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380(後編) 岬 墓 “みさきぼ”

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380(後編) 岬 墓 “みさきぼ”


民俗学が追求する小さな差異


そもそも、民俗学、古代史、神社考古学といったテーマで旅をする時、“できるだけ早く目的地に着き、現地を見る時間を増やす方が良い”といった考えは、一見すると正しそうに思えますが、多少の疑念を抱きます。そこを訪れる途中が非常に大切なのです。

そもそも、社会や文化や民俗というものは、その土地土地の風土といったものに育まれているものです。それが各々の土地で少しずつ変われば当然ながら変化します。このため、この微妙な差異を理解できなければ目的地の変化は理解できないのです。

それを、途中をスポイルして高速道路で目的地を目指すならば、その変化が全く把握できないのです。

車を運転しながらも、交差点の名称、バス停の名称、家の名前、店の屋号、寺の宗派、植えられている樹木、神社の名称といったものに気を留めながら目的地を目指します。

私に言わせれば高速道路にはこのような事は不可能ですし、この変化を楽しむことも全くできません。それは、もはや旅ではなくただの移動なのです。

“海外に行くと日本が良く分かる“という事を言われる方あります。それはそれで一応正しいのでしょうが、海外には日本とは非常に異なった文化、習俗、風景、習慣が目に見える大きな差異をもって存在しているのですから、それに接すると当然ながら日本のポジションが良く分かるのです

それは、そもそも差異それ自体が非常に大きいからなのです。しかし本当に文化的なことは、直ぐには判別できないような微妙な変化や差異をどれだけ理解できるという事なのです。

それが見えないために一般の人は海外旅行感動してしまうのです。

有明海沿岸の海岸墓

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宇土から八代に向かう場合、普通は三号線を利用すると思いますが、私は県道一四号線、四二号線か国道三八八号線を使います。

不知火海の八代から北半分は、江戸期になりどんどん干拓が進み、約二千年の間に半分に減っていますが、その大半はここ五百年ほどの間に起こった変化です。

このため、宇土から八代にはかけては、古い時代の旧堤防ラインが並行に延びています。

そして、多くの道路はこの旧堤防上に造られていますが、それが二つの県道や国道ということになるのです。

ここを頻繁に通るようになり、この道路の周囲にというよりもこの道路が造られた旧堤防の内側には多くの墓がある事に気付くようになりました。通常、内陸部の都市、純然たる農耕民の集落などでは付近の里山に墓が造られますので、国、県道クラスの道ではあまり墓を見かけることはありません。

しかし、有明海沿岸部を走ると、干拓が進んだために、かつての岬や島だったと思われる場所に古墳や現在の墓地(ここも通常は古代からの墓だったはずです)を多く見かけますが、海岸部や干拓地になると堤防の内側が海に最も近い場所になりますので(第二線、第三線の旧海岸線)、こういった場所に多くの墓地が造られているように見えるのです。

もちろん、一概に言えるものではありません。こういった傾向が見られるのはあくまでも海洋民、漁撈民が住み着いたと思われる場所のことで、どうやら住吉、鹿島、厳島、綿津見、筒男神といった神社を持つ集落の周辺に限られるのです。

これらのことから、山に墓を造る農耕民に対して岬に墓を造る漁撈民の習俗、葬送儀礼の一端を垣間見て小さな感動を覚えるのですが、それは私だけの事でしょうか。

干拓地に住み着いたかつての漁撈民や今なお漁撈に就く人々にとっては、旧堤防の内側であっても岬なのです。


漁撈民は岬に墓を造る


 “かつて有明海に巨大な島があった“として、ネット上に公開している有明海諫早湾干拓リポートⅡの で紹介した佐賀県の杵島山は、現在こそ干拓によって広大な陸地(農地)に囲まれていますが、文字通り島であったか、有明海に突き出した巨大な半島であったはずです(事実、東に突き出した竜王崎のかつての波際線には海食洞、海食痕、海食崖 と思われる痕跡が国道からも見ることができます)。この岬には、原始的な古墳(全て円墳)である多くの板式箱型石棺墓が残っています。

今は、この岬の先端を国道二〇七号線が迂回していますが、文字通り、海に臨んだ墓地だったのです。この場所に海人族が祀る海童神社があり、豊玉彦、豊玉姫、埴安姫が鎮座しているのです。

この石棺墓群と同じ種類のものかは知りませんが、同じく板方石棺墓による古墳を上対馬で見たことがあります(浜久須の朝日山古墳群)。しかし対馬において顕著な岬に埋葬するという習俗の延長に海を臨む墓地があると考えるのですが、これを仮に岬墓と呼びたいと思います。

もう一つご紹介します。長崎本線、佐世保線を利用される方は、この分岐点に肥前山口(佐賀県杵島郡江北町)という駅がある事をご存知と思いますが、この北に五〇メートルほどの崖を持つ山が見えます。この崖下には長崎街道(すなはち古街道)が通っていたのですが、この崖の上にも、また崖下にもおびただしい墓があります。この崖地もかつては有明海の波に洗われていた岬と思われます

ここを岬墓と考えたのには少し理由があります。


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前述したように、こういった傾向が見られるのは、あくまでも海洋民、漁撈民が住み着いたと思われる場所のことであり、住吉、鹿島、厳島、綿津見といった神社を持つ集落としていましたので、調べていると駅の東五百メートルほどの岬の付け根とも言える場所に、堤雄(ツツミオ)神社を発見したのです。

