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232日本型姥捨ての薦め

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232日本型姥捨ての薦め

2007021620150812再編集)

久留米地名研究会 古川 清久


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はじめに

そもそも、昔は長生きできる人は稀で、現在のように九十代の老人がぞろぞろいるなどという事はなかったのですが、どの時代にもそれなりの老衰の問題はあったでしょう。
ただ、あえて矛盾する表現が許されれば、巷間、謂われるところの「高齢者福祉」「老人問題」などは存在しませんでした。
それは、高齢の概念をそれなりの時代のものに修正したとしても、かつて、これ程までに大量の高齢者の一群が明確な形で形成された事がなかったからです。
少子化、無産化(確かに貧乏にもなっていますが、ここでは少産化の延長の意味です)、高齢者医療の拡充による絶対量の増大が同時に進んだために、私達の社会の人口構成に劇的な変化が生じたためと言えるでしょう。
も ちろん、近世以前においてもそれなりの高齢者はいたはずですが、飢饉や災害などにより一村がそのまま壊滅するというような事はあっても、群としての高齢者 それ自体が顕在化した事は聞きません。例えば徳川封建体制下においても、旧知的障害者、身体障害者などを含めて、養育、介護の問題は最終的に「村役人」 「町役」を通じて、村落共同体や町衆で解決する事が義務付けられていました。もちろん、何をもって“老人”と考えるかもその時代が決定してきた事だったで しょう。
一般的に、老人が異常に多い社会というものは旧厚生省による過剰なキャンペーン(「空気」作り)を割り引いたとしても、急速に、そして、特殊に物質的「豊かさ」を手にした(実は伝統的家族を解体した事をもって成立した)社会、特有の問題であるとも考えられます。
これに似た問題としては、地域振興、産業振興、企業誘致、それに、いいかげん聞き飽きた「町興し」、「村興 し」などの立場から、いわゆる「過疎」が地域社会全体の問題として語られるのですが(旧通産省、自治省・・・)、どのように考えてみても、現在のような少 子化の時代に大量の青壮年が山間僻地に戻って来るとは考えられません。
  地域のコミュニティーを考える上で最も重要な問題は、決して人口そのものを増やす事ではないでしょう。むしろ、その人口構成(子供から老人までの)を安定 させ、増加はできないまでもその地域社会が存立し得る程度の次世代を維持し、その基礎になる人口構成(年齢バランス)を維持する事であり、その点にこそ重 点を移すべきなのです。
明治以降の人口の漸増と大正末期から昭和にかけての「産めよ増やせよ」運動(旧内務省=厚生部局)によっ て、現場の農村では農業が極限まで集約化され、山間僻地までも異常なまでに多くの人口を抱え込みました(当時子供の数は、労働力の意味もあったのですが、 六人以上があたりまえでした)。
  現在、地場の土建屋や議員(最近は同じですが)などが主張する「多いのがあたりまえ」ではなく、その時代の人口がもともと「過密」だったのであり、発想を 変えて見れば、「過疎」は「適粗」(てきそ=一部の社会学者が使う用語で、単に視点を変えるだけの意味しかないものですが)であり、重要なのは地域社会を 維持できる程度の人口構成(子供や老人の比率)の維持なのです。
た だし、社会の歴史的発展の中で長期的にもそれが可能なのかは、なお、不鮮明であり、架空の話とも言えるのですが、企業社会が今後も続くとした場合、企業そ れ自体に行政が持つ権能を分離分割して付与していく(ちょうど幕藩体制化の村役人に与えたように)ことも選択肢の一つになるのかもしれません。
こ の場合は、社会の仕組みをかなりいじる必要がありますが、企業の移転(改封にも似て)、合併、工場の再配置などによって一族郎党(老人、子供)がそのまま 移動する事も考えられるのです(これは大企業による独占や寡占が進んだ場合、または社会主義のもとでは可能になるかも知れないと言った程度の話であり、当 面は問題にならないでしょうが)。

 

