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277 山口県光市の石城山神籠石と石城神社 ② 石城神社 

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277 山口県光市の石城山神籠石と石城神社 ② 石城神社 

20151210

久留米地名研究会(編集員)古川 清久


 神籠石に関する光市教育委員会の掲示板の記載内容は、この存在を消したい通説派のデタラメナな見解とは異なり立派なものでした。

理性的な上に良心、常識、思考の独立性が感じられ、薄汚い考古学の世界を毛嫌いする私にも、久々にまともに読もうという気を起こさせるものでした。

そのすがすがしさの追い風を受けて石城神社に向かいました。


277-1

もちろん、最前線の神籠石はまだ東方にも展開しているのですが、この神籠石も九州王朝の東に対して具えた防衛拠点の一つと考える私達にとっては、同社がどのような神を祀るどのような神社であるかは非常に興味深いところです。

同社は延喜式内社です。久留米の高良大社も同様ですが、神籠石があるような九州王朝の最大拠点を制圧し、畿内政権が支配するシンボルとして置かれた畿内政権の神社である可能性が非常に高いのです。

この点、高良大社も明治維新後から直系の宮司家と思える初代からの大祝一族(稲数家、松延家、鏡山家…)はとうの昔に排斥され、地縁血縁の無い神社庁の肝いりで権力側の神官が送り込まれ続けているのです。

ただ、誤解して頂きたくないのは、祭神そのものは九州王朝を支えた方々なのです。


石城神社 カーナビ検索 山口県光市塩田石城2233



277-2

祭神を敬愛する「玄松子」から拾ってみました。

神仏分離以前の神名になっていますが、主神は大山祇神なのでしょう。

大山祇は目と鼻の先の愛媛県大三島の大山祇神社に鎮座する有名な神様ですから当然の感じがしますが、山口県内と言うか、周防には三島神社なる名でこの手の神社が多く、元々(九州王朝の時代から)この神様が鎮座していた可能性は十分にあるでしょう。

雷神は恐らく藤原が格上げし第10代と出世した崇神天皇の事で良いのではないでしょうか?

彼も百嶋神社考古学からは年嵩ながら高良玉垂命と神功皇后のご夫婦(「高良玉垂宮神秘書」)に仕えていたとしますので、四道将軍張りに東への備えの一端を担っていたのではないでしょうか?

分かり難いのは高靇神です。


御祭神
主神 
大山祇神(本地釈迦如来)
配祀 雷神(本地普賢菩薩)
高靇神(本地文殊菩薩)
天津彦根命 『特撰神名帳』『神祇志料』『日本地理志料』


高龗神たかおかみのかみ闇龗神くらおかみのかみ

別名
闇淤加美神:くらおかみのかみ
淤加美神/袁加美神/意加美神:おかみのかみ
龍神:りゅうじん
……

* 『古事記』に、伊邪那岐神が火の神迦具土神の首を斬られたおりに、 その剣の柄に集まった血が、手の指の股から洩れ出てできた二神の御名を闇淤加美神(『日本書紀』では闇龗)と闇御津羽神

* 『日本書紀』の一書には、剣の柄頭からしたたる血から、暗龗、闇山祇闇罔象が生まれたとある。

* 闇(くら)は谷あいの意味。淤加美源は、古来より雨を司る龍神。

* 『日本書紀』の一書には、斬られた軻遇突智が三つに分かれ、雷神、大山祇神と共に高龗神が生まれたとある。

* 高は闇(谷)に対して山峰を指し、古来から闇淤加美神とともに雨を司る神として信仰されている。

* 二神は高・闇の神として対の信仰があるが、高・闇の両神は同神であるという説もある。

* 

敬愛する「玄松子」より


277-3

九州王朝時代の本来の祭神は残された摂社から大体見当が付きそうです。

スサノウは良いでしょうから大歳神ですが、これまでにも何度も申上げて来たように、この神様こそ阿蘇の草部吉見神であり、彼と伊勢の下宮様、豊受大神様との間に産まれたのが御年神=実は贈)孝安天皇=玉名市の疋野神社の主神であり、その子が贈)景行天皇とされるのです。

最後に、立派な研究者による通常の解読をご紹介しておきます。


石城神社

石城神社と石城山神籠石
石城神
石城山は大和町の象徴であり、大和町の歴史のメッカとも呼ふべき山である。もちろん、それは石城神社と神籠石とがあるからであるが、両者と もにその起源は古代にさかのぼり、これまで神籠石は石城神社の神域を示す遣構とも考えられていたのであった。神籠石についての研究の歴史や、発掘に基づく 最近の見解については次節以降で触れることとし、まず石城神社の歴史を入ることにしよう。石城神社の創建年代は明らかでない。しかし「石城神社縁起」によると、敏達天皇3年(574)に吉備屯倉の津史が当地こ来て、石城宮の勅額を石原男登世彦に授けたのが本宮の始まりであるという。これが敏達天皇の勅額と伝えられるものである。そ して奈良時代、称徳天皇の御代に、社務を管掌させるための社坊が設けられた。これが神護寺である。同寺は今は跡のみを残すが、石城神社とともに石城山頂の 月ヶ岳・鶴ケ岳・星ケ岳のご一峰にはさまれた平地に位置した。石城神社が正史に最初に出てくるのは貞観9年(867)のことである。すなわち、『三代実 録』同年8月16日条に次のような記述がある。周防国正五位上出雲神、石城神、比美神、並授従四位下、従五位上剣神、二俣神、並五五位下すなわち、これま で正五位上であった石城神(大山砥神)に従四位下が贈られたのである。ちょ うどこのころには、諸国の神々に対する贈位がひんぱんにみられる。殊に西国の神社に多い。当時は西海に海賊の横行が著しく、そのうえ北九州方面には新羅の 来寇があって、緊張した状態が続いていた。政府は要地に武具を送って備えを固めるとともに、諸社に賊の鎮圧を祈願させているのであって、諸神への贈位はこ の祈願に対するものであった。ところで、これより半世紀ばかり経過して延長二年(九二四)に『延喜式』が編さんされた。「式」とは律令を執行するにあたっ ての細則のことで、醍醐天皇の延喜5年(905)から編さんが始められたので『延喜式』と呼ばれている。この中の「神名式」に、周防国では熊毛神社や玉祖神社と並んで古城神社が載せられているのである。このように『延喜式』に収められた神社は「武内社」と呼ばれ、朝廷から奉幣が行われる例で、格の高い古社とみなされている。なお、同神社の本殿は文明元年(1469)に大内政弘によって再建され、室町中期のすぐれた建築として重要文化財に指定されている。


HP「延喜式神社の調査」による


277-4


最後に神殿をご覧いただきます。

これも九州と言うより、筑後物部氏の社殿に良く見るスタイルです。

まず、柱一本をそのまま階段に設えるスタイルは、大木で階段が造られていた時代の名残なのですが、だんだんと大木が調達できなくなり、踏み上がるのには注意が必要になっています。

注連縄も、三下がりのテルテル坊主は九州に多く見るスタイルです。


277-5

境内社の須賀社の神紋が何故左三つ巴になっているのでしょうか?

祭神に八幡神はありません。

高良大社の表紋がこの左三つ巴ですが、その高良玉垂命が従えた、スサノウ、大歳神、御年神と考えれば、九州王朝時代にこの神籠石山城と石城神社に祀られていた名残をこの摂社に感じながら神社を去ることにしました。

標高は高いもののこの石城山神籠石も鹿毛馬神籠石並みの規模で、史跡としても整備され見学しやすい事から、皆さんも足を運んで見てはと思うものです。


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