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361 七福神の宝船の主は大幡主ではないのか?

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361 七福神の宝船の主は大幡主ではないのか?

20160621

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


今回は、皆さんどなたでもご存じの七福神と宝船に焦点を当てることにします。

以前から、宝船に乗った七福神とは全て博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の配下で動いていた神様ではないかと考えていました。

理由は簡単です。この宝船とは海外の神様が乗られており、どう考えても貿易(交易)船としか考えられず、東洋の通商路の東のはての最大の港が博多であり、そこの支配者とは大幡主(ヤタガラスの父で、お妃は隠されていますが実はイザナギと別れた後のイザナミ)だからです。

当然にも百嶋神社考古学の立場からの解読になります。

この事が少し分かるようになったのは最近の事ですが、少し話が長くなりそうですので辛抱して下さい。


361-1


恵比寿     

イザナミ・イザナギの間に生まれた子供を祀ったもので古くは「大漁追福」の漁業の神である。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神となった。唯一日本由来の神である。

大黒天

インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神。日本古来の大国主命の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。

毘沙門天

元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神。戦いの神であったが、仏教に取り入れられてから、福徳増進の神としてしだいに民衆に信仰される。日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれる。

弁才天(弁財天) 

七福神の中の紅一点で元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。仏教に取り入れられ、音楽・弁才・財福・知恵の徳のある天女となり選ばれた。七福神の一柱としては「弁財天」と表記されることが多い。

福禄寿 

道教の宋の道士天南星、または、道教の神で南極星の化身の南極老人。寿老人と同一神とされることもある。長寿と福禄をもたらす。

寿老人 

道教の神で南極星の化身の南極老人。日本の七福神の一人としては白鬚明神とされることもある。

布袋 

唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の禅僧。その太っておおらかな風貌が好まれ、手にした袋から財を出し与えてくれる。弥勒菩薩の化身ともいわれている。


ウィキペディア 20160620 13:30

まず、一番有名な大黒様です。大黒天ですが、勿論、大国主命の事であり、宗像のお二人の神様である市杵島姫と田心姫をお妃とし、大幡主の配下で活動されたトルコ系匈奴の若殿です。

 次は、蛭子様ですが、こちらも大幡主の配下で活動された古々代ヘブライ系の神様であり、最も古い先住者になります。

 紅一点の弁財天様はこれまで百嶋神社考古学に接してこられた方には良くお分かりのように、大幡主の娘であるアカル姫(ヤタガラスの姉)の娘であり、当然、大幡主の一族になります。

 市杵島姫がインド人だったなどと言っているのではなく、水の神ともされるサラスヴァティー神を市杵島姫になぞらえたと言う意味で、市杵島姫が弁天様として祀られている多くの例があります。

 ここまでの三人の神様が全て大幡主の一族若しくは傘下の神である事は言えるのですが、問題は毘沙門天です。

 この神様も大幡主を意識して挿入されているのではないか?と考えたのが今回の話の骨格です。

 この説明を分かってもらうためには以下の論考をお読みいただきたいと思います。

毘沙門天の発見篠原典生 (北京大学考古文博学院博士課程)


 

先に、日本の学者が無視する「ウィキペディア」から七福神の概要をご紹介しましたが、必要なことは十分に書かれています。361-2

次も、ネットから引っ張り出した日経新聞社電子版ですが、非常に参考になります。


歴史博士 日本出身の神様はただ1人 七福神のミステリー 

シェア ツイート クリップ 2014/1/3

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 幸福をもたらしてくれる神さまを1神ずつ参拝して回る「七福神めぐり」。恵比寿(えびす)、大黒天、毘沙門天(びしゃもんてん)、福禄寿、寿老人、布袋(ほてい)、弁財天の7体は日本の正月に欠かせない存在だ。中世の民間信仰から広まったものだが、この中で日本出身は恵比寿さまただ1人。あとは海外から招来した神さまたちだ。

■夷、戎、蛭子、恵比寿…みな「えびす」

 恵比寿は「夷」「戎」「蛭子」などの漢字でも表記される。蛭子(ひるこ)は「古事記」「日本書紀」に出てくる国造りの神「イザナギノミコト」と「イザナミノミコト」の子供とされる。しかし3歳になっても自分で立つことができなかったため葦(あし)の船に乗せて海に流されたという。七福神にしては気の毒な前半生だが、その後漁民に大漁をもたらす「エビス」として戻ってきたとされる。キーワードは「海」だった。

