280 行橋市の正八幡神社初見
20151205
久留米地名研究会(編集員)古川 清久
何故か、福岡県行橋市の中心部に二つの正八幡神社があります。
また、全国を席巻している八幡宮に対して正八幡宮と呼ばれる一連の神社群があるのですが、その正体が何なのか把握されていない方は多いようです。
ここでは、一例として正八幡神社が近接して存在する行橋市の例を考えて見たいと思います。
下は行橋駅に近い行橋市神田の正八幡宮。貞観元年(859年)、行教が宇佐八幡宮の祭神を石清水八幡宮へ勧請する途次、神輿が駐在した地に神社を創建したとも、貞観2年(860年)に国司の一人であった文屋真人益善が宇佐八幡宮の託宣により創建ししたとも、寛永年間(17世紀前半)に行橋市行事に鎮座する同名の正八幡神社から分霊を勧請したものとも伝わる。
ウィキペディア(20160324 0830)による
正八幡神社(しょうはちまんじんじゃ)は福岡県行橋市行事にある神社(八幡神社)で正ノ宮正八幡神社(しょうのみやしょうはちまんじんじゃ)とも呼ばれる。旧行事村、草野村、長音寺村の産土神である旧郷社。
ウィキペディア(20160324 0830)による
通称 正の宮(ショウノミヤ)
【御由緒】
正ノ宮正八幡神社由緒
その昔、当正ノ宮正八幡神社は、行事村・草野村・長音寺村・大橋村・宮市村・小部埜村六ヶ村の土地の霊魂を、この地に一ヶ所に集めて地底に封じ込めて小さな祠を造営し、「産土正宮」として六村の地域住民に崇められていました。
ところが貞観元年(八五九)のこと、宇佐八幡 宮を京都の男山に勧請の際に、その御神輿の御旅所としてこの地に仮殿を構えて安置申し上げることがありました。そして翌朝御神輿が出発なされた後に、木綿 垂を附けて献納したはずの榊が一本残されていたのを、人々はこれを大神御心にちがいないとして、その榊を大神の御璽として正宮の祠内に納めて宇佐八幡神を 勧請申し上げました。
以後は「八幡正宮」と称して産徒の信仰も厚く往時には光養寺・東光寺・神宮寺と呼ばれた神護寺もあって、華麗な社殿が並び建ち多くの社家、社僧が奉仕したと言われるが、応永年間大友氏鑑の兵火に焼亡して今はただその地名を残しているだけであります。
寛永十年の夏の大祓祭の折「いんしゅ撃ち(宮市河原を挟んで石つぶてを投げ合う行事、あるいは青竹で叩き合う行事ともいわれる)」の神事 が昂じて多くの怪我人が出るに及び、永い争論の末三村が離脱して現在のように行事・草野・長音寺三村の産土神として尊崇されてきました。
御祭神 誉田別命(応神天皇)・気長足姫命(神功皇后)・比咩大神。
境内社 水神社・火祖神社・菅原神社・厳島神社。
(平成祭データ)
福岡県行橋市にあります。JR日豊線行橋駅から北に300m、長峡川を越えて行事地区の日豊線の線路の側に鎮座しています。
「行橋」の名称のいわれは、明治22(1889)年、京都都行事村、仲津郡大橋村、宮市村の三村が合併。「行橋」は、行事の「行」と大橋の「橋」を採用し施行された町名です。(社前案内板)
九州神社紀行-ブログによる
筑豊地方でも幾つかの正八幡神社を見掛けますが、いずれ取上げるとしても、今回は二つの正八幡神社自体を考えるのではなく、簡単に正八幡神社一般のお話をする事にします。
まず、「正八幡」とは「今の八幡様」とは全く違う古い本当の八幡の神という印象を持たれると思います。
実はその通りなのです。
ただ、個々の正八幡神社の祭神を見てもそのことは分かりません。
ここでも、百嶋由一郎先生はメッセジを残しておられました。
… 正八幡とは応神以前の八幡宮で、一番古い正八幡といえば、博多の櫛田神社の神様です。博多の櫛田神社の神様に従っていたのは、金山彦、猿田彦、素戔鳴もそうです。…
肥後翁のblog民俗・古代史及び地名研究の愛好家
本来、八幡神とはヤハタの神とも読むように、八つの幡(ハタ)の神、言い換えれば、多くの幡を翻し疾走する神であり、それも大きな幡を翻し疾走する神の意味を意味するものなのです。
では大きな幡とは何の事でしょうか? 勿論、船の帆であり船に取り付けた大きな幡なのです。
大きな船を操り渡洋航海を行う外洋船は、古代においては自らを守る必要があることから事実上の武装通商船であり海賊船と紙一重の存在だったのです。
このため、多くの幡を立て外敵を威嚇する八幡船(ハバン)、幡八(バハン)船とも呼ばれるものが存在したのです。
そして、北部九州でも最も大きな後背地を持つ博多を拠点に、遠くはインド(実際はインドシナ)とも通商交易を行っていた博多の櫛田神社の主祭神である大幡主こそがこの正八幡の正体なのです。
八幡船 ばはんせん
奪販,番舶,破帆とも書く。特に室町時代から戦国時代にかけて現れた海賊船一般をいう。後世倭寇の意味に用いられた。倭寇が「八幡大菩薩」の旗印を掲げたことに称呼の起源があるとされるが,確証はない。
本文は出典元の記述の一部を掲載しています。
「コトバンク」 による(デジタル大辞泉の解説)
ばはんせん【八幡船】
〈ばはん〉は,戦国時代から安土桃山時代にかけての用例では海賊行為を意味し,江戸時代中期以後では密貿易を意味する言葉。〈八幡〉のほか〈八番〉〈奪販〉〈発販〉〈番舶〉〈破帆〉〈破幡〉〈波発〉〈白波〉〈彭亨〉などの文字もあてられている。《日葡辞書》はBafãと記している。語源は外国語であるという意見が有力である。ただ江戸中期に書かれた《南海通記》が倭寇(わこう)が八幡宮の幟(のぼり)を立てていたので八幡船と呼ばれたと書いたところから,ばはん船は八幡船であり,すなわち倭寇の異名であるとする考えが広く流布するようになった。
「コトバンク」 による(世界大百科事典第2版の解説)