スポット078 今ならまだ間に合う全国規模の神社調査!に進むスパルタシスト(Spartacist)に支援を!
20170113
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
3.11を契機に役所を定年前に辞め、ほぼ、二年余り蓄えだけで食い繋ぎましたが、今や、凧の糸を切って神社調査ができる環境を得る事ができました。
勿論、天下りしてぬくぬくと意味のない余生をむさぼる退職公務員にはなれなかったため、悠々自適ならぬ汲々自適の身分ではあるのですが、今や定年を更に引き延し事実上死ぬまで働かせようとたくらむ腐りきった官僚どもの思惑から零れ落ち、奴隷労働から解放された言わばスパルタカスのような解放奴隷の思いがするこの頃です。
凧が糸を切る事が出来たのは、借金が無い事、自宅を所有していた事、配偶者や同居親族にそれなりの所得があった事、何よりも行政と自らの職務が、嫌で、嫌で、たまらなかった事…などがありましたが、退職し所得を失った後に、「お父さん大学院に行くよ!(九州の某国立大学の工学部:環境土木)」と宣言した長女が某巨大地方自治体に院卒で就職(既に奉職中)し、ほぼ、心配がいらなくなった事、続く次女も看護大学校をもうすぐ卒業し自立するだろう事で、どうやら、父親は最終的に無用の長物となり、神様に奉仕できる事になったようです。
実のところ、バブル崩壊後、長期に亘って雇用の回復は望めず、労働力が激減するまで、つまり、戦後世代が大量に退職し始める2010年代までは、到底、まともな就職先は無く、酷い人生を送らされることになるだろうし、子供にはその覚悟をさせておかなければならないと思い続けていました。
問題は失われた20年の節目となる2015年前後に娘たちが巣立つ事になりそうで、一人の親としてそれなりに恐々と見守っていたのですが、大学院に行った事によって(スキルアップではなく偶然、雇用回復を待つ事ができた)何とか雇用の回復の寄せ波に乗る事が出来たようです。
勿論、その陰には多くの人々の涙、不幸、怒り、諦め、絶望があることは承知していますが、何の勉強も努力もしないで裏口入学から、大手企業に裏口採用させてもらう事ができる、金持ちのドラ息子、ドラ娘とは違う訳で、自らの水路を切り開くことができた本人の幸運と努力に驚きを感じています。
結局私は58歳で辞めてしまいました。思えば、私の父親も田舎の中学校の教師でしたが、教頭に成りたくないとして、58歳で辞めてしまいました。
父は、大正9年生まれで陸軍航空士官学校に入り、昭和17年に少尉任官しシンガポールに行くのですが、兵営内で「聖書」を読んでいたというだけで営倉に入れられ、内地送還から山口県の萩辺りの教育隊で終戦を迎えたという時流に乗れない(乗ろうとしない)変わり者でした。
このため、戦後は公職追放もあり(ポツダム中尉)30歳になるまでまともな職もなく、通信教育で教員(振り出しは長崎県県北の中学校教師)になるまで苦労したのでした。
この点、農水省配下の某地方自治体在職中に「有明海異変」を実名で出版した事と通底しているようです(蛙の子は蛙?)。
当時、大学院に行くのも選択肢の一つでしたが、結局、親父が辞めたなら負担は掛けられないと直ぐにその選択を回避したのですが(勿論、その能力も乏しく、某国立大学の全学闘争員会=マルではないので悪しからず の公然面の書記長=逮捕要員を仰せつかっていた事からそのような状況でもなかったのです)、父親が仕事を辞めていようが「お父さん、私、大学院に行くよ!」と宣言できる意志の強さこそが必要だったのでしょう。
問題は、唯一、私の子であれば合格しても面接で排除されるのではないかでした。
「有明海異変」などと言った行政権力に楯を突く本を在職中に実名で出版しているのですから(と言いながらも農水省地下の売店だけでも5~60冊は売れた)、子供が犠牲になる可能性もあり、それなりに覚悟はしていたのですが、大した影響はないと逆に甞められていただけだったようです。
ともあれ、後顧の憂いが一切なくなった事から、今後は余生の全てを神代史から古代史への解明の作業に踏み込む事が可能になったのです。
70定年延長まで画策し(これこそが旧厚生省の30年前からの狙いだったのですが…)、労働者を死ぬまで働かせ、薄汚い一部のトップ・エリートだけが良い思いをしようとする現代の裏切り国家の実態では、早い退職だったのですが、解放奴隷が雄々しくスパルタシストとして生きて行ける幸運に感謝しているところです。
