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スポット074 2017年新春三社詣りin出雲

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スポット074 2017年新春三社詣りin出雲

20170101 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

 

今年(2017年)の新春三社詣りは、島根県でも出雲の ① 一畑薬師 ② 佐田神社( 境外摂社田中神社)③ 惠雲(イドモ)神社 ④ 多久神社… となりました。

これは、最初に廻ったのがこの三社だっただけであって、当日には併せて十社ほどの神社に参った事は言うまでもありません。

一畑薬師は以前から訪問したいと思い続けていた一寺であり、十年越しの念願が叶った事になるのかも知れません。

「寺じゃないか」と言われそうですが、江戸時代までは神仏混淆であり、事実、最上部には稲荷様が今も鎮座されているのです。

それはともかくも、丁度、初日の出の時間帯でもあったことから、一畑薬師の参道で御来光を拝むことになりました。


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一畑薬師は栄西(エイサイではなくヨウサイと読むべし)禅師の臨済禅(妙心寺派)ですが、眼病に効くお薬師さんとして知られています。

 古来、たたら製鉄のメッカとも言うべき土地柄から眼病が切実な問題であった訳で、大切な御利益だったのです。

 言うまでもない事ですが、島根県安来市(旧安来町)の“どじょう掬い”も、本来は砂鉄を採取する(カンナ流しから蹈鞴製鉄)川浚いの人足をひょっとこ(火吹き男→ひょっとこの音韻転化)に見立てたものであり、片目の口が尖った面をかぶる事も口で火を吹いている(後には鞴=フイゴに変わりますが)鍛冶屋師であり、片目を意味するメッカチも火の子が飛んで片目が潰れた鍛冶屋の意味になるのです。

 ひょっとこ、オカメのひょっとこの面も片目が潰れているのはその意味であり、天目一(あまのまひとつ)神にも繋がるのです。

 さて、早朝とは言え、出雲大社への初詣出の喧騒を嫌い、次に向かったのは出雲の二宮ともされる佐田神社でした。

 佐田神社は非常に重要な神様であり、ひぼろぎ逍遥 051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社

として書いていますのでお読みになった方もおられることでしょう。

以下、主要部分を再掲載しますが、佐田大神は大山咋(オオヤマクイ)神であり、同時に松尾神社(阿蘇では北宮の速甕玉命)、日枝神社、山王神社、日吉神社、そして、日枝山王権現に繋がるのです。

 佐田神社が屈服した後も旧宮司家と思しき方が主張し続けている様に、佐田大神とは猿田彦=山幸彦では断じてないのです。ただ、ここではこれについては別稿として先に進みますが、051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社からその一部要約を以下に。


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画像は201711日当方で撮影したもの

 

一般的に、出雲といえば出雲大社と大国主命しか頭に浮かびませんが、写真は出雲の二ノ宮とされる佐田神社です(出雲一ノ宮は出雲大社と熊野大社ですが)。

新暦の11月の深夜に行われる神等去出(カラサデ)神事で知られる古社です。

この佐田神社の祭神こそ大山咋(オオヤマクイ)神であり、アマノフスミノミコト、同時に松尾神社、日枝神社、山王神社、日吉神社、日枝山王権現から比叡山にも関係があるのですが、一般には猿田彦と混同され、酷いものにあっては佐田大神とは猿田彦以外ではありえない…といった強弁がまかり通っているようです。

逆に言えば、九州外では猿田彦を佐田大神とする向きさえあるようで、それは全くの誤りであり、このことは神社庁も知り尽くしているはずなのです。

この点、九州では猿田彦と佐田大神は分離され別神であるとの分離(認識?)だけは確立しているとも言えそうです。

ここで、肝心の佐田神社の公式ホーム・ページを見ると、例によって祭神を 佐太大神(さだのおおかみ)=猿田毘古大神(さるたひこおおかみ) としているのはもとより、追従するいくつかのサイトも知ってか知らずか(多分無知なのでしょうが)猿田彦とするものが目立ちます。

「出雲国神仏霊場」というサイトにおいても祭神を 主神佐太大神(さだおおかみ)=猿田彦(さるたひこ)大神 としています。

 ふだん採用しないウィキペディアを見ると、この部分については、神社庁の統制が効かないのためか、

佐太大神[編集]

正殿の主祭神である佐太御子大神は『出雲国風土記』に登場する佐太大神と考えられる。佐太大神は神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれた。神名の「サダ」の意味には「狭田、すなわち狭く細長い水田」という説と「岬」という説とがある。とし、

明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、平田篤胤の『古史伝』の説に従って祭神を猿田彦命と明示するように指示されたが、神社側はそれを拒んだ。

現在において神社側は、佐太御子大神は猿田彦大神と同一神としている。と、非常に正しいことを書いています。


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これでは、ウィキペディアを馬鹿にする学会、識者といえども少しは見習うべきかもしれません。

