はすべて間違っている。
『契丹古伝』に「天氏」は「殷(箕子朝鮮)と姻を為す」とある。「箕子朝鮮」の位置が重要になる。
九州王朝論者でもあまりご存知ないようですが、古代史の最先端を切り開く佃 収 九州王朝論に注目して下さい!
「古代史の復元」シリーズ 1倭人のルーツと渤海沿岸
目次
第1章 弥生渡来人と「天孫降臨」
- 天孫降臨の地
- 天孫降臨と吉武高木遺跡
- 天孫降臨と伊都国
- 高天原はどこか
- 弥生渡来人のルーツ
第2章 万里の長城と遼東
- 文献から描かれた万里の長城
- 万里の長城と碣石山
- 万里の長城と遼水
- 遼東と朝鮮
- 燕と朝鮮
第3章 衛氏朝鮮と四郡の設置
- 衛氏朝鮮とバイ水
- 遼東と真番朝鮮
- 楽浪郡
- 玄菟郡
- 真番郡
- 臨屯郡
第4章 遼東郡の変遷
- 遼東郡の拡大と楽浪郡
- 右北平郡および遼西郡の拡大
- 郡拡大の原因
- 後漢時代の遼東郡
- 後漢末の遼東郡
第5章 古朝鮮の歴史
- 番朝鮮の歴史
- 番韓の歴史
- 東胡のその後
第6章 長城の遺跡
- 燕の北方長城
- 燕の北方長城への疑問
- 漢の長城
第7章 夫餘と辰
- 夫餘
- 百済
- 辰
- 辰王と月支国
- 辰のルーツ
- 百済王統の交代
第8章 倭人のルーツと渡来ルート
- 倭人のルーツ
- 卑弥族のルーツ
- 倭人の移動の原因
佃 収 九州王朝論の重要論文のダイジェスト版とも言うべき新「日本の古代史」(上)(中)も出されており(下巻は準備中)、まずは、季刊発行の同人誌「古代文化を考える」(現在66号まで)一部1000円から読み始めても良いかも知れません。
参考として、日本古代史の復元 から一部をお読みください。
「歴史研究」に対する私の考え (佃收)
歴史の解明は「時間(年代)」と「空間(場所)」の究明である。
「時間」と「空間」を究明するには
1. 論理的であること(根拠を明示すること)
2. 科学的であること(物的証拠を提示すること)
これが「歴史研究」の基本であると考えている。
日本古代史の謎についてのいくつかの結論
最初は、驚かれるかもしれませんが、じっくり私の本を読んでいただきたいと思います。古代史の基本的ないくつかの点について、予め私が得た結論を示します。
1.「天孫降臨」は史実である
『古事記』に記述されている天孫降臨の地は福岡県福岡市西区の「日向川」付近である。そこの「吉武高木遺跡」から『宮下文書』に記述されている通りの「大型建物跡(長井宮)」と「三種の神器」を埋葬した木棺が出土している。福岡市西区が天孫降臨の「筑紫の日向」である。
2.後漢時代の「倭国」は朝鮮半島南部にある
『三國志』「韓伝」を頭から順に読めば「後漢時代」を通して「倭国」は「韓国」の南にある。日本列島にあるのではない。「倭国王帥升」は朝鮮半島南部の「倭国王」であり、「倭国大乱」は朝鮮半島南部の「倭国」の出来事である。
3.日本列島の「倭国」の誕生
次 の『三國志』「倭人伝」になると朝鮮半島の「倭国」は消えている。陳寿は「景初二年(238年)」以前の「卑弥呼」を「女王」と記し、国を「女王国」と記 す。「景初二年」に卑弥呼は「倭王」になる。それ以降の卑弥呼は「倭王」「倭女王」になっている。「景初二年」に卑弥呼は「倭王」となり、国は「倭国」に なったことを陳寿は明確に書き分けている。
「景初二年」に日本列島に初めて「倭国」が誕生した。
※「古代史研究者」へ一言
夏 侯湛は『魏書』を著述して いたが、陳寿の『三國志』を読み、書くのを罷めたという。「古代史研究者」は『三國志』はすばらしいと感動し、夏侯湛が筆を折った理由を理解できるまで 『三國志』を何度も読む必要があるのではないか。夏侯湛のレベルに達しない限り、「倭国」や「卑弥呼」や「邪馬壹国」を解明することは出来ない。陳寿が記 述していることが理解できていないからである。(論文61号参照)
