385 2016年真夏の津山の神社探訪 ③ “悪名高い苫田ダム建設で犠牲となった久田神社”(上)
20160820
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
奥津温泉の傍らを流れる清流吉井川の下流には苫田ダムがあります。
この神社の話をするには、まず、この悪名高い苫田ダム建設事業について触れざるを得ません。
久田神社正面
まずは、穏やかな地元のサイトからご紹介することにしましょう。
2005年、鏡野町の苫田ダムが完成し、運用が開始されました。
本来なら記念すべき出来事ですが、ここに至るまでの経緯を知る人は、若干の後味の悪さと苦々しさを感じていたのではないでしょうか。
苫田ダムとは
苫田ダムは吉井川の洪水、そして渇水の両面をカバーするためのダムです。
高さ74m、長さは225m、貯水量は8,410万m3という非常に大規模なダムで、県内では3番目の大きさを誇ります。
生活、工場、農業の水を司るのに加え、水力発電も行う他、ダムがなければ多大な被害をもたらしたであろう渇水時にも、取水制限を回避するなど、そのスペックだけを見れば、苫田ダムは十二分に役割を果たしていると言えるでしょう。しかし、その歴史は平坦なものではありませんでした。
反対運動
苫田ダムは計画段階で激しい反対運動が行われていた事で知られています。
ダムの建設により、水中に沈んでしまった地域は旧奥津町(現・鏡野町)ですが、そもそも奥津町は、ダムに反対の三村(苫田、奥津、羽出)が合併して誕生した町です。
反対運動は38年もの長期に及びました。
その間、対話を進めて住民の理解を得た上での着工とされていますが、反対を譲らない町に対して、県は補助金や起債の手続きを故意に遅らせる等、いわゆる【圧迫行政】を行ったと言われています。
1990年にダムの受け入れを表明しますが、その直前となる1986年~1989年の間で、3名の町長が任期途中で交代しています。
ダムに賛成する町長が出ない限り、奥津町は圧迫され続けたのです。
一方では住民に対し、移住までの資金として多額の現金を支払う事でダムに賛成するように根回しをし、やがて奥津町は追い込まれた末に、計画を受入れざるを得なくなったのです。
当時の県知事は、地方自治の神様とまで評された長野士郎さんでした。よくも悪くも、やり方を良く心得ていたのです。
この久田神社は、苫田ダム建設に伴う水没予定地にあったもので、この間この苫田ダムを見たくないため足を向けておらず、今回が移転後の初見になります。
実は、2003年に出版した拙著「有明海異変」(佐賀県内の地方自治体に在職中に書いたもの)でもこの最悪のダムを取り上げています。
町を二分して争われた33年間にわたるダム建設反対運動は、三~四代続けて反対派の町長を選出したにも関わらず、長野士郎なる当時の岡山県知事の下級自治体への締め付け、いじめ、無視、嫌がらせ…といた卑怯極まりない仕打ちによって切り崩され、何の価値もないダムが造られ、久田神社も水没に至ったのでした。
これについては、まだ、いくらか気迫のあったNHKの特集番組が組まれたためにご覧になった記憶をお持ちの方もおられるかも知れません。
「有明海異変」第4章「税金のダム遣い」の挿入コラムに「ダムの値打ち」(奥津温泉と苫田ダム)
を全文掲載していますので、関心をお持ちの方はズームアップされるなりしてお読み頂ければ有難いと思うものです。
なお、多少は残部もあるようですから、直接、不知火書房(福岡市)092‐781‐6962 まで電話をお掛頂ければ入手可能と聞いています(1800円 送料は交渉余地ありかも…?)。
神社研究者の端くれにとって、ダム建設に伴う移転補償金によって建て替えられたピカピカの神社を見るほど悲しく腹立たしい事はありません。
特にこのダムが造る事そのものが目的であったことが透けて見えていただけにその思いはなおさらです。
恐らくふれこみの千年などとんでもない話であって、このダムも数百年を待たずして膨大な土壌流出により埋まってしまう事でしょう。
失ったものが如何に大きかったかは、犠牲になった方ばかりではなくいずれ思い知る事になるでしょう。