 漁民たちには時折浜に打ち上げられる鯨やサメなどを神さまからの授かり物として受け止める習わしが古くからあったという。皆で分け合い一時の「福」を得る。流された蛭子が海人たちに漁業や交易、交通などの神、恵比寿さまとして敬われる素地は古くからあった。かつて海は陸上よりも発達した交通路だった。恵比寿さまを祭る神社は瀬戸内海や日本海の海岸線などに散在する。遠方から福を運んできてくれる寄神、客神(まろうどがみ)と信仰を集めてきたようだ。

七福神は日本、中国、インドの神々の連合体だ(2013年1月、東京・渋谷の西武百貨店)

 大黒天はインドの「マハーカーラ」と日本の大国主命が習合した。マハーカーラは「偉大な黒」を意味し、ヒンズー教で暗黒をつかさどる神さまだった。日本に持ち込んだのは最澄という。同時に財運をもたらす神として信仰され、日本では財神として渡ってきた。大国主神は古事記の国譲りのエピソードで知られる重要な神さまで、「だいこく」ともに読めたことから合体したという説が有力だ。

 毘沙門天も元来はインドの財宝神「クベーラ」だったという。この神さまが中国を経由する時は仏教を守護する四天王に変わる。日本でも戦国時代の上杉謙信が信仰していたことで知られている。だから七福神を乗せて航海する「宝船」では唯一甲冑(かっちゅう)をまとっている。日本では改めてクベーラの性格が重視された。唯一の女神、弁財天もインド由来。ヒンズー教で水と豊穣(ほうじょう)の神さま「サラスバティー」だ。音楽もつかさどるほか悪神を退治する戦いの神さまでもある。

 福禄寿と寿老人は中国・道教がルーツの仙人。この福禄寿と寿老人は南極星の化身として双子とも同一人物ともされ、ややこしい。

■「七福神めぐり」普及させたのは家康

西宮神社に奉納された冷凍マグロにさい銭を張り付ける子どもたち(2013年1月8日午前、共同)

 その点布袋は中国・唐の時代に実在した仏僧だという。契此(かいし)という名で、太鼓腹を突き出し常に大きな布の袋を背負っていた。弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身と噂されていたという。最初に日本に入ってきたのは禅画などの画題としてだった。平安期には恵比寿と大黒天とが信仰の対象となり、さらに毘沙門天、弁財天らが加わっていった。「7」神になったのは仏教経典の「七難即滅、七福即生」にちなんだともいう。

 「七福神」めぐりが全国に普及したのは江戸時代から。徳川家康が七福神の絵を狩野探幽に宝船に乗った七福神を描かせたという。家康の政治参謀だった天海僧正が七福神信仰を勧めたという逸話が残っている。恵比寿は正直、大黒天は有徳、毘沙門天は威光、弁財天は愛敬、布袋は大量、福禄寿は人望、寿老人は寿命を表し敬愛すれば7徳が身に備わるというわけだ。

西宮神社の本殿参拝の一番乗りを競う「開門神事福男選び」で一斉に駆けだす参加者=共同

 なぜこれだけ外国の神さまが多いのか。恵比寿さまも異邦人を意味する「夷」とも書かれてきたように七神とも「海」に縁が深い。理由の一つは古代からの漂着物信仰だ。日本人にとって海のかなたは福と富を運んできてくれるものだった。

 もう一つは室町時代に発展した貨幣経済だろう。商業が盛んになるにつれ天照大神のような日本神話の神さまや貴族階級の氏神さまではなく、商工業者の信仰の対象が必要になったのだろう。「七福神の謎77」の武光誠・明治学院大教授は「最初は豪商が、武士や旧家が祭る神さまと異なる福の神を自分たちの心のよりどころとして信仰した。すぐさま豪商にあこがれる中流以上の商工民に広がっていった」としている。

 兵庫県の西宮神社は恵比寿さまを祭る神社の総本山。毎年1月10日を中心に9日から11日までの3日間行われる「十日えびす」は100万人を超える参拝客でにぎわい、その年の福男を決める行事でも知られている。七福神巡りは不況の時に参拝客が多いという。アベノミクス効果が浸透しつつも消費増税を前にした今年の正月はどうなっているだろうか。               (電子整理部 松本治人)

361-3お読みになったと思います。「家康の政治参謀だった天海僧正が七福神信仰を勧めたという逸話が残っている」と書かれていますが、私が知っているくらいですから、この話はかなり知られているのでしょう。

 問題は天海の素性です。「天海」の名からしても天台系の僧侶であることは直ぐに分かりますし、彼の神仏習合された神道が山王一実神道であることから(以下の天海僧正をお読みください)、山王日吉(日枝山王権現)系の神を信奉している事が見て取れるのです。

では、山王日吉とは如何なる神だったでしょうか?