ここで、皆さんに是非読んでいただきたいサイトがあります。

佐太神社(さだ)http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/sada.htm  です。

詳しくは、直接、全文を読まれることをお勧めしますが、最低でも、明治以来の神社庁による露骨な干渉が多少はお分かりになるでしょう。佐田大神と猿田彦が別神であったことを示す貴重な証言と言えます。

これについては省略。

このサイトは五年ほど前から気付いていましたが、いつ横槍が入り消されるか分かりません(既に検閲が存在していた戦前と同様の状況が目前です)。非常に貴重な証言と言えるでしょう。

佐田神社も神社庁の魔手=神社の継承権を認めないと言う手段により、捻じ曲げられてしまったのでしょう。

彼らは、自らの言いなりになる神社を増殖し、さもしくも文字通り天下りして行くことになるのです。

この傾向は現在も続いており、戦前の軍国主義を呼び込んだ国体明徴運動は、対米戦争完敗(ボロ負け)と言う愚かな結末を迎えたのです(ざまあない)。

今度は如何なる大破産と国民の不幸を齎すことになるのでしょうか?実に楽しみな限りです。

 

 佐田大神は猿田彦に非ず



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では、なぜこのようなことが平然とまかり通るのでしょうか?

山幸彦とその敵対勢力であった海幸彦の流れの何時しか融合(手打ち)した神祇勢力=中臣(藤原)神道こそが、国体を救うと称し、国体に巣食っているからであると聴き及んでいます。

 

 さて、皆さんはこの猿田彦大神が何者かお分かりでしょうか?実は海幸山幸神話の主人公、山幸彦なのです。神社庁関係者も知的な人は恐らくご存知でしょう。決してそうだとは言わないでしょうが。

 このことについても、何時か書きたいと思っています。

猿田彦は山幸彦=ニギハヤヒ

 

繰り返しますが、佐田大神は大山咋(オオヤマクイ)神であり、同時に松尾神社、日枝神社、山王神社、日吉神社、そして、日枝山王権現に繋がるのです。それが明確に分離されている九州以外は、ほぼ、塗り潰されてしまったようです。

既に、考古学、古代史、報道、選挙…と、すべての分野で嘘がまかり通るようになっていますので、これぐらい何だ!と思われるでしょうが、所詮そのような国なのです。

 ここで、佐田大神が初めに居た場所をご紹介しようと思います。

 既に、この神社の神官も祭神が大山咋命であることはご存じではなくなっておられます。

 ただ、この地(宇佐市安心院佐田)から福岡県朝倉市佐田に、さらに、佐賀県の小城市(松尾酒造も関係あり)に移動した後、太宰府近辺(筑前山家)に多くの伝承を残していると某神社考古学者から聴き及んでおります。…

 

次に向かったのは北の日本海岸の惠曇(イドモ)神社でした。

以前からどう読むのかと考えていましたが、三社詣りで初もうでのおじいさん(写真の方)にお尋ねすると、「めぐむに日~雲と書いてトモとエ(イ)トモと呼びます…」と「エトモ」とも「イトモ」とも聞こえる発音でお答えになりました。これで、長年の疑問の一部が解消したのですが、「モ」もしくは「トモ、ツモ」は地名の語尾のようなのです。

宿毛、九十九(ツクモ)、加茂(賀茂)、蒲生、福母、大友、小友、…と、地名の語尾に「モ」「モー」と付されるものがかなりあることに気付きます。当然にも、出雲はその代表格になるでしょう。

さらに想像を逞しくすれば、これらの地名語尾は列島に辿り着いたある種の民族(白族か?)に特有の地名語尾に思えるのですが、その話はもう少し多くのファクターを押さえた上で考えたいと思います。

してみると、「惠曇」(エトモ)が「イトモ」「イドモ」とすれば、「出雲」(イヅモ)の読み替えだった可能性もあるのです。

これまでにも、「オオゴトをしでかした」が「ウーゴトをしでかした」…栂「トガ」「ツガ」、本州のO音は九州ではU音であったことは何度も申し上げてきた事です。

惠曇神社と言ってもご存じない方が殆どだと思いますが、佐田神社から平坦な土地を北に数キロほど進むと日本海側の魚港に出ます。その惠曇港の一角に鎮座しているのが惠曇神社です。

今回、この神社の祭神については省略しますが、古代には佐田神社の正面に日本海まで水道が存在していたのではないかと思います。

郷土史等を詳しく見ていないため何とも言えないのですが、現地を見る限りはそのように見えるのです。

もし宍道湖から直接日本海まで流れ出す運河状の通路が存在したとすれば、その要衝に佐田神社が存在していた事が分かるのです。


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もしかしたら、一部は船越を行うか開削するかされたとも思うのですが、宍道湖のオーバー・フローとして水道が存在していた可能性も十分にあるのではないでしょうか?


 

 

 

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