195 若き神社考古学者の50代の写真 “日中友好千万年”
20150401
久留米地名研究会 古川 清久
前ブログ、194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか? において、「百嶋由一郎氏から送って頂いた文字データのデジタル化の作業を再開していますが、…」としましたが、作業中に、50歳代と思われる百嶋先生の元気な姿を発見して喜んでいます。
百嶋先生は中国語の会話には不自由がなく、漢籍は文句なく読まれていましたし、北京大学で聴講生として学ばれていましたので新聞記事でも「歴史研究考家百嶋由一郎」と紹介されているようです(1986年9月26日)。
約三十年前になりますので、55歳程度のバリバリ研究されていた当時の御真影となります。
「同封の新聞は、遼寧省(朝陽市)から送って参りました。…1987年、朝陽市で“古代における朝鮮族の移動”と言う題で意見交換会議をやりました。記録は遼寧大学に保管されております。」(別紙手紙)
驚くのは、ジャワ原人の子孫が遼寧付近に住んでいると言う話です。通説からも外れており、私もなお疑っています。日本でも勿論考慮されていませんが、中国では他の方面でもこの手の話を複数回聴いたことがあり、中国ではかなり一般的な理解で、逆に、ジャワ原人、北京原人の栄えある子孫が我々だ!といった理解もされているようなのです。
下の手紙は私信ながら問題がないと考えますので公開しますが、この手紙を書かれた半年後に亡くなられました。
今なら、お聴きしたいこと、お尋ねしたいことが山ほどあるのですが、今、ようやく何をお尋ねしたいかが分かるようになってきた訳で、
もっと早い段階で、適切な方にバトンタッチしておかれるべきだったのではないかと思うばかりです。
私自身は、元々、文献史学など素養は全くないのですが、何故か古代史に嵌り、九州王朝論などの虜になってしまっているのですが、「古事記」神話の95%は嘘と言い切った百嶋神社考古学を知ると、通常の九州王朝論では全く古代に迫れない事だけは確実であるという思いを深めています。
現在、百嶋神社考古学に対して関心を示される方が急増していますが、私の任務は、この百嶋先生の資料を散逸させないように残し、拡大の前の拡散、分散、継承にあるのではないかと考えているところです。
今回も余白ができましたので、芦北の吉田画伯の画集から一題ご紹介いたします