スポット070 海の山幸彦 “熊本神代史研究会(仮称)への胎動”
20161214
太宰府地名研究会(百嶋神代史研究会準備会) 古川 清久
これまでにも何度か、熊本で神社を巡るトレッキングを行っていますが、熊本地震後の復旧工事が終わったことから、熊本市内の某所での神社に関心を寄せる方々を対象にお話をする機会を得ました。
講話とも談話とも分かりませんが、これは、お話の資料を公開する事になります。
今回の会合は実質的な忘年会でもあることから、それほど長い話はできず、有明海沿岸、不知火海沿岸に分布する十社ほどの猿田彦神社についてのある側面についてのお話だけをする事にしました。
談話「有明海、不知火海沿岸の猿田彦神社を探る」
始めに、「熊本県神社」から拾い出した肥後でも有明海、不知火海沿岸の猿田彦神社をご確認下さい。
これは、50社ほどの猿田彦神社の一部でしかありませんが、ご覧になってお分かりの通り、5社に塩浜、塩竃、塩屋、塩釜…と半分の社名に「塩」が冠されており、製塩に関わり合いがあるという事を否定できる人はいないでしょう(これを無視できる人は、まず、よほどの嘘つきか?関心を持たない人と思います)。
自然な成り行きとして、最低でもこの五社(いずれすべて回りますが)の実調に入りました。
すると、五社の全てが海岸部のしかも実質0メートル地帯と言った海水が取り入れられるような場所(正確にはその正面に)鎮座していたのでした。いくつかご紹介しましょう。
同様に、39 水俣市八万町の塩浜神社 も二柱二体の神様が鎮座しており、正面には運動公園へと改造された旧塩田地が存在していたのでした。他の3社も見せて頂きましたが、ほぼ、同様です。
ここで、もうお一人の神様がどなたであるかが気になるのですが、これについては候補がおられます。
塩土老翁とか塩椎(筒)老翁と呼ばれる(実は博多の櫛田神社の大幡主でヤタガラスの父神)方です。
まず、「塩土」とされていますが、九州では「塩筒」という表記がかなりあり、こちらが原型ではないかと考えています。 右は製塩土器の一例
この方が猿田彦とどのような関係にあるかと言う話は後に回すとして、この一帯の製塩事情を考えて見ましょう。
さて、明治9年からの塩業整備報告第2巻 (日本専売公社 1966年刊)出典:農商務統計表 第1~7次(農商務省編:慶応書房刊)という資料があり、ネット上にも公開されています。
この資料から最も古い、明治九年だけの製塩石高を見ると、肥前が2,675,550石で一位、遠江が1,462,667石で二位、良く知られた赤穂の播磨が740,350石で三位となっています。一般的には瀬戸内の製塩業が有名ですが、例えば、播磨の実に三倍以上の生産高を持っていたのが肥前だったとされているのです。
これには多少の問題があり、天草は現在でこそ肥後の熊本県となってはいますが、かつては一部が天領でもあり、明治初期には天草県であったり富岡県だったり長崎県にもなり最終的に熊本県の扱いを受ける事になったのです。それが、司馬遼太郎が“天草は肥前の香りがする土地”と表現した事と通底しているのです。
ともあれ、明治10年の統計では、肥前、遠江、播磨の関係が激変していますので、この辺りの事情が反映されているものと思われます。どうやら、天草は列島最大の製塩の中心地であったようです。
この点、非常に短絡的に過ぎますが、塩筒命+猿田彦を祀る宮崎市の南、日南海岸の野島神社の祭祀形態は西九州の天草一帯のそれが東に展開し奇跡的に残されているようなのですが、
後で野島神社を考えて頂ければと思います。
さて、ここで思考の冒険を試みて見ましょう。猿田彦がsolt彦だった!とするのは暴走に過ぎるでしょうが、猿田の音読みは「エンデン」でもあるのです。
柿本人麻呂が人ではない猿だとして猿丸太夫に貶められたとの説は有名ですが、塩田彦が猿田彦に置換えられ貶められた可能性が全くないとは言えないと思うのですが、後はご判断に
お任せしたいと思います。
野島神社の証明 宮崎市の日南海岸の南に野島神社が在ります。宮崎県宮崎市内海野島6227
ここで、野島神社の意味を再確認しておきたいと思います。まず、白鬚大明神 野島神社とあります。そのとおり浦島太郎をまつる神社 として、塩筒大神と猿田彦神が住吉の神と共に祀られています。
塩筒大神が塩土(槌)翁…であることは間違いないでしょうし(杯状ではなく筒方の製塩土器の一つか)、猿田彦とは考えられないことから、浦島太郎が塩土老翁であろうと推定することは一応は可能です。
海幸からの釣針を失い途方に暮れる山幸に竜王に逢いに行くようにとアドバイスしたのが塩土ですね…。
シオツチノオジ
シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)。 …中略…
名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。『記紀』神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神社(宮城県塩竈市)の社伝では、武甕槌神と経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えたという。白鬚神社の祭神とされていることもある。
ウィキペディア(20160716 16:30)より
ここで、第3代安寧天皇を頭に浮かべて下さい!
