スポット062 深夜にアクセスしてこられる多くのフォロアーと新たな神社研究者のblogについて
20161121
「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」太宰府地名研究会 古川 清久(百嶋神代史研究会準備会)
茨城県で百嶋神社考古学の立場から神社研究を行っておられる方のご自宅の離れを拠点に、念願叶った北関東の神社調査を行っていた11月7日、神社専門の「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」ではなく、「ひぼろぎ逍遥」のアクセス数が日量1,650件ほどの数字を打ち出していました。
7日実績を、翌8日の朝8時に管理者向けに公表するものですが、日本最大のアメーバ―・ブログでも日量1,650件はかなりの上位になることからジャンル別ですが35位になっていました。
以前にも、1,500件と2,000件を数回経験していますが、最近ではかなりの大型アクセスになりそうです。
その数日後も連携blogの「常陸の国探検隊」へのアクセス数が日量2,000件を越えたと言っておられましたので相互に波及し合い高まり、共振する事が現実に起こり始めたように思います。
事実、「ひぼろぎ逍遥」が1,600超えとなった数日後に関連記事を書いておられた「スピリチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」が600件超えになったと言われていましたので、1600件からの一部がそちらに流れたのだと考えられそうです。
さて、実は先発blogの「ひぼろぎ逍遥」は記事の絶対量も多い上に、古代史、地名、民俗学と広いジャンルを取り上げているのですが、ここ半年ほどで、神社を対象とする後発の「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」の方が月間アクセスで1,000~2,000件程度上回り始めました。
今のところ、二本のblogによるアクセスは年間30万件から35万件程度ですが、来年は確実に35万件から40万件に上げたいと思っています(日量1,100~1,200件)。
それだけ、神社、神様への関心が高まって来ているような印象を持っているところです。
この「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」はアメーバ―・ブログではなく、「さくら」というブログで作成しています。
このため、アメブロでは瞬間値が出ないものの、「さくら」では朝6時時点でのアクセス数が分かる仕組みになっています。
十日ほど前のことでしたが、驚くことに朝6時の時点で、50人ほどにより既に300件のアクセスをされていたのでした。
インターネットではチラッと見ただけのとか、仕事の合間にちょっと開いてみたとか、画像だけを眺めていた…と言うものではない事はどなたも理解できると思います。
要するに、夜中の12時から朝方の6時という朝まだきに、一人、平均6本ものブログを読んでおられる方が何十人もおられる事は間違いない訳で、ネット上の閲覧者など取るに足りないものと言った評価は全くできない事はお分かり頂けるのではないでしょうか?
朝も明けない暗く寒い中で、人知れずネット上に釘付けになっている真剣なフォロアーと、たった月に一度程度の月例会(十年やったとしても百回程度)にも来たり来なかったりで、右から聴いて左に抜けて行くような、また、半分は居眠りして、何を聴いたのかも覚えておらず、配布された資料も忘れて行くような方々を相手に行なう研究会が、仮に十年継続し存続できたとしても何の痕跡も残すことなく消え失せ、忘れ去られて行く事だけは確実なのです。
そのような研究会から最低でも自分の足で現地を訪れ自分の目で確かめてみようとか、自分で調べて研究して見ようとか、記録を将来に残そうといった気持ちを持った意識的な研究者による集合体型の研究団体に切り替えていくと言う重要な任務を強く意識しているところです。
右から聴いて左に抜けて行く人達だけの会を何年維持しようが、何の意味もない親睦団体、ぬるま湯的な趣味の会に陥り、いつしか行政主導の町興し、村興しの協力団体に成り下がり、挙句の果てはユネスコなどと言う不良外人によるイカサマ団体の世界遺産登録に狂奔するような状況に足を踏み入れることになりかねないことは言わずもがなといったところでしょう。
そして、その一部が(ましてや嘘つき神職となると値打ちは地に落ちる)、さもしくも指導者、研究者面して思いっきり行政に尾を振り、また、自分を売り込み、他愛もない腰の引けた行政権力へのリップ・サービスを行う行政の芸人にしかならない事は明らかなのです。
凡そ、古代の真実を追求しようと九州王朝論に踏みとどまったはずの人々が、行政に尾を振るような馬鹿げた真似をすれば、どのように侮られるかは明らかで、本来、学会通説と連動する学芸員、教育委員会、行政一般からは独立した研究体制を維持しなければならないはずだったのです。
古田武彦の一生を掛けた苦闘を本当の意味で理解していない人は、九州王朝論を一つのファッションとしか理解していないようなのです。
ましてや、九州王朝論を標榜する研究団体が教育委員会や学芸員から御高説を賜わるようになれば、そのような団体は即刻潰すべきと言うべきでしょう。
所詮、公安警察や神社の神職と言った権力に塗れたものが主導する九州王朝論研究など笑い話でしかないのかも知れません。
してみると、12時から朝6時までにアクセスしてくる熱心なフォロアーこそ価値があり(彼らは月に一度ではなく毎日入れ替わりやってくる)、右から聴いて左に抜ける人々には値打ちが無い事だけは間違いないのですが、彼らの中からブログで発信して来る新たな研究者が現れ神社研究のブロガーとしてリンクして頂きたいと思うものです。