厚生年金幻想


戦時下に成立した「厚生年金」の仕組みは、実際には戦費調達のために国家が導入した空手形のようなものでし た。起動時点の話では、“厚生年金に加入した人間は安心して老後を迎える事ができる”とされていたのであり、政府もそのように宣伝していたのです。そし て、今や、それは、ほぼ、全く見込みがないものである事が明らかになってしまいました。
  元々、十分な老後の資金があるのであれば、資本主義社会では全てが商品に変えられていく社会である訳ですから(マルクス『資本論』)、医療はもとより、介 護さえも商品として全て購入できる事になるはずです。このため、金さえ潤沢にあれば、つまり、金持ち連中には“老人介護”などの問題は一切存在しないのです。
たとえ、主義主張はどうであれ、現実の日本は階級社会なのであり、「超大金持ち」、「大金持ち」に老人介護の問題が存在しないのは自明です(彼らには三交替制の美人看護婦を専属で雇うことも可能なのです)。
 「年金制度の危機」そして「介護保険」、「ゴールドプラン」へと騒がれ、また騒がなければならなかった事それ自体が、実は長期的年金政策の結果的破綻を意味していただけなのです。
 旧厚生省自体が高齢化社会を騒ぎ始め、大規模なキャン・ペーンを張り始めたのは二十五年ほど前からでしたが、当時、彼らは年金制度の破綻を前にして超高齢化社会の危機を過剰に煽ったのです(もちろん、煽っただけで対策は一切やって来なかった)。
 本来、年金の支給開始年齢を引き上げ、同時に高齢者雇用を進めさえすれば済む事だったのであり、実態は旧厚生省と旧労働省の省益を優先しただけだったのです。
  もっとも、これほどの超高齢化、特に非婚化、少子化の同時的発生は、当時の国民社会の誰もが予見し得なかったのであり、一概にその一事だけを持って政府を 批判する事はできないのですが、結果として表れたものを見れば、やはりそのように評価せざるを得ないのでしょう。それを裏付けるかのように、生命保険がら みの個人年金(例えば日生のナイスミディ、古いですか?)、外資系生命保険、年金の販売が好調であると言われています(世界的株式の暴落、アメリカ国債の デフォルト、為替相場の激変などによって非常にハイ・リスクなものになりつつあるのですが)。
  何よりも「介護保険制度」を税金(かつて、ドイツ統合の中で東独系の旧共産党もドイツの「介護保険」を税金で賄うべきであると主張したのですが)の増額で はなく、保険制度として新たに導入せざるを得なかった事は(これには選挙対策上、単に税金という名称を使いたくなかっただけというふざけたペテンも含まれ ていたのですが)、本来は事実上の年金制度の破綻として理解するべきかと思われます。この事は、介護保険導入によって、より一層鮮明になって来ました。
  当初、介護保険は福島県のある町で試験的にスタートし、直ぐに農協も具体的に介護サービスの単価設定、商品化、実働に乗り出して行きました。また、タク シー業界、外食産業、九州ではタクショク、ヨシケイなどに象徴される食材の宅配サービス会社、住宅産業(ナショナル住宅など)小口では独立系の“便利屋” などが参入しました。この結果、実は「福祉」が単なる商品でしかない事が明らかになり、老人問題というものは、結局、「所得の問題」でしかなく、国家的に 見た場合は、「所得の再配分」の問題でしかない事も明らかになって来たかと思われます。
前述したとおり、本来、資本主義社会では、親子、夫婦、家族などへの愛や、親族や地域社会への帰属意識などでオブラートされていたものの一切が商品に変えられて行く(マルクス)社会なのですが、実際にもその様に進んでいるようです。
  例えば、ほんの三十年ほど前までは、職場や地域の人々などに頼んで行なわれていた「引越し」や「葬式」は、「お引越しのサカイ」や「セレモニーなになに」 などの手によって行われる事になりましたし、母親が早起きしてこしらえてくれていた運動会の巻き寿司なども、“ほっかほっか亭”などの弁当チェーンに買い に行くものに成り下がってしまっているのです(これも無意味なGDPの増大にカウントされていますが、実は、社会が、より一層貧しくなっているのです)。
地域社会の共助を意味した漁村部、下町の惣菜の「おすそわけ」(現在ほとんど死語になりつつありますが)は、お隣のおばあさんの顔色を気にしながら、毒物検査の必要や「O157」への恐怖から、もらったふりしてゴミ箱に処分し、自分たちはファミリー・レストランにこっそり出掛けるか、冷凍食品に頼る事になっているのです。当然ながらこの傾向はさらに一層進む事になるでしょう。
