380 岬 墓 “みさきぼ”
20160805(再開版)20120308(改版)
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
この写真は、島原へのフェリーの発船場がある熊本県の旧長洲町への道すがら思わず撮ってしまったものですが、国道389号沿線(熊本県荒尾市蔵満)に隣接する墓地の風景です。
なぜかこの風景が気に入っており、十年ほど前ですが、職場のパソコンのトップ画面に使っていたことがあり、奇妙に思われた事がありました(当時)。
注意してご覧になれば分かりますが、たまたまでしたが、鹿児島に向かう下りのJRツバメが映っていました。
タイトルは「岬墓」としています。音訓混用ですが“ミサキボ”と読んでください。
この蔵満(大字地名)辺りにくると鹿児島本線は海岸線を走っていますが、この線路の向こう側は直ぐ有明海で付近には海水浴場まであるのです。
有明海の海水浴場とは奇妙に思われそうですが、この荒尾市東部の小岱山一帯では古代に盛んに製鉄が行われていたことから、関川や菊池川を通じて大量の砂(多分、風化花崗岩の真砂土)が流れ込んでいることから、有明海には少ない砂地の浜になっているからです。
阿蘇の火山灰起源のシルトとは異なり、粒子が大きな砂は干潟のような平面的な堆積にならず、風波の押し上げも含めて砂丘状の立体的堆積を示すのです。
この荒尾市南部のさらに南にあたる長洲町も、その名が示すように、この砂が堆積する岬状の砂州から発達した土地だったと考えられますが、干満の差が大きい有明海でもあり、古代にはかなり奥深いところまで数多くの入江が方々に伸びた非常に複雑な地形をしていたのではないかと想像しています。
このため、干拓地しかないような有明海の北半ですが、この一帯(長洲の北荒尾市の海岸部)だけは干拓地ではないのです。
古代の地形が非常に見え難くなってはいますが、長洲の名が示すとおり、フェリー発着所付近までは、発達した砂地の上に鹿児島本線が通され、併走する県道も、その直線的な波際線の砂州(自然に形成された堤防)の上に建設されているのです。
そして、内側に広がる水田も、湾入した湿地帯が徐々に陸化したものでしょうが、幕藩時代になり、長洲にも干拓が行われ堤防(肥後では「塘」トモ と呼ばれます)が造られ、外側が干拓地にされたことから完全に陸化したものと考えられるのです。
町の歴史 長洲町は、古くは有明海に突き出した細長い洲で、漁業者の目標地あるいは前進基地として栄えてきました。慶長12年、肥後藩主・加藤清正公、寛文4年、肥後藩主・細川綱利公による干拓事業によって、現在の広大な水田地帯が形成されました。
(長洲町ホームページより)
現在の海岸線を見ると、高浜辺りで鉄路は九十度近く曲がり、内陸部に入っていますが、そのラインから、腹赤(ハラカ)丘陵地下の山辺の道を通る県道112号線辺りが恐らく古代の海岸線だったようです。
その脇には姫石浦があり、さらに沖側には今は地続きになっていますが、名石神社が鎮座する上沖洲と言われる沖積地があったのです。さて再び荒尾の蔵満周辺に話を戻します。
現在、砂州の内側には、荒尾の市街地から長洲港に流れ下る浦川の周りにかなりの水田が広がっていますが、前述した長洲港の北部が陸化するよりもかなり古い時代には、この低地にも大きく海が入り込みいくつも枝分かれした入江があったものと思われます。
付近には、港(一部漁港)や綿津見神社があることから、古くから海洋民が住み着いていたことは明らかです。
山浦、浦川、水島、淀浦、大浦、江ケ浦、高浜といった地名が拾えますが、興味深いのは中一部、一部、向一部です。“向こう”は入り江や海峡を挟んだ両岸に成立する地名であり(向地名は天草では顕著な海峡に付される地名で、小さな瀬戸などにも付けられます)、明らかに南方系の海洋民、漁撈民により付けられたもののように思えます。
砂洲上に中一部がありますが、内陸部の向一部、一部とあわせて海が内陸まで入っていたことを示す痕跡地名と言えるでしょう。
