379(前編) 塘(トモ) “肥後限定の塘(トモ)地名は遠くアムステルダムまで繋がっていた!”
20160805
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
本稿は、元々、久留米地名研究会のHPに掲載していたものですが、既にインターネットの検閲、規制が始められており、最低でも複数の発信体制を維持する必要性があることから、対外的要因と対内的要因を考慮し、再構成してオンエアするものです(自主規制が大半ですが、表現の自由を守るためにも可能な限り手を尽くすべきでしょう(憲法など守られた事は一度もない国家なのですから…)。
それよりも、内部にさえ、学会通説や教育委員会、学芸員に尾を振り擦り寄ろうとする蛆のような人々が絶えず湧いて出てくる可能性もある事から文章の避退を考えておかねばならないのです。
塘(トモ) “菊池川中流の小平野”
熊本県の玉名温泉と山鹿温泉の中ほどに置かれた菊水インターから県道16号線で東の山鹿に向かうと、左手に大きな河川堤防が現れ、右手に小平野が見えてきます。一帯は既に山鹿市の領域なのですが(大字坂田)、ここに「塘」と書かれ「トモ」と呼ばれる奇妙な地名があります。
昭文社県別マップル道路地図熊本県
「塘」は“ツツミ”“トウ”とは読みますが、“トモ”とはあまり読まないはずです。
また、現地は玉名市と菊池市との境界地帯でもあることから、比較的険しい地形が続き、菊池川が最大級の蛇行を見せ屈曲が連続する場所です。
両岸は垂直に切り込まれた二~三十メートル級の小丘が連続しています。万年単位の時間で考えれば、絶えざる阿蘇火砕流によって形成された溶岩台地が川によって削り込まれたものなのでしょう。
このような条件から、垂直の崖の崩壊や屈曲部の土砂の堆積などによって自然のダムが形成され、たん水やその決壊といった洪水の影響を受け続けたと考えられます。
その後、人工の堤防が造られる近世になりますが、自然に形成された堤防の内側には水平堆積によって成立した平地が出現し、進出した人々によって造られた農地にも新たに決壊や洪水による逸流(オーバー・フロー)が襲って来たことが想像されます。塘(トモ)とはそのような氾濫原野起源の土地であり、自然堤防の時代にはなかなか定着できなかった土地だったと思われるのです。
【氾濫原】はんらん・げん
河川が運搬した砕葛物が堆積して河川沿いにできた平野で、洪水時に水をかぶる。
(『広辞苑』)
この熊本県北部有数の大河にも、現在は河川改修事業によって壁のような大堤防が建設され、ほ場整備事業も併せて行なわれたものか、堤防の内側には美田が広がっています。
この地には過去何度となく入植が試みられ、度重なる洪水に耐えて定着した人々によって集落ができたのでしょう。
氾濫により形成された自然堤防の内側には菊池川の氾濫によって土砂の堆積が進んだはずです。
内部に流れ込んだ泥土から石や瓦礫を拾い揚げ、徐々に川傍の低地は標高を上げ堤防も嵩上げがされていったものと思われます。
繰り返しますが、このような平地が生まれるには、水による運搬、攪拌、そして長期にわたるたん(湛)水が必要であり、その水の中で繰返された水平堆積によって、この地も形成されたものとする外ありません。
この地に「塘」という地名が在るとすれば、これが堤防に起因するものであることに異論を持たれる方はまずないでしょう。それを物語るかのように、“蹴破り伝説”を持つ当地の阿蘇神社前の古い農協倉庫には、現在も、なお、洪水時に備えて舟が吊るされているのです(この一帯の多くの農家の納屋には今も舟が吊るされているそうですが)。
問題はその「塘」の成立時期と地名の成立時期であり、それが自然のものであったのか人工のそれであったのかということになります。
前述のごとく、「塘」に堤防という意味があり、音で「トウ」「ドウ」、訓で、「つつみ」と呼ばれることまでは分かりやすいのですが、これが「とも」と呼ばれていることが重要なのです。
私が知る範囲でも八代の数人から「そう言えば熊本ではなぜか堤防の事を“とも”というね…」「干拓地の旧堤防を、例えば“東んとも”“西んども”などと呼んでいる…」「八代の南の高田には“とも”と呼ばれるところがあった…」といった話を聞きます。まさか、土盛り(ドモリ)からきたものではないでしょうが、多分、肥後領全域で普通に見られる地方語(古語)なのでしょう。