 親子の関係を悪くしたくないと願うバカ親(親バカはまだ許されるが)は、躾の代行業や、叱りの代行業を頼みかねません(実は母子家庭では現実のものになりつつあるのですが)。
 この点、「福祉」はいわば聖域でした。県や国の「厳格」?な審査と監督下に置かれ(もちろんその中から綾福祉グループも形成されたのですが)、また、かなりのものがそれなりに日本的な宗教色を帯びて、一般の金儲け主義の企業とは一線を画されてきました。
しかしながら、福祉のビッグバンともいうべき「介護保険」の導入は、これまでそれなりの「神聖性」を帯びていた福祉の外被を全面的に引き剥がし、奉仕の精神とか宗教的な「愛」とか「慈悲」に基づく行為の一切が金銭、点数に換えられて行く事になったのです。
介護保険制度は基本的に老人を対象にしていますから、「サービスの消費者」としての感覚は若者のそれとは異 なりますので、余裕のある老人は、まだ福祉施設が良いと考えるかもしれません。しかし、所得の少ない老人は、結局、在宅のサービスがそれなりに安く(当初 は有利な単価設定によって参入を促すでしょうが、すぐに競争原理を導入するはずであり、過剰参入によって利益率が低減する事になるでしょう/逆に規制を入 れて参入を制限すれば利権の温床になってしまいます)提供されるとすればそちらを選択していく事になり、福祉施設、社会福祉法人はさらなる競争に曝される 様になります。
実はこの事こそが、三浦文雄氏などの学者が主張していた事に携って行く事になるのです。「福祉は人間のため にあるのであり、金儲けの手段にすべきではない」、原点に還って「社会福祉法人」にはそれなりの位置付けがなされるべきであると主張されたのです。もちろ ん、ここでは旧厚生省の「岡光被告」や「綾福祉グループ」の存在には目を瞑って述べられているのですが。
  これを正しく翻訳すれば、福祉一般の、一部はともかくその全てを経済原則、市場原理だけで割り切る事はすべきではないのであり、規制の緩和は必要ではある が、その全面解除は行うべきではない」であろうかと思われます。しかし、問題は少し複雑であり、単純にはそう言えないのです。その聖域性があったが故に、 福祉は医療法人、社会福祉法人の独占状態に在ったわけであり、結果として現場から不正が露見した事が何を意味するかが重要なのです。
結局、現実に登場したものは、かつての神聖性によって蓄積された資本が、さらに貪欲に、新たに出現した市場、つまり、高齢者福祉、介護と言う市場に領域を拡大した事になるのです。
これが「資本主義社会では一切のものが商品に置き換えられて行く」と最初に引用した理由なのです。
私は、深部において社会福祉法人の任務は終わっていないが、現実の存在としての役割は終わらされたのではないかと思っています(もちろん存続するのですが)。
これは、高度に情報化された資本主義社会の発展過程の最終局面、最近の言葉では「後期資本主義社会」(都立 大の宮台真司助教授やジャーナリスト宮崎哲弥/「正義の見方」の著者などは後期資本主義社会=高度に情報化された資本主義という用語を使っていますが、も ちろんマルクス主義者ではありません)においては、社会福祉法人=金儲けはしてはならないが、実態は金儲け団体にならざるを得ないといった中間的な存在を 社会が許容できないのではないかと思うものです。さらに換言すれば、このような中間的な存在を許す経済的社会的弾力性が失われつつあるのではないかと思う ものです。
従って、三浦文雄氏の熱弁にもかかわらず、競争に曝されていく「社会福祉法人」の防衛的色彩を帯びた悲痛の 声になるのです。彼の主張などに代表される、多少とも一九世紀的色彩を帯びた「福祉の原点」とかいった主張(赤十字社に象徴される博愛とやらの精神も)が 今後の残された最後のテリトリー、居留地の防衛の論理となっていく事でしょう。
しかしながら、最も重要な事は、もしも、老人「福祉」がただの「商品」であるのならば、「保険」ではなくて「年金」の充実、拡充もしくは再編成で済むはずなのであり、それで対応できない部分は、障害者福祉なり生活保護なりの従来の制度の再編成で対応できるはずなのです。
ここには旧厚生省年金局の現状維持政策があったのです。恐らく年金を介在させない介護保険制度の導入は、最終的にはただの利権の温床となっていく可能性が高いのではないかと思われます。


