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379(後編) 塘(トモ) “肥後限定の塘(トモ)地名は遠くアムステルダムまで繋がっていた!” 

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379(後編) 塘(トモ) “肥後限定の塘(トモ)地名は遠くアムステルダムまで繋がっていた!”    

さて、南北朝期、菊池水軍は有明海(松尾)、名和水軍は不知火海(徳淵)を拠点にして明などとの交易を行なっていたのですし、その通行の歴史は「呉は大伯の後」と呼ばれる呉越同舟の呉の時代以来とさえ考えられるのです。
特に面白いのはこの地名「塘」の分布領域が事実上肥後一国に限定されていることです。
もしも南北朝騒乱期にこの地名が持ち込まれたとすると、宮方を支えた菊池氏、阿蘇氏、五條氏の中枢であった菊池武時、武光といった発展期ではなく、完全に肥後一国に押し込まれた衰退期に成立した地名とも考えられるのですが、単純に十四世紀末の外来語と言えるかは、なお、疑問が残ります。
しかも、八代から玉名、山鹿となれば、歴史的な関係から考えて、まず、呉音に注目しますが、もしかしたら、「トモ」、「ドモ」はさらにもっと古い時代の音を残しているようにも思えてなりません。
その一つは、上記の一帯には横穴墓が大規模に分布していることがあります。
この墓制は揚子江の中~上流の少数民族の一帯(彼らは漢族に追われて山に上がったのです)に色濃く分布するもので、どのように考えてもこの古い墓制を持った人々が揚子江河口の会稽辺りから出発し舟山列島で舟を東に向けたはずなのです。
一般的に横穴式石棺墓は古墳時代も後期の墓制などと言われますが、それは、使用されなくなった横穴墓に後に石棺が埋納されたことなどからであって、本来の墓制ではないのです。そう考えれば、中間市大字岩瀬に塘の内の例を上げましたが、この一帯にも横穴墓があったようです。
この菊池川一帯に分布したはずの数千余の横穴墓は、古墳時代後期のものなどではなく、もっと古いものであるはずなのです(昔の考古学会では縄文時代のものとしていた)。そのことを物語るかのように、直接、川や湖に面した垂直の崖の中ほどを抉って造られた横穴墓群のさらに上の丘陵平坦部天端部にあたかも征服者のように一般的な古墳が置かれていることでも分かるのではないでしょうか?
そのほかにもいくつかの傍証がありますが、ここではそこまで踏み入らず、再度、話を先に進めます。
結論から言えば、とも、どもは中近東に派生したダムの原音とでもいうべき音を写したものではないかと思うのです。
当然ながら、中国の「塘」がドモ、ドン、ダンなどと呼ばれていた可能性もあり、逆にその音が西に伝播した可能性も否定できません。
前述した竹林征三氏の『ダムのはなし』には、大モンゴル帝国が建設した二つのダムの話が書かれています。一つはテヘラン南西のガブマハ川に造られ結局水が溜まらず失敗したサベーダムやテヘランの南西一七〇キロのケーバル川に高度な技術で建設されたケバールダムの話が出てきます。
これが、実際にダムと呼ばれていたかどうかも不明ですが、シルクロードを経由して、このダムもしくはドモという音が揚子江下流辺りまで伝わったとすることは十分に可能であり、それが届いたのが八代の徳淵や熊本の高橋辺りだったのではないかと思えるのです。
荒唐無稽と考えられても構いませんが、熊本県の緑川の支流浜戸川に加藤清正によって造られたとされる轡塘(クツワドモ)と呼ぶ河川構造物(決堤、破提を緩和する装置)があります。これと同じ構造を持ったものが、中国とイタリアにも見られるという話を河川工学の専門家から聴いた事があります。実用的な技術は呼称や音よりも早く確実に伝播するものなのです。
このように考えると、当時のウォーター・フロントであったはずの熊本市城山町大塘(おおども)、熊本市銭塘(ぜにども)町の「ドモ」という音が理解できるのです。
ここまで踏み至ると、ヨーロッパの西の果てのロッテルダム、アムステルダムから、中国、そして、日本、少なくとも熊本まで、このダムという言葉の帯が拡がっているという世界性に戦慄を覚えるのです。

379-5


蹴破り伝説をもつ阿蘇神社前の古い農協倉庫(洪水時の舟が今も吊るされている)山鹿市 坂田 塘


 資 料 


塘(トモ)地名

北海道川上郡標茶町 塘路 (とうろ)。 北海道川上郡標茶町 塘路湖 (とうろこ)。北海道川上郡標茶町 塘路橋 (とうろばし)。 熊本県熊本市 城山大塘町 (じょうざんおおどもまち)。 熊本県熊本市 銭塘町 (ぜんどもまち)。 熊本県八代市 大牟田塘 (おおむたども) 。熊本県山鹿市 塘 (とも)。 熊本県宇城市 沖塘 (おきども)。 熊本県八代郡氷川町 沖塘 (おきども)。
例外)鹿児島県 南さつま市 塘 (とも)。