ちなみに佐賀では、同種の旧堤防を「でい」(この起源は不明で、単に堤防の堤=漢音テイ、呉音ダイをデイと呼んだからかも知れません)と呼び、“とも”や“ども”などと呼ぶことはありません。
例外的に、福岡県では中間市大字岩瀬に塘の内(呼称は未確認)が、鹿児島県では南さつま市に塘(とも)が、熊本県では、八代市に大牟田塘(オオムタトモ)、宇城市と氷川町に沖塘(オキドモ)、熊本市の白川、緑川の河口付近に城山町大塘(おおども)、熊本市銭塘(ぜにども)町があります。詳しく調べると、熊本は「塘」だらけであることが分かってきます。
さて、この「とも」「ども」ですが、多少思い当たる事があります。拙著『有明海異変』に挿入したコラムには中国のダムや堤防について『ダムのはなし』竹林征三を引用しています。この本の引用しなかった部分にこの「塘」に関係する話が出てくるのです。
…ダムやダム擬に関しては、最も多様な用語が使われ、分けられている国は中国ではないだろうか。
○ ハ (ハは 土口/ハ)漢字の表記が困難です。「ハ」は土偏の右に口その下にハ=上土偏に覇):古川注
-川の水をせき止めるつつみのことで、現在Damの用語にあたる概念である。
○ 堰
-晏は太陽が上から下に落ちて暮れる様を意味し、匽は晏の略字に匚を加えて、上から抑え固めてつくり、水流を押え止める堰である。歴史的に有名な都江堰などがある。
(『ダムのはなし』竹林征三)
以下、堤、塢、塘、擣、圩、坡、扌/更、埧、埭、蓄水池、水庫、潭といった文字の意味を書かれていますが、この中に「塘」も登場します。
○ 塘
-水を止めるために築いた土手であり、土手を築いて水を溜めた池も意味する。日本語の溜池に近いものであろう。塘工とはそのための護岸工事を意味する。
では、この読み方です。竹林征三氏もこの「塘」が実際にどのように呼ばれていたか(読まれていたか)?までは書いておられません。さらに先に進みましょう。
閑話休題 「ダムのはなし」
九六年に出版された『ダムのはなし』という本があります。建設省土木研究所環境部長(当時)をされていた竹林征三氏によるものですが、ダムの構造や歴史などが非常にわかりやすく書かれていて筆者のような素人には大変参考になります。また、この本には、古代アッシリアのダムや大モンゴル帝国が建設を試みて不成功に終ったダムのこと、江戸初期に活躍した「ダム造りの名人」西嶋八兵衛などのおもしろい話も収められています。
西嶋八兵衛の名は比較的有名で、一般にも「多くの治水利水事業をなしとげた」などと評価されています。しかし、この場合の治水とは付随する河川改修の意味で理解するべきなのか、溜池を造成した結果として治水(洪水調節)効果が付随して得られたものと理解すべきなのか、筆者にはいまだに判別がつきません。
筆者は、利水のための溜池造成や取水堰の建設というものは古来あったであろうと思いますが、堰堤や溜池を造ることで洪水調節を図ろうとしたことはなかったのではない か、すなわち「積極的に治水を目的としてため池を造ろうとしたことはなかったのではないか(少なくとも江戸期までは)」という考えを持っていました。つまり、古来より人は基本的には氾濫の恐れのある広義の川の領域には住み着かなかったのであり、飛び畑や島田のような形で中洲を耕作地として利用することはあっても、木曽川などの輪中集落は別として氾濫原そのものに住み着くまでには至らなかった(そこまでが川の領域であった)と理解していました。
ですから、「溜池を造ることによって洪水を調節しようとする意識があった」のかどうなのか、八兵衛に聞けたら聞いてみたいものだと思うのです。
それはさておき、この本にはダムの語源について面白い話が載せられていますので、ほんのさわりだけをご紹介させて頂きます。
