272 なぜ肥後にはなぜ菅原神社が多いのか?
「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)共通掲載
20151130
久留米地名研究会(編集員)古川 清久
以前から肥後にはなぜ菅原神社が多いのかが気になっていました。
気にしなければ何でもない事なのですが、阿蘇は阿蘇系(草部系、健磐龍系)神社、菊池は菊池系(並鷹羽)…玉名から阿蘇、人吉の一帯には菅原系神社が非常に多いのです。
九州自動車道菊水インターに近い熊本県和水町にも多い菅原神社の一つ
熊本市中央区
熊本市東区
熊本市西区、南区なし
荒尾市、水俣市なし
玉名市
菊池市
宇土市なし
上天草市
宇城市
阿蘇市
天草市
合志市、下益城郡なし
玉名郡和水町
南小国町
上益城郡甲佐町
球磨郡多良木町
「熊本県の神社一覧」ウィキペディア(20151130 12:00)による
ここに掲載されている菅原系神社は主祭神を道真とするものなど、その地域の代表的なもので、実際にはこの五~十倍以上の菅原系神社が存在しているものと思われます。
冒頭の和水町の菅原神社を含め、江田船山のある旧菊水町も菅原系神社が非常に多い地区です。
勿論、旧太宰府天満宮領(安楽寺領の意味)が多かったからと言えばそれまでですが、玉名~山鹿~菊池に掛けての一帯(古代においては肥後の中心地)も菅原神社が目だって多い地域なのです。
皆さんは、鷹羽の神紋が支配的な阿蘇氏、菊池氏の領域にこの菅原系神社が多い理由がお分かりになるでしょうか?
その話に入る前に考えておくことがあるのです。
まず、菅原道真が重要な人物であった事は間違いがありません。
しかし、版図を大規模に広げた大王とか、列島に一族を率いて王国を開発した大王といった人物ではなかった事はお分かり頂けるのではないでしょうか?
つまり、全国に広がる天満宮、菅原宮、老松宮、天神様…と言った神社に祀られる祭神にしては、あまりにも小さな一族の頭領…といった存在でしかないのです。
これは、神代の神々ほどやたら大きく描かれ敬われる傾向があることを減算したとしても許容できないように思えるのです。
決して菅公の存在を貶めるようなつもりはないのですが、菅原道真が亡くなったとされて(道真は薩摩川内に隠棲していますが)、二十数年後の延長8年(930年)の事件を契機として、全国の神社に菅公を祀れと!号令が掛けられた形跡があるのです。
道真の隠棲については「ひぼろぎ逍遥」19 「道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!」参照を
この際、元々、菅原道真を頂点に押し上げた一族の多くが、その本来の祭神を隠し(廃され?)道真を表に出した(出さざるを得なくなった!)可能性があったと考えられるのです。
天神信仰とは, 菅原道真を「天神様」として祈願する神道の信仰の一つ。
菅原道真が藤原氏の讒言により無実の罪で太宰府に左遷され, 失意のうちに没した後, 都では日照りが続き, 天皇の皇子が相次いで病死し, さらに清涼殿への落雷により多くの死傷者が出た。 これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は, 没後20年目に 道真の左遷を撤回して官位を回復し, 正二位を贈った。
文子天満宮および北野天満宮が造営されるについて, 次のような言い伝えがある。
菅原道真公の死後, 道真公の乳母であり 巫女をつとめていた 多治比文子(たじひのあやこ)は, 道真公から「われを右近の馬場(現在の北野天満宮の地)に祀れ」との託宣を受けた。
力のない文子は 自宅の庭に小さな祠を建て ここに道真公の霊を祀った。 これが 文子天満宮のはじまりで, 菅原道真を天神様として信仰の対象にした最初であって, 「天神信仰発祥の神社」といわれるようになった由縁とされる。
さらに数年後に 北野天満宮が創建されたことにより 「北野天満宮の前身神社」とも 言われる。
「天神信仰発祥の神社」
これ以降、藤原氏の指示により、新たに道真を祀った神社、元々は別の神を祀る氏族が道真を合祀した神社、道真の祖神を祀っていた氏族が本来の神々を隠し(隠 さざるを得なくなったのでしょうが)、道真を祀る事とした神社…があったはずなのですが、恐らく、多くの菅原神社は、元々は道真の先祖神を祀っていたもの を隠し、単独で道真を祀る(弔う)神社として残ったのではないか?と考えているところです。