 そうです。父は阿蘇の草部吉見、母は大幡主の子である豊玉彦(ヤタガラス)の子である市杵島姫というエリート中のエリート、大山咋=佐田大神=日吉=日枝=松尾=阿蘇国造(速甕玉)…であり、そのお妃も豊玉彦(ヤタガラス)と櫛稲田姫の間に産まれた鴨玉依姫である事から、白族の首領である博多の櫛田神社の大幡主を体現する神である事がお分かり頂けると思います。


天海僧正

元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。

ウィキペディア 20160620 15:30


361-4 ここまで考えてくると、この七福神と宝船を構想した天海の頭には、遠い神代に於いて武装商船隊を率いてインド~シナ~半島~博多と交易し支配していた大幡主の存在が軍の神である毘沙門天に投影されていたのではないかと思えるのです。

 福禄寿と寿老人は支那大陸でも南の道教系の神とも仙人ともつかぬ存在ですが、少なくとも半島系、北支那系の存在でないことは確実です。

 この江南の老荘の世界を取り込む事ができるのも大幡主以外には該当しそうな人物がいないことから、古代の江南の憧れとか理想とかいったものが反映されているのではないかと考えるのです。

 最後は布袋様です。

 布袋については良く分からないのですが、雲南省から黎族の阿蘇氏と共に逃れた白族の痕跡は、海南島に南西部にある白砂黎族自治県など多くの黎族自治県が残されている事から関連を探っています。その一つに保亭黎族苗族自治県があり(「保亭」=「布袋」)、「加茂」という地名までがあるのです(下賀茂はヤタガラスですね…)。

 今のところこれしか関連が取れないのですが、今後の課題として残しておきます。


361-5

百嶋最終神代系譜(部分)上、海南島西南部地図 下


361-6

今回は非常に乱暴な仮説を出させて頂きましたが、このような思考の暴走、冒険から真実に迫れる場合もあるのです。勿論、外れる事もあるのですが…。そろそろ終わりにしますが、先の引用をお読み下さい。


天海は、家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。


天海は大山咋系の人であると言いましたが、対向した本多はニギハヤヒ=山幸彦系の人物なのです(これについては、ひぼろぎ逍遥295 北北東に進路を取れ! ⑮ 柏崎刈屋に筑豊から展開した二田物部を確認した 他をお読み下さい)。

 最低でも、安曇磯良とか阿蘇の神様が入っていない事だけは確実でしょう。


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そして、福岡市西区今津に毘沙門山があります。


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この今津、今山、今宿の一帯は、博多の櫛田神社の大幡主の傘下で活動していた山幸彦=所謂「魏志倭人伝」の伊都長官「爾支」ニキ=ニギハヤヒ=猿田彦…の領域で、列島から半島、大陸への最重要港湾であり、その今津湾、また、古代糸島水道の入口を制圧する管制高地に当たる場所であり、そこが毘沙門山と呼ばれていること自体が、大幡主を武人としての毘沙門天に準えていることを示しているようです。

 なお、連携ブログの管理者であり、太宰府地名研究会のメンバーであるI女史から教えて頂いたことですが、かつて未盗掘として脚光を浴びて空振りした佐賀県の九里双水古墳と糸島市の一貴山銚子塚古墳を結ぶ線は、寸分違わず毘沙門山山頂に乗るそうです。

 当然、この二つの古墳は毘沙門山を意識して造られている事は明らかで、多分、大幡主の息の掛かった有力者が祀られているはずなのです。


361-9

 船の所有者を「船主」と言いますね、それは大幡主という尊称の上に成立した言葉と考えれば分かりやすいのではないでしょうか?これも古来大幡主が船主だった事の名残のような気がするのです。

参考

361-8


毘沙門天の発見篠原典生 (北京大学考古文博学院博士課程)


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