332 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ② “庄原市東城町天照真良建雄神社”
ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載
20160501
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
広島県庄原市西城町の木山神社(爾比都売神社)を見せて頂き、次に向かったのはJR芸備線の備後落合方面でした。途中には、ヒバゴンで有名になった?比婆山駅もあります。そのまま進めば島根県に入ってしまいますので、東に向きを変え、東城町方面に進み、岡山県の新見、真庭へと向かう事にしました。
比婆山駅を過ぎると右手に「八鳥」と言う地名があります。
ヤタガラス、鳥子、服部、ハッティシェリさえも頭に浮かんでくるのですが、それだけではただの思い付きでしかなく、そこで行き止まりになってしまいます。
次に、見せて頂いたのは、JR小奴可(オヌカ)駅から多少山中に入った天照真良建雄神社でした。
まず、小奴可という地名ですが、地名研究の立場からはこの様な3文字の地名は713年の所謂好字令以前のものであり、この集落が非常に古くから開発された土地であることを物語っています。
そのような土地だからこそ、天照真良建雄神社といった仰々しい(ある種凄まじい)社名も残っているのです。
広島県神社誌には搭載されているようですが、手元にないため祭神が不明です。
ネット上には、インドの神との話が出て来ますが、天台修験の領域のためない話ではありません。
『日本三代実録』貞観三年(861)十月二十日条に、備後国正六位上の大神神、天照真良建雄神に並びに従五位下を授く。という神階昇叙記事があり、これらの神は『延喜式』神名式へ登録されていないことから「式外社」、また国史に名が見えることから「国史現(見)在社」とも呼ばれ、この国史現在社は備後国内に五社が知られているが(神田神、大蔵神、大神神、天照真良建雄神、隠嶋神)、
上の記事中の「天照真良建雄神」を「あまてらすますらたけをのかみ(天に照り輝く、雄々しく猛々しい男神)」と読み、これを素戔嗚尊の別名として当社に比定する説がある。
小童は京の祇園社が社領としたほどの地であることから、*当時、小童には中央に知られるほど武塔神・素戔嗚尊に対する強い信仰があり、当然それを祭る有力な社があった*神祇官が管理しない式外社にもかかわらず中央にその名が知られていたことから、過去その祭神に神階が授与されていた可能性は高い*よって備後国史現在社五社のうちの一社が小童の社となり、それに該当しそうなのは天照真良建雄神ということになるか。ただし両者を直接結びつける物証はなく、もしこれを「あまてらすまらたけをのかみ」と読んだ場合は、 記紀や『先代旧事本紀』にみえる鍛冶師の祖神「天津麻良(あまつまら)」に美称を重ねた形とも思われ、「真金吹く」吉備の国は古代より製鉄が盛んだったことから、いずれかの鍛冶集団の守護神であったとも考えられる。
その場合、世羅郡にも「カナクロ谷製鉄遺跡」があり(世羅郡世羅町黒渕)、これは6~7世紀の製鉄炉跡とみられているので、天照真良建雄神が鍛冶神であったとしても世羅郡内に祀られていた可能性がある。
須佐神社や、南の亀甲山に鎮座する武塔神社の境内には末社「金神社」があって、これはかつて製鉄が行われていた名残とも思われる・・・ と、神名ひとつでは材料が少なすぎて何とでも言えてしまう。確定には有力な物証が必要。「備後国内神名帳」でも発見されればいいんだけれど・・・国内神名帳は法会において国内の神々を勧請する時に用いられることがあり、その国内で有力であった寺院に保管されていることがある。どっかの寺にでも残っていないものか。(*「天照」の称について・・・現在、「アマテラス」といえば伊勢の神宮に祀られる神様をさす
が、もともとは「天に照り輝かれる」という「天上の存在に対する美称」であって、固有名詞ではない。『日本書紀』には、「日神(ひのかみ)」の御名を「大日孁貴(おほひるめのむち)」とし、別名として「天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)」としていることからもわかる。『万葉集』にも、「あまでらす 神の御代より 安の河 中に隔てて・・・」という歌があるが(4125)、この「あまでらす」は「アマテラスオホミカミ」のことではなく「(天上の)神」の枕詞として用いられている。「天照大神」とは、「天に照り輝かれる大いなる神」という、至って貴い存在を呼ぶのに固有名詞ではなく普通名詞をもってあらわした形。目上の存在を呼ぶときに本名ではなく「先生」「社長」「ショチョォ!」のように肩書きで呼ぶ、という感じか。また、記紀が編纂された頃には日神としてだけでなく農業神・武神・皇祖神など様々な神徳・属性を付与されており、「大日孁貴」という、意味が「日の女神」に限定された固有名詞では、それらを包括するには充分ではなくなっていたこともある)
HP「にっぽんのじんじゃ・ひろしまけん」による
非常に参考になる先行ブログをお読みいただきましたが、まだ、腑に落ちません、このように顔の見えない神社は数多くありますが、なんらかの痕跡はあるものです。
境内摂社には、エビス、大黒のセットが置かれていることから、天台修験が覆い被さって来る以前の配神は、恐らく大国主命が…、また、皆さんお気づきになっていないようですが、境内摂社の祠の神名(木)札に「鷺大明神」があり、なお、鳥居にも「鷺大明神」と読める神額があることから、ある時代にはこの鷺大明神こそが祭神であったものと考えられます。
では、この「鷺大明神」とは誰のことでしょうか?