僅かな年金で全国調査をするには当面(永久にかもしれませんが)車中泊以外には無いようです。
2017年を迎え、本サイトも明らかにアクセス数が上がってきたようです。
勿論、例年、年末は忙しいからか低落はするのですが、そういう意味ではなく、昨年の同期と比べて増えていると言う意味です。
正確にはカウントしていませんが、後発の神社専門(跡宮)が、古代史、地名、民俗学専門の「ひぼろぎ逍遥」を抜き、より専門的な「跡宮」の方に将来性を見ています。
両ブログを控えめに見た堅い線で、日量アクセス550+450=1000件(年間36万件)というところで、更に後発の「常陸の国探検隊」と「スピリチュアルヒーラ宮古の縁側日記」も既に合計で日量1000~1200件はあると聴いていますので、この4ブログだけで日量2200件(年間80万件)のアクセスとなり、それ以外の10数サイトの日量アクセスまでは聞いていませんが、どう見てもグループ全体では年間100万件以上のアクセスがある事は間違いないように思います。
形態は異なりなりますが、古代史関係で列島最強力サイトの古田史学の会の「新古代学の扉」が十数年で類型130万超件のアクセスであることから考えれば、文献史学派による性格も姿勢も水準(内容については敬服しています)も全く異なるものながら、アクセス数だけから言えば、私達、百嶋神社考古学も一定の研究グループになってきたという気がしています。
筑後筑前限定のローカルサイトながらも、百嶋神社考古学に基づく強力な「「宮原誠一の神社見聞牒」が新たに加わりスタートしていますし、それ以外にも複数の新サイトがリンクを張る予定です。
国体明徴運動の延長に形成された戦前戦中の文化統制の延長上に権力に尾を振る末端神社の神主(丁度、K県K市K○○神社の下級神官のような輩ですが)などを中核部隊とする歴史、文化の国家的統制が行われたのですが、そういった輩が煽った対米戦争完敗(ボロ負け)によって国土を焼失させた事でしばらくは沈黙せざるをえなくなったのでした。
勿論アメリカの金融資本に嵌められた対米戦争だったのではあるのですが(戦後70年にもならんとしているのにこんなことさえ分かっていない)、副島隆彦の著作を読む余裕がないなら、鬼塚英明のユーチューブ動画でも見て欲しいものです。
ボロ負けの敗戦によってもたらされた分、文化的解放期に勃興したのが戦後の史談会、郷土史会、考古学研究会であり地名研究会といったものでした。
それらが、初期の自由な発想を持った独立した研究者達の一切を高齢化により失い、何時しか、学会通説に依存し、それに口裏を合わせる様な学芸員、教育員会といった連中の、それこそどこにでも転がっているようなありきたりの言説に絡み取られ、従ってその様な傾向に後進が面白みを全く感じない事によって後継者を失い大半が消失しつつある状況にあるのです。
ところが、そうした文化的全喪失を自らの行政的施策の失敗と見られることに危機とも恥とも言えない妙な自己保身を感じたものか、行政の梃入れ、丸抱えによって官制の文化運動が行われる傾向が顕著になって来たようです。
こういった教育委員会や学芸員と言った学会通説の宣伝マンでしかない輩と連携し、行政に取り入ろうとする前述の3K下級神官と言った行政権力に思いっきり尾を振る連中が、学芸員やありきたりの通説派の口ぱく研究者達を呼んで御高説を拝聴するようになれば、それは研究会ではなく只の通説奉賛会=親睦会に過ぎず(所詮はカラオケ愛好会のようなもの)、嘘で固めた九州の古代史、特に九州王朝論の立場から解明すると言った意味のある研究などできるはずがないのです。
これらは恐らく全国的傾向のはずで、行政主導どころか通説派に自ら尾を振り行政に売り込もうとするような輩の発表が研究ではなく、自らの売り込みのための安っぽいチラシでしか無い事に好い加減気付いて欲しいものです。
独立性を保った自由で冒険的な研究姿勢が保ち続けなければ、どこにでもある研究会が解体して行った事を後追いするだけになるでしょう。
ましてや、出版もブログも会報も発行せず、出来合いの通説派のチラシを公然と配布し、さも、しっかり読んで下さいと言う様になれば、堕落は一挙に進むことになるのです。