日本型「姥捨て」について


 かつて、国際政治学者とかいうフレコミの舛添 要一氏が「日本の特老は姥捨山だ」などと主張していましたが(舛添は福祉を巡って、結構、シンポジウムや講演に多々顔を出していました)、まあ、それはともかくとして、「姥捨て」の話をしようと思います。

 我が日本民俗学の創始者である柳田国男には文字通り巨大な一連の著作群がありますが、その中でも最も有名な「遠野物語」の中に、東北地方における習俗としての“姥捨て”にふれている箇所があります。

もちろん、これは“姥捨て”伝承そのものを問題にしたものではなく、あくまでも習俗や伝承の採集の一環として収録したものです。

 一般的に「姥 捨て」と言うと、映画「楢山節考」が公開された事もあり、いわば寓話として誇張された形の「姥捨て」の話が語られるのが常のようです。ご存じのように、こ れは、「山に連れて行かれる母親が、息子の背中から、捨てに行く息子が帰りの道に迷わないようにと枝を折って行った・・・その事によってその後姥捨ては終 わった・・・」という例の話の再構成なのですが、このような直接に奥山に置き去りにして死に至らしめる「姥捨て」では到底理解できない様な、いわば制度と しての「姥捨て」が存在したのではないかという研究が一部の民俗学者の中から出されています。

 こう主張するのは赤坂憲雄氏(「東北学/東北ルネッサンス」など著書多数)です。民俗学者と言うのは、やたらと著作が多いのですが、これは、採録した資料をそのま

ま残す部分が多いためなのです。柳田国男の流れを汲む宮本常一にしてもその体系たるや実に巨大で/「失われた日本人」など無数の著作群があります)。参考のために「遠野物語」を引用しておきます。


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 「111山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡(ひわたり)、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともに、ダンハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野(れんだいの)という地あり。昔は六十を越えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習(ならひ ありき。老人はいたずらに死んで了(しま)うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。そのために今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチといい夕方野らより帰ることをハカアガリといういえり。 ○ダンノハナは壇の塙なるべし。すなわち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭るための塚なりと信ず。蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』中にいえり。」(「遠野物語、山の人生」岩波文庫/68P

 

赤 坂憲雄氏が主張したのは、遠野市などの「姥捨て伝承のある集落の周辺に、決まって蓮台野(京都にこの名前がありますが)と呼ばれる地名が存在し、等しく 「デンデラノ」、「デンデラーノ」と呼ばれていると言うのです。そして、ここには「一定の年齢に達した老人が家族の世話を受けないで、死期を迎えるまでの 短い時間を集団で生活していた」のではなかったかと言うのです。

 つまり、「姥捨て」をすると言うにはあまりにも近過ぎる場所(集落の中心地から一.ニ~四.五キロ程度の場所)にその地名が分布している事や、日和の良い日には里に降りて来て農作業を手伝って何がしかの食料を山に持ち帰ったという伝承が存在する事から推測されているのです。

ここでは、一定の年齢に到達した老人達がそのコロニーを最期の居住地として移動する事を「ハカダチ」と呼び、「ハカアガリ」と呼ぶなど、制度化された、いわば「習俗」としての「姥捨て」が存在した形跡があると主張されているのです。

