スポット088 (2/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”
百嶋神社考古学から見る古代の伊予国
安城市 山田 裕
はじめに
古代の伊豫国は、古代から瀬戸内海の要衝で、文化・政治・軍事的交通路として重要な拠点であった。
此の重要な拠点を掌握した政治集団を畿内王権とするのが学会の通説であるが、その時期は以外にも明らかではない。
愛媛県内の神社には多くの神々が祀られ、地域によっては明らかな特徴を示している。
これらの神々が、いつ何処からやって来たのかさえ明らかではない。
『古事記-島生み神話』は古代の伊予国を「愛比売」と記している。愛媛県はこの「愛比売」という女神を由来としているが、伊豫国との関係は不明である。
本論は、以上の疑問に対して「神社考古学」に60年を捧げた故百嶋由一郎氏が作成された「神々の系図-平成12年考(以下、「神々の系図」と略す)から、新たな視点で古代の伊豫国を考察する。
第一章 古代の伊豫国をいろどる神々
古代の伊豫国で祀られた最も古い神々に関する史料が現存している。それが、大山祇神社に関わる四史料で、面足尊と偟根尊を記録している。この両神について、それぞれの史料から検証を進めたい。
1.「三島宮御鎮座本縁並寶基傳後世記録(以下、「御鎮座本縁」と略す)」
「七代の天皇日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)、日本国黒田廬戸宮にて天照大神相與に大山積皇大神と祀り給ふ。是れ三島神徳の始めなりと云々。伝に曰く、此の御代、天下穏やかならず、順はざる民多く叛く。茲に因りて、天皇、大巳貴神に盟い、天下平らかに国民順はしめんことを祈り給ふ。大巳貴神夢に告げて曰く、君、天下平らかに国民順はんことを冀ひ給はば、先ず面足・偟根尊此の二柱の神を祭るべし。是則ち大山積大神なり、と申し教へ給ふ。これに依りて天照大神と相与に祭り給ふと云々。」
伝承が錯綜し、不明な点はあるものの、要旨は、以下の三点である。
(1)黒田廬戸宮が何処にあったのかは不明だが、孝霊天皇は天照大神と大山積皇大神を祭祀。
(2)孝霊天皇が国内の乱れに苦慮していた際に、大巳貴神に祈ったところ、同神が夢枕に顕れ、面足・偟根尊を祀るべしと託宣。
(3)面足・偟根尊の二柱とは大山積皇大神である。
伝承が記す面足・偟根尊、大山積皇大神、大巳貴神について『古事記、以下『記』と略す』、『日本書紀、以下『紀』と略す』から検証すると
➀面足・偟根尊
『記』天神第六代、それぞれが獨リ神
『紀-神代上第一段一書第六』天神第六代
『紀-神代上第三段一書第一』天神第三代
②大山積皇大神
『記』
イザナギとイザナミの御子、大山津見の神、妻は鹿屋野比売神、亦の名を野椎の神。
『紀-神代上第五段一書第七』
イザナギが剣でカグツチを三段に斬ったところ大山祇神が生まれる。
『紀-神代上第五段一書第八』
イザナギが剣でカグツチを五段に斬ったところ大山祇神が生まれる。
③大巳貴神
『記』
スサノオ六世の孫大国主神、亦の名を大穴牟遅神、芦原色許男命・八千矛神・宇都志国玉神。
『紀-神代上第八段本文』
スサノオと妃奇稲田姫との間に大己貴神が生まれる。
『紀-神代上第八段一書第一』
スサノオ五世の孫大国主神
『紀-神代上第八段一書第二』
スサノオ六世の孫大己貴神
『紀-神代上第八段一書第六』
大己貴神、亦の名に大國主神・大物主神・國作大巳貴神・芦原醜男・八千矛神・大國玉神・顕國玉神。
煩雑を避けるため、以下大己貴神と記す。
以上の系譜からは、面足尊・偟根尊・大山積皇大神・大己貴神のそれぞれの関係は不明である。
ところで、大山津見の神と大山祇神であるが、大山津見の神は「海の神」、大山祇神は「山の神」とするのが一般的だが、ご神格は相違するものの大山祇神社は「山の神と海の神」が習合する神社であり、本稿では大山津見の神と大山祇神は同一神であるとの前提に立ち、論を進める。
大己貴神の時制について『記紀』は錯綜しているが、時制の鍵となるのが「国譲り」の場面である。
『記紀』ともに、天照大神が大己貴神に「国譲り」を迫り、加えてスサノオは天照大神の弟とする
系譜より、天照大神・スサノオ・大己貴神の三神がほぼ同時代の神であるとこが確かめられる。
また、スサノオの娘スセリ姫が大己貴神の妃であることより、大己貴神が天照大神やスサノオより
も年少の神であることが確かめられる。
『御鎮座本縁』は面足尊・偟根尊を大山積皇大神としているが、その名からも面足尊・偟根尊は一
対の神でないことは明らかで、それぞれ独立神と考えられる。
『記紀』ともに、孝霊天皇の御代に国家が動揺する反乱事件記事は見当たらない。第二代綏靖天皇から第八代孝元天皇までに起こった主要な事件は、「神武天皇の後継を巡り、長兄タギシミミ命が弟のカヌマミミ命(後の綏靖天皇)に弑逆された。」と伝えている。
だが、事件の本質は「目下のものが目上のものを殺す意を表すのが弑逆」であり、国家が動揺する事件ではない。
同史料は、宝歴四年(1754)太祝越智安屋が執筆。原典は三島神社に伝わる『臼杵三島神社記録』
とされるが、真偽は不明である。臼杵三島神社は天応元年(781)に大三島より勧請されたとする由緒を持つ。越智安屋は、編集姿勢について自らの考えに基づいたとしている。