 塘(とも)とは堤防のことで、荷揚げ場所跡かわら小屋からみた 塘 轡 塘 は、加藤清正による洪水制御法のひとつで、近世において熊本県下の河川に比較的多く用いられた。川の一部区間に大きい遊水地を有し、洪水時に遊水地内に貯水しピーク流量を逓減させる遊水装置としての機能を持つと考えられている。
大辞林 ×、weblio とも ヤフー大辞泉 ×、ウィクショナリー 音読み 呉音 : ドウ(ダゥ)漢音 : トウ(タゥ) 訓読み つつみ、とも大漢和辞典 とも 字源 広東省ピンインtong  中国語ピンイン tang

塘沽停戦協定

1933年(昭和8)日本軍の熱河(ねっか)作戦後に結ばれた日中停戦協定。同年5月31日岡村寧次(やすじ)関東軍参謀副長と熊斌(ゆうたん)北平軍事分会総参議によって調印された。


石塘(玉名)、一夜塘(子飼)、新塘(しんども)長洲町、沖塘の樋門(おきどものひもん)氷川町一夜塘(黒髪)、新地塘(宇城市)、下(城南)、塩屋塘(長洲)、古塘神社(氷川)、江津塘(えづども)城山大塘町 (じょうざん おおどもまち) 銭塘町 (ぜんどもまち) 八代市 大牟田塘 (おお むたども)山鹿市 塘 (とも)鹿児島県南九州市川辺町下山田 塘之池公園 (トモノイケコウエン)鹿児島県南さつま市加世田川畑塘花


山上三名字は海賊だった 地域学シリ-ズ6 新熊飽学 第5章より 



金峰山回廊を歩く    「肥後の山」

菊池水軍 近津 海外貿易の一大拠点


 金峰山の海沿いの道を訪ねてみた。熊本市松尾町の近津。有明海に突き出た小高い森に灯台が立っている。干拓で陸続きになる前は、「盗人島」と呼ばれる離島だったという。「往日この島に海賊住しゆえに盗人島と呼べり。近世その名をにくみて離島とよぶ(肥後国志)。ここから金峰山のすそ野はV字形港に入り込む。山つきに鹿島神社がある。巨木の間から、梅雨明けを告げるセミ時雨がこぼれる。同神社の祭りは、新羅の襲撃に由来するという。さかのぼって平安時代。日本と制海権を争っていた新羅は、対馬や肥前松浦郡などを度々襲撃した。寛平五年(八九三)、「新羅の賊、肥後飽田郡において人宅を焼亡す」(日本記略)。郷土史家の田辺哲夫さんは、襲撃された肥後飽田こそが「この近津だ」と推測する。同神社では十月十四日、勇壮な火祭りが行われる。境内の石碑に祭りの由来が書かれている。「住民ハ松明ヲ取り良ク応戦撃退スルヲ得タガ夥シイ財宝ヲ奪ハレタ」。松明で応戦した様子が火祭りで再現される。有明海の奥深くまで侵入するほど、近津の勇名は新羅にとどろいていた。金峰山の入り組んだすそ野は、この時から海外航路の港だったのだ。そして金峰山こそが「有明海に突出した巨大な灯台」(田辺さん)の役目を果たす。南北朝から室町時代にかけ、倭冦の基地になる。「倭寇は、博多を窓口とする幕府の『表貿易』に対抗する『裏貿易』です。その一つの勢力が、金峰連山の野武士集団『山上三名字』と呼ばれる田尻、内田、牛島の三氏だった」と田辺さん。後に、菊池一族が金峰山に勢力を伸ばし三名字と手を組む。「菊池氏の勢力を支えていたのも海外貿易だった。有明海の出口をにらむ金峰山は、その重要な前進基地。ここから玉名の菊池川河口を経て、菊池の本拠地へ海外からの物資が運べますからね」。菊池氏と三名字は、貿易による経済利益と、金峰山の修験道という二つを共有し、南北朝の動乱でも共同戦線を張る。飽託郡河内町の中心部。船津港が見下ろせる厳島神社の一隅に、唐人墓がひっそりとたたずむ。加藤清正は朱印船貿易にカを入れる。配下の貿易商人としてカを発揮するのが唐人だった。県内では玉名、熊本などに唐人の居留地ができる。「三官屋敷」と呼ばれるのもその一つ。河内の唐人墓があるのも三官屋敷跡だ。その一方で、清正は倭寇を取り締まる。割をくったのが三名字。肥後国衆一揆平定に功を上げ、豊臣秀吉の九州入りの際には浅野長政を三の岳に出迎えた。ところが、清正が国主となると一転、三名字は浪人となる。「倭寇だった三名字が邪魔だったのでしょう」と田辺さん。波静かな有明海。そこには海上交通路の利権をめぐって、さまざまな波紋が描かれてきた。(前のペ-ジに戻る)

