extra008 宇佐神宮とは何か? ⑧ “神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内に鎮座する”
「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載
20150407
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
宇佐神宮の元宮については諸説あります。
中津市の薦神社説、宇佐神宮境外摂社の鷹居社説、宇佐市安心院の妻垣神社説、飯塚市の大分(ダイブ)八幡宮説、御許山の大元神社説…これらを全て見て回るだけでも目が廻りそうですが、それなりの根拠や謂れがあり一概に無視できるものではないのです。
それは、宇佐神宮に於いても、千数百年、若しくは二千年近くまで降る歴史があり、多くの勢力の入れ替わり、合流、離反が存在したからであって、その各々の 勢力(直近の到津家はともかく、大神比義、唐島、古くは筑紫の君=九州王朝)の故地、故社がそれぞれ元宮として崇敬された過去、時代が存在したからと考え られるからです。
ただ、私達のような神社考古学の徒にとっては、今尚、現存する神社、故地、社伝を実見し、フィールド・ワークによって検証して行く事が唯一の方途であって、第一には現場から入る事を最重要視しているところです。
そういう意味では、“古来、宇佐八幡宮の故地が院内、安心院の一帯(安心院盆地)だったのではないか”とする伝承は重要で、文献上も「古事記」「日本書紀」に各々「一柱騰宮」「足一騰宮」として足跡を残す現「妻垣神社」が現存するこの地を無視する事はできないのです。
その意味で、もし安心院盆地が「記」「紀」に名残を残す(従って八世紀以前の)故地であれば、上宮内摂社の痕跡(097 宇佐神宮とは何か? ⑦ “宇佐神宮の向こう側”参照)が必ず安心院盆地内にも拾えるのではないかと考えたのでした。
結果は意外と容易く見つかりました。
院内IC付近に上宮内摂社の二社、北辰神社(宇佐市院内町香下)がIC正面に、同じく住吉神社(院
内町小坂)が鎮座していたのです。
安心院盆地はかつて巨大な湖だったと言われています。その盆地の出口に相当する場所にこの二社が鎮座していたのです。
この一帯は川による浸食が大きく、また屈曲しているため土砂が堆積しやすく、洪水によって水平堆積が繰り返された結果比較的平坦な平野が形成されたようです。ただ、川床底が低く湖の水が抜けて以降、長年月が経過していることも事実の様です。
住吉神社と春日神社に関しては誤って画像を消去してしまっているようで、今回は掲載できませんでした。場所は地図でお分かりと思いますので実見をお勧めいたします。
では、もう一つの上宮内摂社である春日神社はどこにある(あった)のでしょうか?
実は、後の行政の中心地である宇佐市川部にあったのです。
数 年前、この地を訪れ実見しましたが、陸化のテンポを考えると、駅館川河口という古代におけるウォーター・フロントであり要地であったことは間違いがなく、 阿蘇の草部吉見神の流れを汲む後の藤原氏の宇佐における、目の行き届く根拠地近く亀山の地に宇佐神宮を移転したのではないかとの思いを深くしたところで す。
そう言えば、古代の中国への貿易港と思える球磨川河口の徳淵(徳佛)港(熊本県八代市)にも春日神社が置かれており(ここには正倉院が置かれていたと「続日本紀」に記載があるようです)、商業的利権を確実に手中にしていたことが分かります。
面白いのは、球磨川河口に高下(コウゲ)地区があることです。
この古代の貿易港であったと思われる徳淵湊の付近に「コウゲ」があり、安心院の北辰神社(妙見神社)が香下(コウゲ)地区があることです。
八代と言えば妙見神社との反応が出るほど、神社関係者には名高い妙見信仰の起点(私にはそう思える)だけに、この九州の東西に存在する高下、香下(コウゲ)という地名は天御中主に関係したものだったのかも知れません。
安 心院盆地から流れ下る駅館川の河畔に宇佐市役所があり、古代官道の伝駅の名残を表す駅館(ヤッカン)川の傍に春日神社が置かれた事は、瀬戸内海を利用した 内国物流の要衝を制した事を表しており、宇佐神宮が最終的にどの勢力によって保持されたかが良く分かるような気がします。
では、それは何処から持ち出されたのでしょうか?
勿論、安心院盆地のハート・ランドとも言うべき場所にあったのだと思うのですが、ここではその話にまでは踏み込まず、上宮内摂社の元宮が元々存在していた可能性を指摘して置くだけに留めます。
余白が出来ましたので、今回も、芦北町在住の吉田耕一画伯の素晴らしい絵を見て頂くことにします。