牛水(牛や石は臼に通じ、囲まれた地形を意味しますので、これも湾奥地名の代表でしょうね)といった海湾を思わせる地名が拾えます。
面白いのは打越です。吹上は砂が風と波で巻き上げられた砂が堆積した地という意味ですが、打越はその砂丘を越えて波が内側まで入ってくる土地という意味のように思えます。
さて、明治の鉄道省は新橋横浜を皮切りに好んで海岸部に敷設しました。
それは港湾建設(港湾利権=海洋土木)とセットであったこともありますが(このため戦後も山の入会権は一部認められたものの、海の入浜権利絶対に認められなかったのです)、要は用地買収の手間と経費が内陸部の建設に比べて必要がなく、仮にあったとしても安かったためであり、いち早く鉄道の運用を開始させることだけが至上命題だったからです。
これに対しては、山陽本線や鹿児島本線などでも、“敵国からの艦砲射撃に備えて海岸部を避けて内陸部に建設された”などと吹聴される向きがあるのですが(実際、現在のJRのその筋のセクターではそのように説明しますが)、それは誤りとまでは言わないものの、目眩ましに近いものでしょう。
仮に鹿児島本線を考えたとしても、全線が内陸部に造られてはいないことからも明らかです。
それよりも、軍部の意向(威光)を味方につけ自らの地元に鉄道を誘致しようとした可能性があり、今流に言えば、新幹線に尻尾を振るような方々が、ある地方では勝ちある地方では大蔵省や鉄道省の経済合理性に負けたことを示しているだけでしょう。
人口はどうしても海岸部に集中するのであって、今も昔もさもしいまでのタカリの構造は全く変わらないのです。
ともあれ、この鹿児島本線が敷設された一帯が海岸性の岬であったことだけは理解して頂けたのではないでしょうか。
冒頭の写真で言えば、右手にあたる国道389号線もこの砂州上に造られているのですが、その間におびただしい数の墓があるのです。
ここでは一部しか分かりませんが、国道を走るだけでもこの岬状の地に多くの墓があることには直ぐにお分かりになると思います。
これは比較的目につくものですが、有明海の沿岸にはこの他にもかなりの海岸墓群が確認できるようです。
ここに、“海洋民は沖合の小島や岬に葬る”という民俗学上の概念があります。
これは法則性というほどのものまで高まってはいないのですが、経験的にこれまで良く言われてきたことなのです。
『肥前風土記』に登場する、玉名郡の長緒浜から「腹赤の贄」が献上された話の舞台が長洲町腹赤とされていることや、今なお、諫早湾干拓事業への反対運動を続ける漁民の運動の一つの拠点がこの長洲一帯であることからも、海洋民族が住みついた土地であったことには説明が要らないものと思います。
また、前述した名石(めいし)神社があります。景行天皇巡幸の折、日向国から追ってきた妃 御刀媛(みはかしひめ)が姫ヶ浦で入水して石になったという石が祀られている神社ですが、これと非常に似た話が上天草の旧姫戸町の姫石神社にあることから、この点からも説明できそうです。
もう一つの例を上げましょう。
熊本県宇土市の東、現宇城市豊野町に奈良平安期(七九〇年~)の石塔があります。浄水廃寺跡石塔です。この貴重この上ない石塔群を見るために浄水寺跡を訪れ、近くにあるさらに古い陳内廃寺跡(城南町)などを見て八代に向かったことがありました(二〇〇四年)。
これは、今や消滅しそうな伝統の宮地和紙生産の現場を自分の目で確認するものでしたが、普段から旅をする時はほとんど高速道路を使わないため、この日も最短コースの武雄~佐賀~大川~柳川~大牟田~荒尾~玉名~熊本~宇土というルートを走りました。
このような旅を繰り返していると、時々、面白いものに出くわします。
もちろん、頻繁に通っているのですから、普段から見ているはずなのですが、たまたま認識したということになります。なにやら、ゲシュタルト心理学のような話ですが、人間の認識とは、所詮、そのような物でしかないのです。