山の上三名字の牛島氏とみかん 

地域学シリ-ズ6 新熊飽学 第5章 金峰山回廊を歩く、より
金峰連山は巨大なみかん山でもある。五月晴れのころのかれんな白い小さな花。梅雨に洗われ、親指ほどに結実したミカンは、いま真夏の日差しに輝いている。日本でのかんきつ類栽培の歴史は古い。「魏志倭人伝」にすでに「橘」が記述されている。「日本書記」には、田道間守がダイダイを輸入したという故事がある。田道間守の伝説は全国各地にある。飽託郡河内町では、肥後耶馬渓と称される渓谷の近く「上越」に原木を植えたと伝えられている。上越は、山上三名字の一つ牛島氏の根拠地。南北朝のころ、八代高田から小ミカンの苗が移植された地でもあるという。八代筒田は県内のミカン発祥の地。豊臣秀吉が絶賛、江戸幕府の将軍にも毎年献上された。ミカンの苗は天正二年(一五七四)、紀州和歌山に渡り、百年後には紀州ミカンが江戸市場を制する。一方、河内町では紀州に遅れること百年、やっと本格的な栽培が始まる。その間、栽培技術をめぐって偵察合戦もあっただろう。「紀州熊野の修験と密接な関係があった金峰山の修験者が、相互に産業スパイの役目を果たしていたかもしれません」と郷土史家の田辺哲夫さんは言う。金峰連山には水田が少ない。山腹に畑を開墾するしかない厳しい環境が、逆にミカン栽培の普及に幸いした。臨海地で昼夜の温度差も少なく、温和な気候も適していた。(前のペ-ジに戻る)

ダムとアムステルダム


「ダム」とはオランダ語で「堤防」という意味。干拓によって国土を広げてきたオランダでは、川に堤防を築いて都市を建設してきた。いかにも海洋国家オランダらしい成り立ちである。そんな理由で、川の名前とダムを組み合わせた地名が多い。
アムステルダムは、かつてはアムステル川河口の小さな漁村だったが、13世紀にギスプレヒト二世が築城を開始。低湿地に運河を縦横に張り巡らせ杭を打ち込んだ土台の上に家屋を建てて都市を建築した。 アムステル川に堤防を築いて街を守ったので、「アムステルダム」という地名が生まれた。 また、ネーデルラントの意味は、低湿地という意味である。


379-7ダムの語源ダム事典
 

日本語の「ダム」は、英語の Dam を、その発音をカタカナで日本語表記にしたものです。
 中世ヨーロッパでは、ゲルマン、アングロサクソン地方の各地で、Dam という言葉の起源とも思われるさまざまな言葉が用いられていましたが、英語の Dam の直接の起源は、14世紀のオランダ語だといわれます。オランダは、国土の約四分の一が海面下の土地で、延々と続く堤防によって海水を堰き止めています。首都であるアムステルダムや第2の都市ロッテルダムの名前は、「アムステル川の堤防」、「ロッテ川の堤防」という意味です。これらの都市は、13世紀に建設されたものですが、当時オランダで、堤防という意味でダムという言葉が使われていて、やがてそれが英語になったもののようです。 なお、英語のDamという言葉は、必ずしも高さの高いものだけを指すのではなく、高さの低い、日本では通常堰と呼ばれているようなものも含んでいるようです。

銭塘江 杭州市(こうしゅうし、中国語:杭州市、英語:Hangzhou)は中華人民共和国浙江省の省都(副省級市)。浙江省の省人民政府の所在地。中国八大古都の一であり、国家歴史文化名城に指定されている。13世紀は世界最大の都市であった。
隋代以降、江南運河の終着点として経済文化が発達し、「天に天堂あり、地に蘇杭あり」と謳われた。また、五代十国の時代、呉越国の都となり、南宋時代には事実上の首都、臨安府が置かれた。市中心部の西に
379-6は世界遺産の西湖という湖があり、国の内外より多くの観光客が訪れる。
一般に「こうしゅう」と日本語読みされるが、広州市との区別が必要な場合に「くいしゅう」と湯桶読みされることがある。
歴史的地名としての「杭州」の行政区画に関しては杭州の項目を参照。
杭州市内の余杭区には、新石器時代末期に栄えた良渚文化(前3300年から前2200年ごろ)の遺跡がある。
春秋時代には、初め越に属し、後に呉に属した。東周の顕王35(前334)年、楚が越を滅ぼして以降は、楚に属した。秦代には会稽郡の管轄とされ、南北朝時代になると549年(太清3年)、梁により一時期設置された臨江郡の管轄となり、587年(禎明元年)には陳により銭唐郡が設置されている。
589年(開皇9年)、隋朝は銭唐郡を廃止して杭州を設置、杭州の地名の所見である。その後余杭郡と改められ、唐代になると再び杭州、余杭郡、そして758年(乾元元年)以降は杭州の名称が清末まで使用されることとなった。