 当然に病や障害や老衰や息子の死などにより、働けなくなった(孫の世話さえできなくなったような)老人たち が順送りに「ハカアガリ」し、比較的元気な老人が必要な老人の世話をしながら里からの粗末な援助によって順送りに集団で死期を待つという風習=習俗が存在 したと思われるのです。

もちろん、これは、民俗学による推定でしかありません。元来、民俗学という学問で到達できるのは推定であり、事実であったか否かなどといった事は全く確定させられません。しかし、私も恐らくそれは事実であったと思っています。


老人は老人を介護できるのか


 江戸幕府は儒学(その中でも非常に観念的で特殊な朝鮮経由の朱子学)を言わば国学(事実上の国教)として扱 い、武士階級を中心に日本の習俗の上に儒学(儒教)を覆い被せた訳であり、あたかも親の面倒は最期まで子が見ていたかのような錯覚があるのですが(もちろ ん少なくとも西日本の武家はそうだったのですが)、日本人の習俗の基層には、このような、地域特有の「老人介護の風習」とか特殊な「葬送儀礼」も存在した と思われるのです。

 そして、私がこれにこだわるのは、必ずしも日本全体と言えないまでも、場合によっては西日本を除外した東日 本全域の主として農村の非(被)支配階級の中に、この様な習俗がかなりの頻度で普遍的に存在したと推定する事が可能であれば、これは今日にも演繹できる性 格をもっているのではないかと考えるのです。

 ちろん、健全な地域社会が存在している事が前提になるのですが、現代でも地方の小都市や都会の下町の様に、それなりに安定した世代構成や所得構成をもった地域においては、老人が老人の世話をする事が可能であり、また、必要であると思うからです。

体 力のない老人に老人の介護はできないのであり、それが不可能だという方がおられれば、「老人の概念規定をお改め下さい」とだけ言えば良いはずなのです。現 代の七〇歳はかつての五八歳程度の体力を保持していると言われます。本来、老人が増えたのではなく、「老人と呼ばれている健康な人々」が増えただけの事な のです。一定の教育を受けて働き、子を育て、かつてよりはるかに長い間健康で生きて居られるようになった事が、決して社会のマイナスであるはずがないので す。むしろその逆の方がよほど恐ろしい事でしょう。

  従って、そのシステムに組み込む年齢を、地域の実情に併せて自由に設定すれば良いだけなのです。場合によっては有閑マダムの中から、生まれて始めて生き甲 斐を見い出し、ボランテア的に参加する人さえ現れるかも知れません。ましてや、現在でも全ての老人に介護が必要になっている訳ではないのです(例えば七〇 歳で一、二割か)、彼らは、旧労働省の調査でも六五歳までは働きたかったと答えているのです。

 この事は、小学校程度の距離に「託老所」(昼間だけ預ける)とか「老人施設」(入所型)を建設できれば、老 人による老人の介護が十分に可能になると思うのです。必要なのはコンピュータによる二四時間体制の調整(誰が誰を何時から何時まで世話をするかを決める) を行える若い(別に老人でもかまわないのですが)オペレーターと、若干の食材や資材の提供さえあれば十分なのであり、近くに温泉でもあれば、入浴設備はな くても良いのです(どうしても入浴に半介助が必要な人のためには、そのためだけの浴室だけが有れば良いのですから)。そのキー・ステーションで判断して、 食事は作らないとすればそうすれば良いのです(老人たちは、料理を作るのが好きなのであり、この問題は杞憂かもしれません)。後は月末に互いの年金をやり 取りするだけであり、事実上、年金のキャッチボールをするだけで運営が可能になるのです。これでも老人問題はかなり軽減できるはずです。そして本当に医療 が必要な場合と、特殊な事情(全盲、重度障害など)により施設入所などが必要な場合だけ、行政が関与してやれば済むのです。初期段階での基礎的資金整備と システム作りさえできれば、後は行政の過度の介入は一切行う事なく(逆に厚生省の役人共を排除せよ)地域の自主性に任せるのです。

