391 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑨ “広島県庄原市の蘇羅比古神社ここにも若宮神社が…”
20160830
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久
話は前後しますが、日程上の問題から高速で戻る事にしました。その津山からの帰路、そのまま津山インターから帰るのも勿体無いことから、広島県庄原市まで物部氏の領域を巡行する事にしました。
それは、途中でも見たい神社が何社か在ったからです。その一つが、この蘇羅比古神社でした。
蘇羅比古神社 カーナビ検索 広島県庄原市本村町1292 中国自動車道庄原ICから約15分
主祭神は彦火火出見命=山幸彦=ニギハヤヒで良いと思います。
ネット上のHP「延喜式神社の調査」氏によれば、詳しい祭神が掲載されていました。
津日高日子穗穗手見命 神倭伊波禮毘古命
(配祀)
品陀和気尊 倭健命 大倭根子日子賦斗迩命 志那都比古神 志那都比賣神
宇迦之御魂神 大山祇神 手力男神 須佐之男神 奧津比古神 奧津比女神 大国主神 陣具大神
祭神「天津日高日子穗穗手見命」は「海幸山幸神話」の山幸彦として知られています。
まず、蘇羅津比古が何かを理解しなければなりません。「日本書紀」一書に「虚空彦」が出て来ます。
「虚空彦」 「日本書紀」一書(一)[編集]
兄(え)火酢芹命(ほのすせり)はよく海幸を、弟(おと)の彦火火出見尊はよく山幸を得た。ある時、兄弟はお互いの幸(さち)を取り換えようと思った。そこで兄は弟の幸弓(さちゆみ)を持ち、山に入って獣(しし)を探したが、獣の足跡さえ見つからなかった。弟も兄の幸鉤(さちち)を持ち、海に行って魚を釣ったが、全く釣れず、しかもその釣針を失ってしまった。この時、兄が弟の弓矢を返して自分の釣針を求めると、弟は患(うれ)い、帯びていた横刀で釣針を作り、一箕に山盛りにして兄に渡した。兄はこれを受け取らず、「猶(なお)我が幸鉤を欲す」と言った。そこで彦火火出見尊は、どこを探していいかもわからず、ただ憂え吟うことしか出来ずにいた。
そして海辺に行き、彷徨い嗟嘆(なげ)いていると、一人の長老(おきな)が現れ、自ら塩土老翁と名乗り、「君はこれ誰ぞ。何の故にかここに患(うれ)うるや」と尋ねたので、彦火火出見尊は事情を話した。老翁が袋の中の玄櫛(くろくし)を取り、地面に投げつけると、五百箇竹林(いほつたかはら)と化成った。そこで竹を取り、大目麁籠(おおまあらこ)を作り、火火出見尊(ほほでみ)を籠の中に入れ、海に投げ入れる。あるいは、無目堅間(まなしかたま)(竹の籠)を以ちて浮木(うけき)(浮かぶ木舟)を作り、細い縄で彦火火出見尊を結びつけて沈めたと言う、とある。
すると、海の底に自ずから可怜小汀があり、浜の尋(まにま)進むと、すぐに海神の豊玉彦(とよたまひこ)の宮に辿り着いた。その宮は城闕(かきや)崇(たか)く華(かざ)り、樓(たかどの)臺(うてな)壮(さかり)に麗(うるわ)かった。門の外の井戸のほとりの杜樹(かつらのき)の下に進んで立っていると、一人の美人が現れた。容貌(かたち)世に絶(すぐ)れ、従えていた侍者(まかたち)たちの中から出て来て、玉壼(たまのつぼ)に水を汲もうとして彦火火出見尊を仰ぎ見た。そこで驚いて帰り、その父(かぞ)の神に、「門の前の井の邊の樹の下に一の貴き客(まろうと)有り。骨法(かたち)常に非ず。若し天より降れらばまさに天垢(あまのかわ)有り、地より來たれらばまさに地垢(ちのかわ)有るべし。まことにこれ妙美(うるわ)し。虚空彦(そらつひこ)なる者か」と申し上げた。
ウィキペディア(20160830 16:27)による
この蘇羅比古神社は、山幸が海幸彦から借りた釣り針を無くしワニに乗って海神宮に探しにいった時、豊玉姫が「虚空彦( ソラツヒコ )」と呼んだ記述があることから付されたもののようです。
祭神は山幸彦と神倭伊波禮毘古命とされており、神武僭称崇神ではなく本物の神武天皇とされています。勿論、百嶋神社考古学では天津日高日子穗穗手見命の孫などでは毛頭ないのですが。
蘇羅比古神社参拝殿
主神:津日高日子穗穗手見命 神倭伊波禮毘古命
配祀:品陀和気尊 倭健命 大倭根子日子賦斗迩命 志那都比古神 志那都比賣神 宇迦之御魂神 大山祇神 手力男神 須佐之男神 奧津比古神 奧津比女神 大国主神 陣具大神
同社掲示板
HP「延喜式神社の調査」のデータの内、主神の2柱は神殿内でしょうが、配神13柱の風神社は志那都比古神 志那都比賣神、荒神社は奧津比古神 奧津比女神で、大山神社は大山祇神、八大龍王も境内摂社はあるものの神名としては見当たりません。
また、若宮社も社殿があるものの祭神としては確認できません。
ただし、この若宮社も高良玉垂命(藤原により第9代開化天皇とされた九州王朝の大王)と仲哀悼死後の神功皇后との間に産れた仁徳天皇(これも藤原によって第14代とされた)=斯礼賀志命(シレカシノミコト)その人を祀るものと考えられます。
津山でも上斎原神社の若宮神社、奥津神社の高良神社と九州王朝の残影を確認していますが、この庄原一帯でも同じ傾向が見て取れた事になりそうです。
邪馬台国畿内説論者などといった利権まみれの愚かな方々は問題外ですが、多少とも古代史を真面目に考えておられる一般の九州王朝論者の方々も少しはこういった事実に目を向けて頂きたいものです。
境内摂社若宮社
祭神に大倭根子日子賦斗迩命がありますが、大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト)とは藤原が第7代とした孝霊天皇の事であり、高良玉垂命の祖父にあたる方になります。
この点からも、この若宮社が高良玉垂命の長男であることが裏付けられるのです。
千数百年を経て、今さらながら、この残影が掻き消されること無く存在している事に驚きを感じます。
今後とも神社探訪は続けざるを得ないようです。好い加減、「古事記」「日本書紀」を金科玉条の如く扱うのをやめて頂きたいものです。
邪馬台国畿内説論者といった愚かな方々はどうでも良いのですが、少なくも真面目に古代を考えておられる方々は早めに見切られた方が良いのではないかと思うものです。