281 北北東に進路を取れ! ① 姫路市飾東町北野の高良神社
20151219
久留米地名研究会 古川 清久
「北北西に進路を取れ」は1959年製のアメリカ映画ですが、2015年12月15日、久留米地名研究会グループの今年最後のイベントである百嶋神社考古学勉強会を終え、年明け十日ぐらいまでスケジュールの谷間ができたことから、意を決し一気に北に向かう事にしました。
研究会のスケジュールに追われ追われの毎日でしたので、気分は、まさに「北北東に進路を取れ!」なのです。
一応の目的地は安東水軍の故地十三湊辺りまでとはしましたが、如何にスタッドレス・タイヤを履かせているとは言え、雪道に不慣れな者の事、海岸沿いの神社を見ながら幹線国道(8号線)を行けるところまで行くとしました。
16日午前2時には、新たに準備された筑豊の川崎町の第3研修所(第3サティアン)を単騎出発しました。
可能な限り一般道を走るのが古川定石ですが、関門トンネルを抜け、下関から高速道路で兵庫県(播磨)の姫路東ICまで走る事にしました。
勿論、途中で短時間の車中泊をしたのですが、同日の16日午後1時頃には兵庫県の姫路市と加古川市との境辺りまで進出していました。
ホンダ・フィット・シャトルHBによる長駆遠征ですが、600キロ近くをリッター当たり26.7キロで走り抜き、2,700円の燃料代に対して高速料金6,800円(ETC料金)という高速道路公団のボッタクリ利権構造をあらためて再認識しました。
どこの国に燃料代より高速料金が高いところがあるか少しは考えて見ろ!
このようなむかむかする話は置いておいて、姫路東ICで降りた理由は、姫路市の高良神社を見るためでした(暗号「山上憶良」…高良神社リストによる)。
既に、九州はもとより、中四国の高良神社は全て実見しており、近畿圏への進出の第一歩となったのです。
ともあれ、同インターから数キロで兵庫県姫路市飾東町北野の高良神社の付近に辿り着きました。
普通、市町村境界は山深いところが多いのですが、農地はあるものの同地は都市近郊の住宅地と言った印象しかありません。
小丘陵というか里山程度の森から小河川が流れ出しており、今でもそれに沿った幅の狭い道路の周りに集落が形成されています。
高良神社は直ぐに見つかりました。車一台がギリギリ通過できるという整備されていない道路を抜けるとイノシシ除けの柵があり、その奥が高良神社でした。
二百メートルも登ると社殿が見えてきました。入口の鳥居も神額が無くいわゆる顔の見えない神社ですが、参拝殿の中に入ると「高良大明神」と神額が掛けられており、紛れもない高良神社です。
神殿も含めて隈なく見せて頂きましたが、摂社、境内社の痕跡すらなく、これ以上探ることはできませんでした。それでも、この神社を携えて九州から一族で移動して来られた方々がおられた事は確かです。
神殿への階段の造り方、鞘殿の様式と筑後物部氏を感じさせるものはありましたが、もはや、この地区の方達も、何時の時代どのようにして筑後川流域から移動して来たかもお分かりではないと思います。
集落に戻ると地元と思われる男の方がおられたので直ぐにお尋ねしましたが、お話によると、①この北野の集落には高良神社以外に他の神社はなくこの集落だけで祭っている。②九州に高良大社があるらしいからそこと関係があると思っている。…といった事は確認できました。
実は、その後で、隣の市になりますが加西市坂本町に王子宮を確認しました。
久留米市山川町坂本に高良皇子神社(王子宮+坂本宮)があります。
これこそ、高良玉垂命の九人の皇子を祀る神社なのですが、その神社がこの高良神社のある北野と背中合わせにあるのですから、いつの時代かの特定はできませんがこの高良玉垂命の直系を奉ずる一族が入っている事が確認できたのでした。
勿論、帰りにはHP暗号「山上憶良」氏リストに在る京都府福知山市字鋳物師60-1の高良神社(厄除神社)も見たいと考えています。