384 2016年真夏の津山の神社探訪 ② “鏡野町奥津神社の境内摂社にも高良神社が…”
20160818
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久
岡山県鏡野町の上斎原神社(前ブログ)を後にして津山市中心部に向かって下っていくと奥津温泉の手前に奥津神社があった事を思い出しました。
バイパスから外れしばし探し回ると、これぞ神社といった面持の印象深い社叢林を持つ鳥居を見つけました。
この奥津地区に入るのはこれで四度目の訪問でしたが、この神社も訪問を逃しており初見の神社となります。
では、社殿をご覧下さい。
質素ですが上品かつ古色を感じさせる参拝殿です。
そもそも、奥津と言う地名自体が忌部の地域であることを示しており(「奥」=瀛き奉るは瀛=インの置換え文字)、その系統の神々が祀られていたはずですが、どうせ、八幡神か何かが覆い被さっているだろうと予想していました。そして、実際、そのとおりでした。
しかし、これは宇佐神宮が権勢を振るい始める鎌倉以降か、高良宮が九州の(つまり列島の)崇廟を宇佐八幡に譲る八世紀半ば以降(749)祭神が入れ替えられたと考えられるのです(「高良玉垂宮神秘書」)。
つまり、もと八幡宮であったのは正八幡(大幡主)系であったか、忌部の神様が祀られていたはずなのです。
そう考え境内を見て回ると、神社沿革を明示する掲示板を発見しました。
祭神は大己貴命、少彦名命と大書され、八幡神、武内宿根が申し訳程度に書き込まれていたのでした。
この神社「沿革」が書かれたのは、昭和12年とされています。
大戦直前の(大東亜戦は既に始まっていますが)この時期、この僻陬の地であった故か、まだ、はっきりとした事が書けたことに驚きを感じるものです。
この「沿革」には、良く、この神社の性格が正しく伝えられていたように思います。
大己貴命、少彦名命は出雲系などとあやふやな話でかたずけられるのが常ですが、彼等こそ九州の地で活動した大幡主傘下(つまり忌部)の実力者だったのです。
さらに面白いのは、最後尾に置かれた武内宿根です。
一部には応神は武内宿祢と神功皇后の間に産れているなどと恍けた話をする方がおられますが、ここでは、偽の八幡神の三神の中に紛れ込ませずに、一行於いて武内宿根(これも高良玉垂命=開化天皇=を隠すためのダミーなのですが…)が書かれているのです。
武内宿根が高良玉垂命であるとしましたが、これについても痕跡が残されていました。
それが、神殿から排除されたと考えられる境内摂社が存在していた(る)のです。
はっきりと高良神社が残されており、武内宿根と偽装された高良玉垂命が今も祀られていたのです。
この奥津神社の探訪は非常に印象深いものでした。
上斎原神社と併せ、地名としての奥津の意味は以前から考えていた通り、忌部の意味=因(瀛)津(所有の格助詞)だったのです。
恐らく、八世紀以前から、九州王朝の高良玉垂命=(藤原により第9代と貶められた後の開化天皇)の神威がこのいわゆる出雲の国の後背地にまで持ち込まれていた事を確認できたことと、それが、1300年を置いて今尚痕跡を留めていたことに新鮮な感動を覚えたのでした。
まず、経験的に分かる事ですが、大国主を祀る信仰圏は単に現在の出雲地方にだけに広がっているのではなく、中国山地の脊梁を越え、安芸から美作どころか、兵庫県の播磨にまで広く展開しているのです。
ただ、神名が換えられているため分かり難いだけであって、この点が判ればそれほど難しくはないのです。
大国主は多くの別名を持つ。
大国主神(おおくにぬしのかみ)・大國主大神 - 根国から帰ってからの名。大国を治める帝王の意
大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち)・大汝命(おほなむち『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち)・国作大己貴命(くにつくりおほなむち)
八千矛神(やちほこ) - 須勢理毘売との歌物語での名。矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを) - 根国での呼称。「しこを」は強い男の意で、武神としての性格を表す
大物主神(おおものぬし)-古事記においては別の神、日本書紀においては国譲り後の別名
大國魂大神(おほくにたま)・顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)- 根国から帰ってからの名。国の魂
伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称
幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)
杵築大神(きづきのおおかみ)
ウィキペディア (20160819 20:00)による
それは良いとしても、百嶋神社考古学の凄さは、大国主が現出雲の人だったというとんでもないお伽話であると主張できる事なのです。現出雲は列島全域に展開していた大幡主のエリアの全てが出雲であり、彼らは、主として九州で活躍していたのでした。そして、現出雲はその活動領域の一つ(現在は)近畿大和朝廷が設えたテーマ・パークのようなものになってしまっている)だったのです。
ともあれ、ここまでも高良玉垂命の祭祀圏が及んでいたことを確認しておきたいと思います。
なお、津山市に高良神社が存在する事は、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 050 美作の高良神社の下調べ “津山市押入の高良神社” 061津山市の高良神社の実見から で報告しています。併せてお読みください。