スポット088 (4/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”
5.「神々の系図」
上記史料の疑問を解明する手掛かりとして、同系図を検証すると
(1)面足尊
面足尊は初期九州王朝親衛隊長で鉱山の神金鑚大神こと瀛氏注1の総大将金山彦。最初の妻は大山祇神の姉大市の姫、御子には神武天皇の后アイラツ姫(『記』の阿比良比売、『紀』では吾平津媛)、二番目の妻は草野姫(亦の名埴安姫)、御子には櫛稲田媛(瀬織津姫)がある。
(2)偟根尊
偟根尊は草野姫。白族注2の王白川伯王の娘、姉玉依姫は神武天皇の御母、兄は大幡主。最初の夫金山彦と別れた後、大山祇神と再婚し、御子には神大市姫・大己貴神・木花サクヤ姫がある。
(3)大山祇神
亦の名を月読命、越智族の祖。父は金海伽耶の総大将金越智。日本名はウマシアシカビヒコチ(『記』は天神四代宇摩志阿斯訶備比古遅の神、『紀-神代上第一弾一書第一』では、天神初代可美葦牙彦舅尊と表記)、母は天之御中主(亦の名を白山姫・『記』が記す菊理姫・国常立尊)。姉に大市の姫。妻草野姫との間に神大市の姫(亦の名を罔象女、『記』は大山祇神の御子とある)、大己貴神(大出世した時の名は大国主)、木花サクヤ姫(『記』は木花佐久夜毘売、『紀』では木花開耶姫と表記、瓊瓊杵尊の妃)がある。
(4)大己貴神
金山彦の後継者で、中期九州王朝親衛隊長となる。最初の妻はスセリ姫、亦の名を瀛津島姫、市杵島姫(『記』は須勢理毘売命、須世理毘売命と表記)、御子に下照姫、二番目の妻は豊玉彦の娘豊玉姫。大出世を遂げた後の称え名が大国主命。
以上のデータから、以下の帰結が得られる。
・面足尊は初期九州王朝の親衛隊長金山彦。卑弥呼とほぼ同世代で、二番目の妻草野姫(亦の名埴安姫)と共に3世紀半ばごろに伊予へ進出したと考えられる。
・偟根命は大己貴神の母、草野姫。
・初期九州王朝親衛隊長金山彦の後継者が大己貴神。
・陽神和太志尊は大山祇神。金海伽耶の王金越智(日本名はウマシアシカビヒコチ)と共に日本列島に渡った渡来神。卑弥呼とほぼ同世代で、主人筋である最初の妻草野姫に従い、伊予へ進出したと考えられる。
・陰神鹿屋野比賣は草野姫。
なお、『伊予三島縁起』に「十代崇神天皇の御代に、熊野宮に天降りされたのが面足尊の御子」と
記されているが、「神々の系図」を検証すると「面足尊の後継者大己貴神」と考えられる。
最後に、大山祇神社の最も古い神事に「毎年1月7日に行われる生土祭」を紹介する。
同神事は「安神山」の赤土拝戴神事を斎行し、「御串山」の榊枝と共にお迎えする神事で、神前に清められた赤土を献供し、宮司以下全員が額に赤土の神印を拝戴し、続いて串木を持ち、素朴な楽を鼓に和して奏する神事が伝えられている。
「生土祭」の根幹をなすのが「赤土すなわち埴」であり、「草野姫、亦の名埴安姫」が同祭の信仰対象であったと考えられる。
注1 瀛氏(中国→日本列島)
イスラエル系黎族の大将金山彦の中国時代の姓「瀛」を名乗る氏族。徐福伝説で名高い徐福の姓「徐」は、『元和姓纂(当の元和7年(812)林宝によって編纂された姓氏辞典)』によると徐は「瀛姓」、伯益(堯・舜・禹の三代に仕えた賢臣)の裔とある。 司馬遷の『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝(在位紀元前246~221年)の命を受け、徐福は不老不死の薬を求めて東方に船出し「平原広沢」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。「瀛州」は後に日本を指す名となった。
注2 白族(雲南省→海南島→琉球列島→九州)
モーゼ以前のヘブライ人で、イラン・インドを経て中国に渡り、黎族とも呼ばれた。白族の王は、代々、白川
伯王を名乗り、紀元前後に日本へ移住。
その後、「奴の国王」「刺国大神(太政大臣)」とも呼ばれ、後継者である大幡主は博多の櫛田神社の主祭神とし
て祀られている。福岡市博多区の「大博通り」にその名をとどめている。
注3 越智族(朝鮮半島→壱岐→九州)
朝鮮半島の南部から中部にかけてあった金海伽耶国を支配していたトルコ系匈奴の一族を指す。3世紀初め頃に同国の王、金越智(日本名ウマシアシカビヒコチ)が息子である大山祇神(亦の名月読命)と共に日本へ移住。大山祇神は日本における越智族の祖となった。
なお、壱岐島の月読神社には、馬上にまたがり、太刀を佩いた月読命の絵が奉納されている。また、『皇太神宮儀式帳』に「月讀命。御形ハ馬ニ乗ル男ノ形。紫ノ御衣ヲ着、金作ノ太刀ヲ佩キタマフ」とあり、馬上の姿は匈奴を彷彿とさせる。
松山市東部に接する東温市牛渕の浮嶋神社に大山祇神の父「可美葦牙彦舅尊」が主祭神として祀られている。同神を祭る神社は極めて少なく、大山祇神と共に伊予に同行したと考えられる。