そうした矢先、また、新たな神社研究者が戦列に加わる事になりました。まさしく、研究者による研究会が一層の現実味を帯びてきたのです。
それは全く偶然の出会いから始まりました。
この研修所がある同じ別荘地内に個人で別荘をお持ちの方が別荘の管理組合(自治会)の中枢のIさんという古代史の研究者に対して、当方の「ひぼろぎ逍遥」というblogの話をされ連絡を取りたいと言われた事が切っ掛けでした。
お会いしたのはI氏から話を聴いて二ケ月後の事でしたが、この方は科学ばたけの方で、四十年ほど前から久留米周辺の神社を丹念に歩き調べておられたのでした。
お話をお聴きすると当方のblogも全てワード化し、全てプリント・アウトされており、通説では理解できない謎の部分がこの百嶋研究によって氷解したと言われたのでした。
内容については、年明けにもHPかblogとして登場すると思いますので、誤った説明を避け概略だけに留めますが、早くも色々なことが見えてきたのでした。
有馬藩の久留米への入府直後に作成された「久留米藩社方開基」という古文書の研究から、筑後地方の多くの神社の解析、解明作業が行われており、当方としても今後最大の解読テーマと考えていた田主丸の俗称“三夜さま”が何者であり、その後どのような展開をした人々だったのか?のアウトラインが見えてきたのでした。
「久留米市史」では当たり障りのない範囲しか掲載されていないと話されていましたし、「久留米藩社方開基」は「福岡県神社誌」より遥かに詳しい内容であるとの事でしたが、事実その通りだと思っています。
どうやら、百嶋神社考古学(仮称)or百嶋神代史研究会(仮称)に新たな研究者として加わっていただけそうです。
まず、この仮にMさんとしておきますが、Mさんのお話では田主丸の“三夜さま”には耳納連山の麓の久留米市田主丸町二田に元宮があり、同じく月読命が祀られている事、これが街中の“三夜さま”の元宮に間違いない事、さらに故)百嶋由一郎氏からは、杷木町の大山祗神社と併せ、“どうも王昭君の一族(具体的にはトルコ系匈奴)が列島に大量に入っているようだが、その事は全く隠されている。”
“だだ、杷木町の教育委員会からはオシロイ祭を行う神社の神様は女性ですとのお答えを貰っています。オシロイとなると王昭君以外には考えようがない”と話されていました。
一方、「ひぼろぎ逍遥」295 北北東に進路を取れ! ⑮ 柏崎刈屋に筑豊から展開した二田物部を確認した において取り上げた、物部氏の本体とも言うべき二田物部の筑後に於ける本拠地が、久留米市田主丸町石垣(恐らくシルクロードのイシクルガンの置換え)の二田であり、筑豊に展開した物部25部族の最大勢力だったと考えられる二田物部が福岡県鞍手郡小竹町の新多(ニイタ)であり、その奉斎する神が田主丸の“三夜さま”=月読命=大山祗命(トルコ系匈奴=旧熊襲=狗奴国)だった事までが見えてきたのでした。
後には、新潟県柏崎刈羽原発に近い西山町の二田物部神社を経由し北関東に進出した東国武士団の本体こそ馬を使い騎馬戦を得意とするトルコ系匈奴だった事が分かってきたのであり、その最終的な勝利者こそが武家政権の最終勝利者である徳川氏であったこと、そして、その起源が、南九州の西都原周辺から鹿児島県に全域に掛けて展開していた大山祗命を奉斎する氏族(民族)だった事が分かってきたのでした。
いずれにせよ、右から聴いて左に抜けて行く方々と、行政に尾を振るさもしい肖り神官などと全く異なる一騎当千の研究者がまた新たに陣営に加わる事になりそうです。
以下はMさんの資料からペイントにより切出したもの。
実はこの筑後の二田物部こそが藤原氏を倒し武士政権を打ち立てた最大の中心勢力だったのです。
以下再掲載
295 北北東に進路を取れ! ⑮ 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した
20160105
新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。
休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。
場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。
物部神社正面
物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2
これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。
遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。
ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。
当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。
ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。
ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。
いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。
地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。
しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。
参拝殿から神殿への鞘殿?(左) 古風な尻合わせ三つ葵紋は誰の物か?(右)
立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。
尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。