196 出雲の長浜神社の祭神
「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院共通掲載
20150401
久留米地名研究会 古川 清久
写真は久留米地名研究会のホーム・ページにも組み込んでいる長浜神社の裏参道の写真です
出雲と言えば出雲大社だけにスポット・ライトが向けられるご時世ですが、以前から気にしていた長浜神社の祭神についても百嶋先生は分析をされていました。
この神代系譜も、現在作業中の百嶋データ・ファイル第3集に収めたものの一つです。
出雲の長浜神社と言ってもご存じでない方が多いと思いますが、個人的には佐田大神(大山咋命)を祀る佐田神社(断じて猿田彦を祀るのではない)と並んで出雲で最も好きな神社です(何やら流行の神社ガールのような表現ですね)。
長濱神社 参拝殿(画像は「松江周辺の神社仏閣」より)
長浜神社はその名の通り、北西の季節風が卓越し東進する潮の流れが運搬し続けた結果形成されたと考えられる出雲大社裏手の大岩塊へと繋がった巨大なトンボロの上に鎮座する古社です。
皆さんも出雲大社ばかりに足を向けるのではなく、このような本物の古社を是非参拝して下さい。
カーナビ検索 島根県出雲市西園町上長浜4258(0853-28-0383)
祭神は次のとおりですが、ほとんど見掛けない神様が祀られているのです。
祭神 八束水臣津野命 配祀 布帝耳命、淤美豆奴命
由緒 出雲郡の式内社出雲神社の論社の一。出雲神社だったとすればここに同社韓國伊大氏神社が鎮座しているか、摂社にあるはずだが今回は見あたらなかった。出雲神社の創建は和銅三年以前。
『出雲国風土記』によると、八束水臣津野命、詔りたまひしく、「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なるかも。初国小さく作らせり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、「栲衾志羅紀の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり」との胸取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別けて、三身の網打ち挂けて、霜黒葛闇耶闇耶(シモツヅラクルヤクルヤ)に、河船の毛曽呂毛曽呂(モソロモソロ)に、「国来、国来(クニコ、クニコ)」と引き来縫へる国は、去豆の折絶よりして、八穂米支豆支(ヤホシネキヅキ)の御埼なり。かくて堅め立てし加志は、石見国と出雲国との堺なる、名は佐比売山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長浜、是なり。式内社の出雲神社の論社は出雲大社の本殿の後に鎮座する素鵞神社と平田市別所町の諏訪神社が論社である。通称は妙見神社、鎮座地は妙見山。
HP「神奈備」より
八束水臣津野(ヤツカミズオミツヌ)命 配祀 布帝耳(フテミミ)命、淤美豆奴(オミズヌ)命 と言う見慣れない(島根県以外では岡山市東部と鳥取県に八束水臣津野命を祀る神社があるのみ)名前の神様を祭る神社ですが、百嶋先生は、この三神も九州出身の、大国主命(宗像大社の本来の祭神)、市杵島姫(宗像三女神の一人)、草部吉見=海幸彦(市杵島姫の先夫)という奇妙な三角関係そのもののような神社と見なしておられたのです。
これを三勢力の協力連合体を示した配神であると見る事は可能かもしれません。
思い起こせばこの神社を訪れたのは五年ほど前の事でした。
室伏志畔(「伊勢神宮の向こう側」他著書多数)氏に随行して、十六島(ウップルイ)周辺からカラサデ神事の佐田神社を見に行った時でした。
同社の宮司は知識豊富なうえに非常に明晰な方で、室伏先生は小一時間近く話をされていましたが、私は傍でじっと聴いていただけでした。その時の情景は今でも目に浮かんできます。
