375 阿蘇高森の草部吉見神社の摂社三郎神社とは何か?
20160801
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
阿蘇高森の草部吉見神社は毎年7月31日に夏の大祭を行います。
2016年夏の大祭に合わせ草部吉見神社への10人規模のトレッキングが企画され、11時30には現地に入りましたが、震災直後の草部で例年通りの大祭が行われていたのを見ていくばくかの安堵感を得たのは言うまでもありません。
草部吉見神社に関してはこれまで多くを書いてきました。
しかし、今回は吉見神社本体ではなく摂社の一つについてのお話をしましょう。
阿蘇神社は観光客が押し寄せる知らぬ人のない神社ですが、その祭神の意外な大きさ(実は鹿島神社の武甕槌=鹿島大神、春日神社、彦山の天忍穂耳、藤原氏の遠祖…)にも拘らず草部吉見神社は近年まで一部の神社マニアしか足を向けない神社でした。
ところが、久留米大学の公開講座(九州王朝論)や久留米地名研究会、当方のblog「ひぼろぎ逍遥」・・・でネット上に情報を流し出した辺りから、また、高千穂へのループ橋完成による観光ルートの変化も相まって、神社への参拝客も急増し、お賽銭の額も二倍~三倍に跳ね上がっているやに聴き及んでいます。
その部分に関しては、良し悪しはともかくも、当blogも一部貢献しているとも言えそうです。
さて、今回は関連する摂社(全体で17社)の中でも重要な三郎神社をご紹介します。
まず、「熊本県神社誌」184pをご覧ください。
この摂社群には、牛神神社、八坂神社、稲荷社、金毘羅神社に加え、愕くほど多くの菅原神社がある事にお気付きになるでしょう。
つまり、ここには草部吉見という外来神(雲南省、海南島)を受入れた母系の勢力が反映されているのです。
では、三郎神社をご覧いただきましょう。
三郎神社正面
長い参道と大きな境内を持つ神社ですが、社殿は至って簡素です。
しかし、重要なのはこの三郎神社の主神である天彦命、天姫命です。では、草部吉見神社のご由緒をご覧ください。
三の宮 天彦命 日子八井命の第一皇子・三郎神社の祭神
四の宮 天姫命 天彦命の妃・三郎神社の祭神
阿蘇神社の七宮:新彦神 - 三宮(草部吉見)の子 八宮:新比咩神 - 七宮の娘は、草部吉見と拷幡千々姫(高木大神の次女)の間に産まれた天忍日・新(ニュウ)彦と、健磐龍と、草部吉見と拷幡千々姫の間に産まれた阿蘇ツ姫の間に産まれた新(ニュウ)姫・雨宮姫(相良村外の雨宮神社の祭神)の間に産まれているのですが、三郎神社の祭神の天彦命、天姫命は、また、系統が異なるのです。
まず、草部吉見神社の三宮 天彦命(天足彦)は、草部吉見とスサノウの長女である瀛(オキ)ツヨソ足(タラシ)姫=長脛彦の姉との間に産まれた天足彦(アマノタラシヒコ)であり、草部吉見神社の四宮 天姫命は、草部吉見と、辛国息長大姫大目命=支那ツ姫=伏見稲荷=豊受大神=アメノウヅメ=伊勢外宮の間に産まれた息長水依姫なのです。
三郎神社が日陰者扱いされている理由は、どうもスサノウ系、河上タケル系、長脛彦系、物部系との繋がりがあるという背景があるからのようなのです。
それはともかく、外来(中国中原~雲南省麗江~海南島~苓北町~嘉島町~阿蘇)の侵入者である草部吉見の一族は、先住の支配者であった高木大神(朝鮮半島の伽耶~高千穂三田井~長崎県南北高来郡)の傘下(だから草部は伽耶部の意味なのです)に入り、高木大神の一族の入婿となります。
この事は、肥後の三千数百社の内、千社近い菅原系神社が確認できる事の背景にあるのです。
事実、草部吉見神社の17の摂社の内に10社の菅原系神社が確認できる上に、三郎神社自体も正式には菅迫三郎神社と呼ばれているのです。この菅原道真と思われている神社の背後には、多くの高木大神(本拠地伽耶後には新羅)系、スサノウ系氏族が隠されているのです。
この雲南省から入ってきた草部吉見系黎族と新羅系、伽耶系の半島先住民族の混血によって肥後の人々が成立し彼らの東進によって日本国家=列島王権が成立していった事が読み取れるのです。
最後に、三郎神社の三郎の意味ですが、太郎、次郎の三郎ではなく、どうも、「さぶらう」=侍の意味のような気がしています。
以下は百嶋由一郎アイラツヒメ系譜と阿蘇ご一家系譜