当久留米地名研究会のお膝元、久留米水天宮の付近にある久留米市大石町の天照御祖神社の表面上の祭神こそ、この鷺大明神=天照国照彦天火明櫛玉饒速日=山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒの命なのです。鷺大明神と書かれているのがお分かりになりますか(画像は見やすくするために多少加工しています)?
詳しくは ひぼろぎ逍遥(跡宮)108「伊勢天照御祖神社 “久留米の佐岐神社は誰を祀るのか?”」をお読みください。一応、その一部を以下に掲載しておきます。
伊勢神社、皇大神宮、大神宮といったものや天照大御神を祀る神社が以外と少ない事は確かで、佐賀市の伊勢神社、福岡県小郡市の御勢大霊石神社、伊勢山神社、福岡県久山町の伊野皇大神宮…と数えるほどしかありません。
ところが筑豊に入ると、天照神社なるものは、大抵、ニギハヤヒを祀るものであり、天照国照彦天火明櫛玉饒速日(アマテルクニテル ヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)という物部の神が祀られているのです(恐らく久山町の伊野皇大神宮も、伊野という地名から考えても本当はニギハヤヒを祀っているはずです)。
ここで、少し結論を急ぎます、もし誤っていたら、将来、訂正を入れる事とし、思考錯誤を繰り返しながらも少しでも真実に近づくには作業仮説を提出する事を恐れてはならないのです。
仮説① 佐岐神社とは、今は天照国照彦天火明櫛玉饒速日=山幸彦=猿田彦を祀るもので、元はそのお妃である豊受大神(伊勢神宮外宮)=辛國息長大姫大目命=アメノウズメを祀るものだったが、その夫である山幸彦と入れ替わったもので、外観としては千木がそのまま元の姿を留めているもの。
仮説② 佐岐神社とは、今も豊受大神(伊勢神宮外宮)=辛國息長大姫大目命=アメノウズメ豊受大神を祀るものであるが、その夫である天照国照彦天火明櫛玉饒速日=山幸彦=猿田彦を表に出しているもの。
少しニュアンスが異なりますが、ほとんど変わりません。それは「佐岐」の語幹がどちらの物かが見当が付かないからです。
ただ、百嶋神代系譜(阿蘇ご一家)に山幸彦の別称として、大伊乃伎神と書かれているものがあることから、佐岐と伎が音通しているように感じるものの、豊受大神にはその様な別称を見ないからというだけのことです。
107 香春神社 “アメノウズメノミコトを主神として祀る神社である事をご存じですか?” において、も、豊受大神の前夫、後夫が海幸彦、山幸彦であることは述べましたが、男神、女神についての混乱が、伊勢神宮ばかりでなく伊勢系神社に認められる事から、後の蘇我物部抗争とも絡んで、山幸彦を表に出せなかった時期もある上に、神格としては遥かに高いアメノウズメが本来の神ではないかと思うものです。
従って佐岐神社が本来であったが、物部全盛期に伊勢天照御祖神社(山幸彦が本体)が跳梁跋扈したものの、その後、物部氏が表に出せなくなった結果、本来の佐岐神社に戻ったものかも知れないのです。
少なくとも伊勢の名に踊らされ天照大御神が祀られているとするのは誤りだろうと思うものです。
ただ、明治期は伊勢神宮の天照大御神なる女性神が祀られていたと装っていた可能性はあるのですが…。
いずれにせよ、先行する、スサノウ、大国主命信仰の上に物部のニギハヤヒ奉祭が成立し、室町から戦国期の神仏習合による牛頭天皇への復帰と併せ、仏教系混合神を受入れたのがこの神社の性格ではないかと考えているところです。
なお、この地区を下り、東城町の中心部に向かう途中の右手に朝倉山があり持丸地名が拾えます。
また、この一帯には、木瓜紋を倉に付す家もあり、福岡県の現朝倉市と対応します(持丸もあります)。
恐らく、千数百年以前と思いますが、古い時代にこの地区には九州からの移住、開拓、植民、逃亡?…が行われたものと思います。
少なくとも、地名はその事を物語っています。このように僅かな痕跡から多少の解析は出来るのです。
こちらは、グーグルマップで福岡県朝倉市持丸を出したものです。大己貴神社(大国主命)もあります。