extra011 宇佐神宮とは何か? ⑪ “安心院の妻垣神社は自称神武こと贈)崇神天皇を供応したか?”
「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載
201504014
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
さて、宇佐神宮を考える上で、最も重要な妻垣神社(宇佐市安心院)に踏み入りましょう。
今より2600年も遥か昔、日向を発し東国へ向かわれる途中、神武天皇は宇佐の地に立ち寄られました。
その際、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメの兄妹は一行を迎え入れ、宮を造り盛大にもてなしました。
翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をご覧になり、いたくお気に召されました。
天皇は連なる山々よりひと際輝く共鑰山に御母玉依姫命の御霊をお祀りする社をお造りになり、自ら祭主となって、玉依姫命の御霊を共鑰山にお迎えし、社を「足一騰宮」と名付けられました。このことより当社の歴史が始まりました。
妻垣神社HP 由緒 「妻垣神社の始まり」より
言うまでもなく「日本書紀」で一柱騰宮(ヒトツハシラ アガリノミヤ)、「古事記」で足一謄宮(阿斯毘苔徒鞅餓離能瀰椰 アシヒトツ アガリノミヤ)とされる重要な古社です。
ここで先回りした議論を優先させて頂きます。
百 嶋神社考古学においては、これも初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を僭称した九州王朝の臣下としての第十代贈)崇神天皇(ハツクニシラススメラミコ ト)に関わる神社であり、ここに言う玉依姫も初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の御母君=神玉依姫ではなく、大山咋命の妃で贈)崇神天皇の母君、鴨玉 依姫の事と考えています(これについては百嶋由一郎最終神代系譜を参照して下さい)。
私がこの神社を意識したのは五年ほど前だったと思いますが、その時は、百嶋先生から頂いた資料に「一柱騰宮」と書かれていた様に記憶しています。
当然にも冒頭に挙げたこの神社の案内標識塔も「一柱騰宮」と書かれていたようでしたし主祭神も比売大神だったと理解しています。現在でもその痕跡が石塔の案内板に残されています。
ところが、現在の由緒は「古事記」に沿って、足一騰宮とされ、主祭神も比咩大神(玉依姫命)とされているのです。
まず、神社を参拝する者にとって、縁起、由緒…が動く事は不安を感じますし、一体如何なる神様が祀られているのだろうかと疑うわけで、不安は不信へと発展する切っ掛けになりかねません。
勿論、神社のご判断で正しい表記を目指されるのは当然の権利であり、氏子でさえもない人間がとやかく申し上げるべきものではない事は重々承知しているつもりですが、迷い惑わされる事にはなるでしょう。
さらに言えば、これは現在の御由緒ですが、数年前に訪問した時は、また違う由緒があったのです。
これは、現在の御由緒と基本的には同じなのですが、ご覧になって分かるように、恐らく「比咩大神」が「比咩大神(玉依姫)」に、「一柱騰宮」が「足一騰宮」へと修正された跡が見て取れるのです(シートが上から張られていますね)。
こだわり過ぎていると言われそうですが、只でさえ謎の多い宇佐神宮について考えている訳であり、その元宮が妻垣(共鑰)神社ではないかと考える者にとっては、おいそれと避けて通ることはできないかなり大きな問題なのです。
と、ここまで見てきて、再度、考え直してみたのですが、この修正はそれほど古い時代に行われたものではないようですので、恐らく、現在の宮司にお尋ねすればそれで済む事なのでしょう。
多分、宇佐神宮の祭神問題同様、比咩大神と九世紀に追祀された神功皇后とのバランスが悪く、こちらでも神功皇后を祀っているのに「姫」(比咩が女性で姫な らばですが…)大神とは?という問題があり、ましては主祭神が「比咩大神」では一体誰なのかに苦心されておられるのだと思うのです。
これは宇佐神宮とて同様であり、“比咩大神とはきっと女性だろうから…”と宗像三女神とされているのかも知れないのです。
妻垣にしても、まさか応神天皇のお妃でもないでしょうし、きっと神武天皇のお妃か母神様とでも考えられたのだろうと勝手に考えているところです。
