スポット088 (3/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について
2.『社記』(132 p )
「孝霊天皇御宇。天地不レ和。寒暑失レ時。五穀不レ熟、万民愁苦。是以天皇斎戒沐浴、敬祭二天神地祇一、祈二五穀豊穣一焉。或夜天皇夢有二一神人一。訓レ之曰、天皇若憂二國之不治一者、宜レ敬二祭面足尊・偟根尊・大山祇神一。必當二五穀成就一。答曰、我是地神大己貴神也。於レ天皇随二夢訓一、祭-二面足・偟根尊大山祇神於大殿之内一。是以風雨順、百穀成、天下平矣。是即當社神徳之初現也。」
要旨は『御鎮座本縁』とほぼ同じ内容だが、相違するところは以下の二点である。
(1)「天照大神」に代えて「大山祇神」を祀る。
(2)「面足尊・偟根尊の二柱は大山積皇大神ではない。」と否定。
同書は論理的で、『御鎮座本縁』より一歩進んだ史料と評価できる。天明二年(1782)太祝越智宿祢玉振の執筆による。
3.『年譜考』(156p)
「人皇第七代 孝霊天皇御宇天地レ和、寒暑失レ時、五穀不レ熟万民愁苦む。是以て 天皇斎戒沐浴、敬二祭天神地祇一玉ふ。或夜 天皇夢に一神人有レ之、教て曰、天皇若患二國之不治一者、宜レ敬二和足彦神・身嶋姫神・大山積神等一、必五穀成熟して天下自平らならむ。天皇問曰、如何教は何神や。答曰、我是地神大己貴神也。於レ是天皇和足大神・身嶋姫神・大山積神等を大和國黒田廬戸宮ニて祭り玉ふ。自レ是風雨順レ時、百穀生熟して天下平安なり。如レ是即当社神徳の現れましし初なり。」
同書は上記二史料を底本としているものの、大きな相違は「面足尊・偟根尊」に代えて「和足彦神・身嶋姫神」とする点にある。
この聞きなれない「和足彦神・身嶋姫神」に関する史料が以下の二書である。
(1)『釈日本紀』所引の「伊豫国風土記逸文」
「宇知郡(越智郡の誤記)御嶋、座す神の御名は大山積の神、一名は“和太志の大神”也。この神は難波の高津の宮の御宇しめしし天皇(仁徳天皇)の御代に顕れましき。此神百済の国より渡り来して、津の国の御嶋(現大阪府高槻市)に座しき。云々。御嶋と謂ふは津の国の御嶋の名也。」
(2)『伊豫旧記編 神祇部』に収められた「大日本南海道伊豫国古神社祭録」明応三年(1494)藤原隆量編纂
「陽神和太志尊・陰神鹿屋野比賣尊」とある。
この両史料から得られる帰結は、以下のとおりである。
(3)面足尊は“和太志の大神・和足大神・和足彦神・
陽神和太志尊”とも呼ばれ、偟根尊は“身嶋姫神・陰神鹿屋野比賣尊”と呼ばれた。
(4)和太志尊の「和太志」とは「渡し」の意で、百済(正確には金海伽耶)からの渡来神である。同様に和足彦神の「和足」とは「渡り」の意である。したがって、和足彦神と和太志尊は同一神である。
(5)身嶋姫神は陰神鹿屋野比賣尊と同一神である。
同書の執筆者は不明で、明治四年ごろの成立とされている。
以上、三史料の出典は『大山祇神社史料・縁起・由緒-國学院大學日本文化研究所編集平成
12年発行』による。
4.『伊予三島縁起』(『続群書類従第三輯下神祇部595~596p』
「三國佛神無非彼孫
天神第六代面足尊・偟根尊末孫代々異國敵誅伐目録
端政二歴庚戌 自天雨降給。八代孝元天皇位。此御代東海道発立。從異國責日本。代々面足尊依末孫
御合力給也。伊勢天照大神御祖父也。人王九代開化天皇位。同四十八年従異國朝渡。同朝敵亡。
十代崇神天王位。山陽道初立。國々社初。此代熊野宮天降給云。面足尊御子也。熊野兩所権現云。
春日月號两所権現。西御前伊弉諾。中御前伊弉冉尊也。是两所天照大御神御父母也。(後略)」
同史料は日本語漢文であるものの、内容の難解さ故か、一般的には知名度の低い史料である。難
解部分に絞って、逐条的に解説を試みると
(1)端政二歴庚戌自天雨降給 八代孝元天皇位。
「端政」年号は、「ニ中歴・海東諸国記・襲国偽僭考」等に記録されている「古代逸年号」の一つ、あるいは故古田武彦氏が『失われた九州王朝-ミネルヴァ書房』で主張された「九州年号」の一つで、同年は「崇峻天皇三年、西暦590年」に相当する。
「雨降」は「あまくだり」の読みが付されている。神社の縁起類にはしばしばみられる用例である。
(2)「春日月號两所権現」
「春日月」は管見に見えないが、「兩所権現」は、「熊野那智大社・熊野速玉大社」を指すと考えられる。この両大社の主祭神は西御前に祀られ、熊野那智大社は「熊野夫須美神」、熊野速玉大社は「熊野速玉神」を祀っている。前者をイザナミ、後者をイザナギとし、熊野本宮大社の主祭神は「家都美御子神」でスサノオに比定されている。
故百嶋氏は「熊野夫須美神はイザナミ」、「熊野速玉神は大幡主」、「家都美御子神はイワナガ姫」と指摘されている。
『熊野権現垂迹縁起』によると
「唐の天台山の王子信(王子晋、天台山の地主神)が、日本の鎮西の日子の山峯(英彦山)に天降り、その後伊予国の石鎚の峯(石鎚山)・淡路国の遊鶴羽の峰(諭鶴羽山)を経て紀伊国牟婁に渡られ、熊野新宮の南の神蔵の峯に天降られた。その後、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷に勧請し奉った。初めは結玉家津美御子と申した。二宇の社であった。それから13年が過ぎ、壬午の年、本宮大湯原(大斎原)の一位木の三本の梢に三枚の月形に天降られた。(後略)」
この三枚の月形とは、「三日月」を指すと考えられ、弓弦の両端は兩所権現となる。すなわち、「春日月」とは「三日月」を比喩的に表現したと考えられる。