「古代インドアーリアンで、“置く”という概念と“基礎”という概念の言葉として、*dhoとか*dhe*dhe‘があり、ダムのことを*dheとか*dhoと称したことにはじまるという。その後、基礎に置く構造物の概念が明確化され、*dhobmosと称するようになった。花形役者Damの生誕地は古代インドアーリアンの地ということである。現在の中近東からインドにかけての地方である。なお、英語の動詞doの語源も、この*dhe*dhoにさかのぼるという。(中略)古代インドアーリアンで生まれたダムの概念*dheや*dhoは古代ギリシャに行き、そこで基礎の概念に、さらに下部の概念も加わり、ダムの概念がさらに固まってきて、ギリシャ語Δα~Mα‘Ω(ダマーオ)となった。(中略)一方原始独語に*dhobmosから転じてdammazの用語が使われるようになった。この言葉が一四世紀になり、中世オランダ語と中世低地ドイツ語でようやくdamという形で使われるようになった。この当時はいまだ水を止めるための柵、壁とそれによって止められた水の体そのものも合わせた概念のようである。(中略)オランダには“神が人をつくり、人が国土をつくった”という諺があるように、国土の約四分の一は海面下のいわゆるデルタ地帯で、延々と続くダムによって海水をせき止めている。
オランダの首都はアムステルダム、第二の都市はロッテルダムであり、その名にダムが名付けられている。一三世紀、アムステル川の河口にあった漁村にギスブレスト二世が築城し、堤防を築いて都市を建設した。都市名を“アムステル川の堤防”という意で『アムステルダム』と命名した。一方、小さなロッテ川がマース川に合流する地点に発達した港町は、“ロッテ川の堤防”という意で『ロッテルダム』と名付けられていた。この港町は外洋航路よりマース川、ライン川の内陸水運に荷を積み替える港として、今やヨーロッパ最大の港の一つにまでなった。ダムが都市の守護神そのものなのである。ダム名が名付けられた町が、今や世界的な大都市にまで発達していった」
「塘」は「とも」「ども」と呼ばれていた?
「塘」の意味はお分かりかと思いますが、肥後の「とも」、「ども」の濃厚さはただ事ではありません。一部には(『漢字源』)これを訓読み扱いにするものもあるようですが、基本的には古語よりも(もちろん古語なのですが)方言の扱いでしょう。しかし、単に方言とか(古語)では済ませないものを感じるのです。
なぜならば、最低でも、熊本市銭塘(ぜにども)町の銭塘とは元代の臨安府が置かれた杭州のことであり、宗、元、明期の中国と交易を今に伝える痕跡地名だからです。
マルコ・ポーロが杭州に来ていた事はどなたもご存知ですが、ヨーロッパと繋がっていたことがこの一事をもってしても理解できるはずです。
してみると、まず、銭はともかく、「塘」はドモという中国本土の音を写したとしか思えないのです。
少なくとも当時の肥後が大陸文化に直接洗われる土地であったとまでは言えるようです。
【臨安】りんあん
南宋の首都。今の浙江省杭州市。1129年臨安府と改称。臨時の都という意味で「行在」と称。
(『広辞苑』)
揚子江下流の銭塘江を“せんとうこう”と呼び(読み)ますが、これはいわゆる日本流の漢音でしかなく、現地のしかも当時はどのように発音され、日本人がどのように理解したかは全く別の問題なのです。
発音はいかに?
辞典に「漢音でトウ(タゥ)、呉音でドウ(ダゥ)」と書かれていたとしても、これは中国で学んだ遣唐使などが持ち込んだ中国音を八世紀頃の日本人の口で置き換えたものであって、当時の中国の原音そのものでないことは言うまでもありません。
当然ながら、中国の各地方で各々読み方が全く異なる事も頭に置いていなければなりません。
まず、現在の現地音を考えてみましょう。上海近郊の水郷の町に西塘(シータン)があります。
これをアルファベットで表記すれば XiTang となるでしょう。
さらに、いくつか例を上げると、東チベットに理塘(リタン)、巴塘(バタン)があり、香港に觀塘(クントン)ショッピング・センターがあります。海に目を転じれば、海南島に月塘(ユエタン)村…があります。
ただ、専門外の分野であるため、友人の歯科医師の松中祐二氏(北九州市在住:九州古代史の会)に尋ねたところ、「塘」は、呉音 ドゥ(Dau)、漢音 トゥ(Tau)、韓音 ダン(Dang)、越音ドン(Dang)、門/虫(門構えの中に虫)南音 トング(⊃ng)、広東音 トン(Tong)となるとのことで、さらに古代まで踏み入れば、上古音で、ダン(Dang)中古音でも、ダン(Dang)、元中元音で タン(Tang)とのことでした。
まあ、ばらつきはありますが、タン、トン、ダン、ドンといったものの中のどれかというところで良いのではないでしょうか。特に、中国語は濁音と清音の差はほとんど意味のない言語であり、それは中国人が「ケームセンタートコあるか?」などと尋ねてくることからも経験的に明らかでしょう。
昭文社県別マップル道路地図熊本県
肥後は日本の玄関口だった