整理しましょう。宇 佐国造(コクゾウ=クニノミヤツコなどとは読まないように…)については、「日本書紀」「古事記」に初見があり、「神武紀」には天皇が筑紫国菟狭に至り、 後に菟狭國造の祖ともなる菟狭津彦と菟狭津媛から出迎えを受け、菟狭川の上流に造られた「一柱騰宮」で饗応を受けた。また、菟狭津媛を妻とした侍臣天種子 が後に中臣(藤原)氏の祖ともなったことが記されているのです。
こ の記述だけからも、宇佐神宮の原形が宇佐市安心院町の妻垣(ともがき)神社に端を発したことが見えるのですが、何故かこの神社は、現在「日本書紀」の「一 柱騰宮」(アシヒトツアガリノミヤ)から「古事記」の「足一騰宮」(アシヒトツアガリノミヤ)へと変えておられるのです。
実 際、混乱はここにも及んでいるようで、宇佐神宮の二の御殿の祭神も元はこの妻垣神社にあったのではないかとも考えるのですが、いつしか「比咩大神」から 「比咩大神(玉依姫)」に変わっているようなのです。もちろん玉依姫(カムタマヨリヒメ)は神武天皇の母神(一応育ての)の意味でしょう。
当然にも、安心院、院内、山香の一帯こそが宇佐のまほろば=ハートランドに思えるのですが、この安心院の地には、現在、公式に二の御殿の祭神とされている宗像三女神が三女神社として鎮座しています(二女神社かも?)。
ところが、この三女神社の縁起には、今も堂々と芦原の中国の宇佐嶋とは宇佐郡安心院邑のことで、その地を支配していたのは筑紫君であるとしているのです(縁起を参照のこと)。
筑紫君とは、当然、筑前、筑後に分国される以前の話となりますが、九州王朝論者の中では常識に近い、久留米市三潴町の三沼の君のことであり、高々一三〇〇年の歴史しかない近畿朝廷などのことではないのです。
当方とても悩みは同様で、実際に共鑰山中まで「一柱騰宮」=「足一騰宮」を確認に行きましたし、社報「ともがき」も読んだりもしたのですが、徐々に考えが纏まってきました。
ここで、当方の試案を提出したいと思います。
問題は比咩大神です。九州王朝論者にとって、豊玉姫とか玉依姫といったものにこだわる必要は一切ありません。それが柔軟に考えることができる鍵なのです。比咩と言えば頭に浮かぶものは、まず、呉の太伯の裔(周王朝)としての倭人であり、倭国の大王が姫(紀)氏であることを知っているのです。そうです、呉の太伯の一族は姓を「姫」としていたのです。
太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。太伯は長男で、呉(句呉,勾吳)の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は次男。仲雍、吳仲とも。
「ウィキペディア」20150414 23:20 による
これは作業仮説として理解して頂きたいのですが、倭国の大王としての神武(仮に)が祖神としての姫大神(比咩大神)を祀ったと考えるのです。
九州王朝の時代が終わり、宇佐神宮の前身である九州王朝の神宮も、749年に九州の総廟を現高良大社から宇佐神宮に奪う過程でこの九州王朝の祖神が応神天皇に替わったのですが、直ぐに比咩大神が呼び戻され、一社二殿二神の時代が続いたのです。その後九世紀になり、何故か神功皇后が追祀され現在の一社三殿三神形式が成立したのです。
してみると、この比咩大神とは高良玉垂命=第9代開化天皇だったことにもなりそうです。何故ならば、神功皇后と高良玉垂命とは夫婦だったからです(「高良玉垂宮神秘書」)。
そうすると、三女神社が“同社は水沼君が祀った”とする縁起を持つ事が氷解するのです。“比咩大神とは高良玉垂命=第9代開化天皇”としましたが、“神武天皇がこの地を訪れた時に共鑰山に玉依姫を祀った”のだからおかしいじゃないかと言われそうですが、実はその話にはとんでもない仕掛けがあるのです。
「記」「紀」に言う神武天皇とは“東征の神武”を含め初代の神武(カムヤマトイワレヒコ)ではなく、“自称神武”“神武僭称”第10代崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)だからなのです。
初代神武の母神は神玉依姫(カムタマヨリヒメ)であり、神武僭称第10代崇神の母神は鴨玉依姫(カモタマヨリヒメ)なのです。
この崇神(ツヌガノアラシト)は同時に、正妃を神功皇后とする高良玉垂命(藤原により第9代とされた九州王朝の大王開化天皇)の年上の臣下であり、妻垣神社の比咩大神とは高良玉垂命の事であり、宇佐神宮にも神功皇后が併祀されていた可能性があるのです。それは夫婦神だったからです。
安心院の他の地域にもこのスタイルの五七桐が打たれた貴船神社が数社ありますが、それも九州王朝の臣下としての意味だったのです。
あくまでも百嶋神社考古学の立場からの結論ですが、この妻垣神社も、七世紀までは九州王朝の神宮であったものが、いつしか崇神天皇にすり替わった神社だった事になりそうです。