extra003 宇佐神宮とは何か? ③ “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺”
「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載
20150403
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
これは、恐らく久留米周辺に住んでいる人間でなければ気付かない事かも知れませんが、宇佐神宮を考える上でも重要な要素と考えますのでお知らせしたいと思います。
まずは、次の地図と写真を見て頂きたいと思います。
大善寺玉垂宮と言えば、久留米に於いて高良大社と並び称せられる知らぬ者のない大社ですが、この久留米市大善寺町の大善寺玉垂宮と宇佐市大字南宇佐字大善寺が対応しているのではないかと気付いたのです。
写真は大善寺玉垂宮大鳥居前に掛かる傘(からかさ)橋です。土地の古老から「この橋は、昔は偉い人しか渡れなかった…」と今も聴きます。
同社が高格式の神社であることを考える時、宇佐八幡の呉橋同様、天皇もしくは天皇の勅使しか渡ることができなかった「呉橋」のなごりを残す痕跡地名ではないかと考えたのでした。
どちらも九州王朝(呉の太白の裔=姫氏)の天子が参拝する重要な神社(実は九州王朝の神宮)だったからこそ呉橋があったと考えるのです。
驚くことに宇佐八幡の呉橋の上流200メートル、下宮にも近い所に大善寺という字名が残り、大善寺という禅寺があるのです(久留米の大善寺町にも天台宗の古刹大善寺が現存します)。
これに関して2013年7月27~28日太宰府地名研究会主催で宇佐神宮トレッキングを行いました。
この時のレポートを友好ブログの「ひもろぎ逍遥」で彩杉るな女史が書かれていますのでご紹介しましょう。
今回のポイントは「呉橋は勅使道に架かっていて、創建は倭の時代」ということです。(のちに倭国と日本国の並立時代がやってくる)呉橋(くれはし)には屋根がついていますね。勅使は右の鳥居から橋を渡るのでしょう。私が建っている所は一般人の通れる橋で、神橋といいます。川は寄藻川といいます。で?何なの だ?これが何を意味する?るなの頭はこの辺りで思考停止するのですが、この呉橋の特殊性に気づいてツアーを組んだ古川清久氏はメンバーにどうしても見せた いものがありました。それは呉橋のすぐ近くの大善寺です。大善寺?久留米市の人は「え?」て思うでしょ。大善寺玉垂宮と同じ字のお寺が宇佐神宮の隣にあったのです。私たちは迂回して川の上流に出ました。
ここは「大善寺橋」の上です。川の向こうに長い屋根の建造物が見えますが、それが先程の「呉橋」です。この橋は白龍山大善寺の前に架かっています。
勿論、大善寺の傘橋については、「川の氾濫で簡単に橋が流失するため、川に橋脚石を立て、これに両岸から橋桁を差し、川が氾濫するとすぐに橋桁を外すこととし、『抜河曳橋』とも呼ばれたが、 この姿が“からかさ”を開いた姿に似ていたので「傘橋」と名付けられた」と言われている事は承知しているのですが、私はかつて「呉橋」が存在した痕跡地名 と考えています。(古川)
それは、この両方に大善寺と言う地名と大善寺と言う寺が存在していた可能性があり、九州王朝が滅亡し(701年)、九州の総廟が高良大社から宇佐神宮に移行する(749年)までの間の725年に現在の宇佐神宮の境内の一角、呉橋正面に弥勒寺が置かれているのです。
恐らく、その前に存在していた神宮寺が大善寺だったのではないでしょうか?
宇佐の大善寺は現在でこそ曹洞禅宗ですが、国東六郷満山の天台に近いだけに元は天台宗だったと思われます。その証拠と言うほどのもではありませんが、ここにはその弥勒寺から移されたという菩薩像が今も残されています。
これが白龍山大善寺の正面です。古川氏は久留米市の「大善寺玉垂宮」の前に架かる橋「傘橋」も、「傘」という字から、貴人しか通れない橋を意味していると言 います。宇佐と久留米の相似はいったい何を暗示している?薦神社の呉橋と勅使道。宇佐神宮の呉橋と勅使道と大善寺。大善寺玉垂宮と傘橋。この三つの橋は貴 人しか通れない特別な橋。U~NN.うまく書けない。人の発見を、何で るなが苦労して解説しているんだい。 (-_-;)勅使道というのは天皇の使いが通る道。奈良・平安時代なら天皇の所在地は近畿なので出発点は近畿だけど、呉の国の人が生きていた時代は倭の時代だから、勅使の出発点は近畿ではない。そうすると、出発点は同じキーワードを持つ大善寺玉垂宮だということでしょうか?あるいは大善寺玉垂宮は通過点?つまり、天皇あるいは王は筑紫の方にいた。そんな理解でよろしいのでしょうか。
これについてしばらく考えていたのですが、まさか。るなの仮説とつながってる?
「ひもろぎ逍遥」宇佐神宮6“呉橋と大善寺 暗号をどう解けというんじゃい”より
宇佐神宮から西へと延びる勅使道を思う時、この古代官道とは近畿大和朝廷のための物ではなく、九州の総廟であった高良大社と大善寺玉垂宮と九州王朝の神宮で あった宇佐神宮とを繋ぐものだったのであり、だからこそ、呉の太伯の裔としての高良玉垂命とその勅使(贈応神天皇など渡ることなどできなかった)だけが渡 るものとして呉橋が置かれていたと考えるのです。
この宇佐の大善寺の正門上に三五桐(高良玉垂命のお妃神功皇后の神紋)を見て“やはり”と思っています。九州王朝論者でさえも宇佐神宮は近畿大和朝廷の神宮 としか考えていませんが、百嶋神社考古学では、宇佐神宮は九州王朝の神宮だったと考えています。大善寺はその傍証と言えるかも知れません。