安寧の和風諡号は磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)と「玉手箱を見た」天皇とされているのです。
安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5年 - 安寧天皇38年12月6日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月6日)。
和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。
神武天皇(初代天皇)の孫。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。 ウィキペディア(20160716 16:30)より
欠史8代を架空とする愚かな学会通説は無視するとしても、以前から、第3代の安寧だけは見当が着かないでいました。
所詮、藤原がでっちあげ、実力者ではあっても天皇ではない 第2代綏靖(神沼河耳=金擬彦=高龗神)、第5代孝昭(海幸彦=草部吉見=武甕槌=春日大神)、第6代孝安(御年神=玉名疋野神社の主祭神=春日若宮)、九州王朝系の神武、懿徳、(孝霊)、孝元、開化……仁徳の間に挿入しているのであって第3代安寧 が誰かなどどうでも良いようなのですが、相当な実力者であっただろうとは考えていました。
そして、百嶋由一郎神代系譜(阿蘇ご一家)を注意深く見ると、山幸彦=猿田彦を 贈)安寧天皇の子と書き安寧の横に玉手看と書いてあるのです。
百嶋先生は何度か塩土翁を大幡主の事として話しておられましたし、“山幸彦は父も母も分かっていない(書かれていない)”とも言われていました。
先生は相手のレベルに合わせて話す範囲を変えておられるようで、分かっていても全部は話されていない事が分かります。
しかし、山幸彦が贈)安寧天皇の子とされている事、そして、この野島神社の縁起で浦島太郎を塩筒(塩土翁)としているようである事、当の浦島太郎を祀る丹後の浦嶋神社(宇良神社)が大幡主の擬神体である大山祗を共に祀っている事などを併せ考えると、藤原が第3代安寧天皇と仕立てた人物とは博多の櫛田神社の大幡主と考えられそうなのです。
浦嶋神社では浦嶋子と大山祗命が祀られています。既に、タノカンサーこと田神様が大幡主(塩土老翁)と大山祗命の擬神体であるとの百嶋仮説を朝倉市一帯の40社の田神社の実調と「福岡県神社誌」に於いて確認していますが、浦島太郎が博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神であることは間違いないと考えています。
詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)201宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社と併せ読んで下さい。
してみると、安寧(玉手看)の子とされる山幸彦については、絶えず猿田彦としている事、そして白髭、白髪、白木神社の主神でもある事、さらには、大幡主の配下で動いておられた事を書いていますが、どうもそれについても裏付けられたようなのです。次の写真をご覧ください。猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦……を祀る神社が白髭大明神とされているのです。
さて、ここまでお話しした事は猿田彦が何者であるかに関して一つの側面の解析を行ったものでしかありません。
間違ってもこの事だけで判断するようなことはしませんが、不知火海沿岸一帯において、猿田彦を製塩と関連付ける祭祀圏が存在した事だけは間違いないように思います。猿田彦=山幸彦が製塩と関係があるのではないかと言う可能性に関しては、塩釜神社などで塩土老翁の代わりに白髭大明神が祀られている例が散見されることから、以前から気にしていました。それが一部裏付けられたのですが、最後に海幸山幸神話で、塩土老翁から龍宮に行くことを勧められ、山幸彦は龍王の娘である豊玉姫と一緒になることはどなたもご存じだと思います。それが山幸彦=猿田彦のお妃、タゴリヒメ=(タゴリミホ)になるのです。
これに関しては、22の項目に関して猿田彦を分析していますが、今回はその一つをお話しした事になります。新年1月中旬から、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)281~20回に分け、大宮神社と猿田彦大神 ①~“山鹿市の大宮神社とは何か? として連載の予定ですので、関心をお持ちの向きはお読み頂きたいと思います。お急ぎの方は、500シートを超えるPPパワー・ポイントを作成していますので、09062983254までご連絡下さい。
一方、古代製塩については福津市の年毛神社が参考になりそうです。
ここでも某研究会に於いて、大道芸人宜しく、さも実証的でもあるかのようにヒラブ貝を見せ、猿田彦がひらぶ貝に手を挟まれて死んだ…という話だけで、民俗学のつもりかどうかは不明ですが、猿田彦をサンゴ礁からやって来たと南方起源説を吹聴した、行政権力に尾を振るさもしい3K(K県K市K○○宮)神主がおられましたが、この手の胡散臭い話を間違っても古代史の探究などとは考えないようにして欲しいものです。
なお、2月4日には天草市五和町の猿田彦神社を始めとする30~40人規模のトレッキングを行います。