extra007 宇佐神宮とは何か? ⑦ “宇佐神宮の向こう側”
「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載
20150406
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
宇佐神宮の上宮に参拝された方でも本殿内部を見られた方は少ないと思います。
中に入る事ができるような参拝殿はなく、楼門の先に申(モウモウス)殿があり、一の御殿、二の御殿、三の御殿があるのですが、実際には格子窓の入った回廊があるためほとんど中を見る事はできないのです。
結局は御許山遥拝所から山を見て帰ってこられた方が多いのではないでしょうか。
右手には祈祷殿があり、有力者はそこから神殿にも入る事ができるようですが、かく言う私も祈祷殿から内側を垣間見た程度でしかありません。
しかし、今は配付されていませんが、昔は一般にも公開されていた資料があり、それを見ると内部の配置を見る事ができるのです。
この一社三殿三神の様式が確立したのは九世紀以降であり、それ以前は一社一殿一神の時代もあったのです。ただ、その話は後に廻すとして、まずは、神殿配置図をご覧ください。
良く識者が口にする(俗に言う「八幡宮様式」)など、この神宮の本質には全く関係がないので無視して頂いて構いません。
重要なのは、この神殿の中に別の神様が鎮座している事なのです。
この神様こそ別王でしかない(誉田別尊、誉田別命、大鞆和気命と別、和気の入った和風諮号が付されています)第15代応神天皇が宇佐神宮に祀られる以前に祀られていた(もしくは宇佐を支配していた)本来の祭神ではなかったかと考えています。
宇佐神宮は高格式のためか、回廊で囲まれた結果、通常の神社境内地に置かれる事になる摂社が神殿内に残された(囲われた、取り込まれた)事になったものと考えられます。
一の御殿=応神天皇(春日神社)、二の御殿=比売大神(北辰神社)、三の御殿=神功皇后(住吉神社)の配神に対して、各々、介添え役(スポンサー)内がおられるのです。
ただし、「住吉神社」としても、「ひぼろぎ逍遥」155.「百嶋神社考古学では住吉三神をどう考えるか」で取上げたように、それは初代住吉様=ウガヤフキアエズではなく、神功皇后をお妃とする二代目の住吉様=高良玉垂命=第9代とされる開化天皇なのです。
「春日神社」にしてもこれまで一貫して書いてきたように、阿蘇高森の草部吉見神の事なのです。
ここでは、このような三つの摂社が存在する事をご紹介しただけに致します。
さらに別の側面から考えて見たい。宇佐神宮の西に位置する呉橋からは旧道が近くの「化粧井戸」を通り、一路、中津、豊前、採銅所のある香春岳へと勅使道が延びている。
その中間とも言える豊前市四郎丸山田に今も住吉大神を祭る大富神社があり「勅使井」が置かれている。
当 然にも近畿天皇家、大和朝廷からの勅使と説明され、和気清麻呂も含め明治期にも使ったとされるのだが、辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命の三神を祀る 香春岳一帯と宇佐との行路上にあるだけに、九州王朝の本拠地である太宰府、久留米高良大社とこそ通じていたと考えたい。
もしも、近畿天皇家の勅使であったなら宇佐神宮の呉橋の下を流れる寄藻川河口に鎮座する宇佐市和気(ワキ)の古代の岬(浅潟地は岬がに港になる)柁舵鼻神社辺りに直接船付けしそうなものである。
事実、同社の縁起にはそう書かれている。また、この勅使もしばらくして途絶え、ようやく明治期に復活したとも伝えられている。
では、天皇または天皇の勅使しか渡れないとされた呉橋を渡った後、その一行はどこへ向かうのであろうか。当然にも、上宮の二の御殿正面の勅使門であろう。
今は失われているらしいが、「この勅使門の内側には神棚が置かれ阿蘇の神と高良玉垂命が祀られていた…」と、以前直接神職から聴いたが、非常に興味深い話であり、以来九州王朝との関係を考え続けている。
ここで、何時の時点かで本来の祭神「比売大神」と一の御殿の祭神「誉田別尊」とが入れ替わったと想定して見よう。
それまで誉田別尊はどこにいたのであろうか。実は境外社であるが、宇佐神宮の摂社に「鷹居神社」がある。
この応神天皇、神功皇后、仲哀天皇を祀る神社には『八幡宇佐宮御託宣集』に基づいて「…この兩所は、宇佐郡の大河にあり。鷹に代り瀨を渡り東の岸の松に居しき。また空を飛び西に岸の地に遊す。故に鷹居瀨社と云ふ。この鷹は、これ大御神の變なり。大神比義、祈り奉りこれを顯す。祠を立て、祭を致すなり。…」(日本國御遊化部)という縁起がある。
辛島氏、大神比義の時代、誉田別尊はこの地にあったと考えたい。古来、神社と寺院は形を変えながら、時の権力に合わせ、時としては神社、時としては寺院に装いを変えながら生き延びてきたが、その神社と言えども時々の勢に合わせ、時として祭神を隠し、入れ替え、あるいは合祀してきた。
それは、奉祭する神とその氏族を守るためであり、それ以外に仕方がないことではあっただろう。
ただ、そうして入れ替えられ排された神といえども、祟りを恐れてもあるが、決して粗末に扱われることはなく、どこかに祀られていることが多い。
そうした眼で、一般にも手に入る「宇佐神宮御本殿について」を見ると、八幡宮様式の社殿側面図の下に平面図が書かれ、通常、容易には入れないために殆ど垣間見ることができない神宮の配置が分る。
これを見ると、前述の大富神社には祀られている住吉大神、春日大神、妙見神が排されているのではないかとの推定が一応できる。
ただ、春日大神が藤原氏を意味するものか、阿蘇神であるかは実物を見ないこともあり判らない。
宇佐のまほろばを安心院、院内としたが、院内インター付近には天御中主命ほかをまつる北辰神社があり、安心院インター付近にも住吉大神を祀る飯田神社があることに思い至る。また、春日大神は、境内の下宮近くにも確認できる。
さらに踏み込もう。弘仁14年(823)に神功皇后が三の御殿として祀られたとしたが、もし、住吉大神が比売(姫)大神であり、高良玉垂命であるとすると高良大社で触れた「高良玉垂宮神秘書」(同紙背)の上注「高良大明神は神功皇后と夫婦なり」が生きてくるのである(高良大社の項参照)。
なぜなら、高良玉垂命と夫婦であることを知っていたために、三の御殿の神功皇后が傍に置かれ、また、宗像三女神と入れ替えられた後も、住吉神社としてそばに置かれたと見ることができるからである。