ユーチューブを検索していると、その時お会いした秦 和憲宮司が岡山在住の神社研究者の質問にお答えして話しておられるものが出てきて驚きました(出雲長浜神社 秦和憲宮司「八束水臣津野命」2014/5/6吉備歴文会)。
百嶋先生からは、九州の神社を調べれば全国の神社も分かると言った話を聴かされていましたが、自身としては、当時は「出雲の長浜神社の祭神など九州とは全く違う神様がいっぱいおられるのにそう言い切れるのか…」と思っていたのですが、ようやく少しは意味が解ってきたような気がしています。
ただ、「八束」の意味は依然として不明です。今のところ、八千鉾の神の「八」が多いと言う意味の言葉とすると、千代に八千代、八千鉾、八千草…の「八」と「千」がやはり多いという意味の同じ冠詞と考えられることから、物部氏の居留地、本拠地に 千束、千種、八並、八草…と同様の意味の「八束」ではなかったかと考えているところです。
大国主命が八千矛神と呼ばれた事は知られていますが、百嶋系譜には、そのまま大国主命が八束水臣津野命、草壁吉見神=海幸彦が布帝耳命として書き留められていました。
ただ、大きな問題が横たわっています。長浜神社の縁起では、配神の 布帝耳(フテミミ)命、淤美豆奴(オミズヌ)命を各々大国主命の祖母と、祖父であるとされている事です。
これについては、島根県内の他の八束水臣津野命を祀る神社、岡山市の某社等については訪問してはいるのですが、その観点に絞って見ていないため、再度見る必要がありそうです。
このようないい加減な状態でブログに書いたのは不謹慎極まりないのですが、ユーチューブで熱弁されている秦宮司のご尊顔を見た事からついつい書いてしまったというのが実情です(書いてシマッタ!?)。
もしも、百嶋先生が読み解かれた系譜が正しければ、佐田神社の本物の佐田大神(大山咋命)は、同社の布帝耳(フテミミ)命と淤美豆奴(オミズヌ)命の間に生まれた神になるのです。
もう一つ考えたいのが、安芸の宮島の厳島神社の摂社である長浜神社の祭神が興津姫命と興津彦命とされている点です(宗像大社の瀛津島姫=市杵島姫であり 瀛の置き換え文字が興です)。
百嶋先生の系譜では、海幸彦は格式は低いものの、瀛氏の市杵島姫と姻戚関係になったことから、その子興津姫命と興津彦命は格式が上がり、瀛氏扱いとされたことになります。
画像は「パワーチャージの旅o(^-^)o お祭り日記」より
長浜神社境内に置かれた瀛インの鳥居と岐(くなど)神社(画像は「松江周辺の神社仏閣」より)
八束水臣津野(ヤツカミズオミツヌ)命 配祀 布帝耳(フテミミ)命の二神は確実に瀛イン氏です。
宮司が秦さんですから考えて見れば当然かも知れません。
瀛インの鳥居については「跡宮」016「古表神社と古要神社“古表神社の例大祭から古要宮へ”」他を参照
瀛イン氏については「跡宮」054「秦の始皇帝と市杵島姫」を同じく参照のこと
岐(くなど)神社については「跡宮」063「出雲井神社 初見」を同じく参照のこと
福岡県築上郡吉富町の古表神社の鳥居(左) 佐賀県嬉野市塩田町八天神社の正殿前鳥居(右)
古表の「古」は胡人の「胡」 金山彦~ヤタガラス
瀛インの鳥居が置かれ、岐の神が置かれていると言う事は、やはり長浜神社はただならぬ神社ですね。
厳島神社の摂社である長浜神社の神紋も博多の櫛田神社の大幡主の三盛亀甲ですね(中は三五桐ですが)
三盛亀甲の神紋については「跡宮」064「博多の櫛田神社の祭神とは何か?」を参照して下さい。
厳島神社の摂社長浜神社が三盛亀甲の神紋を使っている(使わせて頂いている)ことは、この一帯も博多の大幡主の領域であったことが分かります。
同じく、大国主(八束水臣津野命)が「主」という白族の尊称の使用を許されている事の背後にも、博多の瀛氏の首領である大幡主の傘下にあった事を意味しているのです。
してみると、長浜神社の「長浜」は九州朝日放送の鎮座地福岡市中央区長浜1-1-1の長浜がルーツかも知れませんね(勿論、三か所とも長浜にあった事は間違いがないのですが…)。