直ぐにこれは堤雄(ツツミオ)ではなく筒男ツツオ)神社ではないかと思いました。

たまたま仕事の関係もあって、神主からお話をお聞きすると、当然ながら住吉三神の表筒男命(ウワツツツオノミコト)、中筒男命(ナカツツツオノミコト)、底筒男命(ソコツツツオノミコト)が祭られており、堤雄神社はこのツツオノミコトからきている事が分かったのでした。

有明海から二〇キロも入ったこのような場所にも海が入り、住吉の民が基地にしてい可能性があるのです。

ここで、対馬在住の郷土史家というよりも民俗学者のお話をお聴きしましょう。


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対馬の弥生遺跡のなかで、墳墓としての遺構を持っているものは、そのほとんどが箱式棺である。支

墓と見られるものがなく、甕棺および壺棺らしいものが数例あるが、他は、全部粗製の組合(くみあわせ)石棺で、通例箱式棺とよんでいる。これが浦浦の岬や島に、地形に合わせて埋設されている。・・・


「古代史の鍵・対馬」永留久恵


 もちろんこの背景には里の中に埋葬しないという不文律があったのかもしれませんし、そもそも南方系の海食洞などへの埋葬風習が北上し対馬まで到達したとも考えられないこともありません。

いずれにせよ、この海洋民、漁撈民の墓制の延長に旧堤防の墓地があると考えたくなるのです。


海食洞: 室島(むるしま)にある彦嶋大権現は、皮膚病である「白なまず」と「脱腸(だっちょ

う)を治してくれる神さんとして信仰されている。神社の本殿は海蝕崖の上に建立され、拝殿は下の方に建っている。祭神は百襲姫命。この女神の眷属(けんぞく)使いが「(なまず)であると伝えられている。

「有明町の民俗」第ニ集 有明町教育委員会


室島は竜王崎の先端に位置する小島であったと考えられます。(古川:注)

以前、列島の神々のルーツともいうべき対馬を、同地の民俗学者永留久恵氏による一九八八年刊の名著「海神と天神」を手に三泊四日ではあったものの、多くの神社を回ったことがありますが、豊(トヨ)、佐護(サゴ)、伊奈(イナ)、三根(ミネ)、佐賀(サガ)阿連(あれ)・・・南端の豆酘(ツツ)まで、海洋民が付したと思われる二音地名が非常に目立つところでした

山陰もそうですが、特に、対馬は墓地が海岸に造られているところが多いという印象を持ち続けています。

下県では、旧厳原町の阿連、小茂田、久根浜、豆酘、内院には今もはっきり墓が残っているようです

旧峰町の青海も青の地名が付されていることからも分かるように、際立っています。

墓石もあるけれども、ほとんど、さらわれても構わないとでも言うような波際にあるのです。

当然、しばらく前までは墓石はなく、仮にあったとしても簡素な卒塔婆のようなものだけであり、代わりに松を植えるだけの埋葬だったと聞きます。

民俗学者の永留久恵氏も確か海岸性墓地を両墓制のなごりとしましたが、当然ながら海岸性の墓地は台風など大波の直撃により遺骨や墓石を何度も海中に浚ったことでしょう。

しかし、残されたものも、それで構わないと考えていたように思えるのです。

きっと、彼らは、また、流されたそのものの親たちも、時の流れとともに海の底で祖神に高まると考えていたはずなのです。

その証拠に、祖神祖霊が子孫の村に戻ってくる漂地として「寄神」と呼ばれる地があったと聴くのです。

その「寄神」は集落に近い定まった岬とされ、決して汚されることはなかったのです。

対馬や山陰の海岸性墓は、言わば、多くの海の守り神が誕生する場所だったとまでは言えるのかも知れません。

両墓制は、穢れや遺体への恐怖から葬地を集落から離れた場所に作り、例えば埋め、人の住む生活領域には、別に詣り祀るためだけの墓地を別に作ったというものです。

しかし、本当にそう言い切るかどうかは疑問です。

柳田の両墓制については、岩田重則は、「『お墓』の誕生(岩波新書)を書いています。

詣でるためだけの立派な墓を造る近畿で顕著とされる両墓性と、この海人族の持つ葬送儀礼とは異なるような気がするのです。

沖縄の亀甲墓のように洗骨の後に墓に納めるものは、一応は、改葬とも言えることから、遺体(遺骨)を置き、祭祀を行う二つの墓がある柳田の両墓制と言えないことはないのかも知れません。

しかし、最も重要な洗の後に新たな墓に移すという部分が省略されたものをそのように考えられるかは疑問です

そもそも、水葬と洗骨葬はそれを行っていた人々が完全に重なるとは思えないのです。

少なくとも、私は南島の洗骨葬による納骨墓を両墓制とは考えないことから、流されることを前提とした墓地の存在は、岬や沖合の小島への水葬、放置葬の延長にそのまま埋葬地がつくられたと考える方が分かりやすいように見えます。

ただ、対馬は古代において多くの神官を送り出した地とも考えられることから、近畿中央の墓制に影響を与えている可能性もあり、また、対馬の葬送儀礼は、南島の水葬の延長に捉えることも可能に思えるのです。


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