杭州は隋代に建設された大運河(江南河部分)の南端とされ、唐代には南北を連絡する運河が整備され、貨物の集散地とし発展、貞観年間(627年-649年)には人口が15万人であったものが、開元(713年-741年)には58万人を数え、広州、揚州と並ぶ経済の中心となった。また822年(長慶2年)には白居易が杭州刺史として赴任、西湖の大規模水利事業を行五代十国時代に呉越の都となり西府と称した。呉越は杭州城壁の拡大、銭塘江の堤防整備などの水利事業を行っている。

北宋が成立すると杭州は両浙路の路治が設置され、1107年(大観元年)には杭州府に昇格した。当時は20万戸を数える江南地区最大の都市となっていた。1089年(元祐4年)には蘇東坡が杭州知州に任じられ、西湖の浚渫事業、推理事業を行っている。南宋になると杭州はその全盛期を迎え、呉自牧により『夢粱録』に当時の杭州についての記録が残されている。1129年(建炎3年)、行宮が杭州に置かれると杭州府は臨安府と改称、1138年(紹興8年)には正式な遷都が行われ、杭州は宋朝の政治・経済の中心地となった。また都城の防衛のために城壁の拡張工事が行われている。国都となった臨安府の人口は急増し、咸淳年間(1265年-1274年)には124万人にまで増加している。

1276年(至元13年)、宋朝を滅ぼした元朝により杭州路が設置された。1341年(後至正元年)杭州城内で大規模な火災が発生し15,755軒を消失、元末に杭州城は大規模な再建事業が実施された。1358年(至正18年)、張士誠による杭州城再建が行われ、周囲64,020尺、高さ30尺、厚さ40尺というそれまでの規模を上回る杭州城を再建している。元代の繁栄の有様は、マルコ・ポーロが「キンザイ(=行在)」として『東方見聞録』で記している。

元末の動乱期、軍事作戦を進める朱元璋は杭州行省を設置している。元末には度重なる戦火により杭州城にも被害が及び経済は衰退、西湖も泥土の堆積により農業灌漑に支障を来たすなどの被害を受けた。明朝が成立すると杭州府が設置され江南の経済中心地として発展し、織物業や茶葉の生産などによって栄え、蘇州と並ぶ江南の大都市となった。西湖の周辺には多くの寺院や道観、別荘や庭園が集まり、多くの文人墨客が訪れている。また霊隱寺などは近接地域から多くの参拝者を集める文化都市としても発展していた。しかしアヘン戦争を契機に上海の経済的地位が向上すると杭州の反映には陰りを見せ始め、太平天国の乱では戦火の被害を受け多くの歴史的建造物、文化財が消失している。また清末の1895年(光緒21年)に日清戦争に敗北した清朝は下関条約により杭州を日本に対し開港、租界の設置を認めている。

中華民国が成立すると府制廃止にともない杭州府は廃止、1914年(民国3年)には浙江省銭塘道が設置された。1927年(民国16年)、道制が廃止となり杭県を城区、西湖、会堡、湖墅、皋塘、江干の6区を擁する省直轄の杭州市が設置された。
中華人民共和国が成立すると1949年に杭州市は省轄市(地級)に昇格、浙江省省会とされた。1958年、寧波専区蕭山県と建徳専区富陽県を杭州市に編入、同年には杭県を廃止しその管轄区域の一部が杭州市に編入されている。1960年、嘉興専区臨安県と金華専区桐廬県を杭州市に、1963年には金華専区建徳県、淳安県を編入している。1996年、西湖区の西興鎮、浦沿鎮、長河鎮を分割して浜江区を新設、2001年に県級市の蕭山市及び余杭市を市轄区とした。

地理

杭州市は浙江省の北部にある。浙西中山丘陵の中部、浙北平原の中西部に位置し、山地丘陵がおよそ三分の二を占める。地勢は西南から東北へ向かってゆるやかに傾斜している。市域を富春江・銭塘江が貫流し、西方の杭州湾に注いでいる。市の中心部は銭塘江の下流、京杭運河の南端に位置している。
かつて城壁に囲まれていた市の中心部の西側には、西湖という湖がある。西湖は西、南、北の三方を山に囲まれ、風光明媚な名勝として内外に知られている。


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