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スポット045 糸島市の桜井神社とは如何なる神社なのか? ① “マドゥルガダの岩戸神事“

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スポット045 糸島市の桜井神社とは如何なる神社なのか? ① “マドゥルガダの岩戸神事“

20160628

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


桜井神社は十年ほど前に一度参拝したことがあるのですが、72日の早朝(4:00~)に岩戸神事が行われるからと誘われ、実質的には初見の神社と言える桜井に熊本から二十名ほどで訪問する事にしました。

従って、これは事前の下調べのための作業ノートという事になります。


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桜井神社とは一体如何なる神社なのか良く分からなかったのですが、現在、神直日大直日と八十枉津日神、天神地祗…を祀る神社とされています。

まず、「福岡県神社誌」中7375pには、「加之肥前藩よりの(恐らく佐賀川上の淀姫神社~/古川)奉賽者非常に多く現今(昭和19年当時/古川)も佐賀縣方面よりの参詣尚多し」「今を距る事三百十有余年、後水尾天皇の御宇寛永六年工を起し同九年に竣工せしものにして是即現在櫻井神社の建物なり。神位一位社号を與土姫大明神と崇称せしも明治二年櫻井神社と改称せり」とあるように、元は佐賀県の淀姫神社(川上の淀姫、三瀬村無津呂の淀姫外肥前国外に十数社)が筆頭社として含まれていた事が分かります。

 ただ、現在の配神を見る限り、境内社、摂社、末社にも淀姫の片鱗もなく、今は、この系統の神々(淀姫=豊姫、川上猛)が消されている事が分かります。

 驚かれたでしょうが、百嶋神社考古学では淀姫(豊姫)は逆賊河上タケルの妹としますので(これが明治期の県社昇格に絡んで消された理由と考えられそうです)この兄妹の父親は表筒男命=ウガヤフキアエズであることから、住吉三神の一神(表筒男命)として僅かに痕跡を留めているようです。

 恐らく、この神社の基層には先行して 末社扱いとなっている須賀神社の信仰圏があり、その上に、境内神社扱いとなっている岩戸神社(大綿積神)が、次に、春日神社(健御雷之男神、天児屋根 命…)が、次に金毘羅神社が、最期に、黒田によって武内宿祢系統が被せられていったものと思われます。

勿論、誰もが祀られている事から完全に消された淀姫、河上猛系統は別として、多くの権力の交代によって、実際には誰が祀られているのかが見えなくなっているようです。

 ただ、昭和63年現在でも主祭神は神直日神、大直日神とされていることから、これが如何なる神であるかが分からなければ、最も重要である桜井神社の基本的な性格は見えないことになります。



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百嶋由一郎最終神代系譜

詳しくは「福岡県神社誌」を読まれるとして、この神社の性格を考える上では、黒田入府以後の武内 宿祢以下…は除外して良いでしょう。重要なのは明治二年までは筆頭社が淀姫神社と呼ばれていた事です。従って、江戸時代までは“大和朝廷に逆らったとされ る逆賊河上猛の妹で安曇磯良(表筒男命)の夫である淀姫”を祀る事も許されていたという大らかさが見えるのです。

 この安曇磯良の父はウガヤフキアエズであり、そのまた父が山幸彦(ニギハヤヒ)であることを考えると、明治以後、何故か山幸系が排除されている事が見て取れるのです。

sp45-3 淀姫の夫であった表筒男命の父であるウガヤフキアエズのお妃こそが同社の主祭神である「神直日」(実は鴨玉依姫)という事になるのです(淀姫の義理の母親)。

 ただ、鴨玉依姫は、後に草部吉見神と宗像の市杵島姫との間に産まれた大山咋(阿蘇国造=速甕玉命)松尾大神=日吉神社=日枝山王権現を大恋愛の後次の夫とします。

この大山咋神(出雲佐田大社の佐田大神)こそがもう一人の主祭神とされる「大直日」になるのです。

ここまで見てくると、海幸系と山幸系の対抗関係まで浮き上がってくるのですが、この事については糸島半島に関わる非常に面白い神事が絡んでいる事から、関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥 152ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」をお読み頂きたいと思います。

また、“淀姫(佐賀市大和町川上)が逆賊川上猛の妹などという話は初めて聞いた”という方は、長文になりますが久留米地名研究会のHPから31「淀姫」をお読み頂きたいと思います。


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糸島半島では、今も幾つかの神社で、馮河黎来(ヒョウカリイライ)の掛け声のもと、山幸彦(ニギハヤヒ=伊都の長官 爾支/ニキ)側の氏子から、海幸彦(阿蘇草部吉見)側を非難する神事が続けられています。

 両者のお妃であった鴨玉依姫の神霊を争う「玉競り」ですが、この半島からの玄関のような地は、神代の実力者同士(海幸、山幸)の確執があった領域と考えられるのです。

 そのことからも、両者の勢力は拮抗しており、その均衡の上に表看板を淀姫神社として山幸側の顔を立て、実体としては海幸系に寄った大山咋、鴨玉依の二神としていたバランス感覚も読み取れるのですが、神社誌を読む限りは、どの段階で昭和63年当時の祭神が成立していたのかは不明です。

 ただ、淀姫神社を筆頭とし、西宮神社、久保神社、谷熊野神社、末松神社、木浦神社、熊野神社、天満宮の8社の合祀集合により縣社桜井神社が成立した事が分かります。

 県社設立のために8つの神社の神事、祭事が持ち込まれ、結果的には分からなくなっていますが、その何れかに天岩戸神事が続けられていたのだと考えられそうです。

 なお、百嶋神社考古学の神髄である講演録音声CD、手書きデータDVDが必要な方は09062983254まで。


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