これが、前述の菅原系神社のどれがどのような神社であったのかについては現在のところ判別が付きません。
ただ、故)百嶋由一郎先生は、道真は、スサノウ系氏族の直系の本家と、大幡主系の直系の本家との間に産まれており、逆賊の長脛彦の流れを汲むスサノウ系を隠 し、主として大幡主(ヤタガラス)系(下賀茂族)を表に掲げて阿蘇系の藤原氏と対抗していた…といった趣旨の話をされていました。
このため、この菅原系神社の背後には、藤原氏にとって都合の良くないスサノウ系の神々(従ってこの神社群を奉祭する氏族にがいる)と博多の櫛田神社の主神である大幡主系の神々(従ってこの神社群を奉祭する氏族にがいる)が隠されている可能性があるのです。
このことを理解して頂いた上で、さらに奥深い領域に踏み入ろうではありませんか。
百嶋先生は阿蘇の神々を考える上で重要な点として、次の様な話をされていました。
阿蘇系神社の中でも草部吉見系神社(年禰神社系)には、以下の流れが見て取れる。
①草部吉見の一族は、雲南省麗江から海南島を経由して肥後に入っている。
②草部(クサカベ)と読むと意味が分からなくなってしまいます。
③本来の意味は伽耶が部(カヤガベorカヤカベ)であり、三田井(高千穂)から肥前高来郡辺りまでの支配権を持っていた先住神である伽耶の古霊(コリョン)の高木大神(高皇産霊)の入婿として傘下に入り、娘である楮幡千々姫(タクハタチジヒメ)の夫となっている。
④草部吉見の一族は阿蘇氏の中心にまでなっているが、その背後には女系としての高木大神の一族が存在している。
⑤草部吉見はスサノウと櫛稲田姫(金山彦と埴安姫の間に産まれた)の間に産まれたオキツヨソ足姫も妃としているために、その背後にはスサノウ系の流れがある。
⑥草部吉見はヤタガラスの姉にあたる瀛(イン)氏の市杵島姫も妃としているため、その背後に大幡主→ヤタガラスの流れも受け容れている。
一方、阿蘇系神社の中でも健磐龍系神社(いわゆる阿蘇神社系)には、以下の流れが見て取れる。
①本物の神武天皇のお妃は瀛(イン)氏の金山彦と天御中主の娘である越智の姫で五瀬命の姉でもあるアイラツ姫=後の蒲池姫は、離婚し阿蘇家に払い下げられ、阿蘇系の藤原氏から贈)第二代天皇と格上げされた綏靖(スイゼイ)天皇=神沼河耳の妃となっている。
②その間に産まれたのが贈)孝昭天皇と格上げされた草部吉見であり、弟の健磐龍命=手研耳(テケシミミ=タギシミミ)であった。
③このため、健磐龍命の背後には母方の瀛(イン)氏の金山彦系統の流れが存在している。
④阿蘇系=父方の草部吉見系藤原氏にとっては面白くなかったはずの、スサノウ系、瀛(イン)氏系=大幡主、ヤタガラス系の流れが母方として残っている。
これらの事から中央に進出した草部吉見系がビルマ・タイ系の藤原氏に対して、阿蘇に残留した健磐龍系にはスサノウ系、瀛(イン)氏系=大幡主、ヤタガラス系の流れが継承されているように見えるのです。
その事が良く分かるのが、青井阿蘇神社など球磨郡から人吉盆地に掛けてのスサノウ系、瀛(イン)氏系=大幡主、ヤタガラス系の流れが菅原系神社として表現されているのです。
現在、この阿蘇氏研究の最先端の部分にその痕跡を留めている神社を見出し現在も調べているところですが、まだ、不明な部分が大きく明瞭には見えて来てはいません。
この点に興味をお持ちの方は、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)189~190 草部吉見神社近郊の神社 高畑年禰神社(年禰社)の衝撃 ①~②をお読みください(以下)。
草部吉見神社の分社としながらも、神殿を見れば明らかなように、ここは草部吉見の母方の神社である事は明らかです。ただ、その母方が、高木大神のタクハタチ ジヒメなのか、アイラツヒメ(蒲池姫)なのかがまだ良く分からないのです。摂社をみると生目が見える事から前者とは思うのですが、伊勢の下宮=豊受大神 も、一時期、草部吉見のお妃ではあった訳で、この母方が何なのかが大きな謎なのです。