 障害があるような本当の重度の要介護者は別として、かなりの程度までこのシステムがカバーできるのではないかと思うのです。

 そして、何歳からこのシステムに登録し参加するかは、地域の実情によって異なるはずであり、年金の精算にし ても地域に任せればよいのです。その方式をあらかじめ全国的に統一する必要はないと思います。また、介護をする側の老人にしてもフル・タイムで働きたい人 もあれば、夏だけ働きたい人もいるはずであり、夜だけ手伝いたい人もある事でしょう。中には全く働きたくない人もいるでしょう。しかし、これも地域の自主 性に任せれば良い事なのです。

お よそ、厚生省の考える全国一律の介護水準、介護基準(要介護認定)ぐらい馬鹿げたものはないでしょう。農村、漁村、山村、東北、南九州、島嶼部、離島、下 町、商人町、職人町といった地域性、旧細川領、会津領とかいった伝統によっても、介護や老人に対する考え方は地域によって各々異なるはずなのです。

あくまでも、旧厚生省が全国一律の介護水準、介護基準に拘ったのは、そうしなければ、彼ら官僚の依って立つべき根拠が失われ、統制権が奪われる事と、利権の温床である調整能力が失われるからなのです。

こうして制度の自発性と柔軟さ(フレキシビリティー)は失われ、利権だけが目的の、極めて画一化した効率の悪い不自由な制度が作られる事になったのです(厚生省おすすめの広域制度はその象徴です)。

  話を戻しますが、前述したモデルは、全く地域に関係なく企業や宗教団体で実施しても良いのです。要するに老人自らが自らの判断で自らの帰属する、帰属した い共同体の介護システムを選択して参加すれば良いのであり、行政はそのための(古い表現になりますが)「音頭」をとるコンダクター、コーディネーターを養 成すれば良いのです(都市の再開発や土地改良事業の換地士のようないわば助言者)。行政は馬鹿げたシンポジウムや講演会を連発するのではなく、早急にこの ような地域システムの建設に動くべきなのです(これも、と、言うか、これこそが真のソフト事業でしょう)。

 これらについては、結局、帰属意識の強いO真理教、統一教会などといった宗教団体や山岸会といった半宗教的共同体、創価学会といった教団付属団体から先行して現れてくるのかも知れません。

 この組織のキー・ステーションについては廃校になった都会の小学校とか、いまや徐々に利用しなくなりつつあ る図書館敷地とかいったものを提供し、税金を免除し、建設費を公共事業として投下すれば良いのです。自治体の長、議員、土建屋といった連中は、寄って集っ てランディング・コストや後の利用を無視して、これらの利便性のある土地に何の価値もない、くだらない「女性センター」とか「コンサートホール」とか「記 念館」といったいわゆる箱物を造り上げ、住民に膨大な「ツケ」を残して税金を食い物にして来ました。このため、かなりの土地が本当に必要なもののために使 われないで浪費されてしまったのです。しかし、いずれまた少子化の延長には、どちらか一方の家が消え去り、自然に余った土地は出てくる訳ですから、希望は 捨てないようにしましょう。 

もはや行政はあてにせずに、彼らを無視して小さな共同体の中からシステムを組む事からスタートした方が良いのかも知れません。

 問題なのは、現在の老人関係諸施設や障害者関係諸施設が、がんじがらめの基準だとか監査に縛られて健常者のバリバリの勤労世代によって運営されている事でしょう。

 これは、ちょっと聞くと正しいように聞こえるのですが、医師や看護婦のケアが何人必要だとか、研修を受けた 職員でなければならないとか、部屋の広さはどうしなければならないとか、しかも設備、機材まで基準を設けて、息のかかった業者(たいていは天下り先)に納 入させる制度が既にできあがっているのです。

確 かに、特殊で専門的な技術、技能を要求される医療に関しては一定容認できるものの、それ以外にまで拡大して(特養、障害者福祉、老健)いわば聖域として扱 い、排他的独占的に税金を回収するという仕組みは、支払いするものが国家であり最も安全な収益が保証された事になるのです。