4.「神武東征(逃亡)」は史実である
伊 都国は邪馬壹国との戦いに敗れて、国を捨てて新天地を求めて東へ逃げる。和歌山県の紀ノ川を遡り、支流の丹生川に一時「伊都国」を再興する。そこが『和名 抄』の「紀伊国伊都郡」であり、今の「和歌山県伊都郡」である。「神武東征」の出発地が「伊都国」であることを「伊都郡」が伝えている。
5.国民は「貴国」を知らない
「日 本の歴史学」は「貴国」を認めていない。しかし「貴国」は『日本書紀』にも『続日本紀』にも出てくる。「(応神)三年(392年)」に貴国の天皇は4人の 宿禰を百済へ派遣して百済を責める。すると百済国は辰斯王を殺して謝っている。「貴国」は百済よりも強い大国である。しかし今の「日本の歴史」には「貴 国」は登場しない。
6.貴国の本拠地は肥前南部である
「貴国」は神功皇后(実際は貴国の天皇)が熊襲征伐をして「364年」に筑前と肥前に樹立した国である。貴国の本拠地は肥前南部である。
百済へ派遣した4人の宿禰は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・蘇我石川宿禰・平群木菟宿禰である。「紀角宿禰」の本拠地は『和名抄』の「肥前国基肄郡基肄(木伊)」であろう。「紀=紀伊」であり、「紀伊=基肄」である。
「蘇 我石川宿禰」の本拠地は肥前の三根郡を流れる「寒水(しょうず)川=石川」であろう。石川宿禰の四代目は蘇我稲目であり、その子が馬子である。「(敏達) 十三年(584年)」に「蘇我馬子は石川の宅に仏殿を造る」とある。馬子も「石川」に住んでいる。肥前南部の人である。蘇我氏は「392年」頃の石川宿禰 から馬子まで肥前南部を本拠地にしている。
7.仁徳天皇は貴国の天皇である
「(仁 徳)四十一年」に仁徳天皇は紀角宿禰と葛城襲津彦を百済へ派遣する。「仁徳天皇」の本拠地は「佐賀県三養基郡みやき町白壁」である。「白壁」には「仁徳天 皇」を祀る神社が多い。葛城襲津彦の本拠地は『和名抄』の「肥前国三根郡葛木(葛城)」であり、白壁の隣村である。葛城襲津彦の娘「磐之姫」は仁徳天皇の 皇后になっている。
8.鵲(カササギ)が生息するのは佐賀県である
百済へ派遣された葛城襲津彦は百済の王族である酒君を連れて帰国する。ある日、仁徳天皇は珍しい鳥の名前を酒君に問う。酒君は「百済に多く居る鳥で倶空(ク チ)という」と答えている。「倶空(クチ)=Kkachi(クァチ)」であり、「鵲(カササギ)」である。「鵲」は佐賀県の県鳥である。「仁徳天皇」も 「葛城襲津彦」も「肥前南部」の人であることを「鵲」が証明している。
9.貴国の天皇と蘇我氏
「392年」に貴国の天皇は「紀角宿禰」・羽田矢代宿禰・「蘇我石川宿禰」・平群木菟宿禰を百済へ派遣している。貴国の仁徳天皇は「紀角宿禰」と葛城襲津彦を百済へ派遣している。「蘇我石川宿禰」も肥前南部の人であることを「鵲」が立証していることになる。蘇 我馬子も肥前南部を流れる「石川(寒水川)」に住んでいる。馬子の子は蝦夷であり、その子は「入鹿」である。「645年」に「乙巳の変」が起きる。中大兄 (天智天皇)が「蘇我入鹿」を伐った事件である。これは「肥前の飛鳥」での出来事である。中大兄も入鹿も「肥前南部」の人である。奈良県「明日香(飛 鳥)」にある石舞台古墳は蘇我馬子の墓では無い。馬子も蝦夷も入鹿も「大和」に住んだことは無い。
なお、関連サイトに「倭国通史」もあります。
佃 収 九州王朝論を知らずして九州王朝論者と思う事なかれ!
季刊 同人誌「古代文化を考える」(1000円) 購読申し込み 048‐977‐3676 (佃)まで