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スポット088(5/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について” 

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スポット088 (5/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について” 


第二章 『御鎮座本縁』が記す第七代孝霊天皇の御代に起こった国内の動乱
『社記』、『年譜考』は、「孝霊天皇の御代に天候不順による五穀が実らず万民が愁い苦しんでいるのを哀れみ、斎戒沐浴して天神地祇に祈った。」としているが、『御鎮座本縁』は、「天下穏やかならず、順はざる民多く叛く。茲に因りて、天皇、大己貴神に盟ひ、天下平らかに国民順はしめんことを祈り給ふ。云々」とある。

この国内動乱について、『記紀』に該当する記事はなく、『魏志』倭人伝は倭国の動乱記事を記述している。また故百嶋由一郎氏は講演会の中で、倭国の動乱について言及している。

『魏志』倭人伝並びに故百嶋氏の講演録から、倭国の動乱を検証すると

1.『魏志』倭人伝(『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 石原道博編訳岩波文庫』)

(1)倭国乱れる

「その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年。」

故古田武彦氏は『邪馬一国への道標―角川文庫81p~82p』で、「暦年」の用例を調査して、「暦年」とは、おおよそのところ、“七、八年くらいの間”とし、また戦乱の時期を魏代(後漢の滅亡、220年)内のこととしている。

?戦乱期間(暦年)-?「即位~遣使」期間-③遣使(景初二年、238)

   ②の期間を“それほど長い期間ではない”としている。

   故古田氏の説に従い、?の期間はおおよそ3年ほどとすると?の期間は

238年-3年=235年

235年から7年~8年以前、すなわち227・228年~235年ごろと推測される。

(2)狗奴國との闘い

   「その八年(正始八年、247)、太守王?官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を爲りてこれを告諭した。卑彌呼以て死す。」

卑彌呼の死因とその時期は明らかでないが、おそらく、国を治められないことを恥じ、かつ狗奴国との和平実現ために自ら死を選んだと考えられる。その時期は正始八年から一年以内、247~248年と考えられる。

3.卑彌呼死後、男王が立ったもののさらに戦乱が広がる。

   「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず、更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。」

卑弥呼の宗女壱与が王となった年は、文面からは明らかではないが、『晋書』巻九七 四夷伝・倭人条の下線部を引用して、「泰始初」を泰始元年(266)とし、壱与が魏の後継国である晋に貢献したとする説がある。

「宣帝之時平公孫民也其女王遣使帯方朝見其後貢聘不絶及文帝作相又數至泰始初遣使重譯入貢」

西晋は司馬炎によって建てられた王朝(265~316年)で、「宣帝・文帝」は司馬炎によって、追諡された「帝号」であり、正しくは倭国から魏への朝貢記事である。「泰始初」の記事には、女王の記述がないので、壱与の即位年代は不明である。

「宗女」とは、本流の血筋をひく女性と考えられるが、卑弥呼は独身なので子がいるはずもなく、男弟王あるいは男弟王の子供の直系女子が該当すると考えられる。

2.「神々の系図」

同系図や故百嶋氏の講演録によると、

(1)倭国乱れる

   故百嶋氏は『魏志』倭人伝記事について、何十年かのことをごちゃまぜにして圧縮して書いているので、そのまま信じると間違えてしまうと述べられている。「倭国乱れる」の実態は、神武天皇に対して反乱を起こしたのが長髄彦で、この反乱を早期に終息させた功労者を阿蘇「多氏注1」の統領草部(くさかべ)吉見(よしみ)神(亦の名天忍穂耳命・天児屋根命・級長津彦・大年神・安日彦・海幸彦など多数)としている。

   「神々の系図」による長髄彦の父は、(そく)注2のイザナギと瀛氏のイザナミ(金山彦の妹)との間に生まれたのが、天日(あめのひ)(ぼこの)(みこと)(日本名スサノオ)である。スサノオは朝鮮半島から九州へ進出し、櫛稲田姫(金山彦の妹)という高貴な女神との間に生まれたのが長髄彦(ながすねひこ)(亦の名(ふなと)神)である。

*注1 「(おほ)氏」 (海南島→台湾→日本)

  皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井命の後裔とされるが、確実なことは不明。(Wikipediaより)

 故百嶋氏は、「多氏」は雲南省麗江のヘブライ系黎族の王多将軍の一族としている。彼らは海南島から台湾を経て紀元前後に南九州に上陸。初代「多氏」統領は神沼河耳命(贈綏靖天皇)、第二代は草部吉見(贈孝昭天皇)。神八井耳命(贈安寧天皇)は「多氏」の庶流と故百嶋氏は指摘されている。

*注2 「(そく)氏」(新羅→日本)

新羅第四代の王脱解尼師今(在位年代5780年)。『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀によると、倭国の東北一千里のところにある多婆那国の出身

2)狗奴国との闘い

   長髄彦の乱の終結後、ほどなくして発生したのが狗奴国の乱で、首謀者は越智族の祖大山祇神で、この乱を終息に導いた功労者も草部吉見神(亦の名海幸彦)としている。乱の首謀者である大山祇神の息子である大己貴神は責任を問われる立場にあったが、不問に付されたようである。

大山祇神は九州を去り、大三島へ渡ったと考えられる。

3)卑弥呼死後に起こった戦乱

第二代の懿徳天皇の后天豊津姫を略奪したのが阿蘇「多氏」庶流の()(ぎし)(みみの)(みこと)(亦の名建盤龍命)である。天豊津姫は略奪された後の変名が阿蘇津姫で、父は阿蘇「多氏」の統領草部吉見、母は高木大神の娘拷幡千々姫(たくはたちぢひめ)で、高貴な女神にふさわしい系譜を有している。

阿蘇津姫を担いで手研耳命は各地で暴れまわり、懿徳天皇は重なる大失態を恥じて退位したか、あるいは失意のうちに亡くなったのかは不明だが、後継者の孝霊天皇の御代にあっても事態は改善されなかった。

茲で事態収拾の労をとったのが、春日大神(=草部吉見神)で、阿蘇津姫を取り戻し、豊玉彦と娶せ、それぞれ寒川彦、寒川姫に変名された。

 (4)小結

    『御鎮座本縁』が記す孝霊天皇の御代に起こった国内動乱の真相は、手研耳命と阿蘇津姫によって引き起こされた暴動であると考えられる。


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