 結局のところ、社会福祉法人といっても医療法人の母体であるものも多く、特養、老健の上がりで大病院の新築費用が捻出されている事は常識です。

 老人介護にまでこの傾向が延長される場合は、国家は財政マヒに陥る事は必定なのであり、せめて老人介護に関してだけは、この傾向が排除される事を望みたいと思います。

 まず、人は全て老人になるのであり、最終的には誰もが衰弱し最後には死を迎える訳です。そして、本来、専門 的研修など受けていない家族や共同体の成員によって行われて来たのです(本来、家族制度が機能している場合は、祖父母を介護する母親の姿を見ながら育つ事 こそが最良の子供たちへの研修なのです)。

 この事は、少なくとも老人介護(場合によっては障害者介護も)には技能などは要らないはずなのであり、このように制度を利権がらみで排他的に仕組むのではなく、開放的に誰でもが携わる事を許す方向で仕組むべきなのです。

 こうすれば、介護単価を低減できるのであり、無駄を省き役人の数も減らせるはずなのです。

 恐らく現状の「介護保険制度」では将来巨大な赤字を抱え込み、十年を経ずして大規模な修正を必要とするか、破綻を招く事になると思われます。

最期は利権の温床となり、同時に赤字を生み続ける「舟上の塩吹き臼」となるでしょう。

 我が憎むべきミルトン・フリードマンが三十年も前に述べた言葉ですが、人 は「自分の金を他人に使う場合」が一番慎重で、「自分の金を自分に使う場合」が二番目に慎重になり、その次が「他人の金を自分のために使う場合は甘くな り」、最もいい加減な金の使い方をするのが「他人の金を他人のために使う場合」なのです。前述した「老人による老人の介護システム」は「自分の金を他人に 使う場合」と「自分の金を自分に使う場合の中間型」に近いのですが、公共事業や措置費は事実上最後のケースである事を考えておくべきなのです(上方言葉の 「割り前」)。

 公的介護保険制度が今後ともうまく機能するか否かはわかりませんが、年金のキャッチ・ボウルを介在させない制度はいずれ行き詰まる事になると思います。

 私は、公的介護保険制度に反対する立場でも推進させようとする立場でもありませんでした。

もともと既存の医療制度、福祉制度そのものの制度疲労と一部の利権化とを強く意識していましたので、本来、公的介護保険制度導入に際して、長期的展望に立った医療、医療保険、年金、障害者(精薄)福祉、高齢者福祉、雇用を根本的に仕組み直す必要があったと考えています。

 しかし、既存の福祉の制度を擁護する意志はありませんし、根本的制度の見直しはいつの時代でも破綻無くしてはできなかったものです。

容易に予測される公的介護保険制度の崩壊によって唯一新たな体系的制度への道が築かれるべきであると思っています。

  現在、老人介護は社会福祉法人、医療法人などが税金を食い物にする形で維持されています。そして、賃金の低い若い労働力によって運営するために、バリバリ の若者に行った事もない集落に住む全く世代のかけ離れた縁もゆかりもない老人を介護する形になっています。多くの事件や事故や乱暴な扱いが生じる原因もそ こに存在するのです。

私 が介護保険導入以前から主張していた仮称「老老介護」は小さなコミュニティー、地域で仕組むために、誰もが誰もを知っている中で、しかも、考え方、行動様 式、嗜好性の近い者に介護を担わせるために、このような問題も生じ難くなると思うのですが、国家、社会、共同体の全面的解体なくしては現実にはならないも のと考えています。 


この文書は介護保険制度の導入を巡り十年前に書いていたものですが、今回、部分的に手を加えて掲載する事にしました。

実は、当時、労働省も一部にこれに近い構想を持っていたようですが、社会福祉法人、医療法人が介護保険を食い物にしようとする構想の中で全く顧みられませんでした。旧労働省など、旧厚生省の敵ではなかったのです。


どうやら地名研究会研修所もそれらの拠点になりそうですね!



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